連絡先(完)

「灯……ちょっと……そこに、座れ」
 ゴールデンウィークも後半三連休に入った五月四日の水曜日。彼――時任灯はバイト先の正社員にこんな言葉を吐かれた。
 目の前で彼に向かってまっすぐに冷たい(主観)視線を投げかけているのは、鉄仮面こと寺谷翼さん。今年、二十一とか二とか言ってた女性。
「なっ、なんですか?」
 若干、引き気味の表情、逃げ腰で灯が答えると、彼女はひと言ひと言を区切るように力強く言った。
「良いから、座れ」
 喰われるのかと思った。
 後に灯はこの時の事をこう語るのだった。
 テーブルの上では温かいコーヒーと美味しそうなワッフルが二つずつ、翼の傲りで並んでいたのだが、この時の灯にはそこに目をやる余裕はなかった。
 あと、アルトがそれを最初に食っていたことも……もちろん、知らない。

 寺谷翼には二人の親友がいる。
 高校時代からの大親友でもあり、悪友でもある二人だ。
 翼はあー言う性格だから、友人と呼べる人物はこの二人くらいのもの……と言ったら、美月が床にのの字を書いてすね始め、翼が「……面倒くさい上司」と呟いたのはちょっとした余談。
 一人は最低限の化粧しかせず、余りおしゃれとも言えないださくて安い眼鏡をかけては居るが、隣県の一流公立大学で法学を学ぶ才女。自分はおしゃれしないくせに翼におしゃれしろとうるさいのが玉に瑕だが面倒見の良い女性だ。
 もう一人は短大を卒業し、そこそこの地元企業でOLをやってる女性。取り立てて優秀でもなければ美人でもないが、心根が優しく、コロコロと楽しそうに笑ってるだけで周りを暖かな気分にしてくれる女性らしい女性だ。
 鉄仮面で無愛想な自分には分不相応ではあるが、決して、手放したくない友人達……と、翼は思っている。
 さて、そんな二人の友人と翼は月に一回か二回は必ず集まることにしていた。
 昼間に喫茶店で会ってお茶をしたり、誰かの(大概は集まるに都合の良い翼の)家に転がり込んで朝まで飲んでみたり……といろんなパターンがあるが、どれも楽しい一日だ。
 この日も翼は友人達二人と会う約束をしていた。
 今日は再開発地区傍にあるイタリアンのレストランテでランチが最初の目的。
 そこは美月の友人が経営している店だ。大学生中心でコストパフォーマンス重視路線の喫茶アルトに比べてサラリーマン、OLが主な客層のその店は『小さじいっぱい分の高級路線(経営者談)』が受けてるのか、なかなかの評判。
 その店でランチを食べたら、みんなでデパートに服を見に行こうってのが二つ目の目的。
 買うのは服……主に翼の。
 変なところで締まり屋の翼はほっとくと制服以外の服はワンシーズン三セットをローテーションで着てたという実績がある。だから、定期的に友人達が服を買わせているのが常だ。
「ある意味、良夜さんと同じですね」
 と、美月が言った翌月から、自主的に服を買い始めた……というのは、ちょっとした余談。
 さて、そう言う女子会の当日……
 この日は新市街にあるターミナル駅で待ち合わせ。
 隣県に住んでる大学生の友人、翼とは違う路線ではあるが私鉄沿線に住んでるOLの友人、そして、やっぱり私鉄沿線の翼、三人ともに都合の良い待ち合わせ場所だ。
 いつも使ってる電車の駅、通勤は下りだけど今日は上り……と言うわけで、翼は多少の余裕を持って自転車に乗って、駅へと向かった。
 スコーンと晴れ上がった五月晴れ、日差しが強くて少し暑いけど、緑かおる風が頬を撫でればちょうど良い。
 気持ちいいからちょっと立ちこぎで速度を上げる。
 タイト気味のミニスカに白い開襟のブラウスにVネックのカーディガン、ストッキングは履かずに来たから、速度を上げるとちょっと寒いが、それも心地良いくらい。
 そして、発生するトラブル。
 場所は自宅マンションから十五メートルほど出た細い路地。周りは田んぼ七に住宅地三くらいの田舎道。
 ぷしゅん♪
 心地良い音共に乗っていた自転車の前輪がぺったんこ。
 パンクだ。
 どうも釘か何かを踏み抜いてしまったらしい。
「……ちっ」
 小さく舌打ちをして、翼は駅前にある小さな自転車屋さんへと向かった。
 翼がこの自転車を買った店で、パンク等は全てこの自転車屋で修理して貰っている。
 そこまで押していくのに十五分、電車は一本遅れることを覚悟せねばなるまい。
 自転車屋で電話を借りて友達に連絡しないと……なんて思いながら、自転車屋の前に着いたら、出迎えてくれる一枚の紙切れ。
『急病によりしばらくお休みさせていただきます』
 降りたシャッターにこんなメッセージが貼り付けられていた。
 椎間板ヘルニアという奴になって入院していた……と言う話はこれからひと月後、再び、パンクしてその修理に持って来たときに聞いた。
 他に自転車屋なんて知らないが、少し離れたところにあるホームセンターに行けば修理して貰えるはずだ……と言う知識は持っている。
 しかし、順番を間違えてはいけない。
 今、最初にしなければならないことは――
「……電話」
 翼は小さく呟いた。
 公衆電話を捜して、待ち合わせをしている友人達に伝えなければならない。
 彼女らを心配させてはいけない。
 そしたら、どこにもないんでやんの、電話。
 見事な五月晴れの空の下、パンクし、乗れなくなった自転車を押して、あっちに行ったり、こっちでうろうろしてみたり……
 一時間が過ぎ、最後のカケで飛び込んだ産婦人科の待合室というとんでもなく場違いな場所で、彼女はようやく、公衆電話を見つけるに至った。
『……うん、翼が切羽詰まるとバカになる人なのは知ってた』
「…………どういうこと?」
『……自転車置いて、歩いて駅まで行っても、一時間は遅れなかったでしょ……?』
 受話器の向こう側で友人(OL)の声が響く。
 こちら側で幸せそうな顔をした女性が行ったり来たり。
 そして、受話器の向こう側からガチャン♪ と十円玉が落ちる音とびー♪ と言う残り時間が少ないことを示すブザー音が聞こえた。
 それを聞きながら、翼は言う。
「………………あっ」
『もう、良い……物凄く心配した一件は今度、アルトでご飯、奢って貰うことで流すけど、どうしても、譲れないことがある』
「……何?」
『……スマホ、買え』

