助っ人(1)

 伶奈がバイトを始めるまで、喫茶アルトの人手不足は極まっていた。それは、経営者側の二人、美月と和明がほぼ無休で働きずくめてようやく店内の必要な人手が揃うという状況だった。
 それが伶奈に週一で働いて貰って、どうにか、美月が週に一回の休みが取れるようになった。
 なお、和明は――
「休むとボケるので」
 ――とか嘯いて、毎日、カウンターの中で置物とコーヒー煎れ係をやってる。
 そういう訳で、『極まった人手不足』は一応収束していた。
 が、あくまでも収束してたのは『極まった人手不足』であって、『人手不足』自体は相変わらず続いていた。
 それは、卒業する貴美が
「……いい加減、人、雇いなよ……」
 なんて言う置き土産をして行ったほど。
 しかし、この人手不足の最大の原因は吉田貴美その人である。

 「どいて! どいて! どいてぇぇ!!」
 お昼休みの廊下に響く叫び声。三段飛ばしで階段を駆け下り、一気に駐輪場へ。そこに止めてある二研廃人仕様のアドレスV125にまたがったら、誰かを跳ね飛ばさない勢いで国道に飛び出し、アルトに出勤。一分の隙もなくランチタイムの地獄の忙しさを仕切ったら、まかないのパスタを掻き込み、やっぱり二研廃人仕様のアドレスV125で大学に戻り、授業を受ける。
 喫茶アルト経営陣の名誉のために言っておくと、誰もここまでやれとは言ってない。
 たんに吉田貴美という女が――
「忙しく働いてる私超格好いい! 店の売り上げが上がってるの見るだけでわくわくする!」
 ――とか思う社畜思考な人だっただけに過ぎない。
 なお、これで学年トップクラスの成績を誇ってたんだから、もう、何が何だか解らない……とは、その傍で彼女の事をずっと見ていた恋人、高見直樹君のお言葉。

 そんな働き方を見せてたおかげで、喫茶アルトが大学生向けにアルバイトを募集しても……
「あの働きっぷりの代わりは務まらない」
 と、誰もが忌避するようになっていた。
 それは、何も知らないはずの新入生にまで話が及んでんだから、恐ろしい。
 結果、バイトのなり手は見つからず、ギリギリの人数で店を回す羽目になっている。
 本来ならば、何処かの派遣会社にでも頼んで人を呼んで貰うべき所なのだが、ギリギリではあるが、ギリギリでも回っているからいいか……と言う甘えをもって、喫茶アルト『ほぼ』店長さん三島美月は見て見ぬ振りをしていた。
 しかし、ギリギリはギリギリだ。
 速度超過の自動車がいつかは事故を起こすように、オーバークロックされたCPUがいつかは焼き切れるように、ギリギリは何処かで破綻する。
 悲劇は四月中旬とある週末に発生した。
 彼――時任灯はこの土日を友人のジェリドこと勝岡悠介の家で過ごした。
 コンビニでのバイトを終わらせた後、実家の前を素通りして、遊びに行くんだから、彼もなかなかの物だ。
 彼が訪れた祐介の部屋には、いつも溜まっている三馬鹿以外に数人の二四研部員達。おっぱじめられるのは、麻雀&ゲーム大会with酒。
 ゲームのボリュームは絞り気味、麻雀だって麻雀牌ではなく、カード式の物。中学生と看護婦さんというお隣さんへの対応もばっちりだ。
 もっとも、そのお隣さんはお母さんが宿直で、娘は親戚の家に泊まってて、部屋はもぬけのからだったわけだが……
 そんな感じの麻雀大会、もちろん、他の連中は酒も飲んでたが下戸の灯は一滴も飲まずじまい。
 最近買ったばかりのバイクに乗って、彼は自宅へと帰ってきたのが、お昼少し過ぎと言った時間帯だった。
「お帰り。あっ、階段の所に洗濯物を詰んでるから、適当に持って上がりなさいよ」
 帰ってきた彼をそう言って出迎えたのは、彼の母親。眼鏡こそかけていないが、凪歩によく似た面立ちの女性。凪歩似だから、割と美人……と言うのが灯の友人達の評価。
「へーい」
 適当に返事を返して、彼は大量の洗濯物を抱えて二階の自室へと向かった。
 彼の家では洗濯物こそは母親がやるが、自室に持っていき、クローゼットに片付けるのは各々個々人って事になっていた。
 まあ、凪歩はいつまでもほったらかしてて、見かねた母親が片付けるのが早いか? 彼女の部屋にある着替え(特に下着)がなくなるのが早いか? のチキンレースになってたりもする……ってのは、ちょっとした余談。
 真面目な灯が一抱えもある大量の洗濯物をもって二階に上がる。
 一番上に乗ってるのは彼のトランクスだ。
 ダークブルーの奴。
 洗ったばかり、自分の物……とは言え、顔の前にトランクスが来るってのは結構嫌。
 なんとか、鼻先から外そう……と、身体から洗濯物の山を離してみたり、ちょっと傾けてみたり……と、色々試してみてたら、ぱらり……と、階段の中央付近で、そのトランクスが落ちてしまった。
 もっけの幸いという奴だろうか? 鼻先からトランクスは居なくなり、代わりに白いTシャツ。落ちた奴は後で取りに来れば良い。どうせ、部屋から階段まではの距離はたかが知れている。
 なんて考えながら、残りの階段を駆け上がって自室の前へ。
 軽いとは言え、大量の洗濯物を抱えたままでレバー式のドアノブを開くのは結構難しいか?
