助っ人(完)

 そういう訳で、灯が喫茶アルトで働くようになった。
 時間帯はお昼のランチ時と授業が終わってからラストオーダー直前くらいまで。
 ここまで働いた後で車かバイクを飛ばしてコンビニのバイトに向かう。
 その後、灯の居なくなったフロアの掃除なんかは伶奈が一日千円で受け持つこといなった。
 普段の土曜日は一日拘束されて五千円だが、今日は一時間ちょっとで千円。特じゃん! と、伶奈は一瞬だけ喜んだが、その仕事の中にトイレ掃除が含まれててがっかり。
 しかも、土曜日に比べてトイレはがっつり汚れてる。男子トイレの掃除を女子中学生にさせるなんて、虐待ではないのだろうか? 頭の片隅で考えたりもした。
 仕事だ、お金のためだと割り切ってはいる物の、辛くないと言えば嘘になる。
 しかし、一番きついのは、女子トイレの汚物入れ。
 初日から、なんて言うか、生々しい物のオンパレード。
 もう、これだけで千円欲しいくらい。
 今後、お外で“それ”をやるときは汚さないように気をつけようと心に決める。
 そんな感じで千円以上分の労働をしたつもりで、フロアへと帰ってくれば、窓際隅っこいつもの席でコーヒーをストローでチューチュー吸ってる妖精さん。
 顔を上げたかと思うと、したり顔で彼女はのたまう。
「若いが多いから、そう言う“モノ”も多い――ちょっと……何、私の首を掴んでるのよ?」
 ぷちん……って、最近、とみにキレやすくなった何かが頭の中でキレる音がした。
「……逃げたね……?」
 少女がそう言うと、店内掃除の時には頭の上に居たはずの妖精はしれっとした顔で答える。
「なんで便所掃除に付き合わなきゃ――いたたたたたたたた!!!!」
 喫茶アルトいつもの席で首を捻られてる妖精さんが居た……って事はちょっとした余談。

 さて、それはさておき、二日目火曜日は翼の公休日だ。
「大丈夫?」
 月曜日の夜に翼がそう尋ねた。
「大丈夫くなくても大丈夫なようにしなきゃいけないのが経営者ですよ」
 と、いつもの柔和な笑顔でそう答えたのは喫茶アルト“名義上”店長の和明だ。
 その横で“ほぼ”店長の美月が涙目になって口をパクパク開けたり閉じたりしていた。
 しかし、それ以上、何かを言うことはなかったので、翼さんは見なかったことにした。
 その火曜日は美月の懸念通りと言える物だった、らしい……と、翼は後で聞いた。
 美月本人は翼の居ないキッチンにひきこもり。
 和明もコーヒーを煎れつつ、フロアとキッチンのフォローに回って、久しぶりに置物の名は返上。
 されど、やっぱり、人手が一人少ない中でのランチタイムは普段に比べて割と大変だ。
 慣れない灯は大パニック。
 見ていられなくなった凪歩が痛む足を引きずり手伝い始めたら、前日にはせっかく引き始めていた足首の腫れが、終わる頃には再びぱんぱんになったという体たらく。
 で!
