「おはようございます、西部先輩」
うつらうつら……とまどろむ心地よい時間帯、遠くから澄んだ声が聞こえていた。
優しく控えめな声は彼女――西部伶奈の精神を覚醒させるどころか、むしろ、より深い睡眠の世界へと誘う役割しか果たさない。
「西部、先輩! 起きないと乗り過ごしちゃいますよ?!」
少し強めの声で告げられるちょっとシャレですまない情報。
少しだけ目を開けば、目の前には高い位置から見下ろす可愛い後輩――本浦詩羽だ。
同じ路線、少し都会寄りに住んでる彼女とは、ほぼ毎朝、同じ電車に乗り合わせている。
ただ、伶奈が比較的田舎側から乗ってるおかげで座席を確保しやすい一方、詩羽は滅多に座ることが出来ず、いつも立ったまま。
しかも、押しが弱いというか、気弱な彼女は席が空いてもその席を奪うことは出来ず、結局、座ってる伶奈の前で立って通学する毎日。
なお、伶奈が譲ったら、おばちゃんに奪い去れたって事があったので、それ以来、譲ることもしなくなった。
「あっ……おねーちゃん……」
その詩羽の顔を見上げて、伶奈がぽつりとこぼした。
「次、降りる駅ですよ?」
「わっ!? ほんと!?」
詩羽の言葉に慌てて立ち上がるも、降りる駅は『次』だ。しかも、電車は前の駅を出たばかり。さらに悪い事には伶奈が立ち上がった途端、伶奈の席は押しの強いおばちゃんにゲットされる体たらく。
「ばーか」
頭の上で嘯く妖精が憎い。
が、ここでアレと話し始めると面倒くさいことになるので黙っておく。
背の高い詩羽の隣、少し遠いつり革を握って伶奈は立つ。
十五センチ差の身長差、二人並ぶと自分の背の低さがいっそう際立つようで少し嫌だ。
しかし、逆に相手は背の高さがコンプレックスだって言ってるのも知っているから、口に出すことはしない。
その伶奈へと顔を向けて詩羽は言った。
「おはようございます、西部先輩……寝不足ですか?」
「あっ、うん……遅くまでゲームしちゃってて……」
「へぇ……西部先輩ってゲームするんですね? 東雲先輩はよく話してるけど、西部先輩は全然だから……」
「あっ……うん、たまに、たまにね。ホント、たまに……」
カタンコトンと揺れる電車の中、可愛い後輩の疑問に伶奈は苦笑いを浮かべて、しどろもどろ。
「オセロで散々やられたから、腹が立ってずっと続けてたって、言いなさいよ」
その頭の上では小さな妖精が何やら嘯いているが聞こえないふり。
カタンコトンと揺れる電車、車窓では真っ青な空と群青色の屋根が流れていくのが見えるも、あれやこれやと話をしている少女達の目には映ることはなし。
話題は「数学が難しい」との詩羽の言葉に、伶奈が「教えてあげるよ」と答えてみれば、頭の上の妖精が「何を偉そうに……」とか言い出す感じ。
もちろん、最後のそれは聞こえないふり。
後は、持病で掛かってる病院が実は伶奈の母由美子が勤めてる総合病院だったって話にお互いに驚いてみたり、もっとも、由美子が働いてるのは救急部門だから内科通院の詩羽とは会うことはないだろうとか……割とどうでもいい話。
そんな中、ふと、穂香が伶奈の背負っている青いリュックサックに気付いて言った。
「そう言えば、二年生、今日から野外学習ですね」
「うん。青野山の合宿センターだって」
「そこ、五年生の時に、私たちも野外学習で行ったんですよ」
詩羽が言うにはこの辺りの公立小学校は大半が五年生の時に、同じ合宿センターで野外学習をやるらしい。一泊二日。
もちろん、県外から越してきた伶奈に知るよしもない。
小学校の頃の記憶はいろんな意味で思い出したくないので、心の奥に片付け込んでおこう……なんて考えてる伶奈の鼓膜に後輩の言葉がするりと滑り込んだ。
「それでですね……青野山、出るって噂が結構あるんですよねぇ〜」
不必要な思考が途切れ、少女は美しい車窓の空から隣の後輩へと視線を向け、そして、尋ねる。
「何が?」
その言葉に少女は端的に答えた。
「お化け」
そして、頭の上で妖精がのたまう。
