悪酔い(完)

 正直、伶奈はセックスという物が嫌いだ。
 嫌悪感すらある。
 それでも中学生となれば多少の噂話は耳に入ってくる物だ。
 さすがに英明の中等部は試験もある私立中学だから全体的に素行の悪い生徒は少ない。だから、中等部でそー言うことをしている少女の噂は聞かない。
(英明の中等部で処女じゃないよごれてるのは私だけかも……)
 そう思うと、胃がひっくり返るかと思うような嫌悪感がわき上がってくることもある……が、出来るだけ考えないようにしている。
 しかし、高等部となると若干話が違ってくる。
 英明の高等部は地方にはありがちな、名門公立校の滑り止め私立という立ち位置だ。だから、決して、出来の悪い生徒ばかりが集まるというわけではない。
 しかし、第一志望に落ちたという挫折感から荒れる生徒ってのもちょくちょくは居る。
 そこに中等部の授業についていくことを諦めた落ちこぼれが合流すると、余り良くないグループって者も少しは生まれる。
 そう言う連中の話なんて物は、噂雀うわさすずめ好餌こうじだ。
 そして、英明には少女達の社交場がある。
 ハマ屋だ。
 ここで知り合った先輩や後輩なんかもいて、普段は非常に楽しいスペースであることは間違いない。
 中には名前に東西南北が入ってる後輩が『私も四方会に入りたい!』なんて言われて、びっくりした事もある。もちろん、それに関しては、丁重にお断りはしたが、それでも顔を合わせると楽しいお話はしている。
 しかし、中にはたこ判を突っつきながらピーチクパーチク噂話に余念が無いグループってのもある。
 宿題がきついとか、授業が難しいとか、うちの男子は頼りないとかって話ならともかく、やれ、誰それはすでに犯ってるとか、犯ってないとか、初体験で失敗したとか、成功したとか……挙句の果てが出来たからカンパを集めてるらしい……なんて話を中等部が居る所でやる高等部の連中が信じられない。
 さすがにそこまでえぐい話は滅多に耳にするわけではない。一年の時は三回くらいだったか? そのうち一回は鎖骨下につけられたキスマークを自慢している女子高生がいて辟易した物だが……
 そして、そういう時は意外と気を遣うのが穂香だ。
「うち、いこ!」
 食べかけだろうが食べ終えていようが、そもそも、出来上がってなかろうがさっさと三人の手を引き、自宅に引っ張り込んでくれるのは助かる。
 この日もそう言う日。
 未だ、たこ判の完成品が届いてないって言うのに、四方会言い出しっぺ役は他の面々の手を引き自宅、自室へと連れ込んだ。
 なお、たこ判は頃合いを見計らい、穂香が取りに行った。
 そんな感じで、穂香の部屋。
 いつものガラステーブルを東西南北で囲んで、たこ判を突っつき、突っつき。
「だって、伶奈チ、あの手の話が出ると露骨に嫌そうって言うか、気分悪そうな顔になるから〜まあ、将来がちょっと不安だけど!」
 穂香がパクリとたこ判を割り箸で口に運んでそう言うと、美紅と蓮も言葉を続けた。
「ちょっと露骨なグループもあるよね……」
「……蓮も、いや」
 そう言う二人とも眉をひそめて不機嫌そうだ。
 そして、たこ判は美味しいけどなんだか箸の動きが緩慢になってる伶奈がぽつりと言った。
「……気持ち悪いんだもん……」
 そんな感じでその手の行為及び話題への嫌悪感をずいぶんと募らせていた。

 そんな伶奈が、土曜日のアルバイトに出勤して見たのが、半裸の美月と良夜がテーブルの上に突っ伏してグースカ寝ているシーンだ。
 この二人が『そう言う関係にある』というのはうすうす察していた。
 美月は「良夜さんの婚約者フィアンセ」を自称している。言われてる良夜にしても「まだ早いよ」とは言ってもそのこと自体を否定するようなことはひと言も言わない。
 何より、二人が出掛けた土曜日だ。帰ってきた美月の髪は濡れてるし、シャンプーの香りもしている。何より、そういう時の美月はなんて言うか……とっても“女”な感じがした。
 そんな美月を見て、彼女が何をしてきたかを察せられないほど、少女もお子様じゃない。
 そういう時には、良夜、そして、美月にすら、何とも言えない感情を抱いてしまう。
 そう言う伶奈であるから、こんなところでこんな格好の二人がグースカ寝てたら――
「見損なった! 大っ嫌い!!」
 こんな感情を抱いてしまうのも、無理からぬ事だろう。
 くるん! と回れ右、吐き捨てるように少女は叫んだ。
「今日は休む!!」
 大股で回れ右、背後で良夜と美月がごにゃごにゃ言ってるのが聞こえるが、寝とぼけてるらしく、いまいち、文脈がはっきりとしない。
 聞く気なんてないけど!
