五月晴れの空は抜けるように高く、穏やかな日の光が木漏れ日となって遊歩道を照らす。その遊歩道を爽やかな風がさっと吹き抜ける。
まるでその道を行く者に癒やしを与えるように……
――と言う心地よい環境を少女たちが歩いていた。
発展途上の肢体をジャージに包んだ姿は愛らしくもあるが、その顔は一様に死人のよう。
「今朝……二時間くらいしか寝てないんだけど……」
「私、完徹……死ぬかも……」
「誰だよ……夜明けのおにぎりはきっと美味しいなんて言い出したの……バカなの? 死ぬの?」
怜奈の周りでは二年三組のクラスメイトたちがぞろぞろと重たい足取りで歩いていた。
もちろん、三組だけではなく、他の組の連中も概ね似たり寄ったり。
怜奈だってその足取りは鉛のように重い。
一晩中雑談をしたり、おにぎりを食べたり、ゲームをしてたりしていた少女たちは誰も彼も例外なく寝不足だ。
長く寝ていた者で二三時間、短い者はほぼ完徹。
怜奈も布団と布団の間で七並べをしていたカードを握りしめたまま眠っただけだ。多分、一時間くらいしか寝てないと思う。
それで三キロの山中行軍……もとい、ハイキング。
「行き倒れたら責任取ってくれるのかな?」
そう言ったのは完徹組の一人でもある穂香だ。そういえば、昨日の晩もろくに寝てないとか言ってた様な気がするが、やけに元気だ。
「私も久しぶりに夜更かししちゃったなぁ……やっぱり、朝走らないと夜に寝付きが悪いよね……」
この言葉は、それでも三時間は寝ている美紅の物だ。
普段なら電池が切れたようにぱったりと眠りに落ちてしまう美紅だが、眠らずに起きてた。そこを考えると、彼女も野外学習でテンションが上がっていたのだろう。
「連は……多分、少し……寝た……かも知れない」
ぼんやりと答えたのはもちろん蓮だ。
怜奈は彼女が寝ていたかどうかは知らない。怜奈が起きてる間はずっと起きてた様な気がするのだが……
そして、アルトは怜奈の背負ったナップザックの中でグーグー昼寝中……正確には朝寝か? 後でひねってやろうと心に決める。
「……さすがに寝ないで歩くのは辛いね……」
軽くため息を吐きながら、怜奈は山道を歩く。
それでも歩き始めた当初は愚痴や不平不満交じりではあった物の、会話も多少はあった。
しかし、小一時間も過ぎた頃にはそれもなくなる。
そして、後半も終盤に入る『山頂まで後500メートル』の看板が出る頃には、誰も彼もが死んだような顔で黙々と足だけを動かし続けていた。
死んだ目で歩く徹夜明けの少女たち……ただでさえ体力のない連は言うに及ばず、他にも体力が控えめな数人が友人たちに支えられながら歩く姿が見受けられた。
そんな中、怜奈は自分が思っていたよりも体力があったことを知った。
自分では体力のない方だと思っていたのだが、その認識は間違いだったらしい。日々あの坂を自転車で上がったり下がったりしていたおかげだろうか? ギリギリのところで助けられる側ではなく、助ける側に立っていた。
助ける対象は愛生衣。ぐったりとした彼女の手を引き、のろのろと亀の歩みの速度で道を歩く。
「西部さぁん、ありがとぉ……」
「良いよ……大丈夫?」
「大丈夫くない……」
変な言い回しに少しだけ苦笑い。笑うと元気が出てくるような気がするから不思議な物だ。
怜奈はそのまま、愛生衣を引っ張り上げながら道を歩いた。
「ほら、あと少し。余り下ばかり見て歩くと頭をぶつけても知らないわよ」
話によると昨夜は日付が変わる前にとっとと寝てしまっていたという噂の文子が発破をかける。
しかし、そんな言葉は右から左だ。
鼓膜にこそ届いていた物の心にも頭にも届くことはない。
三キロの道のり、健脚者だと一時間くらいの距離らしい。その道のりを少女たちは休憩を挟みながら、二時間近くの時をかけてようやく登り切った。