「……そんなの居るわけないじゃない、馬鹿馬鹿しい」
(……自分もお化けみたいな物のくせに……)
さて、いつもの駅に降りると、いつものように隣には下りの電車。
「おっはよ〜伶奈ちゃん! あっ、おねーちゃんもいるんだ!」
良い具合に混んでる電車から伶奈が降りると、出迎えてくれたのは気持ちよく晴れ上がった空と大きなナップザックを背負った北原美紅だった。
「おはよ〜美紅」
「おはよ、美紅」
「おはようございます、北原先輩」
同じセリフを同時に吐いたのが伶奈とアルト、それから一呼吸開けて詩羽がぺこりと頭を下げた。
与えられる朝の挨拶に美紅が頬を緩ませ、右手を挙げた。
そこに伶奈がパンッ! と左手を叩き付けて、いつものハイタッチ。
心地よい破裂音が真っ青に晴れ上がった、野外学習日和の空へと響き渡っていく。
「それ、いつもしてるんですね」
なんて、詩羽が呆れてるけど、やらないと何か忘れ物をしてるような気がするから仕方がない。
「おねーちゃんもする?」
なんて言って美紅が軽く手を上げれば、詩羽は気恥ずかしそうに辺りをきょろきょろ……その後にちょこん……まるで手の平同士を重ねるようなハイタッチをしてみせた。
「あはは、もう、それ、ハイタッチじゃないよ〜」
「でっ、でも……」
美紅が茶化すようにそう言うと、詩羽の顔は一瞬でゆでだこ状態。
気恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてきょろきょろしている身長百六十五センチの後輩がすごく可愛い。
「余りドール組の後輩いじめたらダメだよ? 美紅」
一応の助け船……ではあるが、伶奈自身が吹き出しそうになってるんだから、効果のほどは幾ばくか?
「もう! おねーちゃん、怒りますよ!」
と、膨れる詩羽はやっぱり可愛い。
そんな中、聞こえてくる大きな呼び声。
「うた
聞こえてきたのは美紅と同じ電車に乗っていた少女の声、英明の制服、胸元を飾るスカーフは白、今年入学してきた一年生だ。
その声に美紅がチラリと背後を振り見たかと思えば、すぐに伶奈へと視線を戻し、遠慮気味に声を発した。
「あっ……先輩……」
「ああ、うん、じゃあ、私、美紅と一緒に行くから」
「はい」
伶奈が答えると詩羽は嬉しそうに大きく首を縦に振った。
そして、伶奈は同級生を待つ詩羽を置き去りに、美紅と共に一足先に歩き始める。
「伶奈ちゃんも先輩してるんだね?」
なぜか嬉しそうな美紅に苦笑い気味の笑み浮かべて、伶奈は応える。
「そんなんじゃないよ。同じ路線を使ってるから……毎朝、一緒に通学してるだけだし……」
「私なんて、部活のある時はガラガラの電車に一人だもんねぇ〜寂しい限りだよ」
頭の後ろで手を組み、空を見上げて、美紅はそう言った。
その美紅の整った横顔を少し低い位置から、伶奈は見上げた。
「部活行ったら、後輩、沢山、いるんでしょ?」
「……――だって、アルトが」
その伶奈の頭の上でアルトが言えば、その学校へと向かう生徒達の流れに流されながら、耳打ちするような小さな声で伶奈は伝えた。
「あっ、アルトちゃん、連れてきてくれたんだ? うん、後輩は沢山いるけど、先輩も同級生も沢山居るから」
「あはは……それもそうだね。ドール組はこぢんまりとしたグループだし」
そんな感じに愚にも付かない話をしながら、少女達はいつも通りに登校。
すると、案の定、蓮を小脇に抱えた穂香がバス停の前で伶奈達二人を待っていたので、彼女らとやっぱりハイタッチを一発。心地よい破裂音を六月、梅雨前の空に響かせ、少女達は学校へと向かった。
教室に入ったら五名グループ、最後の一人、江川崎愛生衣の姿もあった。
「おっはよ〜みんな!! いよいよ、今日だね!」
他の友人と話をしていたらしい愛生衣は、伶奈達が教室に入ってきたのを確認すると、ブンブンと子犬の尻尾のように手を大きく振り回し始めた。
そこにパタパタと駆け寄ったのは、四方会の言い出しっぺ役、東雲穂香だった。