「だから、大丈夫だっつったろう!? 俺!!」
「全然大丈夫じゃなかったし! 吉田さんが居たら、『灯、正座!』から始まる30分コースだったし!!」
「居ない人のこと持ち出すなよ! クソが!」
「姉兼上司のこと、クソ言うたか!? 今!」
 と、翌日、水曜日、そのあさイチ。通勤途上の車の中で姉弟げんかが勃発した。
 その険悪な雰囲気の車内、後部座席にいたのが翼だ。
 家から駅まで、駅からアルトまで、特に後者は今の凪歩には辛い。そこで、灯が母親の軽自動車を運転してアルトまで送ることになっている。それだったら、駅前で翼も拾って来れば良いじゃないか? と、美月が言い出し、凪歩もそれを勧めるものだから、翼も同乗させて貰う事になった。
 今朝から。
 その今朝一発目から、自分が休んでた事を遠因にした姉弟喧嘩が花盛り。さすがの鉄仮面も表情が曇るってなもんだ……が、平然と明後日の方向を見てぼーっとしてたと、後で言われて、若干、傷ついたってのは、余談。
「だからって、足首が腫れるまで走り回ることねーだろう!? バカじゃねーの!? 凪姉!!」
「じゃあ、もう、二度と手伝ってやらん! あんたが倒れても、あんたの屍を踏み越えていってやる!」
「おう!! そうしろよ!!!」
「言われなくても!!」
 二人の怒鳴り声が消え去れば、車内には見事な沈黙のひとときが舞い降りた。
 そして、数分がぴりぴりとした沈黙の中過ぎ去った。
「じゃあ、俺、授業に行くからな!」
「ランチ! 遅れたら、怒るから! 他の人にも迷惑が掛かるんだからねっ!」
「うっせ! 解ってるよ!!!」
 凪歩を店の前に下ろし、車は店の裏。ドバタン! と物凄い音を立ててドアを閉めると、灯は大股で国道を大学方面へと向かって歩き始めた。
 立ち去る背中に怒りの炎が燃えてるような気がした。
 その背中を表面上は鉄仮面のまま、内心は若干怖いと思いながら見送る翼に凪歩の怒鳴り声。
「いこっ! 翼さん!」
 そして、足を引きずり、凪歩は店内へ……
 そんな凪歩を追いかけ、翼も店内へと足を向けた。
 二人仲良く、タイムカードを押したら、なんだかんだで、いざ、お仕事。
(大丈夫なんだろうか?)
 なんて、翼は心配してたのだが……ランチタイムが始まって、再び、灯が店内に顔を出す頃には凪歩も灯に突っかかるような様子はなかったし、灯も凪歩に普段と違う対応をすることはなかった。
 それは、心配してた翼が拍子抜けするほど。
姉弟きょうだい喧嘩なんて、そんな物ですよ」
 軽い調子でそう言ったのは、ここ数日は置物よりかは多少仕事をしている和明だ。
「……そうなの?」
「たわいのないことで喧嘩したり、仲直りしたりするものですからね、家族って」
「ふぅん……」
 家族……と言うものには若干縁遠い翼にはぴんとこない物だ……が、火曜日の惨状を改めて聞くと、まんま、放っておくと言うことも出来ないのが人情だ。
 それから少しの時間……一日の授業も終わって、放課後の学生達がフロアを埋める頃。
「……金曜日……休まない方が、良い?」
 リンゴの皮を剥きながら、翼がぽつり……と、独り言のように尋ねた。
 相手は灯本人ではなく、皿洗いに顔を出した凪歩の方。足はまだまだ全然良くなっていない。しかし、棒立ちで皿を洗うくらいなら、痛みもたいしたことがないらしい。
 その凪歩が、洗い物の手を止めずに答える。
「金曜日、昭和の日で祝日だよ」
 言われて「あっ……」と小さな声を翼は上げた。
「祝日なら灯も無理に来なくてもなんとかなるんじゃないかな……? 後で、美月さんや店長と相談だけど」
「……んっ」
 そんな話をキッチンで凪歩と翼が交わした後に、フロアで四人がご相談。
 翼の公休日は予定通りに取らせることにして、灯の方は本人が来たいって言うなら来て貰って、用事があるというのならば、無理に呼ばなくても良いだろう……と言うことになった。
 で、当人に聞いてみれば、予定もないし、金を稼ぎたいから来ても良い……との事。
 そんな事を決めたのが水曜日。
 黒スーツ姿の灯はラストオーダー直前までばたばたとかけずり回るように働き、そして、次のコンビニでのバイトがあるから……と、母親の軽自動車を飛ばして、国道を駆け抜けていった。
 猛スピードで走り去っていく黒い軽自動車。
 その真っ赤なテールランプを、レジ横の大きな窓からぼんやりと翼が眺めていると、いつの間にやら背後に立っていた美月がぽつりと漏らした。
「……うちのお店って、本当、人手不足だったんですねぇ……」
 大きな窓の外は数少ない外灯くらいの薄暗い国道だ。
 その薄暗い国道の上に明るい店内と美月のにこやかな笑顔が重なり合っていた。
 そこに映った美月の顔を見やりて、翼は答える。
「……増やした分……仕事も増やしたから……ディナーとか……」
「あはは、成長企業なんですよ」
 楽しげに笑う美月の顔を見ていると自他共に認める鉄仮面もその忘れてた動きを思い出すから不思議な物。少しだけ頬を緩めると、翼は控えめな声で言った。
「……人、増やせ」
「……本当、灯くん、コンビニ辞めてくれると良いんですけどねぇ……」
 ため息交じりに呟く美月の顔を、薄暗い窓ガラスを鏡代わりに見やりて、翼は心の中で呟いた。
(……りょーやんはなんでこの女性ひとと付き合ってるんだろう?)
