いやになるほどの大雨が降った翌日、眠れなかった伶奈がスマホのアラームにたたき起こされると、窓の外には眩しい青空が広がっていた。
「……雨……上がったんだ……」
小さな声で呟き、身体を起こす。
トーストの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「おはよう。ご飯、出来てるわよ」
視野の外からかけられた声に伶奈は視線を向ける。
母――由美子が朝食の準備をしていた。
通勤着代わりの安物スーツをピシッと着こなし、髪のセットもバッチリ。お化粧も薄造りにまとめて、出来る女を絵に描いて額縁に入れたみたいな姿だ。
その母に伶奈は小さめの声で応えた。
「……おはよ」
母が手にしたお皿やグラスをリビングの中央、ガラステーブルの上に並べようとしているのを確認すると、少女はベッドの上から身体を起こした。
そして、薄桃色のパジャマに包まれた身体をグーーーーーーーーっと大きく伸ばして、頭の中から余計な物を追い出す。
「早く食べて用意しないと電車に遅れるわよ」
「ふわぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜……よし! うん、ありがと」
ぺたん……とガラステーブルの前に腰を下ろして魚肉ソーセージの包みを開ける。
それをパンで巻いたらマヨネーズをたっぷり。西部家朝の定番、魚肉ソーセージのトースト巻きの完成だ。
「早く起きて少しは用意を手伝って。ウェイトレスでしょ?」
「……土曜日以外は営業してないもん……ふわぁ〜〜眠い……」
呆れながらも母の手にはグラスが二つ、そこに乳白色の液体が注ぎ込まれ、伶奈の前に置かれた。
早速飲むヨーグルトの甘酸っぱい味を堪能、ゴトッとテーブルの上に半分ほど減ったグラスを戻した。
「今日……夜勤だっけ?」
伶奈が尋ねた。
その伶奈の対面に母が腰を下ろし、同じように魚肉ソーセージのトースト巻を作りながら答えた。
「そうよ。美月さんには連絡を入れてるけど、くれぐれも粗相と失礼のないようにね」
「……解ってるよ。そんなこと」
「後、今日、家庭教師の日よね? 時任先生によろしくね」
「……解った」
――と、日常的な会話と朝食を終わらせたら、それから伶奈は服を着替えて髪型を整えて……
「そろそろ、時間よ!」
朝が弱い割りに朝にはやりたいことが沢山な伶奈に、母の容赦ない言葉が飛び込む。
「解ってるよ!」
そう答えつつも、鏡の中を覗き込んで少女は前髪を右にやったり、左にやったり。
「先に出るから、鍵は忘れずにかけておいてね!」
「はーい!」
母が見切り発車したって事はそろそろガチでヤバイ……って事だ。それは解っているのだが、今日はいつになく髪型が決まらない。
「もう……ちょっと伸びすぎたかな? 美容室かぁ……なんで、男の人は駅前の千円散髪で良いのに、女の子は美容室で三千円も四千円も出さなきゃいけないんだろう!?」
いまいち決まってるように見えないがヘアピンで前髪をとめて、伶奈は回れ右。
先ほど、母が出ていったばかりの玄関へと駆け寄ったら、革製のローファーに足を突っ込み、部屋を飛び出す。
「おっ……ジャリも出勤か?」
聞こえた声に視線を向ければ、そこには見慣れたお隣さん、勝岡祐介。
ジーパンにトレーナー、代わり映えのしない姿に手からは大きなかばん――タンクバッグとか言う奴らしい――を下げた姿で馬鹿面を晒していた。
「おはよう! そうだよ! てか、大学生はもっとゆっくりじゃなかったの?」
駆け出そうとしていた足を少女が止めれば、お隣さんもその足を止める。
「おはようさんっと……俺はこれから図書館でレポート」
「ふぅん……って、私、のんびりしてる暇ないんだ!」
「遅刻すんじゃねーぞ、バカジャリ」
「ジェリドこそ! 再提出で泣いちゃえ!」
軽く言葉を交わしたら、駆け足を再開。
ポンポンと階段を二つ飛ばしで駆け下り、駐車場へと飛び出す。
目の前には緑の山とその向こうにそびえる大きな雲、真っ白に輝く太陽。
そして――
「れっ……伶奈ァ……くっ、車が動かないんだけど……」
