お勉強会(5)

 東雲家二階客間は四方会の定宿になっていた。
 畳六畳にお布団四枚、それから窓枠に融けた保冷パックのベッドが一つ、いつもの布陣。
 アルトの傍が良いだろうって言う配慮の元、伶奈が窓際に寝るのも決まっている。
 逆に朝っぱらからジョギングに出たがる美紅が出口一番傍。
 それから真ん中に二人、伶奈側に蓮、美紅側に穂香。これは特に理由がないから気分で変わることもある……と言うか、美紅と怜奈の話し合いでどっちが穂香にやられるか? の押し付け合いで決まる。
 寝る準備が整い、伶奈は布団の上に腰を下ろした。
(雨……上がってない……)
 投げ出した足下に薄い夏布団だけを掛けて、伶奈は呟く。
 そして、視線を窓の外へと向けた。
 墨汁で塗りつぶしたような黒い空、ご近所の明かりも日付変更線を超えた今となってはその大半が消えていた。
 嫌な夜……今までもこんな夜は何回も迎えてきたが今夜は特にそう思う。
「大丈夫?」
 気を遣ったのかアルトが尋ねた。
 それに軽く首肯だけで答える。
「……そう」
 妖精は静かに答えて保冷パックとハンカチで作った布団の中へと潜り込む。
「障子、閉めるよ〜」
 座った顔の前を穂香の手が行き過ぎ、障子を閉めた。
 漆黒の闇夜が白い障子の向こうに隠れ、伝わってくるのは嫌な雨音だけ。
 その音から逃げるように少女は布団の中に潜り込む。
 そして、雨音をかき消す友の声。
「おやすみ〜」
 穂香がそう言うと他の面々も口々に同じ言葉を紡いで、布団の中に潜り込んだ。
(いやな夢は見ませんように……)
 そう呟いて少女は目を閉じる。
 蛍光灯が消されて、部屋は常夜灯の淡い光だけが部屋を包む。
 雨のおかげで干せなかった布団ではあるが、一応、乾燥機はかけてくれたらしい。ふかふかで寝心地はとても良い。
 そのおかげもあってか、伶奈は自分でも意外なほどあっさりと夢の世界へと落ちていった。
 ――が!
 夢の世界から|現《うつつ》の世界に引き戻したのは悪夢ではなかった。
「うげっ!?」
 みぞおちにえげつない衝撃を感じて伶奈は目を開いた。
 思わず目を開けば、天井で微かに灯りを放つ常夜灯の優しい光が目に入った。
 その明かりの中、最初に目に入ったのは穂香に押し潰されている蓮の姿だ。
 その連を横断する形で穂香が伶奈の身体にかかと落としをかましている事を少女は把握した。
「……寝相が悪いにもほどがあるよ……穂香」
 小さな声で呟く。
 そして、穂香の身体をよっこいしょと半回転させ、蓮の身体の上から放り落とした。
 その向こう側で――
「うげっ!?」
 ――と美紅の悲痛なうめき声が聞こえたがひとまずはスルー。
 その声が消えるとザーザーと大きな雨の音が部屋の中に聞こえている事に伶奈は気付いた。
 窓枠に視線を移すと保冷剤のベッドでアルトが寝ている。
 その上を通り過ごし、伶奈は障子を開けた。
 土砂降りの雨が窓ガラスを叩き、無数の水滴となって流れていく……
(まだ土砂降り……)
 軽くため息を吐いた。
 壁に時計があるはずだが薄暗くてよく見えない。
(寝よ……)
 布団の中に潜り込む。
 目を閉じる。
 雨の音が神経をかき乱す。
 眠れないままに伶奈は何回も寝返りを繰り返していた。
 寝息すら聞こえず、聞こえるのは雨粒が家を叩く静かだけど、耳障りな音だけ。
 しばしの間、寝返りを打ち続けた後、伶奈はついに身体をむくりと起こす。
 もう一度視線を……閉じ忘れた障子の向こう側へと向けた。
 相変わらずの雨の闇夜。
 月も星も見えなくて遠い街灯だけが薄暗く部屋の中を照らすだけだった。
 窓ガラスに打ち付けられた雨粒がすーっと流れ落ちるのを少女は眺めた。
(初めての夜もこんな夜だっけ……)
 不意に思い出す。
 少し吐き気がした。
 父親の泣き声と考えることを止めた自分……そして、雨音と窓を流れる雨粒だけがあの世界の全てだったと思う。
「……雨の夜はヤだな……」
 小さく呟き、伶奈は立ち上がった。
 そして、壁際を慎重に歩いて客間の外へ……
 廊下に出ると人感センサー付きの照明がパッと頭の上で点灯し、伶奈の網膜を焼いた。
 そして、階段をゆっくりと、出来るだけ足音を立てずに伶奈は降りた。
 階段を降りきると目の前すぐがトイレになっている。
 そのトイレに入るとやっぱり人感センサー付きの明かりがパッと付いた。
(便利な家……)
 心の中だけで呟くと、少女は便座のふたを開き――
「うえっ……!」
 胃の中に入ってた物を吐き出す。
 美味しかったローストビーフらしき物がぷかぷかと便器の水に浮かんでいるのが妙に哀しい。
 胃の中にあった物全部……と言うほどではない。
 ただ、一回吐いたらずいぶんと気分が楽になった気がした。
「はぁ……」
 便座を下ろして、その上に座り込む。
「……なんで思い出しちゃったんだろう?」
 考えないようにし続けた結果なのか、それとも母に忘れろと言われたからなのか……?
