出会い―穂香Side―(完)

 今から一年ちょっと前、冬と言うには遅く、春と言うには早い時期。
 その日曜日、午前中。
 東雲穂香の家に一本の電話が掛かってきた。
 昨今は誰も彼も携帯電話やスマートフォン等を持っている時代だから、自宅の固定電話が鳴る事は余り多くない。実際、この電話を誰かが使ってるのを見たのはずいぶんと前のことで、その時もセールスだったはずだ。
 その電話を穂香が取ったのはただの偶然であった。
 その日の穂香はもちろん、お休み。英明学園中等部への合格祝いに買って貰ったゲームを朝からずっとプレイしていた。
 それで、まあ、喉も渇いたし、小腹も空いたし……と思ってキッチンに入って、冷蔵庫の前に立った、まさにその瞬間、電話のベルが鳴り響いた。
 一応、母には出なくても良いと言われている。大概がセールスか、下手すると詐欺電話であることが多い時代だからって言うのがその理由。しかし、それで取らないような少女ではない。
 キッチンの隅に置かれた電話台、番号通知のディスプレイもろくに確認せぬまま、少女はひょいと受話器を取り上げた。
「はい、東雲です」
『こちら、よしか――いえ、高槻といいます。郁恵さんはご在宅でしょうか?』
「おばあちゃん? 居ますよ」
 確認もせずに答えると、少女は保留ボタンを押し、受話器を本体の上へと置いた。
 そして、振り向けば、すでに祖母は居間からキッチンへと顔を出していた。
「取ったの? 誰から?」
「んっと……高槻さん、って女の人。おばあちゃんに」
「明菜から? 珍しい……何年ぶりかしら……?」
 そう言って、彼女は受話器を取り上げ、耳に押し当てた。
「久しぶりね? どうしたの? うん……うん……あら……真雪の? そう……うん……うん……」
 最初は明るかった祖母の声が次第に真剣味を帯びた物へと変わっていくのを、穂香は冷蔵庫を開けながら聞いていた。
 ふわっと冷気が頬を撫でる。
 中身の大半はお肉とかハムとかソーセージとか……その中に燦然と輝くチョコレート! 穂香の家ではチョコレートの類いは、夏はもちろん、真冬でも冷蔵庫の中に保存することになっている。前に冬だと思って油断してたら、暖房に当たってトロトロになったことがあるからだ。
 それからコーラの缶ジュースを一つ。百六十ミリリットルの小さい奴だ。
 一口サイズのチョコを包み紙からとりだして、口の中にポイ。モニュモニュと咀嚼しつつ、缶ジュースのプルタブをパシュッ! と開ける。そして、半分ほどを一息に……
 と、おやつを楽しんでいれば、大概は祖母がひと言小言言ってくるのが、穂香の日常という物だ。
 それは、電話をしてようが、客が居ようがお構いなし。
 そういうのも穂香の母が高校生で祖母の教え子だった頃には、ずいぶんと細身で「この子はご飯を食べてるのだろうか?」と心配するような体型だったのに、結婚して子供を産んだ途端にぽちゃぽちゃとふくれあがってしまったからだ。それから、亡くなった祖父と父が二人とも糖尿病体質だっていうのも、祖母としては心配の種。ちなみに二人とも丸い(祖父は丸かった)
 それが今日は何も言わずじまい。
「……今からですと、中等部の入試は無理ですね……編入試験という形ならなんとか……成績の方は? はい……はい……それなら……それでどうして? …………離婚で? こちらに? 理由は…………そうですね、余計なことは……出来るだけ早急に……入学式には参加できた方が良いでしょうし……」
 それどころか、こちらを見ることもなく、真剣な表情で電話をし続けている。
(どうしたんだろう? 真雪っておばあちゃんの友達……の?)