たどり着いた山頂はちょっとした広場になっていた。整備された芝生が気持ちよさそうだ。
「つっ……着いたぁ……」
口々に少女たちがそう言って、芝生の上に疲れ切った肢体を投げ出す。
怜奈も同様。ナップザックを下ろすことももどかしく感じながら、彼女は芝生の上に腰を下ろした。
「ふぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜疲れた〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
大きな深呼吸をすれば美味しい空気が胸いっぱいに広がる。
見上げた空には真っ白な雲と大きく羽を広げたトンビ……だろうか? 遠くて種類は解らないが大きな鳥が円を描くように飛んでいるのが見えた。
周りでは少女たちがおのおのが背負ってきていたナップザックを枕に寝転がっている姿。なお、中身は水筒とかタオルとか行動食代わりのお菓子とかが入ってる。
怜奈もそれに習って枕にしたら――
「ぎゃっ!」
中から踏み潰された蛙のような声が聞こえた。
「……しまった」
呟いてみてももう遅い。
ガサゴソとナップザックの中から這い出してくるのは、ゴスロリ姿の妖精さん。今日も黒ゴスなのでやっぱりゴキブリに見える。
ナップザックの隙間から這い出してきたゴキブリ……もとい妖精さんは、いったん芝生の上へと這い出した。
そこでパンパンとしわくちゃになった裾を整えたり、筋を違えた首をさすってみたり……
それが終わったらぴっ! と怜奈に向けてストローを突きつけ、彼女は言う。
「覚悟は良いかしら?」
良いわけがない。
少女は軽く背後を指さした。
そこには同じ班の愛生衣が寝っ転がっているはずだ。
「だから?」
解ってるくせに……内心そう思うが、口には出さず少女は身体を起こした。
あぐらをかいて座る少女の身体を、妖精がトントント〜ンと一気に駆け上がる。
そして、頭のてっぺんにちょこんと腰を下ろして、彼女は言った。
「帰ったら覚えてなさい? 危うく水筒とあなたの頭とで潰されるところだったんだから」
そう言うアルトにコクンと小さく頷き、そして、少女は小さな声で言った。
「ごめん……」
少女は素直に詫びる。それは中にアルトがいる事を知っていたはずなのに、枕にしちゃった事は流石に不注意だと思うから。
もっとも、そんなところで寝ないで……と言う感情がないと言えば嘘になる。
しかし、ここで口論をしても始まらないのでひとまずは棚置き。帰ってゆっくりと話し合う。
(私って大人)
カツン……と頭の上に振ってくるかかと落とし。
痛みよりもくすぐったさの方が勝つそれにクスッと少女は小さく笑った。
そして、彼女はもう一度芝生のベッドに寝転がった。
今度はアルトも怜奈の動きに気づいたらしい。頭のてっぺんから一端宙に待避。
黄金色の髪と半透明の羽とを真っ青な空にくるんと舞う。
芝生の上からそれを見上げていたら、アルトが改めて怜奈の額に着地を決めた。
「……良い天気……」
思わず呟いた言葉にアルトが答える。
「今頃気づいたの?」
(自分だってナップザックの中にいて気づいてなかったくせに……)
アルトの言い分にむっとしたがそれよりも今は眠気が全てに優先した。
(一昨日から夜起きて昼に寝る生活してるなぁ……)
ぼんやりと思いながら目を閉じる。
真っ青な空を見上げたままだと、閉じたまぶたの向こう側に青い空が透けて見えそう……
うつらうつら……さすがに固い地面にナップザックの枕、まぶしい青空をまぶた越しに見上げたままとあっては熟睡などは望むべくもない。
夢の世界とうつつの世界を行ったり来たり、繰り返していると――
「うぐっ!?」
――胸に感じた圧迫感!