 入社当時、翼は月給を貰い始めたら携帯電話を買おう……と思っていた。
 しかし、入社してみれば、仕事中は携帯電話の類いは持たないことがアルトの社内ルール。
 入社間もない頃、ポケットに入れっぱなしにしてた携帯電話が鳴るという大失態を凪歩が犯した挙げ句、倉庫で貴美から『凪歩、正座』から始まる三十分コースを受けたのは良い思い出。
 もちろん、通勤の自転車での移動中に携帯が使えるわけでなし、電車の中でも余り使用しないのがマナーである。
 と、考えたら、使う暇なんてないのではないのか?
 って言うのが第一。
 もちろん、この判断をしたとき、『待ち合わせ場所に遅れそうになる』という自体を翼は想定しなかった。
 今まで、そういう事はなかったからだ。
 しかし、最大の理由が他にもあった。
「……契約が訳解らない」
 これだ。
 二年縛りだとか、パケット放題だとか、結局、毎月、いくら支払うのか? って事がさっぱり解らない。
 どうも、凪歩は五千円から六千円ほど支払っているらしい。
 これは結構高い。
 一方で――
「良夜さんは全部で二千円ちょっとらしいですよ」
 との情報が美月からやって来た。
 どういうことなのだろうか? と、食器洗いをやってる間に美月に聞いてみても、どうにも要領がつかめない。
「台湾製のえすえむふりー携帯がどうのこうの、えむぶいぴーがあーだのコーダの? ともかく、特殊な電話機を特殊な回線で使っているので安くすむらしいですよ」
 さっぱり解らない。
 美月は良夜がぽろっとこぼした専門用語について、しつこく説明を望む……が、その説明を『説明をして貰った』って事に満足して、理解は最初っから放棄してしまっている。
 こうなると、もはや、良夜に直接相談した方が良い。
 そう判断した翼は食器洗いの手を止めると、向こうでサラダを作ってる美月へと顔を向け、言葉を続けた。
「……りょーやんに相談したい……」
 同様に美月もその手を止めて答える。
「それは良いですけど、良夜さん、今、実家に帰っちゃってますよ? お姉さんの婚約者さんと食事会だそうで……」
「……ああ……」
 そう言えば結婚するとか言ってたような気がする。幸せそうに指輪を撫でてたのを見た記憶は確かにある。
「帰ってくるのは五日の夜らしいですよ」
「五日の夜……」
 ぼんやりとした口調で翼が呟いたのは、彼女の中で立てていた計画が音を立てて崩れてしまったからだ。
 翼の休日は火曜日と金曜日。平日二日ならどこで休んでもかまわないが、先に挙げた二人以外に一緒に出掛ける相手も居ないから、この二日で休むことが不文律になっている。
 なので、五日、木曜日までに色々話を聞いて、金曜日に買いに行けば良いだろう……と、彼女は思っていた。
 しかし、良夜が帰ってくるのは五日、木曜日。帰ってきたばかりの彼に話を聞くのは別に良心が痛んだりはしないが、さすがに夜に男性と会うというのはちょっとはばかられる。
 と、翼が悩んでいると、美月が不思議そうな口調で言った。
「あの……なんで、灯くんに聞かないんですか?」
「えっ?」
「灯くん、良夜さんと同じ学科ですよ」