 大きな冷蔵庫を背もたれにして、穂香はそんな事を考えた。
 もちろん、考えたところで解る訳でなし。
 脳細胞の無駄な活動により消費されたカロリーを補うべく、穂香は口の中にチョコレートをぽいと放り込む。冷たくよく冷えたチョコレートをポリポリ……と口の中でかみ砕くと、口の中に濃厚なチョコの甘みが広がっていく。
「……二十年ぶりの真雪のわがままって所かしらね…………出来るだけ平穏に入学できるように処理して……ええ、あっ――ちょっと待ってて下さい」
 そう言って祖母は受話器の口元を押さえて穂香の方へと顔を向けた。
 慌てて、チョコレートを口の中にポイ! 咀嚼もそこそこにゴクン! と飲み干し、ジュースも一気飲み。
「もうないよ!」
 って、胸を張っても、祖母から返ってきた言葉は想定外の物だった。
「……立ち聞きなんて、行儀が悪いわよ。あっち、行ってなさい」
 真剣な表情で祖母はそう言うと、しっしとばかりに手を振ってみせる。
 仕方ないから素直に追い出される。
 後ろ髪を引かれる思いを残しながらも、トントンと……穂香は階段をゆっくりと登って行った。
 そして、彼女は閉め切られていたドアを開いて、部屋に入った。
 穂香の部屋は余り奇麗ではない。
 ただ、彼女の名誉を守るために言うならば、決して不潔な部屋という訳ではない。
 単に物が多すぎるのだ。
 子供の頃から買って貰ったぬいぐるみとか漫画の本とかゲーム機とかが、整理されていないというか、そもそも、整理しきれる分量を超えてしまっているというか……そー言う部屋。
 そして、子供の部屋は子供が片付ける物という親の教育方針のおかげで、幾らものが散らばろうとほったらかし。腐りそうな物や洗って貰わなきゃいけない物はさすがに定期的に出しているのだが、収納力を越えた物が部屋の中に転がってしまうのはいかんともしがたい。
 そんな部屋の真ん中、座りやすいようにと置いてるクッションの上にどっかと腰を下ろす。そして、穂香はキュロットスカートなのを良い事に、大胆なあぐらをかいた。
 両足の裏側同士をぺたりと貼り付けて、膝を上下にゆっさゆっさと貧乏揺すり。
 目の前には一人部屋にはちょっと大きいかもしれない三十七インチのテレビ。そこに繋がれたゲーム機が草原の真ん中に放置された冒険者の姿を映し出していた。
 その画面にぼんやりと視線を投げかけるも、少女の意識はそれを捕らえていなかった。
 祖母の態度から見るに、いくら聞いても教えてはくれないだろうし、しつこく聞けば雷が落ちるだけ。
 でも……
(中等部かぁ……会えるかな……?)
 ぼんやりとそんな事を考えながら、やおら、穂香はコントローラーを手に取った。

 穂香にとって歩いて三分の所にある英明学園というのはある種、あこがれの存在であった。
 可愛い制服で着飾ったお姉さん達、学園内の賑やかな話し声が自宅、自室にまで届くことも珍しくはない。ハマ屋でたこ判を突きながらのおしゃべりも楽しそう。厳しいって噂の運動部には入りたいとは思わなかったけど、でも、一生懸命がんばってるお姉さん達は、幼いながらもまぶしく感じていた。
 当然のように、大きくなったらあのお姉さん達と混じって一緒にあの学校に通うものだ、穂香はそう思っていた。
 が、現実は甘くない。
 試験を受けなきゃ行けないし、それも結構な狭き門。
 諦めようとする穂香に対して、母も祖母も発破をかけた。
 英明には夏休みや冬休みの宿題がないとか、頭髪も割と自由だとか、中二の初夏には野外学校があって、それが凄く楽しいとか……まあ、色々とセールスポイントを言ってきて、その気にさせる訳だ。
 根が単純で楽しいことが大好きな穂香はあっと言う間にその気になって、それはもう一生懸命勉強をした。
 まあ……それが後に「私は英明に入って安心しちゃった組」とか「一生分勉強したからもうしたくない」とか言い出して、親や教師、友達までも困らせる羽目になるのだから、策士が策に溺れた感じ。
 さて、そんな『楽しい英明のお話』をする度に出てくるのが、『英明の黒雪姫』こと黒沢真雪だ。
 髪形も『似合ってれば良いじゃん』と言い出したのは彼女だし、宿題も『開けてからテストをやらせれば良いじゃん』と彼女が言い出したからあの形になった訳だ。さすがに野外学習を始めるほどの影響力は無かったが、それでも『肝試しをやったら、脅かす役の先生に逆に脅して、泣かした』なんて話があるから油断できない。
 他にもいくつも逸話を聞いてるうちに、一度会ってみたい……と彼女が思うようになったのも無理からぬ事だ。
 しかし、その真雪は穂香が物心着く前に他界した。
 物心が付く前に一度会ったそうだが、まだ、おむつも取れてない頃の話らしい。
 もちろん、覚えてない。
 その時、穂香は、なぜか、あらぬ方を見てニコニコ笑いかけたり、手を振ったり、挙句の果てには何かを掴んだり、囓ったりするそぶりを見せていたらしい。
 詳しいことは、当時、その場に居た“誰かさん”が物凄く嫌そうな顔をしているそうなので、穂香は聞かないことにした……ってのは、入学してからだいぶん先の話。
 閑話休題。
 そういう訳で、入学前の穂香は会ったこともない(正確には会った記憶もない)黒沢真雪という女性に対して、漠然としたあこがれのような物を持っていた。
(黒雪姫の親戚かぁ……会ってみたいなぁ……どんな子なんだろう?)