「よっ……おっ……」
 下ろせばいいのかも知れないが、ここまで来たらやりきるのがおとこという物……と思ってやっていたら、ふわっと香ってくる甘い香り。
 直後にニュッと背後から腕が伸びて、ガチャリ……と、ドアが開いた。
「あっ……」
 反射的に振り向いてみれば、白いズボンにデニムのシャツ姿のポニテ眼鏡――姉の凪歩が立っていた。
「……お帰り、また、朝帰り越して、昼帰り? いい加減にしなよ……」
 眉をひそめて、姉はそう言った。
 隠すことない不機嫌な声ではあるが、ヒステリーを起こしてるほどでもなさげな感じ。多少は灯の外泊を許すようになったのは、彼女が、同僚兼飲み友達の寺谷翼を家に呼んで遅くまでの宅飲みをやるって事を覚えたからだ。外泊させて貰えないなら、外泊させればいいって寸法。
 まあ、隣の部屋から翼ちゃんの歌い声が聞こえてくるのは、結構、辛い物があるが……
 その姉貴にドアを開いて貰ったら、青年は若干面倒くさそうな口調で答える。
「解ってるよ……っと……さんきゅー」
 軽く答えて自室の中へ。
 入る背中に、声がかけられる。
「後、コンビニに買い物に行くけど、なんか、いる?」
「……肉まん」
「今期、最後かなぁ……? 私も食べたいな……あるかなぁ……」
「なければ、ピザまんでもカレーまんでも」
「あんまんだったら?」
「あんまんはパス」
「カスタードクリームまんは?」
「ふざけんな」
 立ち話的に二言三言、弟と言葉を交わすと、姉はすぐにその場を後にした。
 そして、青年も自室に入ると、クローゼットの前へ……ようやく、荷物を下ろしたら、ホッと一息……吐いたまさにその時のことだった
 どんっ! どっどっどっどっどっ!!! どすん!!!
「えっ?」
 破滅の音が聞こえて、慌てて、灯は部屋を飛び出した。
 直後! 聞こえる、鋭い怒声。
「こんな所にパンツ、落としたの誰!? お父さん!? それとも灯!!??」
 灯が答えるよりも先に二階最奥、父親の書斎(と言う名のゲーム部屋)から野太い声が響く。
「俺は知らんぞ!!!」
 そのやりとりを聞きながら、パタパタと廊下を進み、階段へ。
 そして、階段の下を覗き込めば、トランスを握りしめてひっくり返っている凪歩の姿。あられもなく開けっぴろげられた脚は、今日の着衣がズボンで良かったねと思わせた。
 そして、覗き込む灯と目が合えば、彼女はまた大声を上げる。
「灯!! あんたか!!??」
 もはや、言い逃れは不可能……青年はコクンと小さく頷き、そして、言うほかなかった。
「ごっ、ごめん……」

 さて、悲劇はこれで終わる物ではなかった。
「覚えてろ!」
 捨て台詞を吐いて出て行った凪歩であったが、三十分ほどもした頃に、灯の部屋のドアをノックもせずに、彼女は開いた。
 その手には大きな買い物袋、中から小さな袋を一つ取り出したかと思ったら――
「ほら!」
 そう言って、その小袋をパソコンデスクの前に座ってレポートを作っていた灯にぶつけて、消え去っていった。
 後頭部に当たって潰れた小袋、その中身は肉まん。
 足は引きずってるようだし、機嫌も猛烈に悪いみたい。それでもちゃんと頼んでいた肉まんを買ってきた上に、金銭の請求をしない辺り、よく出来た姉だと、弟は思う。
 今期最後の肉まんは、若干潰れててはいたが、非常に美味しかった。
 そして、真なる悲劇が翌日、月曜日にやって来た。
 月曜日の朝、七時。
 普段の灯はこの時間帯には日課のジョギングをやっているのだが、本日は朝からあいにくの雨。現役時代はそれでも合羽を着て走っていたのだが、さすがに引退してからは、雨が降ったらお休み。
 それでも目覚ましは彼をしっかり叩き起こす。
 二度寝することもあるが、今日はなんとなく眠れなかったし、起きるのもまだ億劫だったしで、その早起きした時間を、スマホゲームをプレイすることで、彼は潰していた。
 そんな時間が十五分ほど……お隣の部屋から目覚まし時計のアラームが鳴るのが遠くに聞こえ、そして、消える。
 それから更に十分ほど経てば、再度のアラーム。
 そして、彼の耳をつんざく乙女の悲鳴!