 大股でフロアをあること数十秒。
 から〜んと耳障りなドアベルの音を鳴らして、外に飛び出した瞬間、トンッ! と、頭に感じる小さな振動。
「はぁい、伶奈。今日もデコの縦皺がキュートね?」
「うるさい!」
 不機嫌一直線、最近、ちょっとは伸びてきた足を大股で動かしながら、少女はずかずかと峠へと続く上り坂を登る。
 普段よりもずいぶんと早足。
 さんさんと降り注ぐ春の日差しは暖かく、山間やまあいを抜ける風はほどよく涼しい。
 ただの散歩なら、どんだけ気持ち良いだろう? と思う。
 ずかずかと大股で歩けば、頭は結構揺れてるはずなのだが、アルトは気にせず、言葉を紡ぐ。
「付き合ってるわけだし、お互いの親はお互いの事を知ってて、アレを一生に一度のプロポーズ扱いすることがあの二人にとって良い事なのか、悪い事なのかは知らないけど、一応、プロポーズらしき物はしてるわけだし」
「……何? それ……らしき物って……」
 奇妙なアルトの物言いに少女の歩みが少しだけ遅くなった。
 山間を抜ける風が少しだけ強めに舞った。
 アルトはひょこっと頭の上から顔を覗かせた。
 大きな金色の瞳が屈託なく緩む。
 そして、彼女はクスッと笑って言った。
「温泉街の喫茶店で『ずっと、俺の傍で脳天気に笑ってて下さい』『じゃあ、良夜さんはずっと私の傍でアルトに刺されてて下さいね』というプロポーズ」
「ふんっ! そんなのプロポーズのうちに入んないもん!」
 吐き捨てるように言う。
 気づけば足は止まっていた。
 峠の天辺。
 天地逆さまのアルトの向こう側には、遠くに駅や線路、町並みが見えた。
 頭の上にはぽっかりと真っ白い雲。ふわふわ……風に流され、気ままに飛んでいく。
 そして、アルトはひょいと顔を持ち上げると、妙にまじめくさった口調で言う。
「今時、結婚するまでは手も繋がない……ってのもナンセンスなのは解ってるでしょ?」
「……解らないし、解りたくもない……結婚するまで手も繋がすに過ごせばいいんだ……」
 答えながら、少女は再び足を進め始める。
 先ほどよりかは幾分のんびり……と、歩きながら、半分は言い過ぎだと思う……が、半分くらいは正論だとも思った。
「潔癖症ねぇ〜」
 茶化すようなアルトの言葉に伶奈は思わず大きめの言葉で応えた。
「とっくに汚れてるんだから、潔癖に生きてなきゃ、あっと言う間に泥団子じゃんか……」
 唇から勝手に言葉がこぼれ落ちた。
 言った後でしまったと思った。
 自分でもなんでこんな言葉が口からこぼれたのか分からない。
 妙な寒気と火照り、両方を同時に感じた。
 また、足が止まった。
 まぶしい春の太陽が雲の向こう側へと隠れた。
「…………」
 頭の上の妖精は何も言わない。
 暇があれば喋るか鼻歌を歌ってるような妖精なのに、何も歌わないし、何も言わない。
 そんなイヤな沈黙の中、少女はとぼとぼと歩き始めた。
 猫背で視線は足下ばっかり。
 峠を越えて、大学の前辺り。
 ちらり……と横目で見ると、ゴールデンウィーク中のキャンパスにはひとけも少なく、いつもの賑やかな雰囲気が嘘のよう。
 そこから視線を足下に戻すと、少女は吐き捨てるように言った。
「……なんか言えば?」
 そして、アルトが応える。
「なんか」
「……サイテー」
「貴女がね」
 アルトの言葉に、また、足が止まる。
 少し冷たい風が少女の頬を撫で、太陽を隠していた雲を追い払う。
 暖かい太陽が頬を照らし、少し冷たい風が頬を撫でる。
 そして、少女は静かめの口調で尋ねた。
「……じゃあ、聞くけど、いつになったら“シテ”もいいんだよ……?」
「私は出来ちゃった子供を育てられるんなら、“シテ”も良いと思うわよ。働いて、稼いで……その点、良夜と美月はひとまず合格かしら? まっ、それでも結婚するまではコソコソする謙虚さは持って欲しいわね」
 伶奈の独り言のような問いかけにアルトが応えた。