「なぁに?」
目を開けると穂香のいたずらっぽい笑みが怜奈の顔をのぞき込んでいた。
「なんだよ……? 穂香ぁ……重たいよぉ……」
寝ぼけ眼、半ば寝言のように怜奈が言えばお腹の上の友人はニマッと屈託なく頬を緩めた。
「だって、怜奈チ、いくら起こしても起きないんだもん。ご飯の時間だよ」
「んふっ……もうそんな時間?」
怜奈が上半身を起こすとそのまま下に降りて彼女は太ももをまたぐように座った。
穂香のおでこと怜奈のおでこがコツンと小さな音を立ててぶつかり合う。
「……避けるよね? 普通は」
おでことおでこをくっつけたまま怜奈が言えば、穂香もそのままで笑った。
「怜奈チも避けなかったしね」
そして、穂香は立ち上がりグーーーっと大きく背伸びをした。
視野を占領していた穂香がいなくなれば、空いた空間には蓮と美紅の二人、それに愛生衣の姿も見えていた。
「ごはん」
改めて穂香が右手を差し出す。
素直に握りしめると、穂香はその腕をぐいっ! と強く引っ張り上げた。
「さすがにお腹が空いたね……眠いけど……」
今朝の朝食はさすがに食べられなかった。だらだらと一晩中おにぎりをつまみながらだべっていたのだから当然だろう。
しかし、三時間近くのトレッキングは少女の胃袋を直撃、夜食分以上のカロリーをきっちりと奪い返したらしい。
「お弁当は先生が運んでくれてるんだっけ?」
「先生じゃなくて、業者の人が車で持ってくるって」
美紅が尋ね、穂香が答えた。
広場の入り口の方には大きなライトバンが止まっていて、そこからクラスの代表者が取りに行く形。なぜか、二年三組の代表は怜奈たちの班って事になってるようだ。
「立候補した」
胸を張る穂香に他の四人が盛大なため息。
「誰かがやらなければいけないことなら、私がやる!」
「……立派な心がけだけど、“私が”じゃなくて“私たちが”なのよね……この子」
穂香の宣言に頭の上でアルトは苦笑い。まあ、そういうキャラであることはこの一年付き合ってきてよく解ってる。
お弁当はおしゃれにサンドイッチだ。保冷車で運ばれてきたサンドイッチはちょうど良い具合に冷えていて美味しそう。飲み物は紙パックのジュース。怜奈はコーヒーをチョイスした。
「甘いだけのコーヒー飲料じゃない……」
アルトは眉をひそめるが甘党の怜奈はこういうのも嫌いじゃない。
あっちこっちに点在して座っている少女たち、それぞれの班にサンドイッチを届ける。それぞれ離れてるから結構面倒くさい。
それが終わったらようやく自分たちのお昼ご飯だ。
怜奈は五人で持ち寄ったレジャーシートの上に腰を下ろした。
「車が入れるなら私たちも車で運んで欲しいよね」
スクランブルエッグがぎっしりと詰まったサンドイッチをつまみながら穂香が言うと、ツナがぎっしりのサンドイッチを頬張っていた美紅が答える。
「貧血起こした二組の子は帰りは車で運ばれるみたいだよ」
「なんとっ!? 私も倒れれば良かった! 必死で頑張ってたのに!」
目を丸くして驚く穂香に怜奈は軽く苦笑いを浮かべて、レタスとハムとチーズのサンドイッチをかじった。
シャキシャキレタスの歯ごたえとチーズの風味が最高、ハムも良いアクセントだ。
そのサンドイッチの端っこを切り取ってアルトに手渡す。小さく千切ったおかげでパンと中身をバラバラに渡さなきゃいけないのはご愛敬。怜奈の膝の上、小動物のようにサンドイッチの欠片を食べてるアルトに少しだけ頬を緩める。
そして、口の中のサンドイッチをコクン……と飲み干し怜奈は口を開いた。
「穂香がいなくなったら、帰り道で死ぬ蓮を誰が運ぶの?」
「怜奈チとみくみっくー、それからえっちん」
「私もメンツに入ってるの!? 四方会で面倒見てよ!」
慌てる愛生衣に蓮はぽつり……
「……連を見捨てないで……」
「そもそも、江川崎さんも助けられる側だよね……」
呟く連の隣で怜奈がサンドイッチをかじりながら言うと、愛生衣ががっくりとうなだれる。
