助っ人(2)

「……灯を呼ぼう……」
 翼にそう言われた灯ではあったが、実際に呼ばれる事はなかった。
 そういうのも、そもそも、喫茶アルトに灯の携帯番号を知る者が誰も居ない。凪歩の携帯電話の番号ならば、当然、把握しているが、凪歩は凪歩で診察中なのか、電話に出ない。実家の方に……とも思ったが、そこでいきなり『灯くんの電話番号を……』と聞くのもはばかられる。
 後で……
「……私、知ってたのに……」
 と、伶奈が言うことになるが、伶奈はその場にいなかったし、彼女に電話を掛けて尋ねるってところまで、誰も思い至らなかった。
 そういう訳で、『呼ばれることはなかった』が――
「えっ?」
 あの急坂を自転車を漕いで上がるのはもちろん、歩いて上がるのも困難な姉を母の軽自動車で送ってきたところを、灯は翼と美月に捕縛された。
「お話は聞きました。誰のせいで凪歩さんが怪我をしたか、ご自分でもよく解ってますよね?」
「………………責任、取れ」
 喫茶アルトの片隅、壁とカウンターが作るコーナー部分に追い詰められて、二人の女性から迫られる。
 男性にしてみればちょっと嬉しいシチュエーションではあるが、相手が美月と翼ではちょっと微妙だ。
 片方は社会人の恋人がいる事で有名だし、灯自身、その恋人とも何回もあったことがある。しかも、彼女は講師達はもちろん、学長にまで可愛がられている女性で、高校時代には余計なちょっかいを出した奴が地球の裏側に就職して、未だに帰ってきてないという噂まで、聞いたことがある。そう言う女性に詰め寄られれば、嬉しいよりも『怖い』か『迷惑』が先に立つのもしょうがないだろう。
 そして、もう一人は――
(翼ちゃんだもんな……)
「……何? 灯」
 いつの間にか、呼び捨てで呼ぶようになってる女性にじろりと睨み付けられ、青年はふるふると首を左右に振った。
「……いえ、なんでもありません」
「……そう」
 小さく頷くと、翼はずいっと一歩を踏み出した。
 同時に一歩下がったのが美月の方。
 そして、翼の冷たい手が灯の手を握りしめる。
 無表情ではあるが澄んだ瞳が灯の顔を見上げた。
 少し顔が熱い。
 雨の音がやけに耳につく。
 そして、彼女は静かに言った。
「つべこべ言わずに、働け、すねかじり、が」
 吐き捨てるような感じだった。
「「ちょっ!?」」
 思わず声を上げたのは言われた張本人の灯、そして、斜め後ろで聞いていた美月だ。
 美月は灯と翼の間に割入ったかと思うと、そのまま、ズズッ! と翼を押して、彼女をカウンター側へと追いやった。
 そして、美月は少し大きめの声で翼に言った。
「もうちょっと媚びて下さいってお願いしたじゃないですか!?」
 プイッとそっぽを向いて、翼は答える。
「……面倒い。自分でやれ」
「私は彼氏がいますから、効果が限定的かと……」
 弾む声で美月が言った。灯から見えているのは彼女の後頭部だけ……ではあるのだが、嬉しそうな笑顔が想像できるほどに、彼女の声は嬉しそうに弾んでいた。
 が、返される言葉は冷たい物だった。
「…………けっ」
「けっ! てなんですか!? けっ! って?!」
「……あんな、『良い人』で八割方、説明が付く男性ひと……」
「じゃあ、翼さんも『良い人』で八割方説明が付く男性とお付き合いしたらいいんじゃないんですか?」
 と、美月が言うと、翼は美月の頭を掴んで、クイッ! と少し、場所を動かした。
 美月の長い黒髪で覆われた後ろ頭がコテンと倒れるように動き、その向こう側から翼の鉄仮面が露わになった。
 冷たい視線が灯を捉える。
「………………………………」
 無表情な顔が灯を捉えたまま、動きはしない。
「なっ……なんだよ?」
 沈黙に耐えきれず灯が言えば、翼はやっぱり鉄仮面を動かすことなく、ひと言だけ言った。
「……『良い人』で九割……」
「九割かよ!? 俺だって高校ん時はモテてたんだよ!」
「野球部レギュラーって言う肩書きがね」
「うっ……」
 そう言ったのは、カウンターに座って『名義上』店長の和明と話をしていた凪歩だ。
 病院で言い渡された症状や注意事項を彼に伝えていたらしい。なお、それは『痛みはしばらくしばらく続く。せめて十日くらいは大人しくしてろ』であった。
 その伝達事項も一区切り付いたようだ。老店主はその場を離れてコーヒーを入れる用意をし始めているし、凪歩もこちらに椅子を向けてニコニコと楽しそうに笑っている。
 そして、姉は言葉を続けた。