「いっっっっっっっっっっっっっっった!!!!!!!!!!!!」
「……どうした? 凪姉」
 少し大きめの声で尋ねると、壁一枚向こう側から帰ってきたのは先ほど以上に大きな声。
「足首、ぱんぱんになってる! 昨日、こんなんじゃなかったのに!!」
「えっ!?」
 その声に灯はパッと身体を跳ね上げ、ベッドから飛び出した。
 短パンとTシャツ姿、女性の部屋に入る格好ではないが、姉弟だから気にしない。そして、入れば凪歩もだぼっとしたTシャツにホットパンツと比較的あられもない姿……ではあるが、余り気にしない。
 その姿でベッドの端に腰を下ろした彼女は、足を組んで、その右足首をしきりにさすっていた。
「ねんざしてた?」
「昨日もちょっと痛いなぁ……とは思ってた」
 そう言ってあげた顔色は余り良くなく、額には脂汗が滲み出ていた。
 そして、灯は改めて姉の足首に視線を落とした。
 確かにパンパンに腫れ上がって痛々しいそう。心なしか紫色に変色してるみたいだ。野球部で走ったり転んだりしてた経験から言って、結構本格的にくじいていると見て間違いないだろう。痛みが引くまで一週間ではすむまい。
「ごっ、ごめん……」
 思わず言葉がこぼれれば、顔面蒼白の凪歩が答える。
「……私より店だよ……今日、月曜だよ……?」

 さて、そのお店こと喫茶アルト。
 時は凪歩が悲鳴を上げてから一時間ちょっと後くらい。
「はい、喫茶アルトです」
 その電話が掛かってきたとき、店内には『ほぼ』店長三島美月と『名義上』店長三島和明、それから何処かにいるであろう妖精のアルトちゃんの三人しかいなかった。
 月曜日以外なら誰かしら――徹夜明けの研究員や早めに起きた学生なんか、誰かしらモーニングを食べに来ている物だ。しかし、休日明けの日はいない日もちょくちょくある。夜明け前からずっと雨が降っているとなれば、なおさらだ。
 そんなのんびりとした時間帯、レジ横の黒電話を耳に当てると、聞こえてくるのは申し訳なさそうな凪歩の声。
『……――って訳で足首ねんざしちゃって……病院に寄ってから出勤することになるんで、一時間か二時間弱位、遅れると思いますんで……』
「ああ、いいですよ〜了解です。お大事に」
 そう言って美月がレジ横の黒電話を切ると、すでにカウンターの中に入っていた和明が尋ねた。
「どうしたんです?」
「凪歩さん、遅刻するそうです。ねんざしたみたいで……でも、二時間位遅れる程度ですから、ランチには入って貰えるみたいですよ」
 軽い口調で孫が答えると、祖父は未使用のパイプをガーゼのハンカチで拭く手を止めた。
 そして、ニコニコと笑っていた顔を真顔に変えて、彼は尋ねた。
「……仕事、出来るんですか? ねんざしてて……」
「えっ?」
 美月の表情が笑顔のままに凍り付き、さーっと血の気が引く。
「フロアは立ち仕事で歩く仕事ですし……事務仕事をして貰うにしても、そうなるとランチの人手が……」
 心配そうな和明に言われて、ようやく事態に、美月は気がついたようだ。その笑顔が凍り付き、ざーーーーーーっと音を立てて、血の気が引く。
「どっどっどっどっどっどっどっどっどうしましょう!?」
 震える声で彼女がそう言えば、さすがに顔色をなくしたろう店主もうーん……とうなり声を上げ始める。
 昔は美月と和明の二人だけで営業していたのだが、その時は出しているメニューも比較的簡素な物が多かった。作り置きが可能なサンドイッチとか、パスタやピザにしても業務用冷凍食品やチルド食品が割と活躍していた。
 しかし、貴美が来て、翼や凪歩が来て、美月も仕事に慣れるに従い、段々、メニューも拡充してきた。もはや、美月の中では『喫茶アルト』は『喫茶アルトという名前のレストランテ』くらいの自負を持って営業していた。