「そうなんだよねぇ……ソフト部の北原さんと無駄に元気な東雲さんはともかく、いつも北原さんと南風野さんに振り回されてるだけの西部さんにまで負けるとは……」
「その二人に振り回されてるから体力が付いたのかも?」
怜奈がそう返すと周りにいた友人たちが「あはは」と声を上げて笑った。
「――って蓮と穂香まで笑わないでよ……」
「……今更だよ、怜奈ちゃん」
キレ気味に大きな声を上げる怜奈に美紅が呆れ顔で言うと、やっぱり、蓮と穂香を含めたみんなが声を上げて笑うのだった。
さて、ご飯が終わったら山頂広間の隅にある展望台へと、少女たちは足を向けた。
余り高くない山だから山頂とは言っても周りは木立に囲まれて景色は決して良くない。その代わり……と言う訳でもないのだが大きな展望台が広場の片隅に作られていた。
床の高さは二メートルを少し超えたくらい。広さは四畳半ほどか、もうちょっと大きいくらい。屋根や手すりなんかもしっかりとしていて安心。
それら全てがしっかりとした太い丸太や分厚い板で作られているのは、展望台と言うよりもちょっとした砦っていったおもむきだ。
すでに何人かの女子生徒たちが上がって展望を楽しんでいたが、怜奈たち五人が入るのに支障はなさそう。
「わぁ〜〜〜」
最初に感嘆の声を上げたのは穂香だった。
木々の上に顔を出した展望台からは真っ青な空と自分たちが住む町並み。その向こうにはやっぱり真っ青な海が見えていた。
その海の上を大きなタンカーが白い波を立てて進んでいるのもよく見える。
「カメラ、あったよね?」
尋ねたのは美紅。
一応、今回の野外学習には使い捨てカメラなら持ってくることが許されていた。なくしたり壊したりしても惜しくないだろうという配慮だ。盗まれたとかどうとかで揉めた事も過去にはあるらしい。
「……あるよ」
蓮がナップザックから小さな使い捨てカメラを取り出した。
そのカメラを受け取った穂香が数枚、風景だけの写真を撮影。それからやっぱり穂香が好きなように他の四人や周りに居た友人を適当に撮ったら――
「ねえ! シャッター押してっ!」
穂香が声をかけたのは見知らぬ少女だ。怜奈は口も聞いたことがない相手、多分別のクラスの少女だろう。
「えっ? あっ! うっ……うん、まあ、良いけど……」
受け取った少女はきょとんした顔でカメラとニコニコ笑っている穂香とを見比べる。
その様子を見れば、怜奈にとって知らない同級生は穂香にとっても知らない同級生であることが容易に想像できた。
「相変わらず、雑な生き方ね。最短距離に居る相手にカメラを渡したわよ? ちょっと離れたところにクラスメイトがいたのに……」
頭の上でアルトが呆れてるけど、まあ、そう言うところが穂香の良いところでもあると思う。
そして、少女たち五人は一番景色の良い一角に陣取り互いの肩どころかほっぺた同士が張り付くほどに密着する。
今回は真ん中にあえて四方会じゃない愛生衣、そこから右隣が穂香、怜奈。左隣に美紅とその美紅の肩にぶら下がってる蓮の並び。
そして、カメラマン役の少女が言う。
「一足す一はぁ!?」
「田んぼの田っ!」
満面の笑みでそう言ったのが穂香。
「二っ! って……えっ? 田んぼ?」
突拍子もないかけ声に思わず真顔になってしまったのが怜奈。
「チー――あれ? 一足す一?! って?」
きょとんとした顔になってこう言ってるのが愛生衣。
「いぇい……」
「ああ、もう、どこから突っ込んで良いのか……」
マイペースにダブルピースをしているのが蓮で、その隣で苦笑いなのが美紅だ。
そして、怜奈の頭の上でアルトが呆れて呟く。
「……四方会は鉄の結束じゃなかったの……?」
「もういいや……撮っちゃえ……」
よく知らない女子がそう言ってシャッタを切る。
パシャッ!
こうして、美しい空と海、それから街を背景に少女たちが揉めてる愉快な記念写真が完成した。