野外学習(完)

 トントントンっと、階段を駆け上がった先はアパートの最上階、怜奈の自宅がある並び。
 ひょいと曲がると怜奈は自宅の前を通り過ぎてお隣さんのドアの前へとやってきた。
 時間は夕方少し前、普段の帰宅時間よりかはずいぶんと早い。
 この部屋の住人が在宅なのは駐輪場に置かれた真っ赤なオートバイ――CBR−400Rが鎮座ましましていた事から確実だ。
 ――が、今日のアパート最上階廊下は無人。春の暖かな日差しと穏やかな風だけがそこを満たしていた。
 その無人の廊下を見て怜菜は思う。
(用事のある時に限っていない)
 彼だって四六時中ここでうんこ座りしてキセルを蒸かしている訳ではない。
 しかし、怜菜の中でお隣さん勝岡祐介ことジェリドと言えば、ここでうんこ座りしてキセルをふかしている人という印象しかない。
 軽くため息をついて少女はドアの横に付けられたチャイムのボタンに視線を向けた。
 ボタンを押すとバカを召喚できる便利なスイッチだ。
 じーっとそのボタンを少女は見つめる。
 数秒見てからぷいっとそっぽを向いた。
 向けた先は五月晴れの空、ここ数日はずーっと天気が良くて妙に乾燥している。
(良い天気だなぁ……)
 ……と、現実逃避をしてても仕方がない。
 少女は意を決して一歩踏み出す。
 そして、インターフォンのボタンに手を伸ばした――
 ごっ!
 ――瞬間、ドアが開いた。
「……おっ? なんか、すごい音がしたぞ……」
 おでこを抱えてしゃがみ込む少女の上で、青年ののんきな声が聞こえた。
(絶対、こいつ、嫌い……)
 頭を抱え込んだまま少女は再確認した。

