お泊まり会―春の陣―(3)

「はぁ〜さっぱりした〜」
 首にはスポーツタオル、右手には制服やら汚れた下着やらの入ったトートバッグ、ジーパンとポロシャツと言う軽装で部屋に入ってきたのは、坂道をダッシュで駆け上がってきた北原美紅さんだ。
 汗だくになった美紅に、伶奈が美月にシャワーを貸すように頼んだのだ。もちろん、美月は快諾。美紅は若干遠慮したがアルトが発した――
「……汗臭いからさっさと行ってきなさい、追い出すわよ」
 の言葉を伶奈から伝え聞いた時点で、折れざるを得なかった。
「お帰り……一体、何考えて、あの坂を走って上がろうとか思ったんだよ……?」
 最大斜度十パーセントを超えると言う坂道、普通に歩けば三十分程度は掛かる道のりだというのに、十分を切る速度で走ってきた友人を見やり、伶奈はため息を吐いた。
「蓮チなんて、あの坂を走ってきたって言う話を聞いただけで、足がこむら返り起こしそうになったんだよ?」
「……筋肉痛も……」
 穂香と蓮が口々にそう言うと、ちゃぶ台の一角、伶奈の正面に腰を下ろしながら、美紅は言った。
「……蓮ちゃんはすでに病気だよ、それ……一回、病院に行こうよ……」
 そして、彼女はお尻を落ち着けると、再び、口を開いた。
「ピッチャーの斉藤さんの出来が凄く良くて、三安打一失点、外野まで飛んだのが一本だけって状況で、なんか、不完全燃焼だったんだよねぇ〜それで……駅に下りたとき、ふと、走って行ったらどのくらいで着くんだろう? って思ったら、試さずには居られなくなっちゃった」
 参った参ったとばかりににこやかな、そして、やりきった者だけが得ることの出来る満足げな笑みを浮かべて、美紅は頭をかいて見せた。
 そんな美紅の様子に、アルトを含めた他の四人はただただため息。
「……まあ、勝ったんなら良いんじゃないの?」
 最初に口を開いたのは、ちゃぶ台の上に両足を投げ出していたアルトちゃん。その言葉を伶奈が美紅に伝えれば、美紅が言葉を失った。
「うっ……」
 途端に曇る少女の表情。
「あれ? どったの?」
 問いかけたのは、穂香だ。
 言われて美紅はクシュン……とうつむき、ぼそぼそ……と控えめな、まるで絞り出すかのような声で答えた。
「…………私たちの方は、五安打無得点……私は四打数三三振、一内野ゴロ、しかも併殺……相手の三安打のうち、一本は私の頭の上高くを飛んでいくホームラン……走って自己嫌悪を発散してた」
 そんな友人の言葉に伶奈は思わず呟いた。
「見殺し……去年のカープみたい」
 言われた美紅もさすがにムッとしたのか、ぷいっ! とそっぽを向いたと思ったら、ぼそっと小さい声ではあるが、向かいに座る伶奈にはっきりと聞こえる程度の大きさで言った。
「……横浜は毎年じゃん」
 その呟きに伶奈もプイッとそっぽを向いて、やっぱり、小さいけど正面の友人にははっきりと聞こえる程度の大きさで言った。
「ベイスターズはピッチャーも悪いもん……毎年」
 そっぽを向いたままの少女達の間に嫌な沈黙が流れた。
 そんな薄暗くなっちゃった美紅と穂香の周りでは――
「伶奈チー、みくみっくー出てきたら、アイスココアフロート作ってくれるって言ってたよね?」
 穂香が少し大きめの声で言った。
「…………蓮のアイスが冷凍庫で待ってる……」
 ぼんやりとした口調で蓮が言った。蓮のアイスとは蓮の家で搾った牛乳で蓮の兄とその友人が作った特製アイス。未だ試作品だが凄く美味しいともっぱらの評判だ。
 最後、未だ、ちゃぶ台の上で座ってるアルトが言った。
「そろそろ、開幕だったわねぇ〜」
 そして、そっぽを向いていた少女二人はやおらお互いの顔を見やる。
 二人の視線が絡み合い、そして、少女達は声を合わせるようにため息を一つ、無駄に大きく吐いた。
「「はぁ……」」

 さて、そんな感じで揃った四方会の面々は、雁首揃えて一階フロアに下りてきていた。
 先ほども少し話題に上ったアイスココアフロートを作るためだ。作るのは伶奈だが、他のメンツも運ぶのを手伝うくらいはしよう……って言うのが建前。暇だから見に来たというが本音らしい。