 最近は父親のことを思い出すこともずいぶんと減った。
 その中でも父親にされた“行為”に関しては特に記憶から薄らいでいくのが早かった。
「二年になってからはほとんど思い出すこともなかったのに……」
 それを思い出した理由……おそらくは穂香の父親と接して父親という物を妙に意識してしまったからだろう……と伶奈は思う。
 だからといって、父親に車を出させた穂香が悪いわけでも、娘に言われるままに車を出した穂香の父が悪いわけでもない。
 どうして欲しかったのか……どうすれば良かったのか……
 いくら考えても答えは出ない。
 その伶奈の耳をザーザーという雨音がさいなむ。
 さほど広くもなければ防音が効いてるわけでもない東雲家邸宅……どこにいようが本降りの雨音から逃げることは出来ない。
 雨が屋根を窓をそしてアスファルトの地面を叩く音が伶奈の耳に届く。
「……雨の夜はヤだな……」
 もう一度、呟き、伶奈は便座のふたとその奥にあるタンクに体重を預けた。
 涙でも出れば良いのに……って思うけど、不思議と一滴も出ない。
 雨音は消えない。
 煩くて仕方がない。
 そして、伶奈はふと思う。
(どうして、お父さんは壊れちゃったのかな……?)
 母親が長く家を空ける事、それが自分の誕生日にまで及んだ事。他の子供達は母親の来る三者面談に父親が来る事……不服がなかったと言えば嘘になる。
 不服はあったが父親との生活は楽しかったし、幸せだとか不幸せだとか悩む余地を差し挟む事も出来ないほどに幸せだった。
 それなのに父親は壊れた。
 その理由は伶奈には判らない。
 前にアルトが――
「理想のあるべき自分と現実の自分とのギャップに耐えられなかったんじゃないのかしらね……」
 そんな事を言ってた。
 それもよく判らない。
 判りたくもない。
 母親が看護師としてお金を稼いで、父親が家の事をやって、雨が降ったら古い車で迎えに来る。
 そんな日々が伶奈にとっては満点の生活だった事を、どうして判ってくれなかったのか……?
「……お父さんのバカ……」
 呟いた瞬間、頭の上で輝いていた電球型の蛍光灯がパシャッ! と消えた。
「うおっ!?」
 気付けば素っ頓狂な声が口からこぼれいた。
 どうやら一定時間人感センサーに反応する物がなかったら、勝手に消えるという奴らしい。
「……娘だけじゃなく家も雑に出来てる……」
 ため息交じりに右手を挙げるとパッと灯りが再び付いた。
「――って、なんか、もう、考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた……」
 諦めて伶奈は立ち上がった。
 そして、ドアを開く。
 目の前には階段。
 その下から四五段目辺りに腰を下ろして右手を挙げてる穂香の姿があった。
「なんか……腹立つよね、この電球」
 掲げた右手、その人差し指がぴこんと立って天井の電球を指さす。
「……腹が立つのは穂香だよ……」
「あはは、良く言われる」
「はぁ……こんな所でなにしてんだよ……?」
「考え事してた。今日、私はなんか悪い事したっけかなぁ〜って」
 立てた膝の上に両頬杖を突いて笑ってる穂香を、伶奈は口を閉じたままじっと見つめる。
「…………」
 穂香もニコニコ笑ったままの表情で伶奈を見つめる。
 雨音は相変わらず煩い。
 そして、沈黙に耐えきれず、伶奈は言った。
「……面倒くさくなって考えるの止めたの? 今回も」
「今回はずーっと考えたよ……っても、怜奈チがトイレに入ってる間だけだけどね。そしたら、急に電気が消えちゃってびっくり」
「はぁ……私もそうだよ。それで、結論は?」
「私は悪い事はしてないし、みくみくも蓮チも悪い事はしてないし、もちろん、送ってくれただけのブウが悪いわけでもない」