 そんな事を考えつつ、尋ねてみても、祖母は――
「入学したら会えるわよ」
 と言って、取り付く島もない。
(まあ……離婚したとかそう言うの、面倒な問題だもんね……教えてくれないのもしょうがないか……)
 結局、この話は入学説明会がある二月下旬になるまで、穂香の心の中で未消化な問題としてくすぶり続けていた。
 そして、二月下旬の恐ろしく冷えたある日曜日。
 みぞれ交じりの雨が降るこの日は、入学説明会の日だった。
 新入学生は受験番号順に別けられ、教室で説明を受けることになっていた。
 穂香は志願受付開始直後に出願したから、受験番号はずいぶんと若く、第一グループに入れられていた。
 この時、穂香は
(黒雪姫の親戚だから、きっと、凄い、美人のはず)
 と、根拠もなく思っていた。
 背が高くて、髪はさらさらで、もう、おっぱいとかも大きくなってるかも! とか、思っていた訳だ。
 残念ながら、そう言う人物は第一グループの中には見当たらない。
 なんだか、がっかり……
 そんな風に肩を落としてるうちに、説明会も終わり。
 付き添いの母と共に日曜の英明学園校舎、校門から出ていこうとした、その時のことだった。
「ねえ、見た? すっごい奇麗なお姉さんに連れて来られてた子……あれ、裏口だって……」
「なんで?」
「なんか、理事の友達の孫とかで、入試も受けてないのに入学出来たとか……」
 そんなぶしつけな声が穂香の耳をくすぐった。
 チラリと後ろを振り向けば、おそろいの制服を着た少女二人とその母親らしい女性が二人、合計四人がひとかたまりになってこちらへと歩いてきている姿が見えた。
 足を止めて回れ右。
 その少女達を見据えて、穂香は言った。
「……うちのおばあちゃんが不正なんてする訳ないじゃん」
 音量は余り大きくはなかったがはっきりとした口調でそう言えば、噂話をしていた二人はもちろん、奥に立っていた二人の大人までもが目を白黒させて、その足を止めた。
 その四人の顔を睨み付ける勢いで、穂香は、更に言葉を紡いだ。
「……その子、編入試験、受けてるよ。だいたい、おばあちゃんが友達の孫だからって手心を加えさせるような人なら、本人の孫が試験勉強に寝ずの一夜漬けなんてする必要ないし」
「……普段してたら寝ずの一夜漬けなんてせずにすんだのよ」
 ぼそっと母が呟いた。
 聞こえない振りをした。
「あっ、いや……ただの噂……だから……ね?」
「うっ、うん……私が言いだしたことじゃないし……ね?」
 しどろもどろの少女達からぷいっ! と視線を切って、穂香は大股で歩き始める。
 背後では、まだ、何かごちゃごちゃ言ってるようだが、それも丸ごと聞こえないふり。
 そして、すぐに追いついた母が言った。
「……余計な所で喧嘩売るような真似、しないで良いのよ」
「だって!」
「…………まあ、スッとはしたけど……帰りにたこ判、買って帰ろうか?」
 その言葉に母の顔を見上げれば、母はどこか誇らしそうに太めの胸を反らし、微笑んでいた。
 その母の笑顔を見上げて、穂香は言った。
「うん! 餅チーがいい!」
 余談ではあるが、この二人は学年八十三人中十五番を叩き出した伶奈よりもずーーーーーーーっと下だった。

 そして、また、月日が流れ、入学式の日。
 ピッと糊の効いたブラウスとジャケットとに身を包み、穂香は入学式に来ていた。
 気持ちよく晴れた暖かい日差し、入学式に持って来い。
 どんな子と同じクラスになるのか? あの時の二人と一緒だったら嫌だな……なんて事を考えながら、クラス分けの紙を少女は見上げる。
 この時、穂香は思っていた。
 もし、例の『黒雪姫の親戚』で『親の離婚でこっちに越してきた』少女が、ただの『ツイてない子』だったら、仲良くしてあげよう。でも、ただの『ツイてない子』じゃなかったら……――
 そんな事を考えてる穂香のすぐ傍に、一人の女性が滑り込んできた。
 冗談みたいに奇麗な黒髪、上品な薄化粧、大きくて黒目がちな瞳、スラッとした細身にびしっと糊の効いたスーツ姿。奇麗で若いお姉さん。
