大人(完)

 話、少し戻って灯が喫茶アルトでバイトをし始めたその日のこと。
「私、今日から、平日の夜もアルトでアルバイトなんだよねぇ……」
 放課後の家庭科実習室、伶奈がチマチマと針を進めながらぽつりと呟いた。
 作業の手を止めて、穂香が顔を上げた。
「なんで? そんなにお金ないの?」
 不思議そうな表情で尋ねる穂香の手元には作り始めたばかりのパズル。今回は砂漠のピラミッドらしく、大半が茶色系と青系で大変な事になっている。
「お金はともかく……凪歩お姉ちゃんが階段から落ちて、ねんざしちゃったみたい……ああ、たいしたことはないっぽいよ、骨に異常はないってメールに書いてたし。それで、ランチタイムとか放課後は灯センセが入るんだけど、灯センセ、コンビニのアルバイトもあるから、灯センセが帰った後、ちょっと手伝って欲しいんだって」
 顔も上げずに伶奈は応えた。
 その伶奈の手元、チマチマと木綿の布を縫い合わせる手は止まらずに、規則正しく動き続ける。
 一頃、散々、ハリセンで頭を叩かれたせいか、伶奈のお針子の腕もずいぶんと成長した。眉間に深い皺を刻むことも減ったし、会話をしながらでもまっすぐに針を進められるようになったほど。もっとも、さすがにその速度が集中してやるよりかは遅くなるのは仕方の無いことだろう。
 その伶奈に向けて、穂香が大きめの声を上げた。
「えっ!? まじで?!」
「うん……美月お姉ちゃんに頼まれると、嫌って言えないんだよね……」
「いや、そうじゃなくて!」
 さらに大声を上げる友人に伶奈も作業の手を止め、顔を上げた。
 横に向けた顔の前には、丸椅子の上から腰を浮かせている穂香の姿。
「じゃあ、何?」
 問いかけながら伶奈は自身の顔が怪訝な物へと変わっていくのを実感する。
 そのことに気づいているのか居ないのか……穂香は喜色満面の笑みで言った。
「灯センセがまた黒服着てウェイターしてるの!? 事だよ! ちょー格好いいじゃん!」
 と、穂香が答えれば、それはもう、女子の花園。盛り上がらないはずがない。
「なになに? 灯先生って誰? どこの先生? なんの話?」
 真っ先に食いついてきたのは、こう見えて、割と乙女な和夏子さん。ちなみに普段は『最愛の人はアンソニー(男性型カスタムドールに彼女が付けた名前)』とか嘯いてる事を、伶奈は知っている。
 もちろん、希花だって、凉帆だって、ほったらかしてるわけにはいかない。直接声に出すわけではないが、それぞれにやってた作業を止めて、二人を凝視。このやりとりに耳をそばだてている様子が、丸見えだ。
 対面に座る三人の対して、穂香はパン! と作業テーブルに両手を突いて、浮かした腰を完全に立たせながら、声を上げた。。
「あのね、あのね、伶奈チの家庭教師の先生がすっっっっっっっっっっっっっっごく、格好いいの! この前、伶奈チの家に遊びに行ったとき、話をしたけど、優しいし、格好いいんだよ! 筋肉質で背はちょー高いし! 大人の男! って感じ!!」
 穂香はそう言うとスカートのポケットに手を突っ込み、中から二つ折りの携帯電話を取りだした。
 その携帯電話をパカンと開いて操作数秒、目的の物が見つかったのか、穂香はテーブルの真ん中へと携帯を突き出す。
 その携帯を一同が覗き込めば、そこに映っているのはまじめくさった表情で言葉を交わしているのであろう二人の青年の姿。
 灯と俊一だ。
 彼らの背景にはまぶしい冬の日差しが差し込む大きな窓。その向こう側に見えてる山はすっかり葉を落として冬景色。
 どうやら、去年のクリスマス特別営業の時の写真のようだ。
 その開かれた携帯電話をのぞき見、少女達、特に二人を知らない上級生三人が大きな声を上げた。
「「「おぉ〜〜〜〜」」」
 声を上げる上級生に自身の携帯電話を見せてた穂香も言葉を続ける。
「……でも、花見の時に切り株に座って寝てたのは減点かなぁ〜?」
「いやいやいや、東雲、解ってないな! 格好いいお兄さんがちょっと気を抜いてるのが萌えなんだよ? 東雲はまだまだ、幼い!」
 びしっ! と和夏子が穂香の顔を指させば、その手をぎゅっ! と両手で包み込み、穂香は首を縦に何度も振ってみせる。
 そして、彼女は大きめの声で言った。
「目から鱗が落ちました! せんぱい!」
「東雲!」
 騒いでる和夏子と穂香の姿をチラリと見やり、伶奈も心の中だけで小さく『なるほど……』と呟いた……事は、トップシークレットだ。
「……何言ってんの? 和夏子。それより……西部さん、その人、彼女、居るの?」
 そして、希花に話を振られれば、伶奈はほとんど反射的に答えた。