「……確認しなかったのは悪かったと思うけど、あんなところで誰かがうろちょろしてるとか、普通は考えないぞ?」
 青年は突っ立ったまま、ばつの悪そうな表情をして見せた。
 その右手にはたばこ盆とスマホ。たばこ盆のツルとスマホの両方が器用に指の間に挟まれるような形でさせられていた。
 最近は煙管をふかしながらスマホをいじることを覚えたらしい。
 涙にゆがむ視野で少女はその青年の顔を見上げる。
「もうちょっと大人しくドアを開けなよ……本当に痛いなぁ……もう……」
 ヒリヒリ痛むおでこをこすりながら、少女は壁にもたれるように中腰になった。
 その隣でたばこ盆を持つ青年もうんこ座り。
 スマホをいじるつもりはなくなったらしい。変なアルミケースの中に入れられたそれを、彼は自身の胸ポケットへとねじ込み、煙管を手に取った。
 そして、青年はキセルにたばこを詰めながら言った。
「まっ、ひとまず、お帰り……三日ぶりか?」
「はいはい、ただいま、二泊三日で三日ぶり……って、絶対早死にするよ? ジェリド」
「良いの。うちのじいさま、喫煙歴六十年の七十歳で元気だから」
 右手にたばこ盆をぶら下げ、灰皿の灰の中にキセルの雁首を突っ込む。そのまま、数回せわしなくふかすとキセルの方に火が移る……らしい。
(器用だな……)
 なんとなく眺めていると、青年はスパァ〜ッと紫煙を吐き出した。
 独特の香りが廊下を満たす。
 その香りに少女は眉をひそめた。
「……いくつから吸ってるんだよ? ジェリドのお祖父さん……」
「算数の問題だろう? 暗算しろ、中坊」
「……計算した上で呆れてるの。理解してよ。バカジェリド」
「爺さんの話だからな、俺に言われても困るぞ……っと、それで、野外学校は楽しかったか?」
 たばこの煙を吐きながら青年が訪ねる。
 その言葉に伶奈は軽く首を縦に振った。
「楽しかったよ。昼夜逆転で昼間は寝てばっかりだったけど。オセロ、ありがとう。後、お土産は松ぼっくり」
 コロン……と約束通り大きくて立派な松ぼっくり一つ。
「……本当に持って帰ってくるか? 普通……」
「約束は守る人だからね、私」
 予想通りの呆れ顔が楽しくて、伶奈はクスクスと声を立てて笑った。
「まあ、一応、貰っておくわ」
 そう言って青年はたばこ盆の片隅に大きな松ぼっくりをコロンと置いた。
 置いた松ぼっくりは大きすぎて、余裕のないたばこ盆の上では据わりが悪そう。そのうち、他の場所に置かれることになるだろう……捨てられても良いけど、別に。
「……変なところに置いて燃えても知らないよ?」
「この辺に熱い物は来ないって……そもそも、ここが燃えるなら木製のたばこ盆自体が燃えるぞ」
 木製のたばこ盆に煙管の雁首を軽くぶつける。
 コンッという心地よい音が二人きりの廊下に響いた。
「それもそうだね」
 笑う少女に笑みを返して、青年がふぅ〜〜〜〜と紫色の煙を真っ青な空へと吐き出した。
 白い煙が宙へと消えていく……
 その煙の行く末を見守る少女に、青年が視野の外から声をかけた。
「それで、どんなことをやったんだ? 野外学習。俺らの学校だとキャンプファイヤーだとか……後、フォークダンスもやったな」
 もう一度紫煙を宙に吐いて、コーンと灰皿の角に雁首を叩きつける。
 ポトッと落ちた火種が白い灰の中で赤く光り、儚く消えた。
 一筋上る煙を見送り、少女が応える。
「やったよ、フォークダンス」
「どこでもやるもんなんだ――」
 新しいたばこを丸めていた手が固まり、顔が跳ね上がる。
「――って、ジャリの学校で女子校じゃねーのか?」
 男にしては大きなまん丸い目を横目で見ながら、少女はにこり。
「うん、中等部は女子校。女の子だけのフォークダンス」
「…………すげぇな」
 呆れてる顔はどこか愛嬌があった。
 その表情に頬を緩めながら少女は口を開く。
「しょうがないじゃん……美月お姉ちゃんのおばあちゃんが肝試しで先生に逆肝試しかけて泣かしちゃった翌年から、女子だけのフォークダンスが英明の伝統になっちゃったんだから」
「……お前んところの婆さんもたいがいじゃねーか……」
 青年は苦笑いでたばこを詰める作業を再開。
「伝説を作った人だからねぇ……」
 見知らぬ女性に思いをはせつつ、伶奈は青年の手元へと視線を向けた。
 慣れた手つきがまたたばこを丸める。男にしては細く長い指先、繊細そうな指先が小さく丸めたたばこを小さな火皿の中へと押し込んだ。
 そして、また、たばこ盆を持ち上げて灰皿の中の種火を煙管の火皿に移す……
「ふぅ〜〜〜〜」
 気持ちよさそうに紫煙を吹き出す青年、独特の香りが鼻腔をくすぐる。
 その支援の行方を二人で寡欲見守っていると、視野の外で青年がぼんやりとした口調で言った。
「女同士のフォークダンスなぁ……目覚める奴がいそうだな」
「うん。江川崎さんが少し目覚めちゃった」
 そう言って瞬間、祐介の手からポロリとキセルが落ちて、たばこ盆の底を叩いた。
 コーンという心地よい音が二人きりの廊下に響き渡る。
 そして、目を丸くした青年が言った。
「……マジで?」
「軽くだけどね。美紅とペアを組んだら身長差もちょうど良くて――」

