成長、そして、後輩(1)

 さて、新学期、新年度、その初日。
 この日は母も普通に起きて朝から出勤の日。
 伶奈が目を覚ますとすでに母は起き出していて、出勤の準備に取りかかっていた。
 キッチンに置いてある安物のトースターの中では、いつもの六枚切りのパンが焼かれているようだ。芳ばしい小麦の香りがぷ〜んと少女の鼻腔をくすぐる。
 その香に誘われるかのように少女は身体を起こした。
 ベッドの上からのっそりと下りたら、ぐーーーーーーっと背伸び。
 パキパキと鳴る骨が心地良い。
 そして、ぱっぱっとパジャマを脱いでベッドの上へと放り投げたら、先日、貴美と一緒に買ってきたブラを身につける。今日は体育の日じゃないから上下はおそろいじゃなくてもOK。
 それから、糊の効いたブラウスとスカート、エンブレムの入ったジャケット、最後に白いソックス……
 服を着替え終わると、少女は部屋の片隅に置かれている姿見の前へと移動だ。
 その大きな鏡面を覆う木綿の布をひょいと捲り上げる。
 曇り一つ無い鏡が現れると、そこにはいい加減見慣れた制服姿の自分が映っていた。
 その姿を見ながら、スカーフを直して、前髪を整える。
 特に前髪は大事。
 教師には文句を言われたことはないが、なぜか、友人達が毎朝、前髪のチェックをするのだ。奇麗に別れてるときは黙ってる癖に、適当な髪形をしてるときには変と言ってくる。
 特に穂香がうるさい。
 まあ……良かれと思って言ってくれてるのだろうし、何より、寝坊等で時間の無かったときに限って「今日は変」って言うのだから、ぐうの音も出ない。
 今日の所は、まあまあと言ったところだろうか? 変に跳ねてる髪もないし、ほつれ毛もない。
 しっかり決まってることを確認したら、百均で買ったシンプルなヘアピンで前髪を止める。
 後は、スカートとかも……と、右を向いたり左を向いたりと細かくチェックをしていると、飲むヨーグルトをグラスに注いでた母由美子が言った。
「あら……スカートの丈がちょっと短くなってるわね……」
 言われて視線を足下へ向ける。
 入学当時にはほぼ隠れていた膝小僧がずいぶんと顔を出していた。
 そして、少し大きめの声で答える。
「まだ、怒られるほどじゃないよ」
 そう言うと、少女は鏡の前から、キッチンへと向かう。
 両手に乳白色の液体がなみなみと入ったグラスをひとずつ持った母とすれ違いにキッチンへと入った。
 その母がすれ違いざまに言った。
「別にそういう事を言ってるわけじゃないわよ」
 背中にかけられる言葉に首だけを振り向かせてみれば、母はガラステーブルの上にグラスを二つ並べていた。
 そして、彼女はきびすを返して、もう一度、冷蔵庫の前へ……その冷蔵庫を開き、顔も向けずに母は言葉を付け加えた。
「背が伸びたって言ってるのよ。ウェストは大丈夫? ブラウスは?」
 食器棚からお皿を取り出し、芳ばしく矢開けたトーストを二枚、その上に乗せる。そして、少女は答えた。
「ああ……ブラウスは少し前からきついかな……って思ってた。ウェストは前にはあった余裕がちょっと……だいぶん、なくなったくらい」
「小さくなったんなら言いなさいよ。破れる前に」
「……うん」
 そんなやりとりの後に少女と母はガラステーブルの前へ……
 そして、朝食をとる。
 いつものトーストで魚肉ソーセージを巻いた物と飲むヨーグルト。背が伸びたのはこれのおかげ……なのだろうか? もっとも、伸びたと言っても平均値にはまだちょっと足りない程度のはず……って事は、考えると切なくなるので考えない。
「子供はすぐに大きくなるわね……この間まで、制服に着られてたのに。もう、すっかり、一人前の女子中学生づらしてるんだから……」
 トーストをかじりながら母がそう言うと、伶奈は食事の手を止め、尋ねた。
「どんなんだよ? 女子中学生面って……」
 その問いに母はやっぱりトーストをかじりながら、食事の手も止めず、さらりと答える。
「鏡、見ながら、前髪をチェックしてるつらよ」
「……なるほど」
 納得したようなしてないような……
 食事が終わったら、さっさと登校。
 家を出る時間は伶奈も由美子もほぼ同時。