「……うん……そうだね」
「誰も悪くないのに結果としてヤな気分になることってあるんだなぁ〜ってのが結論」
「……どや顔で言う事じゃないよ……後、寝相が悪くて私のお腹、蹴ったじゃん……口から何か生まれるかと思ったよ?」
「そっちは不可抗力ってやつで、よろしく」
 穂香が屈託のない笑みを見せた瞬間、また、頭の上で電気がふっと消えた。
「わっ!?」
 小さめの悲鳴が二人からこぼれた。
 そして、伶奈は右手を挙げた。
 明るくなった世界の中で穂香も右手を挙げていた。
 互いに右手を挙げたまま、二人は小さな声でクスクスと笑い合う。
「アレだね……雑な娘を育てた親が建てた家だから家も雑に出来てるんだね」
 雑な娘がそう言ってまた笑った。
「人のせいにしてる……ブウに怒られるよ」
「人の父親を魔神扱いしないでよ」
 伶奈が言った言葉に穂香が笑いながら応えた。
 そして、伶奈は穂香の方へと一歩近づいた。
 向こうずねが階段の一番下に当たるくらいの場所。高い位置に座る穂香の胸元を目の前に見るくらいの位置。
 その穂香がくるんと伶奈のクビに腕を回した。
 正面から、まるで抱きすくめられるような感じ。
 意外と押しつけられた胸が柔らかいなぁ……なんてどうでも良い事を伶奈は考えていた。
 どうでも良い事を考える伶奈に穂香が言う。
「いつか聞かせて欲しいなぁ〜ダメ?」
 穂香の意外にある胸元に顔を押しつけたままで伶奈が答えた。
「ヤだ」
「そっか。じゃあ、代わりに四方会で楽しい思い出、沢山作ろうね」
「それは良いけど……穂香が一番楽しむ奴だよね?」
「みんなが百楽しんで自分が百十楽しむってのがモットーだから」
「穂香らしい」
「うん、それじゃ寝よ? 早速明日は朝一に朝風呂が待ってるよ」
 穂香がそう言って伶奈の首からするっと自分の腕を放した。
 そして、立ち上がったら右手を差し出す。
 その右手をペちんっ! と叩き、伶奈は穂香と肩を並べて階段を上がる。
「いたっ! もう!」
 穂香が膨れてるみたいだけどひとまずスルー。
 そして、二人仲良くトントン……っと階段を上がっていく。
 足を音がずいぶんと響くとこにちょっとびっくり。
 そして、客間の襖をそーっと伶奈が開いた。
 瞬間、天井からぶら下がった和風ペンダントライトが網膜を焼いた。
 その明るい部屋の真ん中にはぺたんと女の子座りをしている二人の少女、美紅と連だ。
 美紅も蓮も穂香に押し潰されたり蹴っ飛ばされたりしたから、起きてても不思議ではない。
 しかし、電気まで付けて待ってるって言うのはちょっと意外だ。
「西ちゃん……便秘?」
 伶奈が口を開くよりも早く蓮が尋ねた。
「人がちょっと長めにトイレ行ったら便秘扱いするの止めてよ!」
 すこし大きめの声で伶奈が反論すれば、今度は美紅が顔をほころばせながら言葉を続けた。
「じゃあ、穂香ちゃん?」
「怜奈チが出てこなくて、漏らすかと思ったよ」
「やっぱり、便秘じゃん、伶奈ちゃん」
 美紅と穂香の会話に伶奈の顔がかーっと熱くなる。
 そして、伶奈は時間も忘れて大きな声を上げた。
「便秘、便秘って酷いよ! みんなっ! これ、いじめだよ!?」
 伶奈の怒鳴り声に蓮は動じることなくぽつりと漏らした。
「……西ちゃん……|肉っ娘《にくっこ》だから……」
「野菜も食べてるし! 毎週土曜日のまかないは翼さんがお魚しか出してくれないし!」
「怜奈チ……ちょっと煩い。何時だと思ってる?」
「だっ、誰のせいだよ!? もう良い! 私、寝るっ!」
 満面の笑顔の穂香を怒鳴りつけたら、明るい電気の下で伶奈はするっと布団の中に潜り込んだ。
 頭に来たから布団を頭から被っちゃう!