車の運転席で半泣きになってる母の姿……
「で、どうなったの?」
――と、連の机を椅子代わりにあぐらをかいてる穂香。
英明学園中等部二年三組通路側最後尾、お昼休みのひとときを伶奈達四方会は連の席の周辺でだべりながら過ごしていた。
話題はもちろん今朝の騒動だ。
「お母さんはアルトまで走って行って美月お姉ちゃんのアルトを借りて出勤、それからジェリドが西山さんに連絡してくれて西山さんがひとまず知り合いの車屋さんと一緒に見に来てくれるみたい」
穂香の質問に後ろから二番の席を占領している伶奈が応えた。
その言葉に今度は通路に椅子を置いて座っている美紅が言う。
「へぇ〜そう言うのジェリドさんがやってくれたんだ?」
「うん、私達、こっちに知ってる車屋さんもないから……西山さんなら知ってる車屋さん多いし……」
伶奈の言葉に蓮が穂香の背後からひょっこりと顔を出して言った。
「……頼りになる旦那」
その顔をじろりと一瞥、一オクターブ低い声で伶奈はぽつりと言った。
「……蓮、叩くよ?」
「……暴力反対……」
そう言って蓮は穂香の背後に隠れる。
その連を穂香が――
「蓮チを叩くなら私を叩いて!」
――と庇うで、折角だから殴っておく。
全員で。
連も含めて。
「……虐めだめ……絶対だめ」
泣き真似している穂香は放置で、伶奈はため息を吐いた。
「ジェリドがやったのは西山さんに電話しただけだし……」
「それでもいなきゃ困ったんだから感謝はしなきゃ!」
そう言ったのが美紅を無視しつつ、伶奈はそっぽを向いた。
朝は綺麗に晴れ上がっていた空には分厚い雲……入道雲の下に入ったのだろうか? そろそろ雨が降り始めそうだ。
「……雨かぁ……ヤだなぁ……」
「聞こえないふりしてごまかすな〜!」
視野の外から美紅の声が聞こえたけど、それもやっぱり聞こえないフリをした。
伶奈の予想通り、その日は昼は雨。
伶奈が自宅最寄り駅にまで帰ってきたときにはバケツをひっくり返したかのような土砂降りになっていた。
(自転車はいいや……)
呟き、伶奈はかばんの中に入れておいた緊急用の折りたたみ傘を引っ張り出した。
チェック柄がパッチワークのようにも見える傘はお気に入りの逸品だ。
それを差したら取り残される自転車に心の中でお詫びをし、少女は急な坂道をゆっくりと歩き始めた。
大粒の雨がアスファルトに叩きつけられ、はじけて飛び散る。
それが伶奈の足を濡らすのが鬱陶しい。
(ほんと、雨って大嫌い……)
普段なら一度自宅に寄って着替えてからアルトの方に向かうのだが、今日は億劫だからパス。多分、着替えの一着や二着は探せばアルトの方にも置いてるはずだ。
そして、普段よりもずいぶんと長い時間をかけ、伶奈は喫茶アルトの敷地へと足を踏み入れた。
から〜ん
いつもの調子でドアベルが乾いた音を立てる。
そして、フロアで仕事をしていた時任姉弟に声をかけたら、二階にある自室へ……いつも通り十年一日なオーバーオールとブラウスをゲットすると、それに着替えて伶奈はフロアへと降りた。
「はぁい、伶奈。あのぼろ車、ついにぶっ壊れたらしいわね」
窓際隅っこ、いつもの席。足を投げ出し座っていた金髪の妖精さんが伶奈の顔を見上げて言った。
「うん……多分、新しいのを買うと思うよ……って、なんで知ってるの?」
「三馬鹿達が喋ってたわよ、お昼」
幾筋もの水滴が流れ落ちる窓を背にして、伶奈は席に腰を下ろす。
それを待つかのようにテーブルの上からポーンと妖精が飛び上がり、少女の頭に着地を決めた。
「何を買うのかしらね?」
アルトの呟きに問題集を開いていた手が止まった。
ふっ……と頭の中に思い浮かんだのは一台の古びた車、色あせたセダン。雨の中、通っていた小学校の前に止まっていて、その運転席には笑って手を振る父の姿……
そして、濡れることもいとわずに駆け出す幼い自分……
まずいことを思い出している……と伶奈は第三者のように思った。
それなのに思考は全く止まらず、ますます余計なことを思い出させる。
今の部屋よりも少し大きなアパート、大きなダイニングテーブルを三人で囲む風景が脳裏にまざまざと蘇る。