 春休み、日曜日、昼下がり。おやつの時間にはちょっと遅いが、ディナーにはまだまだ早いという時間帯。美月はフロアに出て店番中で、キッチンに居るのは作業スペースでサンドイッチを作ってる翼ただ一人。揚げたてトンカツは芳しい香りを放つソースに浸し、しゃきしゃきキャベツの千切りにはたっぷりのマヨネーズ。この二つをサンドイッチにしてはちょっと厚めの六枚切りのパンで挟むのが喫茶アルトのカツサンド。男子学生を中心に人気の商品だ。
 その翼が作業の手を上げ、口を開いた。
「なに?」
 動きの少ない表情と抑揚のない声は不機嫌そうにも聞こえるが、これが彼女の普通だと言うことは、伶奈をしてようやく最近理解してきたところ。
「ココア……煎れに来たの」
 小さめな声で答える伶奈の隣で、穂香がブンッ! と手を振り上げ、大きな声で元気よく言った。
「こんにちは〜!」
「あっ! おっ、おじゃまします!」
「……こんにちは」
 穂香の言葉につられるように、美紅は戸惑いながらも元気よく、そして、蓮は控えめに挨拶の言葉を発した。
「お邪魔……って私が言う必要があるのかしらね?」
「……――と、アルトが言ってる」
 最後に、頭の上でアルトが言った言葉を伶奈が通訳。
 それらの声に、翼は一瞬だけ言葉を失う。されど、すぐにいつもの動きの少ない表情と抑揚のない声でぼそぼそと言葉を紡いだ。
「…………こんにちは。入るのは良いけど……手、洗って……」
 そう言って、翼は再び作業を再開し始める……とは言っても、トンカツが揚がってキャベツの千切りも作り終えてるんだから、後はパンに挟むだけ。ふわふわの食パンに挟んだら、ざっくりと長い包丁で真っ二つ。長方形に切ったら、それをお皿の上に四つ並べて完成だ。
 そのサンドイッチが作られてる間に伶奈はキッチンの隅っこに備え付けられている手洗い場へと足を向けた。そこに行ったら消毒剤入りの液体石けんで入念に手を洗う。
 もちろん、他の面々も一緒。伶奈の後に続いて手を洗い始めた。
 最初に手を洗い終えた伶奈が振り向けば、そこに無表情のままで立ってる翼の姿があった。
「…………」
 その手には一枚のトレイ、そこにはサンドイッチと付け合わせのポテトが載ったお皿が鎮座ましましていた。
 そのトレイと無表情のままの翼の顔を見比べること三回。三回目にトレイを見たとき、そのトレイがずいっ! と更に伶奈の方へと押し出された。
 そのトレイの圧力抗しきれず、少女はひと言だけで尋ねた。
「…………あの?」
 その言葉に翼がいつも通りに抑揚のない声で答える。
「……チーフの所まで、で……良い」
「いや、私、今日、仕事じゃないし、ココア、煎れに来ただけだし……」
「……きっと、伶奈が持っていった方が……みんな、嬉しい……可愛いから……」
 とってつけたような『可愛いから』の言葉。多少は嬉しくもあったが、その鉄仮面の向こう側に見えてる本音という物を察せられないほど、伶奈は子供ではなかった。
 鉄仮面の圧力に若干こわばりながらも、少女は言った。
「…………翼さん、自分がフロアに出るの……嫌なだけ……だよね?」
「……ちっ」
 本音がバレてないと思っていたのだろうか? 翼は無表情のままではあるが誰はばかることなく、舌を鳴らした。そして、諦めたかのようにトレイを持って踵を返す。
 ――も、その翼の動きを制する声が上がった。
「あっ! 私、行きたい! 伶奈チのお姉さんの所に持っていったら良いんでしょ? 楽勝、楽勝!」
 手洗いを終わらせた穂香だ。彼女は満面の笑みでそう言うと、ぶんぶん! と洗ったばかり、未だ、水滴の付いてる手を左右に振り回しながら、そう言った。彼女が手を振る度に水滴が飛んで、ちょっぴり蓮と美紅が迷惑そう。
 期待に胸を膨らませてる穂香を翼は一瞥。
「……はぁ……」
 軽くため息を吐くと彼女はトレイを持ったまま、きびすを返した。
「えぇ〜」
 不平の声を上げる穂香に、伶奈は苦笑い。
「部外者じゃんか……」
「伶奈チの友達だもん! 親戚の友達は友達も同然って言うじゃん!」
「言わないし、そもそも、翼さんは私の親戚じゃないよ……それに……穂香って、翼さんとろくに顔を合わせたことがないのに、良く、あんなにしゃべれるね?」
「うーん……そう? まあ、良く言えば社交的、悪く言えばデリカシーのない子って、よく言われるよ」