「……北原さんって……良い匂いがする……」

「――って、江川崎さんが潤んだ目で言ったら、美紅が『私そんな趣味ないからねっ!』って慌てちゃって……」
 その時の美紅の慌てようと言ったら……思い出しただけでも吹き出してしまいそう。
 そんな伶奈の横顔を横目で見ながら、青年も頬を苦めに緩めて口を開いた。
「……お前の友達は変わりもんばっかだな……」
 打てば響くタイミング、視線だけを青年に向けて少女は言う。
「ジェリドを筆頭にね」
「……俺、お前の友達だったのか?」
「友達じゃない相手にオセロを貸すの?」
 思わぬ反撃に青年は一瞬だけ言葉に詰まった。
 もう一度、煙管の中に詰まっていた灰を灰皿の上に落とす。そして、彼は人なつっこい笑みを浮かべて応えた。
「言うようになったな?」
「二年生だしね」
「背、伸びたか?」
「うん。伸びたよ」
「中学生らしくなったな。制服も似合うようになった」
「えっ? なっ……何言ってんだよ! 急に!」
 顔がかーっと熱くなり、心臓の鼓動が激しくなるのを自分でも理解出来るほど。
 そんな少女の横顔を見やり、青年は言った。
「……中学も一年とひと月が終わって、ようやく“らしく”なったって言われて喜ぶな、ジャリ」
 その言葉に赤くなった顔の意味が変わる。
「あっ!? それ、去年一年、小学生みたいな中学一年生だったって意味じゃん!」
 少女が真っ赤な顔で怒鳴りつけるも青年は平気な表情。スパ〜〜〜〜〜っとまた紫煙を吐き出し、彼は言う。
「言われてから気付くな、バカジャリ」
「はっ、腹立つ……松ぼっくり返して!」
 そう言ってたばこ盆に向けて少女が手を伸ばす。
「火傷するぞ。灰皿には火種が残ってるんだから」
 ――と言われれてもしつこく手を出せるほど、少女の神経は太くない。
「……二度とお土産なんてあげない」
 捨て台詞を吐いてぷいっとそっぽを向く。
「……みみっちいジャリだな……たかが松ぼっくりで……」
「ふんっ! 背が低い子は器も小さいんだよ!」
「ちびを言い訳にすんな、クソジャリ。だいたい、松ぼっくり一つでお土産面すんな」
 そっぽを向いていた顔を青年の方へと戻す。
 煙管を指先で弄ぶ青年の姿、その横顔を見ながら彼女は言う。
「お土産なんて売ってないからしょうがないじゃん。修学旅行に期待しててよ」
「どこに行くんだ?」
「多分、九州……北半分をうろうろする感じだと思うよ、長崎とか……」
「長崎かぁ……カステラが良いな」
「……餞別くらい出してくれるの?」
「実績がこれじゃ餞別はやれねえな」
 そう言って青年は先ほどたばこ盆の片隅に置いた松ぼっくりをひょいと摘まんで、ふらふらと左右に振って見せた。
 その揺れる松ぼっくりを眺めること数秒……それがたばこ盆の片隅に帰るのにタイミングを合わせるかのように少女はポケットに手を突っ込んだ。
 その中から取り出すのは小さな硬い物。
「じゃあ、これ上げる」
「なんだ? これ……」
「貝殻の化石だって。昼からのフィールドワークの時に見つけたの。クラスの半分は見つけられなかったんだからレアだよ」
「それはレアだな……返せと言っても返さないぞ」
 ひょいと青年の左手が松ぼっくりを拾い上げ、その空いた隙間にコロン……と小さな貝殻の欠片が放り込まれた。それは小指の先、少女の小さな小指の爪にも及ばないほどの大きさ。全体的にグレーでお世辞にも綺麗だとか可愛いだとかは言えない代物だった。
「なくさないでよ」
「へいへい、ありがとうよ」
 そう言って青年は立ち上がった。
 見上げる少女からは少し逆光、残念イケメンの顔を夕暮れ時のボヤッとした影が隠していた。
 その顔を見上げて少女は言った。
「どーいたしまして。松ぼっくりも捨てちゃダメだからね」
「注文の多い送り主だな……判ったよ。それじゃ、またな」
「うん、またね」
 帰って行く青年を見送ったら、少女も立ち上がり、グーーーーーーっと大きく背伸び。
 今日は母も出勤で無人のはず。ポケットにねじ込んであった鍵を取り出して、彼女は玄関の扉を開けて――
「ふぅ……ただいま……っと、やっと帰ってきたぁ〜」
 ――と独り言……
 そして、お隣さんでは……
「……なんだ? この松ぼっくり……」
 遊びに来た友人――灯が尋ねるとおり、玄関先、腰ほどの高さの靴箱、その上には松ぼっくりが一つ、コロン……と、いつまでも飾られ続けていた……
 そして、伶奈はしばらくの間――
「私の松ぼっくり、ちゃんと飾ってる?」
 と、祐介と顔を合わせる度に聞くのだった。
 

 
 

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