 その背後では汚物の入ったゴミ袋を、猛烈に嫌そうな顔をして摘まんでいる伶奈の姿見えていた。
 そんな感じで三日目も終了。
 そして、四日目、木曜日朝。
 後部座席に座っていたときには気づかなかったが、喫茶アルトの裏口に車を止めて、その運転席から降りてきた灯の顔が、なんというか、ひと言でいって――
 ――死んでた。
 顔色がどす黒いというか、目元がくぼんでいるというか……死相が浮かんでる感じ。姿勢も、どこか猫背だ。普段は背筋の伸びたりりしい歩き方をしている青年だというのに、今日はその面影もない。
「……どうしたの?」
 反射的に翼が尋ねると、大きなあくびをかみ殺しながら、灯は答えた。
「…………実習のプログラム組んでたら、何度やっても、コンパイルが通らなくて、明るくなるまで悩んでた……」
「………………そう」
 コンパイル……の言葉の意味はよく解らないが、要するに“大変だった”って事なんだろう、多分……と、翼は理解した。
「……大丈夫?」
「ああ……授業、出ないと……」
 不機嫌ながらも元気に走り去っていった昨日が嘘のよう。肩を落として、とぼとぼと彼は大学へと向かう。
「どーも、寝てないっぽいんだよねぇ……」
 背後で聞こえた声に顔を見せれば、若干、心配そうな顔の凪歩がいた。
「……大丈夫なの?」
「まあ……大丈夫くなくてもね、こればっかりは変わってやれないし。今日はコンビニの方が休みらしいから、ゆっくり、休ませるよ」
「……んっ」
 案の定……と言うべきか、ランチタイムに出勤してきた灯ではあったが、全体的にその動きは精彩を欠いた。
 そんな灯をフォローするため、本日の灯の頭にはアルトが乗っかっているらしい。もちろん、灯にアルトの言葉は聞こえないが、それでも間違えそうになった時には髪を引っ張る! と言う荒々しい方法で決定的なミス――例えば、注文の間違いとかを防ぐという方法がとられていた。
 それが功を奏したのかどうなのかは解らないが、大きなミスらしいミスを灯が起こすことはなかった。
 この日のランチタイム終了までは。
 一日の授業が終わった放課後、そろそろ、夕方と呼ばれるような時間帯。
「あっ……!」
 ぱんっ!