「……ああ、自覚、あるんだ……」
 ちょっと驚き気味に伶奈が言えば、その隣では美紅が国コクコクと三回、首を縦に振って居るのが見えた。
 そんな驚きの友人二人をほったらかしに、穂香は腕を組んだら不思議そうに小首をかしげて呟いた。
「……なんで、話しかけただけでデリカシーがないって言われるのか、よく解んないんだけどねぇ〜」
「……自覚、ないんだね……」
 そう言ったのが伶奈。
「そうだと思った」
 こちらが美紅。
「まあ、穂香らしいわね……」
「……――ってアルトも言ってる」
 最後に伶奈の頭の上でアルトがため息を吐いて、その言葉を伶奈が二人に通訳した。
 なお、会話に参加しない蓮はぽけーっとキッチンの中を眺めている。どうやら、ぐつぐつと沸騰しているパスタのゆで湯に興味があるらしい。ちなみに現在は沸騰状態で放置されてるだけで、パスタは入っていない。
 と、蓮を覗いて総突っ込みだった事に気分を害したのか、穂香はきゅっ! と濡れた土間につま先をこすりつけ、一歩、伶奈の方へと足を踏み出した。
 そして、少し強めの口調で彼女は言った。
「だいたい、話しかけたくらいで噛みついて来る人って居ないんだよ!? オオカミじゃないんだから!」
 そう言って、彼女はガオーッと口を大きく開いて見せた。そのちょっと可愛い仕草と少し強めの口調にちょっぴり苦笑いを浮かべて、少女は答える。
「……そりゃ、そうだけど……」
「ひっかきもしないよ! 熊じゃないから!」
 そう言って今度は自身の顔の横で手首のスナップを利かせてみせる。人差し指から小指までの第二関節が曲げられた手のひらが、顔の横でちょこちょこと動いている様は、熊と言うよりも猫っぽくて、やっぱり、可愛い。
「……にっ、人間だからね」
 可愛い仕草に笑いそうになるのを堪えながら、伶奈が答えると、穂香は右の人差し指で伶奈の顔をピッ! とまっすぐに指し示した。そして、彼女は我が意を得たり! とばかりに大きな声を上げた。
「そうだよ! 人間なんだから、話してみないと仲良くなれないじゃんか!」
 大いばりに成長著しい胸元をふんぞり返している友人をチラリと一瞥する。いつまでも付き合ってられないので、ココアパウダーやミルクを用意しながら、少女は言った。
「……でも、翼さんは話さないから怖いんだよ?」
「あっ! なるほど!」
 ぽんと手を叩く穂香の向こう側、フロアからひょっこりと帰ってきた翼が、いつもの抑揚のない口調で言った。
「…………伶奈、悪口なら、もうちょっと……はばかれ」
「うわっ!?」
「…………パン耳スティック……食べる?」
 慌てる伶奈をほったらかして、翼は淡々とした口調で言った。喫茶アルト定番のおやつ。
「あっ! 食べる食べる!! 今日は砂糖じゃなくてジャムが良い!」
「…………なんの?」
「あったらブルーベリー! なかったらメープルシロップでも蜂蜜でもマーマレードでも!」
「……んっ……ブルーベリー……」
 あれよあれよという間に穂香は翼と交渉を終えてしまった。そして、翼は穂香のリクエスト通りに冷蔵庫からブルーベリーのジャムを用意した。そして、翼はパンの耳を揚げ始め、その作業に興味を抱いたらしい穂香はその翼の後ろからフライヤーを覗き込み始めた。
 そんな翼と穂香の様子を、伶奈はココアを作りながらぼんやりと眺めていた。その手には牛乳とココアパウダーの入ったマグカップ、右手に持ったティスプーンで一生懸命かき混ぜる。
 そして、伶奈は思わず、感嘆の声をこぼした。
「……なんか……凄いね」
 穂香のコミュニケーション能力の高さに舌を巻いてる伶奈の頭で、アルトが言った。
「本当、貴女、一年経った今でもここまで翼としゃべれないわよね?」
「そっ……そんなこと、ないよ……夏の終わりには……ちょっとは……」
「……はいはい」
「…………信じて――えっ?」
 投げやりなアルトの相づちに言い返そうとした言葉は途中で途切れた。
 途切れさせたのは蓮だった。彼女の細い指が伶奈のオーバーオールの尻ポケットに侵入し、その生地をくいくいと引っ張っていたのだ。
 反射的に振り向き、蓮の顔を見た伶奈に彼女が言った。
「……四方会鉄の掟……通訳をサボらない」