「おっはよ〜えっちん! それにみんなも! なんの話をしてたの?」
そこにいたのは愛生衣以外に三人のクラスメイト、愛生衣ひっくるめて四方会の面々とも仲の良いグループだ。
「あのね、あのね、知ってる? 青野山、出るんだって! 幽霊!!」
それを言ったのは愛生衣が話していた三人組の一人。
その少女には兄がいて、その兄がおもしろおかしく『青野山の幽霊』の話を語って聞かせたらしい。そして、そのおもしろおかしい『青野山の幽霊』の話を学校に来ておもしろおかしく広めているのが、この少女と言うことらしい。
彼女の兄曰く、ハイウェイを無人の車が走ってるとか、窓の外を見たら火の玉が飛んでたとか、青年の像とかそういうのが夜になると走り回るとか……まあ、どこにでもあるような話だ。
一通りのお話が終わる頃には朝のホームルームも始まって、その話題はいったん終了。
「……さっきの話、知ってるわよ……」
ホームルームが始まった直後、机の上に両足を投げ出して座っていたアルトがそう言った。
どうも、拓也、すなわち美月の父親がこの辺で小学生をやってた頃からある話らしい。
彼も小五の時に野外学習に行って、そこから帰ってくると、『友達の友達が見た』という幽霊話を楽しそうに両親に語って聞かせていたそうだ。
その息子の楽しい思い出話をあっさりと否定したのが、科学主義者(の割りに都合の良い占いだけは信じてた)母真雪。
「そんな変なのはアルトだけで十分よ」
すると、紅顔の美少年だった拓也少年はその顔をさらに真っ赤にして叫んだ。
「アルト姉さん自体、幽霊みたいな物じゃんか!!」
「ぷっ……」
思わず吹き出してしまった少女に担任女性教諭の声が少し大きめに響く。
「西部さん! 何か面白いことでもありましたか?」
なお、その時、担任教師が話していたのは野外学習の書注意みたいなもので、笑えるポイントは皆無だったから、始末に負えない。
「あっ!? いっ! いいえ! なんでも無いです!!!」
びくん! と身体を震わせ、伶奈が言い訳をしていると、少し離れたところでガタンッ! と椅子が音を立てるのが聞こえた。
「はーい、先生! 伶奈チは野外学習が楽しみで、昨日も寝てないので変なテンションなんです!」
クラスメイトの視線が集中する中、立ち上がって声を上げてたのは四方会の自称リーダー、東雲穂香。満面の笑み、恥ずかしさを一ミリとて感じさせないところがすごい。
「ほっ、穂香!?」
その言葉に思わず立ち上がり大声を上げるも、穂香はやっぱり聞き流すかのように応える。
「今朝、寝不足だ〜って言ってたじゃん?」
「それはゲームしてただけだもん!」
やっぱり大きめの声で反論するも穂香はやっぱり平気な表情、まるで忘れ物でも指摘されたかのように彼女は言ってのけた。
「あっ、そうだっけ? 私なんて、楽しみで全く寝てないからね! 気がついたら、空が白かったからね!」
「寝なよ! バカなの!?」
思わず叫んだ言葉に穂香は頭をポリポリ。照れ笑いを浮かべて、彼女は言う。
「いやぁ〜」
「褒めてない!」
伶奈が大きな声を上げれば、穂香はサムアップした右手を突き出し、満面の笑みで言う。
「ナイス突っ込み!」
「褒めていらない!」
いつものやりとり、手元でアルトがため息を吐いてるのが視野に入ったが、それに対応する暇はない。
そして、苦り切った表情の担任教師が言った。
「……二人とも、生徒指導室でいくらでも漫才しててくれて良いのよ? 観客は生活指導の先生しかいらっしゃらないけど」
静かな声が教室に響けば、若き漫才コンビニは声を合わせて言うほかなかった。
「ごめんなさい! テンションが上がりすぎてました!!」
そして、伶奈は美紅に言われるのだった。
「……伶奈ちゃん、私のこと時々
と……言うわけで、野外学習は始まる前から波乱含みで始まった。
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