 足下に落ちたグラスがコンクリート打ちっ放しの床に弾けて砕ける。
 落としたのはもちろん、土色の顔をした灯だ。
 どうやら、トレイの上に置こうとしたときに手を滑らせてしまったらしい。
「……すいません」
 誰に謝ってるのかは知らないけど、ぽつりと漏らして、彼はくるりと背を向けた。おそらくは事務所にある掃除道具を取りに行くつもりなのだろう。
 そんな様子を、灯から少し離れたところで、翼は見ていた。
 キッチンの隅っこ、入り口から見て対角線上の当たる辺り、そこは生食調理スペースと呼ばれる辺りだ。デザートとかパフェとか、サラダとか火を通さない食材を扱うスペース。
 そこでパフェを作っていた手を止め、彼女は顔を上げた。
「灯!」
 声が小さい……と言われる彼女にしてはちょいと大きめ。
「あっ、ハイ……」
 振り向く顔色はやっぱり余り良くなくて、ひどく辛そうだ。
 その顔を一瞥、完成したパフェを右手に、彼女は言った。
「……少し、休め……もう、伶奈も帰ってくるから……チーフには、私が……言っておく……」
「あっ、でも……伶奈ちゃんも色々忙しいし……」
「……うるさい。黙れ」
 翼が呟いた瞬間、びくんっ! と彼は身体を振るわせた。よっぽど怖かったのだろうか? ちょっと傷つく。
 そんな翼の内心を置き去りに、灯は答えた。
「あっ……ハイ……」
「んっ……」
 コクン……と、軽く頷いたら、翼は壁際に置かれてあった小さな丸椅子を一つ、ひょいと取り上げた。そして、それを土間の上に置き直したら、彼女は、再び、口を開く。
「……座って……目を閉じてるだけでも……違うから……」
「……良いんすか?」
「……グラス、割るよりか、良い……」
 灯にそう言うと、翼は彼に背を向け、キッチンを後にした。
 カウンターには美月と和明の二人の姿。凪歩はレジのところで事務仕事をしているようだ。
「……チーフ……灯、しんどそうだったから……休ませた……伶奈、帰ってきたら、手伝わせよう……あと、チョコレートパフェ……」
 コトン……とカウンターの上に持って来たパフェを置けば、それを美月は改めて、トレイの上へ……乗せながら、翼の顔を見て、口を開いた。
「ああ……ちょうど、今、その話をしてたんですよ〜伶奈ちゃんに手伝わせるかどうかは、店内の様子を見ながら……と言うことで……キッチン、大丈夫ですか?」
「……今は大丈夫……」
「はい。では、よろしくです」
 ぺこっと頭を下げて美月が完成したパフェを女子大生グループが占領するテーブル席へと運ぶのを見送り、翼もその場を後にする。
 向かうのは、事務室兼用の倉庫だ。
 大きめのロッカーに箒とちりとり。
 さすがに始末書までは書いてやる義理はないから、後で灯本人にかかせることにして、キッチンへと彼女は戻った。
「スー……スー……」
 入り口横の部屋の隅っこ、角のところに丸椅子を置き、その角に身体を押し込むようにして眠る灯の姿があった。
 気持ちよさそうに眠る灯の顔を伸ばせば手が届くほどの距離で見つめる。そう言えば、知り合って、丸一年と半分くらい過ぎたのか……と、妙に感慨深い物を感じた。
 知り合ったときには、野球部を引退した直後くらいで、頭は坊主頭。まだまだ、少年と呼んでも良いくらいに幼さを残していたものだ。
 しかし、今、腕組みをして気持ちよさそうに寝ている姿は立派な大人の男。
 少し、格好良くなった……ような気がする。
「…………」
 延びた髪の上から少しだけ頭を撫でる。
 そして、彼女は小さな、ごくごく、小さな声で呟いた。
「……お疲れ様」
「……うん……」
 寝言なのか、うなり声なのか……もしかしたら、ただの寝息がそう聞こえただけなのかも知れない。
 しかし、翼は少しだけ頬を緩めた。
 鉄仮面らしいほんの少し口角を上げて、ほんの少しまなじりを緩めただけの、微かな笑み……
 でも……――
「あら……鉄仮面、返上かしらね?」
 ただ一人、灯の肩口に座って、その笑顔を見上げていた妖精がそう呟く程度には魅力的な物であったらしい。

 そして、灯はほぼなし崩しに、と言うか、三人娘に説得される感じで、喫茶アルトでのアルバイトを継続することになった。
 なお、この時、美月は
「バイト、続けてくれないと、また、私たちが困ることがあるかも知れないんですよ? 知ってますか?」
 と、言って詰め寄った。
 凪歩は
「凪姉を助けると思って! マジ、お願い!」
 と、言ってペチン! と拝み倒した。
 そして、翼は……
「…………続けてくれると、嬉しい……少し」
 と、明後日の方向を向いたままで、ぽつり……と漏らしただけだった。
 

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