「……狙い撃ちの掟は辞めようよ……私以外、誰がその掟を適用されるんだよぉ……」
 伶奈がぼやくとその頭の上で挑発的なひと言がぽつりと発せられた。
「良夜」
「りょーや君は四方会じゃないし!」
 反射的に伶奈が大きな声を上げれば、ポケットの中に入りっぱなしだった少女の指がくいくいと二度動く。そして、その小さな唇から小さな声をこぼした。
「……掟」
 ここまで言われれば、もう、説明するしかないだろう……と言うことで説明する。
「りょーや君って、知ってる?」
「……ううん……」
 伶奈の問いかけに、蓮は素直に首を右左。
「…………美月お姉ちゃんの恋人……それで、そのりょーや君も適用されるって、アルトが言うから、りょーや君は四方会じゃないって……言っただけ」
「そっか……ありがと」
 満足したらしく、少女はまた、ぼんやりと明後日の方向へと視線を向けた。今度は無人のシンクの辺り。特に何か興味を引くような物もない一角。何か一般人には見えない何かが見えているのではないか? とちょっと不安になる。
 が、良く考えたら、『一般人に見えない何か』なんて、いつも自分の頭の上に居る。もう一人や二人くらい居たって別におかしくもないだろう。
「今、なんか、ひどいことを考えてるような気がしたわ」
 頭の上でアルトが言ってるけど、軽くスルー。
「でも、穂香ちゃんの思い切りの良さには感心するって言うか……うらやましいんだよね……」
 ため息交じりに言ったのは、これまで余り会話に参加してなかった美紅だった。
「どうしたの?」
 作業をしながら伶奈が尋ねると、美紅はやっぱりため息交じりに答えた。
「私さ、なんか……結構、あがり症でさ……今日の試合もさ、八回の表一点ビハインドのワンアウト一二塁でさ、もう、打席入る前からドキドキしっぱなしで……」
「……それで、併殺打打っちゃったんだ?」
「うん……もう、自分にがっかり。先輩や監督には責められなかったんだけどねぇ……穂香ちゃんみたいな度胸ってどうやったら付くんだろうね?」
「穂香みたいなのが二人居たら大変よ。あがり症なのは場慣れしたらそのうち慣れるわ」
「……――ってアルトが言ってる」
「……だと良いんだけどなぁ……」
「まあ……私も穂香みたいに誰にでも仲良くなれるのは、少しうらやましいな……」
 話をしながら、少女達はフライヤーの方へと視線を向けた。
 何を話しているかはよく解らないが、穂香が身振り手振りを混ぜて盛り上がってる横で、翼が淡々とフライヤーでパンの耳を揚げている姿が見受けられた。
 そして、パンの耳もこんがりと美味しく揚がったようだ。
 ほかほかと芳ばしい香を放つパンの耳がお皿の上に載せられ、穂香の手により、伶奈達の元へと運ばれた。
「おっまたせ〜引き上げるのは私がやったんだよ? あと、ちょっと物足りないからパンもちょっと寄付して貰っちゃった♪」
 彼女の言うとおり、更の上には大盛りのパンの耳やら小さく切ったパンの切れっ端やら。結構な量を揚げさせたようだ。
「……本当に穂香ちゃんって……神経太いよねぇ……ちょっと……うらやましいよ」
 しみじみと美紅が言うと、ぱくりとパンの耳を一本、穂香が口に放り込みながら、尋ね返した。
「どったの? 急に」
 そこで美紅は先ほど伶奈に言ったことを伝える。
「……――って訳でさ、ちょっと悩んでるんだよねぇ……」
 と、伝え終わると穂香は、やっぱり、成長途上にある胸をふんぞり返らせて答えた。
「生まれつきに決まってんじゃん! どうやっても何も、私に聞かれても困るよ!!」
 喫茶アルトキッチンに嫌な沈黙が流れた。
 そして、伶奈と美紅は思った。
((ここでこれを言える度胸なんていらない……))
「どったの!? あれ? なんか、間違った事言った!?」
 そして、穂香がきょろきょろしながら尋ねれば、答えたのはぼんやりと明後日の方向を見ていた蓮だった。
 明後日の方向を見てたはずの彼女は、穂香の方へと近づき、彼女のスカートの裾を軽く引っ張った。
 そして、控えめな声ではあるが、はっきりと、彼女は言った。
「……デリカシー……持とぉ?」
 と……
 

前の話   書庫   次の話

ご意見ご感想、お待ちしてます。