「えっ? 多分……居ない、と思う……バレンタイン、義理チョコの押し売りしか貰ってないって、ぼやいてたし……」
 伶奈がバレンタインデーの時のことを思い出しながら答えると、少女達はぐっ! とコブシを固く握りしめた。
 そんな様子に、まずいことを言っちゃったか……と、後悔しても後の祭り。
「今度、西部さんのお店に見に行こうか?」
 と、嬉しそうに言ってるのが和夏子。
「ちょっときわどい服着てね、短めのスカートとか、ニーソとか!」
 と、言うのが希花。
「胸元もちょっと開けちゃおうか?」
 そして、凉帆。
「おつりを貰うときに手を握っちゃおう!」
 と、言ってるのが穂香で――
「……手くらい、言えば握らせて貰えると思うけど……」
 って言ったのが伶奈で、その伶奈に穂香がびしっ! と指をさして言う。
「違うの! 手を握らせて貰うんじゃなくて、手を握ってアピールするの! さりげなく!」
「「「東雲! 天才!!」」」
 上級生三人が声を揃える。
(……ああ……なるほど……)
 なんて事を伶奈はぼんやりと考える。
「…………おねーちゃん、ちょっと」
「えっ?」
 そして、蓮がお姉ちゃんこと本浦詩羽を連れて席を立った……事に伶奈はもちろん、他の面々も気づくことはなかった。
 それどころか、ますます盛り上がる一方。
「でさでさ、いっそのこと、その後デートに行っちゃおうか!?」
 和夏子が楽しそうに言えば、希花が怒鳴りつけるように尋ねる。
「誰が!?」
「はーい!」
 そして、手を上げたのは割と要領の良い凉帆だ。
「「抜け駆け禁止!!」」
 高等部二人組の見事な唱和。
「あっ、そう言えば、灯センセ、バイク、買ったって伶奈チ、言ってたよね?」
「あっ……うん……格好良かったよ、見せて貰っただけだけど……」
 一方で穂香と伶奈が若干控えめな声で言い合えば、先ほど、見事なユニゾンを決めた和夏子と希花が口々に声を上げる。
「タンデムデートとか格好良すぎ!」
「怖がる振りして抱きついちゃうとか!!」
 盛り上がる少女達。キャッキャッと賑やかに盛り上がる……も、
「良いアイデアね」
 と、誰か言った瞬間、その声に少女達が凍り付く。
「えっ?」
 誰が漏らしたのか解らない声が聞こえた。伶奈本人だったかも知れないし、別の誰かだったのかも知れない。
 そして、その“誰か”が言葉を続ける。
「……続けて? 短いスカートとニーソックス、絶対領域を見せ付けて、胸元開いて、おつり貰う振りして手を握って、バイクの後ろ乗せて貰って、抱きついて……それから? どこに行くのかな? 聞かせてみぃ?」
 頬杖を付いてニコニコ笑っているのは、蓮が座っていた席に座っている瑠依子だ。
 音を立てて少女達の顔から血の気が引く。
 誰もが声を発することが出来ない。
 コツン……コツン……と、丁寧に整えられた少し長めの爪が作業台の上を静かに叩く。
 少女達全員の額に嫌な汗が流れる。
「あっ……あの……せっ、先輩……」
「…………巻き込まれるよ?」
 可愛い後輩と可愛くない友人の声が遠くで聞こえた。
 その二人に何かを言うため、逃げ遅れた少女達が口を開こうとする……よりも早くに、顔は笑ってはいるが目元が全く笑っていない瑠依子が静かに口を開いた。
「今すぐ、ごめんなさいするのが良いか、生活主任に説教喰らって、ゴールデンウィーク、ずーっと、補習を受けるのが良いか、好きな方を選んで良いよ?」
 そう言った瞬間、彼女はすっごく良い笑顔で笑った。とびきりの笑顔、実年齢よりもずっと幼く見える……と言うのに、なぜか、その笑顔に薄ら寒い物を、伶奈は感じた。
 その瑠依子の笑顔を合図に伶奈を含む全員が立ち上がった。
「ちょっと格好いいお兄さんの写真を見てテンションが上がりすぎてました!」
 大きめな、そして、少し芝居がかった口調で宣言したのはドール組のリーダー格である和夏子だ。
「ごめんなさい!」
 続いて、もう一人のリーダー格の希花が大声で最初に謝れば、他のメンツも――
「ごめんなさい!」
 と、見事に唱和し、頭を下げる。
 そして、瑠依子はひょいと穂香の携帯を拾い上げ、そこに表示されている写真を見たら、ひと言言った。
「……ガキじゃん……」
 この後、一人逃げた蓮が四方会二人から突き上げられていたが、そこはそれ――
「蓮はお姉ちゃんを守るためなら、友達すら裏切る……」
 と言いだし、それに対して、伶奈と穂香の二人が……
「おねーちゃんのためならしょうがない」
 と言いだして、事なきを得た。
「えっ?! えっ!? えっ!? えっ!?」
 その間、おねーちゃんこと本浦詩羽がおろおろきょろきょろしていたことは言うまでもなかった。