 その女性が例の二人組が言ってた『奇麗なお姉さん』であることにすぐに気がついた。
 その向こう側には癖っ毛の前髪の奥から、不安そうな表情でクラス分けの紙を見上げてる子が一人……
 思ってたのとは若干違うみたいだ。
 その少女は不安そうに何度も紙を見上げて、きょろきょろ。
 どうやら、自分の名前を見つけられないらしい。
(名前……)
 と思って、胸元を覗き込む。
 西部にしべと書いたネームプレートが少女の胸元で光っていた。
 何処かで見たような……と思い至って見上げてみれば、自身の名前、東雲穂香の後ろに燦然と輝いていた。
 そこから少女の方へと視線を戻して、穂香は言った。
「あるよ、せいぶれいな」
 きょとんとした顔で『せいぶれいな』呼ばわりされた少女がこちらを向いた。
「……名前……なんで解ったの?」
 不思議そうに小首を傾げる少女に向けて、少女も自身の胸元へと指先をやった。
 それに相手の少女が応える。
「ひがしくも」
「しののめ!」
「知ってる。私も『せいぶ』じゃなくて『にしべ』だよ、『れいな』じゃなくて『れな』で、『にしべれな』」
 言い返す少女――伶奈に穂香も言い返した。
「知ってるなら……って、でも……あの並び……前二人が『きたはら』『しののめ』で、その次が『そがわ』『つちや』だから、『せいぶ』で扱われてると思うよ」
 みるみる不機嫌そうに変わっていく伶奈の表情。それが面白くて、プッと小さく吹き出してしまったことを、付き添いのお姉さんに必死でなだめられている少女は気づいていないようだ。
「ああ……後で先生に言っておきますから……まあ、そう怒らないで……ね?」
 お姉さんが伶奈をなだめている声を聞きながら、穂香は思った。
 この『黒雪姫の親戚』で『親の離婚でこっちに引っ越してきた』少女はただの『ツイてない子』ではないようだ。
 だから……
「そうだよ。おかげで西部さんと知り合えたし。よろしくね。私、東雲穂香だよ」
 だから、この子に友達になって貰おう。
 絶対に、これからの六年が楽しくなる。それはもう確信に近い思いだった。

 その日からずいぶん……と言うか、ほぼ、一年近く経ったある日、春の日差しが気持ちいい喫茶アルト窓際隅っこいつもの席。ココアとパン耳スティックでの寂しくも楽しい、四方会のお茶会。
 話題は始めて出会った入学式の日の事。
 身振り手振りを交えて語っていたのは穂香で、他の三人にアルトを含めた四人は主に聞き役。
 その穂香の話が終わると、伶奈が穂香に尋ねた。
「で……『ただのツイてない子』じゃなかったら、なんなの? 私」
 伶奈の質問に穂香は胸を張って答える。
「『ただの面白い子』に決まってんじゃん」
 言われてぽかーんと口を開いたのは、伶奈だけではなく、美紅も蓮も、それから、手元でココアを飲んでたアルトまでも。
「あそこですかさず『ひがしくも』と来たのは頭の回転が速くて、面白い子だ! って思ったんだよねぇ〜うんうん。これは、東雲と西部で東西会を作るしか!! って思ってたら、北原と南風野までもが居て、もう、神の配牌だと思ったんだよ!!」
 と、テンション上げて語る少女のお言葉に伶奈はもちろん、アルトを含めた他の四人も一様にため息を吐いた。
「神の配剤……麻雀したいの?」
 突っ込みを入れたのはアルトだった。
「そうとも言う!」
 通訳された言葉を聞いて穂香が胸を張れば、ピッ! ストローで頬かを指し示してアルトが言う。
「そうとしか言わない!」
 その言葉を通訳したら、伶奈は自身の言葉を継ぎ足した。
「……――だって……穂香と知り合ったことだけが一番ツイてない事だよ……」
 伶奈の言葉に美紅が言葉を続ける。
「……私たち全員ね……」
 そして、最後に蓮も言う。
「やっぱり、三方会に……」
「わっ!? ひどい!!」
 穂香の悲鳴のような言葉に少女達の笑い声が響く。

 四方会、二年目の春の事だった。

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