「現役時代は中二病丸出しで『今はそういう事考えられないから……』で断って、いざ、引退してみたら、同級生女子は受験勉強、後輩女子は代替わりした後輩イレギュラーになびいて、結局、誰も残らなかったんだよねぇ……でもね、灯、それでも凪姉はいつまでも灯を自慢の弟だと思ってるよ! たとえ、大学では『いつも眠そうにしてる二四研の三馬鹿』とか呼ばれてても!」
 概ね正しい分析が心に痛い。
 その痛みに耐えながら、彼は声を荒らげた。
「眠そうにしてたのは親父が夜中のバイトをぽんぽん入れてくるからだ! いくつも掛け持ちしたから、俺、確定申告必要だったんだぞ!? 去年の年末!」
 大声を上げる弟に姉はクスッと軽く笑って言葉を続けた。
「じゃあ、たまには姉の入れる昼間のバイトもやっとけ」
 それに灯は一瞬言葉を失い、そして、黙り込んだ。
 誰もが彼の次の言葉を待って居るであろう事が解る沈黙が数秒……静かに雨音だけが響く時間が続いた後に、青年は答えた。
「……解った」
 そして、隣では美月と翼が話し合っていた。
「うすうす思ってたんですけど……灯くん、シスコン?」
 頭と頭をくっつけるほどにひっ付き合い、そして、声をひそめてのひそひそ話。自分の事が話題に上ってることに、灯は一瞬だけ眉をひそめた。
 しかし、それはホンの一瞬だけ。
「……チーフの彼氏も……」
 すぐに話題は別の姉弟へと映れば、一安心。
「むしろ、あそこはお姉さんがブラコン……」
 ずいっと美月が更に一歩を踏み出せば、翼の額と美月の額がごっつんこ。
「えっ? そうなん?」
 凪歩までもがそれに食らい付くと、一気に話は盛り上がる。
「それを良夜さんが気づいてないというか、お姉さんが好きな子にちょっかい出して喜んでる小学生的な感じというか、それを良夜さんが本気で嫌がってるというか……端で見てると割とバレバレな感じが微笑ましくって……」
「ああ……そういうのあるよねぇ〜」
「私、一人っ子ですから、あー言うのがちょっと憧れるんですよね〜」
「ああ、でも、うちの弟、割と私に辛辣だよ、外面がいいから、外で言わないだけで」
「………………そう」
 再び、自身の所に戻ってきそうな雰囲気に嫌な物を感じつつ、灯は一人、コーヒーを入れていた老紳士に声をかけた。
「えっと……ひとまず、俺、どうしましょ?」
「コーヒーでも飲んでいきます? ひとコマ目はもう間に合いませんし。入って貰うのはお昼休みだけで大丈夫かと……」
 老店主がにこやかにそう言うと、灯は凪歩の隣のストゥールに手をかけ……そして、そこに座るのを止めて、一つ、開けたところに腰を下ろした。
 ギシッ……と軋むストゥール。
「あっ!」
 と、美月が声を上げた。
「出来ればぁ〜〜」
 そして、十五分後、灯は自宅に帰って……――
「……灯、何してるの?」
「……俺の礼服、どこ行った?」
 専業主婦の母に見守れながら、彼は何処かに片付け混まれているであろう、クリスマスイブに着ていた礼服を自宅で捜していた。

 さて、伶奈が帰ってきたとき、灯は相変わらず、黒服、ネクタイ姿で喫茶アルトのウェイターをやっていた。
「……灯センセ、本当にアルトでバイトしてるんだ……」
「あっ、お帰り。メール読んだ?」
 思わず呟いてみたら、応えたのは女子大生相手に注文を取ってる灯本人ではなく、レジの丸椅子に座って事務仕事をしている凪歩の姿だった。
 ここで彼女がやってるのはレジ打ちだけではないようだ。
 レジの内側には持ち込まれている小さな台。どこに置いてあったのかは知らないが、膝よりも少し高いくらいの丸い台が置かれている。その上には分厚い伝票束が二つと帳簿が一冊、それから、ペンとか糊とかと言った文房具色々。
 どうやら、伝票の整理とか帳簿漬けの一部と言った、本来なら美月がやるべき仕事を肩代わりしているようだ。
 それをレジの外から覗き込んだら、伶奈はその手を止めた凪歩に答えた。
「うん……メルマガも放課後に読んだよ」
「ああ、そっちも読んだんだ?」
「うん……」
 小さく頷くと、伶奈はクスッと小さく笑った。
 そういうのも『なぎぽん怪我により弟君登場。クリスマスイブにも話題になったイケメンがまた来てくれました!』みたいなこと書いたメールマガジンに、スーツ姿の灯の写真が添付されていたのだ。それが物凄く嫌そうなんだけど、やっぱり、ピッとスーツを着こなしてて、格好いいのだ。
 だから……
「穂香がテンション上げてて、土曜日に見に来るって……」
「あはは、土曜日は休みだよ……てか、土曜日も働くなら、伶奈ちゃんの椅子がなくなっちゃうよ?」
 椅子に座ったままの凪歩がそう言うと、伶奈も思わず大きめの声を上げた。
「あっ! それ、困る……」
「灯も土日くらいは時間を取らせないと、本格的に勉強する暇がなくなるしね」