 同時に出ると由美子の方にはずいぶんと余裕が出来てしまうらしいが、階段から駐車場までの時間だけでも一緒に過ごしたいらしい。
 少し、くすぐったい。
 新学期を祝っているような春晴れの空、その下を制服姿の少女とスーツ姿の母がのんびりと歩く。
 そして、母の中古ライトバンが止まる駐車場で母と別れ、少女は自転車にまたがった。
 勾配の強い下り坂を一気に下りる。
 流れゆく景色の中に大学の大きな正門、それをチラリと一瞥。
 未だ大学生は春休みらしく、キャンパスは閑散としてるようだ。
(春休みも夏休みも冬休みも長くて……挙げ句、ゴールデンウィークも中日なかびが休みで……大学生ジェリドっていつ勉強してるんだろう?)
 そんなくだらない事を考えてるうちに駅前に到着。
 数分の余裕をプラットフォームで潰せば、彼女が乗るべき電車が滑り込んでくる。
 乗り込んだ車両にはまだ若干の余裕がある。立ってる客もいくらかは居るが、探せば座る席もあると言った感じだ。
 伶奈はロングシートの空いてる席にするっと座り込む。
 右はサラリーマン風のおじさんで左はOL風の女性。どちらも手元のスマートフォンに視線を落として、なにやら忙しそう。
 伶奈もスマホは持っているが、なんとなく、電車の中では取り出さない。
 流れゆく景色をぼーっと見てるのが好き。
 そんな感じでいくつかの駅が通り過ぎていく。
 駅に止まる度に大量のお客さんががやがやと乗り込んできて、英明最寄り駅に着く頃にはすっかり満員御礼だ。
 もっとも、出身地である関東方面の『満員』に比べるとまだまだマシ。立ってる客も概ね互いに当たらない程度の距離は保てているし、下りるにしても――
「すいません、下ります……ごめんなさい」
 ――なんて事を言いながら、ぐいぐい行けばなんとか下りられる。
(スカートとブレザーはちょっと皺になっちゃうけど……)
 満員電車の中から抜け出し、パンパン……と、乱れたスカートの裾を裾を整えるところまでが毎朝の日課。
「おっはよ〜」
 対面に止まっていた下り列車から下りてきた美紅だ。
「おはよ……良い天気だね」
「そうだね」
 言葉を交わしながら、伶奈が右手、美紅が左手、互いに進行方向を向いたままの軽いハイタッチ。
 ぱんっ! と言う心地よい破裂音が春の高い空へと消えていく。
「クラス替え、どうなるんだろうね?」
 英明へと向かう中高生の中に混じりながら、伶奈は美紅に尋ねた。
 その伶奈の問いかけに美紅は人の流れに乗ったまま、視線だけを伶奈へと向ける。
 そして、彼女は軽く肩をすくめて答えた。
「誰か一人だけ別のクラス……ってのだけは止めて欲しいよね……」
「そうだね……特に美紅は一人だけソフトボール部だし」
「そうなんだよねぇ……誰か一人くらいソフトボール部に……伶奈ちゃん、来ない?」
 冗談めかした口調と屈託のない笑み……ではあるが、そこに若干と言わぬ“本音”の存在を感じ取りながら、少女は肩をすくめて答えた。
「今更だよ……それに私、手芸は趣味じゃなくて、アルトの服を作るって言う実利を兼ね始めてるし」
「今、何作ってるの?」
「んっと、新学期になったらもう一着ノースリのワンピースかな……って、先輩と話をしてるよ」
「へぇ……今度はアルトちゃんにあげる前に見せてね? 蓮ちゃんと穂香ちゃんはちょっとだけは見たらしいけど、私は全然見てないんだし」
「あっ、うん……ごめん」
「あはは、謝らなくても」
「あはっ、そうだね」
 笑う美紅に釣られて伶奈も頬を緩める。
 そして、二人はいつしか、駅前からバス停へと移動していた。
 そこには案の定と言うべきだろう、穂香とその穂香の小脇に抱えられた蓮の姿があった。
「おはよ〜」
 穂香が最初に声を上げれば、伶奈と美紅も声を揃えて「おはよう」の挨拶。
 ワンテンポかツーテンポほど遅れて、穂香の小脇の下で蓮がひと言……
「……おはよ」
 と、呟いた。
 顔も上げやしないし、手の一つもあげない。
 普段以上のダレ方。
 休み明けだからだろう。
「それと、昨日、牛が子供を産んで、家中ばたばたしてたんだって」
 そう言いながら、穂香が蓮の身体を小脇から下ろした。
 そして、穂香の両手が顔の高さにまで上がる。
 ぱんっ!