右隣に父、左隣に母、話題は古くなった車を買い換えるかどうか……母は買い換えれば良いといい、父はもう少し乗りたいと言っていたような……
それで伶奈に意見が求められて……確か伶奈は新しくて大きな車が良いと子供らしい無遠慮なセリフを吐いたはずだ。
それで一気に母の意見に流れが傾いた事まで、頭の中に蘇る。
でも、父親がリストラされて買い換えの話はお流れ、次の車検は通してその次の車検の時に新しいのを買おうって話になっていはずだ。
そして、父が自分にしていることが母に露見したのは、ちょうどあの車の車検の直前……
あの時も土砂降りの雨の夜だった。
こんがらがったまま、頭と心の一番深いところに放り込んであった記憶が、小さなキーワードを端緒にどんどん時ほぐれていく。
まるで転がる毛糸玉のようだ。
そして、その毛糸玉の真ん中には……
「伶奈!? あなた!? どういうこと!?」
母の悲鳴のような声が雨音の向こう側に聞こえた。
「伶奈!」
「おい、ジャリ」
目の前にはふわふわふらふらとホバリングをしている妖精さん、大きな瞳を更に大きく見開き伶奈の顔を覗き込んでいた。
そして、その妖精の上空にはこちらを見下ろす青年の顔……
寝言のような口調でその青年の名前を伶奈は呼んだ。
「えっ……? ジェリ、ド?」
「ああ、そうだよ……何きょとんとしてんだ?」
棒人間とも言われる中性的な青年がどこか心配そうな表情で伶奈を見下ろしていた。
その顔を見上げて伶奈はぼんやり……まるで自白剤でも投与されたかのような口調で答える。
「かっ……考え事、してた……」
「ふぅん、寝てたんじゃないのか? ぼーっとしやがって」
「……ごっ、ごめん……」
「……どうした?」
「何でもないよ。少しぼーっとしてた……」
「変なもんでも食ったか? 拾い食いは良くねーぞっと……それで、お前ンちの車、けーこさんが直すくらいなら買った方が良いだろうってさ。車検まで日もないし。保険のロードサービスで移動させれば金もかからないだろうってさ」
青年が説明をすると伶奈は軽く頭を振り、そして、改めて青年の顔を見上げる。
席に座らぬままの青年の顔はずいぶんと高くて遠いところにあるような気がした。
「……なんで、私に言うんだよ……お母さんに言ってよ」
「俺はお前のお袋さんの連絡先なんて知らないんだよ、家に行ったら留守だったし」
「あっ……そうだった。うん、解った。お母さんに伝えて、都合の良い日を聞いておくよ」
「おう。それじゃ、俺はバイトに行くからな。確かにお袋さんに伝えておけよ」
言うだけ言うと青年は回れ右、背中を三毛手青年はその場を後にしようとした。
その妙に大きく感じる背中に少女は少し大きめの声で言う。
「今日はありがとう。なんか、お礼考える!」
半分ほど腰を浮かして伶奈が呼びかけると、青年は首だけをこちらに向けた。
「いらね、三年早はえーんだよ、バカジャリ」
そう言って青年はスタスタとフロアを突っ切る。
そして、出入り口の辺りで仕事中の灯と一言二言言葉を交わすと、彼はアルトのドアベルを鳴らして出て行ってしまった。
「……三年早いってどー言う意味だよ、バカジェリド」
呟く伶奈に頭の上からアルトが声をかける。
「何かあったの?」
静かな声だった。
その声に少女は問題集へと視線を落としながら答えた。
「……いやなこと、思い出しただけ……」
「……そう」
ポーンとアルトが伶奈の頭の上から問題集の上へと飛び降りる。
そして、小さな顔が少女の顔を見上げた。
「まあ、忘れろと言われて忘れられるほど人間の脳みそは便利に出来てないのよね」
「……そうだね」
シャーペンを握り数回ノック、先っぽから芯が出たことを確認すると少女はノートの上にペン先を置いた。
しかし、その先端は動かない。
止まったままのシャーペンの先を一瞥、そして、伶奈の顔を見上げるとアルトは静かな口調で言った。
「……折り合い、着けていくしかないわよ……」
「……うん」
小さく頷き、シャーペンで数学の問題を解き始める頃……伶奈の背後、大きな窓には雲の隙間から大きく欠けた月が顔を出していた。
そして、翌日、梅雨が明けたことを気象庁は発表した。