 凪歩が肩をすくめてそう言うと、伶奈も一安心。薄い胸をなで下ろすようにひと息を吐いたら、また、言葉を続けた。
「ほっ……良かった……それで、ずっと働くの?」
「そうしてくれると助かるんだけどねぇ……コンビニもあるし、ひとまず、ゴールデンウィーク前くらいまで。私の足首の様子を見ながら……それで、しばらく、夜、大丈夫?」
 凪歩が申し訳なさそうに尋ねると、伶奈はコクンともう一度頭を縦に振った。
 メールマガジンと前後するように凪歩からも夜のバイトを手伝ってくれないか? って言う内容のメールが届いてた。
 灯にはコンビニのバイトがあるので喫茶アルトの閉店時間までは働けない。かと言って、掃除なんかを足首がぱんぱんに腫れてる凪歩にやらせるわけにもいかない。そこで伶奈に白羽の矢が立ったというわけだ。
「歩けないなら帰れって……言われないのは助かるよ。行きは灯が送ってくれるし、夜は美月さんが駅まで送ってくれるし」
「そうなの?」
「うん。んで、うちの方の駅にはお母さんが来てくれるって。送り迎え付きだよ? エグゼクティブだよ、エグゼクティブ」
「あはは」
 凪歩が冗談めかした言葉を笑顔で言うと、伶奈も少し大きめの声で笑った。
 喫茶アルトの入り口付近……外から聞こえる雨音をよりも大きめの笑い声が響いていた。
「お帰り、伶奈」
 そして、トン……と伶奈の頭に着地を決める妖精さん。
 彼女はひょいと伶奈の顔を覗き込むと、屈託のない笑みを浮かべて、言葉を紡ぐ。
「まあ、灯一人にランチタイムは任かせられないわよ。凪歩がレジを受け持ってなんとか……ってところだもの」
「……――だって、アルトが今来て、言ってる」
「そりゃ、今日来て、今日、いきなり、あのランチタイムを一人で回せたら、私、辞表書くよ〜」
「あはは。それじゃ、私、いつもの席で勉強してるね。今日、家庭教師……――あっ?」
 言葉途中で伶奈の笑い顔が凍り付いた。
「あっ!」
 そして、凪歩も凍り付く。
 二年生になってからは、月水金が家庭教師で、本日は月曜日……って事、忘れていたわけではない。むしろ、良く、覚えていた。電車の中でも『予習しなきゃ……』なんて事を考えてたほど。
 ただ、家庭教師の灯センセとあそこでバイトしている時任灯くんとが、なぜか、結びついていなかっただけだ。
 それは、同じく凍り付いてる凪歩も同様だったらしい。
 そのことを思い出した凪歩は、反射的に立ち上がり――
「まずっ、あかりっ! ぎゃっ!?」
 ――痛みに悲鳴を上げた。
「だっ、大丈夫?!」
「だっ、大丈夫……ともかく、灯と相談してきて……勉強、やんなきゃ……」
 苦痛にうめく凪歩に後ろ髪を引かれる思い成れど、伶奈はトコトコと大きなウォーターピッチャーを軽々と持ってうろうろしている青年へと声をかけた。
 そして、その青年もひと言だけ言った。
「あっ……!」
 こちらはパーフェクトに忘れていたらしい。

 で……
「とっ、とりあえず、問題集のここからここまで……」
 灯の筋肉質な、節くれ立った指先が問題集のページを指示する。それは学校ではちょっとまだ習ってない範囲ではあるが、先週少しだけ触りを教えて貰った部分。あやふやなところもあるが、全く解らないことはないと言った程度の到達度だ。
「だから、連立法的式を解くときの解法はいくつもあって、ここらのは二つを縦に並べて、両辺を縦に足すか引くかすれば、xかyどちらかが消えるよって話したの、覚えてる?」
「うっ、うん……なんとなく……」
「解らないことがあったら……えっと……」
 言いよどむ青年に対して、遠くから、女子大生の声が響く。
「あっかりく〜ん、ケーキの追加、お・ね・が・い♪!」
「あっ、はーい!」
「ごるぁ! 灯! 女の相手してんじゃねーよ!! こっち、カルボだって!」
「うっせぇよ! 和田!」
 こうして、灯はウェイターと家庭教師を掛け持ちする羽目になった。
「……ありゃ、面白がってるわね……」
 頭の上でアルトが呟いた。
 あっちゃこっちゃから上がる黄色い声と野太い声……それを聞きながらのお勉強は吹き出しそうで大変かも……なんて事が頭をよぎる。
 そして、その場を後にする青年が振り向きざまにひと言言った。
「解らないことがあったら、隙を見て、声をかけて! ホント! ごめん!!」
 なお、おかげで売り上げはずいぶんと良かったらしい。
「でも、勉強は落ち着かなかったなぁ……」
 なんて……一人、真面目にお勉強していた伶奈は呟いた。
 

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