 二つの心地よい破裂音がほぼ同時に響き渡る。
 周りを歩いてる女学生達が振り向くほど。
「イタイって!」
 両手をふりふり、穂香は苦笑い。もちろん、それは他の二人も一緒。美紅は左手、伶奈は右手をふりふり、苦笑い。
 そして、最後の一人、蓮へと少女達は視線を向けた。
 バス停の時刻表にしがみついて、なんとか、崩れ落ちずにいる姿。もう、情けないやら、悲しいやら。しかも、今日の蓮はなぜかメガネだ。
「コンタクトは?」
 伶奈が尋ねた。
「…………始業式で、寝ちゃいそう……だから……」
「……がんばって起きててよ……」
 蓮の答えに美紅ががっかりと肩を落とす。
 そんな伶奈達の顔を眠そうな瞳で見ながら、蓮がふらふらと震える両手を顔の高さまで上げた。その手の震えっぷりは、生まれたての子馬の足のようだ。顔なんて死にそうな感じ。
 その上げられた蓮の両手を、伶奈と美紅がほぼ同時に強く叩く。今度は伶奈が左で美紅が右手。そして、その二人の後に穂香が両手を力一杯、蓮の手に叩き付けた。
 ぱん! ぱん! ぱぱんっ!!
 心地よい音が四発、今まで以上に大きな音で響き渡った。
「……凄く、痛い……」
 眠そうな半開きの瞳とぼんやりとした口調で、蓮はそう言った。
 それに美紅が尋ねる。
「目、冷めた?」
「……永眠、する……かも?」
「人間、手のひらの痛みで永眠はしないよ……」
 美紅の問いに答えた蓮に伶奈が突っ込みを行うも、穂香がぽつりと呟く。
「蓮チなら……」
 それを否定できる材料を伶奈も美紅も、言った張本人、穂香すら、持ち合わせていなかった。

 さて、蓮を引き摺ってって言うか、両側から伶奈と穂香が支えて学校まで。
 クラスメイトや手芸部の知り合いからは――
「あいかわらずね〜」
 なんて、言葉が挨拶代わりに投げかけられる。
 その言葉に顔がかーっと赤くなるが、蓮の身体はもはや軟体動物のようで、骨の存在を感じられないほど。見捨てていけば、それこそ、路肩に座ってぼさーっとし続けかねない。
「また、南風野さんは友達に引き摺って貰って!」
 早速、校門指導の樋口先生の怒声が飛んでくた。
「それと、東雲さんと北原さんも、スカーフはちゃんと締めなさい!」
 と、いつもの定番のお小言が飛んでくると、穂香と美紅は慌てて、緩めに締めていたスカーフを締め直す。
 校門で伶奈が叱られたのは、満員電車でスカートやブラウスが皺だらけになった時くらいか、蓮の抱っこ攻撃に負けて彼女を負ぶって登校してきた時くらいだ。
 が……
「あら?」
 老教諭の視線が伶奈の方へと向いた。
「西部さん、スカート、少し短くなってますね」
「あっ……はい……背が伸びたみたいで……気づいたのが今朝だったから……」
「成長期ですしね……上げ、直して貰いなさい」
「はい」
 そんな話をし、伶奈はぺこりと頭を下げた。
 相手の教諭もそれに納得したらしく、伶奈から別の生徒にそのターゲットを移動させていた。
「そー言えば、伶奈チ、身長伸びたね……追いつかれそう……」
「…………にしちゃん、蓮を置いてかないで…………」
 生徒達でごった返す校門から少し離れたところで、穂香と蓮の二人がそう言った。