 それが正しいのかどうなのかは、伶奈には解らない…………いや、多分、概ね、その辺りが『落とし所』って奴なのだろうと思う。
 でも、それを認められるほど大人ではない。
「だからって、あんな所で、しかも、べろんべろんに酔ってから……すっ、するとか……最低すぎる……」
 消え入るような口調で少女はぼそぼそ……と言えば、頭の上でアルトが、応えた。
「ああ、その件に関してはね〜」
 アルトはそう言って意味ありげに一端言葉を句切った。
 その口調に少女は我が意を得たりとばかりに、一息に言葉を紡ぐ。
「アルトだってそう思うでしょ!? 汚い! 食中毒になったらどうするんだよ!?」
 すると、頭の上で妖精が言った。
「”シテ”ないわよ」
「へっ?」
 サラッと告げられた言葉に間抜けな声がこぼれ落ちる。
 それに悪巧みが成功した子供のように妖精はニマリ……と笑みを浮かべて、もう一度、行った。
「だから、”シテ”ないの」
「だって、服、着てなかったじゃん!! 美月お姉ちゃんもりょーや君も!!」
 少女が顔を真っ赤にして叫ぶも、妖精はしれっとした顔。
「美月が飲み過ぎたら脱ぎ始めるのは、貴女も知ってるでしょ? 昨日は良夜も飲んでるうちになんか、脱いじゃったのよねぇ……悪酔いしてたみたい」
「灯センセとかも居たのに!?」
「帰ってから。見送った瞬間、箍が外れたのよ。後は、飲み直しと称して、良夜が『ねーちゃん、取られた〜〜〜』って泣き始めて、美月が『そーですねぇ〜取られちゃいましたねぇ〜お義兄にいさんって呼ぶんですよ〜』と、慰めてるのか、追い打ちをかけてるのか解らない事を言い出して、良夜が、ますます、グダグダになって、最終的には『もう、美月さんしか居ない! 幸せにする!!』『私が幸せにします〜!』って……まあ、面白いコントをフロアでやってただけよ」
「……なっ、何、それ……?」
「後は良夜が、酔った勢いで『二年後に結婚しよう!』宣言したのはいいけど、美月は事切れてグースカ寝てて、良夜も言うだけ言ったら、すっきりして寝ちゃった……ってのが真相。あれ? これもプロポーズかしら?」
 あまりにもひどい“プロポーズ”に思わず愕然となる。
 そして、軽く苦笑い。
「……覚えてるの?」
「私が覚えてるわ」
「……性悪」
 ため息交じりにそう言うと、少女は再び、脚を動かし始めた
 先ほどよりかはずいぶんと遅め……と言うか、重い足取りで歩いていると、頭の上で嬉しそうな声で妖精がまた言った。
「知ってた……で、どうするの? 啖呵、切って飛び出しちゃったわけだけど……」
「うぐっ……どっ、どの面下げて帰れば良いんだよぉ……」
「どの面下げて帰れば良いかは、あれに聞けばいいわ」
 言われて少女が振り向けば、そこにはパタパタと走って駆け寄る美月の姿。良夜の姿が見えないのは、『もし逃げられたときに犯罪者の絵面になるから』って事で、遠慮したらしい。
 が、今はそんな事はどうでもいい。
(合わせる顔がない!)
 その思いだけで猛然とダッシュ!
 しかし、そのダッシュは物の数秒で終わった。
 坂を登ってくる一人の女性――寺谷翼がいたからだ。
 普段よりもちょっと遅いのは、今日の翼が昼から出勤って事になっていたから。そして、昼よりも早くに来てるのは『家に居ると光熱費と食費が掛かるから』ってのが理由だ。
 それが、よりによってこのタイミングで来なくていいのに! って伶奈が内心で毒づいても、相手にも都合って物がある。
 まあ、電車がこの時間だったってのが最大の理由なんだけど。
 その翼は走ってくるのが伶奈であり、その背後から大声で伶奈を呼んでる美月を確認すると、押していた自転車をガードレールに預けると、そのまま、仁王立ち。
 翼をかわそうとするも、正面からはタイミング良く大型トラック。
「ひっ!?」
 短い悲鳴を上げて急ブレーキ!