「……――と言うわけだから……『特殊な回線』と『特殊な携帯』とやら……教えて……」
 喫茶アルト窓際隅っこの目立たない席、普段なら伶奈が勉強してたり、ぼーっと窓の外を眺めてたりしてる席ではあるが、今日、座っているのは仏頂面の翼と苦笑い気味の灯という珍しい組み合わせ。
 テーブルの上には翼が作ったワッフルとコーヒーが二つずつ。
 焼きたてのふわふわワッフルには生クリームとバニラのアイスにブルーベリージャムがひと匙。コーヒーは灯にはホットで翼にはアイス。
 そのホットコーヒーをブラックで一口、口を付けたら、灯は言った。
「それだけ?」
「……んっ」
 コクンと小さく頷く翼の鉄仮面を見やり、灯はがっかりしたような安堵したような、何とも言えない微妙な気分になった。
 だいたい、工学部の学生だからってスマホについて詳しいと思われるのも迷惑だなぁ〜なんて思う。
 が、
「解らない? ……りょーやんに、聞いた方が……良い?」
 って言われたら、ムッとするのは当然だろう。
 ずいぶん前にネットで聞いた話をうすらぼんやりと思い起こし、青年は答える。
「いや……多分、SIMフリー携帯とMVNOって奴だと思うけど……」
 そして、始まる一問一答。
「……安いの?」
「安い……って、聞いた」
「灯はどうして使わないの?」
「いや……俺は家族割とか――あっ、ごっ、ごめん……」
「…………なんで謝るの?」
「あっ、いや……ほら、寺谷さん、家族、居ないって聞いたから……」
「……別に……灯が殺したわけじゃないし……」
「まっ、そりゃ、そうなんだけど……」
「一人だと、高いの?」
「あっ、いや、そうでもない……と思う」
「じゃあ、どうして、りょーやんはMVNOって言うの、使ってるの?」
「沢山使わないなら、安いって聞いた……」
「沢山って……どのくらい?」
「えっ……あっ、いや……」
「灯はどんな契約をしてるの?」
「まっ、待って……ちょっと待って!」
「灯は今の契約が一番得なの?」
 ……
 そして、その半日が過ぎたその日のお昼少し過ぎ……
「……灯センセ、どうしたの? そんなところに倒れ込んで……?」
 窓際隅っこいつもの席、家庭教師の授業を受けるため、伶奈が顔を出すと、そこにはテーブルの上に突っ伏した灯の姿があった。
 そして、その頭の上には小さな妖精さん。伶奈の姿に気づいたら、彼女の方へと視線を向けて言った。
「翼にスマホの質問攻めに遭ったのはいいけど、大して深く考えずに、惰性で使い続けてきただけのことを根掘り葉掘り聞かれて、知恵熱出しちゃってるのよ」
「……――ってアルトが言ってるけど、そうなの?」
 窓際隅っこ、窓に背を向けるような格好で腰を下ろしながら、伶奈はアルトの言葉を灯に伝えた。
 すると、ぐったりと突っ伏したまま、青年は顔も上げずに応える。
「……だいたい、その通りでいいよ……」
「そっか……それで、翼さん、スマホ、決まったの?」
 伶奈が尋ねると答えたのは頭を上げない灯ではなく、その上でくつろぐ妖精さん。
「それが決まってないのよ。灯がしどろもどろになっちゃって……」
 軽く肩をすくめてみせる妖精に伶奈もため息一つ、そして、彼女は言った。
「……大変だね、灯センセ」