 穂香とは十センチ弱程度はあったはずの身長差がほとんど変わらない程度にまで縮まってるし、蓮の方は二センチほど蓮の方が高かったのが、今では逆に伶奈の方がほんの少しだが高い。
 もっとも、伶奈にだって言い分って物がある。
「真ん中より下だから……余り自慢にはならないよ。むしろ、もっと伸びたいなぁ……」
 伶奈がそう言うと少女達の視線がゆっくりと一人の友人の顔へと向いた。
 一人、視線の高い少女――北原美紅が照れ笑いを見せる。
 そして、ほっぺたを軽くかきながら、彼女は口を開いた。
「牛乳を飲んで、毎日、運動すると骨が作られて、身長が伸び――」
 の言葉が途中で固まったのは、それまで美紅の顔というか、頭を見上げていた友人達の視線が一斉にそっぽを向いたからだ。
「こら! 視線を逸らすな!!」
 その言葉に三者三様の方向を見やり、少女達は呟く。
「飲むヨーグルトなら毎日飲んでるんだけどなぁ……」
 って言ったのが伶奈。視線は女性教諭に怒鳴られてる女子高生の先輩へと向けられていた。
「蓮、毎食牛乳飲んでる……産地直送……」
 って言ったのは蓮。視線は少し離れたところに見える体育館へと向いていた。
 そして、穂香は真っ青な空を見上げて、呟いた。
「運動は、したくないなぁ……」
「……こいつらぁ……ホント、怪しげなダイエット商品が売れるのがよく解るよね……」
 そんな友人達を高いところから憮然と見下ろす。そして、彼女は眉をひそめるも、友人達は彼女とは極力視線を合わせないような感じでそそくさとその場を離れる。
 三人が前を歩き、残り一人が呆れ顔で付いていく、普段の四方会にはちょっと無い隊列。
 向かう先は下駄箱の前、そこにはキャスター付きの掲示板。
 張り出されているのはクラス分けの紙。
 それを少女達は並んで見上げる。
 自分の名前はすぐに見つかった。
 しかし、誰も、何も言わない。
 周りでは同じクラスになったことを喜ぶ声、別れたことを悲しむ声、悲喜こもごも。
 そして、その時が来る。
 少女達は互いの顔を順番に見つめ合い、そして、手を上げた。
 ぱん、ぱん、ぱん、ぱん!!
 互いの手を打つ音が、四つ、高い空へと響き渡る。
「「「「こっとしもよっろしく!!」」」」
 二年三組四方会の声が高らかに響いた。

 なお、数日後、クラス担任ではなくなったが、相変わらず、手芸部顧問の瑠依子に話を聞いたところに寄ると……
「四人まとめて管理した方が手っ取り早いってのが三割で、東雲と南風野には北原と西部を付けてないとなんか、色々、面倒くさそうってのが三割、特に南風野は移動教室の度に行き倒れそうだし……そして、何より、四方会はひとところに集めてないと四方会じゃなくなるでしょ?」
 と、どこまで本気なのか冗談なのか解らない、素の表情で言われたとき、もしかして、六年間、ずーっと、四方会は同じクラスなんじゃないのか……? と、伶奈は戦慄した。

 そして、アルトは――
「ああ……真雪が仕切ってた学校ねぇ……」
 ――としみじみ呟いたのだった。

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