 ――と、その伶奈の上にどすんっ! 重たい物が落ちてくる。
「ぎゃっ!? なっ!? なにっ!?」
「怜奈ちゃん、一緒に寝よー!」
 聞こえたのは美紅の声。
「あっ! 私もっ!」
「蓮も……」
 二つの声に二つの衝撃。
「つっ、潰れるからっ!!」
 そして、伶奈が悲鳴を上げる。
 しかし、誰もどかない。
「ちょっと! 少し詰めてよ!」
「おっ!? 蓮ちゃん、また、おっぱい、育った!?」
「……揉まないで」
 上から穂香、美紅、蓮。
 布団の中に潜り込んでる伶奈に彼女らがどんな顔をしているのかは判らない。
 でも、絶対に笑っているような気がした。
「おっ!? 雨が上がってお月様!」
 穂香の明るい声が布団越しに伶奈の耳へと届いた。
 その言葉に伶奈が布団から顔を出す。それは冬眠から目覚めたクマのよう。
 その伶奈の頭の上と左右に友人の頭が一つずつ、一様に窓の方を見上げていた。
 見上げた空にはぽっかりと浮かんだお月様。
 ほんの少しかけたお月様。満月でないのが少し残念だけど、それでも大きなお月様が青白い光で少女達を照らしていた。
「雨、上がったね」
 穂香が言った。
「明日は天気良さそうだね。お風呂に行く前に軽くジョギングしてから行かない? 絶対、気持ちいいよ」
 夜空を見上げて美紅が言うと、伶奈の背中に大きめのおっぱいを押しつけていた蓮が言った。
「……死ぬ」
「蓮ちゃんはそのうち、運動不足で死ぬからね……」
「……私もやだ」
「……私もちょっと……」
 穂香と伶奈、小さな声ではあるが静かな月夜、ぴったり四人密着ならば聞こえない道理はどこにもない。
「みんな! 身体、動かそうよ! ほんと、そのうち、病気になるよ!?」
「あはは」
 美紅の声に三人で声を上げて笑えば――
「貴女達、五月蠅いわよ!!!」
「うおっ!?」
 びっくりしたのは伶奈一人。
「アルトが――」
 それを他の面々に伝えようとしても時すでに遅し。
 ざくっ! ざくっ! ざくっ! ざくっ!
 四つの心地よい音と悲鳴が響いて、全員、ノックアウト。
 部屋の中に少女達のうめき声だけが静かに響く。
 月は変わらず青い。
 ひとしきり頭を抱えた後に、伶奈はぼそっと小さめの声で言った。
「……ありがと」
 呟く少女の身体を他の三人の少女達がぎゅーっと押し潰す。
「くるしいってばっ!」
 一番下の伶奈がジタバタと暴れるも、上に乗ってる少女達は更に体重をかけるだけ。
「お礼言ったじゃん、気に入ったんじゃないの?」
「特に……蓮のおっぱい」
「えっ!? ついに伶奈ちゃんまでその道にっ!?」
「どいてって言ってるのっ!」
 穂香の言葉に蓮と美紅が続き、伶奈が悲鳴を上げる。
 そして、少女達は「あはは」と声をそろえて笑い、この夜はひとかたまりになって眠りに落ちた。
 開けっぱなしの障子から、その四人を月と星が優しく照らしていた。
 そして……

 いつものお風呂屋さん、予定通りの行動と言えば予定通りの行動ではあるが――
「まさか、お昼までグーグー寝ちゃうとはねぇ……」
 湯船の中、真ん中辺りであぐらを掻いてる穂香が呟いた。
「……私まで穂香ちゃんと一緒に寝過ごすとは……不覚……」
 へりを枕に、天井を見上げた美紅はちょっぴり悔しそう。
「……朝ご飯……食べ損ねた……」
 その美紅の隣、眠そうに頭を垂れてる連もぼそっと漏らした。
 予定と違うのはその時間だけ。
 朝食を食べ食休みをしたら……が、昼食を食べる直前になってしまっていた。
 お昼を食べて更に食休みを知ったら遅くなるから、先に風呂に行ってこい……そう穂香の母に言われたからここに来てるのだ。
「まっ、私は朝ご飯食べたわよ」.
 伶奈の目の前、ぷかぷかと全て丸出しで浮かんでる妖精がうそぶいた。
 どうやら、様子を見に来た穂香の母親に引っ付いて階下に降り、そこで勝手に食事をしたらしい。
 とんでもない妖精である。
 その妖精のお腹をちょこんっ! 突いて伶奈が言う。
「おかげでよく眠れたけど……ね」
 なお、道中歩いてくる間にみた空は冗談のように高くて、冗談のように澄み渡っていた。
 それは空を映す水たまりすら、輝かせるほど……
 

 
 

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