 そして……
「……どうしたんです? 翼さん」
 その頃、キッチンの方では丸椅子に座り込み、翼がぐったりとうなだれていた。
「沢山、聞きすぎて……知恵熱、出た……」
 そんな翼を見下ろし、美月が呟いた。
「…………仲、良いですね…………」

 結局、金曜日に買いに行くという翼の計画は、良夜から――
「端末も通販で買った方が安いよ。俺も通販で買ったし。この辺りで売ってるのは定価売りで割高だから」
 ――と言う情報が美月経由で伝わっておじゃん。
 その話を聞いた灯が、妙に意地になって色々調べた結果、台湾製の余り高級じゃないスマートフォンを比較的安いMVNOで運用するのが翼には一番良いだろうって事になった。
 その通販と回線の開通手続きなんかも灯がやることになった。
 喫茶アルトの事務室、もちろん、ネットに繋がったパソコンの前、ぽちぽちと灯が通販大手が経営しているMVNOキャリアの契約手続きを進めていた。
「っと……ここにクレカの情報を入れて、ここをクリックすれば手続き終了だよ。ここから先は自分でやってね」
 そう言って、彼が席を立てば、翼が、その鉄仮面を崩すことなく、ぽつりと呟いた。
「クレジット……カード……」
「そー言えば、俺、クレカ、まだ作ってないから、どっちにしろキャリアの携帯しか使えないんだなぁ……」
 なんて事を今更呟くと、翼はようやく絞り出すように答えた。
「……私も、持ってない」
「えっ?」
 と、言うわけで、翼のスマホデビューは、クレジットカードの契約を結ぶところから始める羽目になり、もうしばらくの時間が必要になるのだった。

 なお、翼の携帯電話に最初に登録された電話番号は二人の親友でもなければ、同僚兼飲み友達でもなければ、上司でもなく……
「……教えて……」
「えっ? 俺の?」
「……何? 教えたくない、の?」
 なぜか、そう言ってすごまれた灯の電話番号であった。
 設定なんかをして貰った、そのついで……らしい。

 オマケ
「私もスマホ買いたいです!」
 と、美月が言い出したのは翼のスマートフォンが届いた直後、ゴールデンウィークも開けて少し経った五月の末のことだった。
 もちろん、言った相手は彼女の恋人、浅間良夜くん。
 彼女の使ってる携帯電話は良夜と知り合う前から持ってるガラケーって奴なので、頃合いと言えば頃合いだ。
 もっとも、そんなに高性能な物はいらないだろう。どうせ、翼同様に『使わずに部屋に転がしておくだけ』になるのは目に見えてる。
 それに、美月の場合、すでに三千円ほどをキャリアに毎月支払っているから、MVNOにしちゃった方が、確実に安上がり。
 もちろん、美月はしっかりクレジットカードも持ってるから手続きはあっと言う間。
 チャッチャッチャ〜っと手続きを済ませる。
 彼女に買わせたのは、良夜が持ってる物の普及バージョン。良夜の奴に比べると若干の性能が落ちるが、ごりごりゲームをして遊ぶとか言うのでなければ十分な性能は有しているし、どうせ、メールを受ける程度ならこれで十分だろうって判断だ。
 なのは良いのだが、疑問が一つ。
「美月さん……なんで、俺、喫茶アルトの従業員スカイプグループに入ってんの?」
「なんで、入れちゃダメなんですか?」
 心底きょとーんとした顔をして聞き返されれば、良夜の答は一つだけだった。
「あっ……別に……」
「変な良夜さんですねぇ〜」
 にこやかに笑う恋人を見やりて、良夜は思う。
(変なの……俺?)

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