「……――だって……」
 さて、その日の夜。喫茶アルトの一階、窓際隅っこの席。夕飯を食べた伶奈は机の前に座ってお勉強中……の、休憩中。
 凪歩が未だに歩けない状態で灯はアルトのバイトに掛かりっきり。結果、家庭教師の授業はちょっぴりおざなりで、代わりに宿題が多め。その宿題は凪歩に提出すると、翌日か翌々日には採点と赤ペンによるチェックが入って返って来るってんだから――
「灯センセ……いつ、寝てるんだろうね?」
 ってな物である。
「今日はお昼過ぎから三時間くらい、キッチンの丸椅子の上に座って寝てたわよ」
「灯センセ、使われすぎじゃないの? ブラック喫茶店だよ?」
「ゴールデンウィーク中は居眠りできるくらい暇って事なの。それなのに店に呼んでるのは、その分、給料が発生するから。むしろ、温情だと思って欲しいわ」
「……なんか、ごまかされてる気分……」
 眉をひそめる伶奈にアルトはしれっとした顔で、ひと言言う。
「気のせいよ」
 なお、必要に応じて、翼が叩き起こすということをしていた……って話を聞いて、本当に温情なのか、人手不足なのかの判断を伶奈が付けることは出来なかった。
「でもさ、それだけがんばってるのに“ガキ”扱いってひどくない?」
「あら、私からすれば、大人の男って言うのは、あそこでしれっとした顔でパイプを磨いてる白髪しらがくらいの物よ」
 ひょいとアルトが伶奈の方……ではなく、伶奈の身体をすり抜け、更にその向こう側、カウンター席の一角に向けてストローを指し示す。
 その方向をチラリと一瞥。直接見ることは出来ないが、居るであろう事は想像が付いてしまう老人の顔を思い浮かべながら、少女は言った。
「……おじいちゃんは大人の男じゃなくて、お年寄りじゃん……」
「男はいくつになってもガキって事よ。アレでもがき臭いところが未だにあるんだもの」
 プイッとそっぽを向いたら、トコトコと伶奈が入れて置いてるココアの方へと歩き、そのカップへとストローを差し込んだ。
 そして、一口吸ってひと言言う。
「あっまっ……」
「甘いに決まってんじゃん、ココアだもん」
 ため息交じりに呟き、少女はウェット舌を出して見せてる妖精を一瞥した。
 そして、彼女は言葉を続ける。
「いつまでも“ガキ”ね……人はね、年齢を重ねたからって大人にはなれないのよ」
「……おじさんとかおばさんにはなっちゃうじゃん」
「ガキとオジン、オバン、爺さん、婆さんは併発できることもあるのよ……って、ところで、瑠依子っていくつなの?」
 ちょこんとグラスの縁に妖精が腰を下ろした。
 そして、踵でリズムを取るようにカツンカツン……
 行儀の悪くも可愛らしい仕草を見やり、少女はいくつだっけ……と思い出す。
「確か……入学式の時、社会人二年目って言ってた……と、思う」
「じゃあ、今年は三年目で、留年や浪人をしてなきゃ、二十五になるのね」
「…………それこそ、オバンじゃん、二十五なんて」
 と、ぶすっとした表情で言ったのは、懐いてる灯センセのことを“ガキ”と言われた腹いせ。本気かどうかは……まあ、微妙なところ。
 そんな気持ちを知ってか知らずか……アルトはジーッと伶奈の顔を見上げる。
 その間、五秒ほど……
「……なんだよ?」
「なんでも〜」
 プイッとそっぽを向く妖精さん。
 ちょこんとおでこを突いて、妖精をグラスの縁から追い出し、少女はカップに口を付けた。
 甘くて冷たい液体が口の中へと流れ込む……
 そして……――

『二十五って……オバンなんですね……中学生から見たら……』
 その日の夜、良夜のところに電話を掛けてきた美月が深〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いため息を吐く羽目になることを、少女はまだ知らなかった。
 ちょうど勉強がんばってる伶奈のためにケーキを持ってこようとした矢先……に、この発言を聞いてしまったらしい。

 って、事があったことは伶奈には、直接、伝えられることはなかった。
 が、翌日、アルトが……
「……美月も二十五よ」
 と教えた瞬間、伶奈の顔から血の気が失せたことは言うまでもなかった。

 なお、余談ではあるが……美月が四月十日、春真っ盛りに恋人から薔薇の花束を貰って二十五歳になったのに対し、伶奈的に本命の瑠依子は
「私、誕生日、八月」
 まだ、ギリギリ二十四に踏みとどまっていた。

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