 ――をかけると、ちょうど、翼の真正面。
 そのまま、少女は翼にその細い右腕を捕まれた。
 そして、鉄仮面の女性は鉄仮面のまま言った。
「……新鮮な活きいき伶奈……一匹五千円」
「高いよ!」
「買います!」
 伶奈と美月の叫びはほぼ同時。
「……で? 何? 姉妹喧嘩?」
 翼がぶっきらぼうないつもの口調で尋ねると、一通りの説明が国道っぺりの路側帯で執り行われた。
 その間、伶奈は翼に右腕を捕まれたままだし、さらには『美月と良夜がフロアでいかがわしいことをしていたと勘違いしてしまった』という大恥まで自白させられる始末。
 ひと思いに殺せ……と思うような羞恥の時間が終われば、翼は軽くため息を吐いて、言った。
「……翼ちゃんも今日、休む……」
 訂正、酒臭い息を吐く翼は、まだ、翼ちゃんのままだった。
 そして、美月が素っ頓狂な声を上げる。
「ふわっ!?」
 されど、翼は相変わらず、淡々としたままで言葉を続けた。
「…………美月ちゃんは、中学生を預かってるって……えっと…………ああ、うん、自覚が、ない。翼ちゃんは……常々、そう思ってたから……ちょっと、懲りたら、良い……と、思う」
 いつもよりも一段と緩く、平坦な口調で翼がそう言うと、美月はその言葉に目を白黒。
「ちょっ!? あっ、でも! 急に言われてもぉ……」
 当然、美月は良い返事をしない。
 有給は前日までに……ってのがアルトの、そして、一般社会の常識だ。
 が、翼は更に平坦でのんびりとした口調で言葉を続けた。
「じゃあ……今日、翼ちゃんが欠勤するのがいいか――」
 一端言葉を切れば、美月はまじめくさった顔でコクン……と小さく頷いて見せた。
「はい」
 それに翼はやっぱり縦に首を振って、言葉を付け足した。
「……連休明け月曜と水曜、有給とって……公休と会わせて……三連休……どっち、が良い?」
「止めて下さい! 三日連続でランチ一人なんてなったら、私、死んじゃいますよ!?」
 翼が言った途端にじたばたと美月は暴れ始めた。
 両手を無軌道に振り回して地団駄を踏んでる姿は、なんだか、妖しい踊りでも踊ってる踊り子のようだ。
 その美月を捨て置き、翼はクルンと回れ右。
「……じゃあ、今日、欠勤……後、よろしく……」
 それだけ言い捨てると、翼はずるずると伶奈を引き摺り、来た道をUターン。
「つーばーさーさーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!」
 大声を上げても、翼の足取りは止まらない。
 大丈夫かな? って伶奈が思っていれば、翼がぽつりと漏らした。
「……どうせ、今日は暇……」
「まあ、そうねぇ〜たまには痛い目に合うのも良いわね……美月も」
 アルトまでもこう言うので、伶奈は「まあ……良いか……」と思うことにした。
 この後、伶奈は翼の傲りで映画を見に行き、お昼を食べて、更にカラオケボックスまで渡り歩くことになる。
 なんで、ノリノリで演歌ばっかり歌うんだろう? と思ったのは、本人には秘密。

 そんな背中に美月はもう一声、お腹の底から大きく怒鳴る。
「もう!! ボーナス、出しませんからね!」
 それが届いてないのを確認したら、美月は小さめのため息一つ。
「……まあ……皆勤手当と今日の日当が浮くと思えば……はぁ……もう、遊びに行って、どこか静かなところで……――」
 小さな声でそう独り言ちた後、回れ右。トコトコと急な坂道を登っていく……
「……二年後について詳しく聞こうと思ってたのに……」
 なんて、呟きを口の中だけに残して……

 なお、二年は努力目標……って事になった。

 そして、喫茶アルト内では『二年後は何年後にやってくるのか?』の賭けが密かに行われている。
 伶奈も参加している。お小遣いから千円、二年後に賭けた。
 もちろん、当事者二人には秘密。
 なお、胴元は吉田貴美と二条陽。
 伶奈も二口千円、二年後に賭けた。

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