(………………あっ、いや、レストランテは言い過ぎ。トラットリアくらいで…………いや、いつかはレストランテと呼ばれることを目指してるトラットリアくらい……)
 どうでもいい思考が美月の脳裏を駆け巡るも、現状を変える力は全くない。
 ともかく、今のメニューを作りながら、キッチンとフロアを渡り歩くのは無理だ。
 もはや、こうなれば、手段は二つに一つ。
「良夜さん、呼びましょう!」
「……社会人ですよ……四月から」
「伶奈ちゃん、呼びましょう! 代返すれば大丈夫です!! お友達も沢山いますし!!!」
「…………本当、落ち着いて下さい」
「じゃあ、どうすりゃいいんですくわっ!?」
 半泣きで叫ぶ美月を見やり、老紳士は軽くため息。
「まずはランチのメニューを変えましょう。作り置きが出来る物か冷凍品に……」
 祖父の言葉に孫は半泣きになって大声を上げる。
「今更、冷凍食品なんて出したら、バレますよ!」
「でっ、ですよね……」
 その勢いに老人が若干顔色を無くせば、孫は更にたたみかけた。
「バレなきゃ、むしろ、私、仕事、辞めますよ!?」
「たっ、確かに……」
「プライドという物がですね! かろうじてあるんです! ギリギリのところで!」
 カウンターを挟んであれやこれやと相談というか、美月が一方的に泣き言を言ってる居ると、そこにローテンションな朝の挨拶が静かに響く。
「……おはよ」
 普段よりも少し早めの出社は彼女が一本電車を早い物に乗ってきたことを示していた。雨が降ると制服ではなく私服を着、駅からは徒歩で通勤し、事務所で着替えてから仕事をする……と言うのが彼女、そして、その彼女を真似た凪歩の行動パターンになっていた。
 今日も雨だから、裏口からキッチンを通ってフロアへと顔を出した彼女は、制服ではなく、私服姿。汚れても良いスリムなジーンズと安物ジャンパー、背後には大きめのナップザック、それから右手には濡れた傘。
 そして、その肩を濡らす水滴をハンカチで軽く拭いながら、彼女は尋ねる。
「なぎぽんは?」
「じっ、実は……――」
 と、美月が翼に説明。
 そうすると、翼はぽつりと言った。
「……有給、取る。なぎぽんが治るまで」
「なに、舐めたこと言ってんですくわっ!?」
「……ランチのキッチン、一人は無理……でも、ランチのフロアも、無理」
「無理、じゃないです! キッチンは私がなんとか一人でやりますから、フロア、お願いします!」
 ずいっと目を三角にした美月が翼へと詰め寄れば、翼はずいっと一歩引き下がる。
 そして、彼女は鉄仮面を維持したままではあるが、美月から視線を逸らして、呟く。
「りょーやん、呼ぼう」
「良夜さんはもう社会人です!」
 言って更に美月は一歩を踏み出した。
 言われて更に翼は一歩後退した。
 そして、また、そっぽを向いたまま、彼女は呟く。
「伶奈、呼ぼう。授業は代返……」
「中学生は代返、効きません!!!」
 そっぽを向いていた翼の顔が美月の方へと戻った。
 ジーッと見つめ合う上司と部下。
 そして、部下は言った。
「………………チーフは私に何を望んでるの?」
 そして、上司は答える。
「ふざけるのを止めることです」
(貴女も同じことを言ってましたよ……)
 なんて、和明が思ったのはトップシークレット。
 その間もずっと見つめ合ってる、上司と部下。
 しばしの時が流れた。
 雨はいっそう強くなっているようだ。
 大きな窓に大粒の雨が叩き付けられ、雨音がフロアに響き渡る。
 そして、最後に翼は言った。
「……灯を呼ぼう……」
「それです!!!!!!!!」
 ひときわ大きな声が喫茶アルトのフロアに鳴り響き、そして……
「うるさいわねぇ……」
 溶けた保冷剤のウォーターベッドで未だ惰眠をむさぼっていた妖精を叩き起こした。
 

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