家族(2)

 さて、話凄く戻って、今から七年ほど前になるだろうか? 季節は夏、平日ではあるがお盆の初日。
 この頃、後に妖精アルトちゃんと出会うことになる青年――浅間良夜は来たるべき高校受験に備えての学習塾に通っていた。彼の場合、名門私立の男子校への進学を目指していたわけだから、夏休みだの盆だのと言うの物は、存在していない。日々、ひたすらに勉学に励むだけの毎日だ。まあ、初恋の女の子を親友にかっさらわれた彼には、勉強しかなかったと言っても良い。
 一方、姉、小夜子十九歳。大学一年。アルバイトもろくにやってなかった彼女はリビングのソファーに寝転がって本を読んでいた。
 肘掛けが枕、右膝を背もたれに引っかけぷらぷらさせてる姿は、お世辞にも見目麗しい物じゃない。着ているのがロングのゆったりとしたスカートでなければ、女性が一番見せてはならない小さな布きれがばっちり見えていたことであろう事、請け合いな姿。
「このだらしなさは誰に似たのかしらねぇ……」
 リビングテーブルの片隅に腰を下ろし、朝の連続テレビ小説……の再放送をぼんやりと見ていた母が小さめの声で呟いた。すると、その声にやっぱり連続テレビ小説の再放送をBGMに新聞を眺めていた男性――父がひと言、短めに応じた。
「君」
「私も本は好きだけど、ここまでじゃないわよ」
 母がそう言った瞬間、小夜子のポケットにねじ込まれていた携帯がピロピロ〜ピロピロ〜ピロピロ〜と、のんきな調子で主を呼び始めた。
「小夜子、電話が鳴ってるわよ」
 母が声をかけた。
 しかし、そこは『火事になっても本が燃えるまでは動かない』と言われるだけの女だ。携帯電話が控えめな音で鳴った程度では、読書を中断したりはしない。
「……出てやったらどうだ?」
 新聞から顔も上げずに父は呟いた。
「そういう事をするから、男親は娘に嫌われるのよ」
「……でも、相手は困るだろう?」
「小夜子の友達になろうかなんて言う奇特な相手よ、その辺は織り込み済みに決まってるわ」
 父は新聞から顔を上げないし、母も連ドラが流れるテレビから視線を動かさない。互いの視線を合わせずじまいの会話が二つ三つ交わされて、それで終わり。
 会話が終わり、小夜子の携帯も鳴り止む。
 聞こえてくるのは、小夜子がページをめくり続ける音と連ドラのセリフだけ。閑かな時間がゆっくりと浅間家のリビングルームに流れ始めた。
 そんな時間が五分少々……
 ぴんぽ〜ん……と、チャイムが心地よい音で鳴った。
 その音に軽くため息を吐いて母が立ち上がり、ダイニングキッチンの隅っこにあるインターフォンの前へと足を進めた。
 カチャリと受話器を上げれば、小さな液晶モニターに人影が映し出された。
「はい、浅間です。小夜子ですか? 今、本を読んでて……」
 母の言葉を遮るように父が言った。
「上がって貰え」
「男よ」
「……そこで待たせろ」
「そういう事をするから、男親は娘に嫌われるのよ……あっ、上がって下さい、今、開けます」
 そう言っては母インターフォンの受話器を壁に掛けるも、上がってくる人物を待つかのようにその場を離れない。
 一方、父はしばしの間、新聞へと視線を向けていたかと思ったら、その新聞紙を畳んでテーブルの上へとぽんと投げ出した。
 新聞の向こう側から出てきたのは精悍ではあるがどこか柔和で、ちょっと頼りなさげな中年男性の顔。良夜に似ている……と言われてみれば似ているかもしれない感じの顔だ。
 その彼は、ギシッと椅子に小さな音を立てさせ、席を立った。
「……逃げなくても良いでしょうに……」
「……部屋に帰るだけだよ」
 と、揉めてる間にもう一回、チャイムが鳴った。
 今度は玄関先の方。パタパタと母が駆け出せば、逃げそびれた父はぶすっとした表情で相も変わらず、本を読んでる娘の姿を一瞥した。
「すいません、あの子、本を読み出すと動かなくて……」
 遠くで母が申し訳なさそうにそう言ってるのが聞こえた。
 そして、その声をかき消すかのように大きな声が部屋の中に響く。
「浅間! 出掛けるんじゃないのか?! 映画、始まっちまうぞ!」
 リビングと廊下を隔てるドアの向こう側から青年が少し強めの声を発すると、父は少し安堵の笑みを浮かべた。それは、娘を訪ねてきた青年が『その程度』の関係でしかないことを示しているから……――
「あっ……ささくんだ……もう、良いところだったのに……」
 そう言って、文庫本のスピンを読みかけのページに挟むと、小夜子は立ち上がった。トン……とソファーの上から飛び降りて、ロングスカートの裾をパンパンと整える。
 その様子を見やり、父はパクパクと口を開けたり閉じたり……
「……どうしたの? お父さん、顔、間抜けだよ?」
「えっ? あっ? あれ? いや……ああ……かっ、母さん!!! 小夜子が読みかけの本を閉じたぞ!!!???」
「ほんと!? ちょっ、ちょっと!? わっ!? 凄い!!」
 父の大声に母がキッチンへと帰ってきたかと思えば、閉じた文庫本を掴んで立ってる娘の姿に驚愕の声を上げる。
「…………さすがにサヨちゃん、ムッとするよ? おとーさんもおかーさんも……」
 この瞬間、浅間家において、小夜子の恋人佐々木ささき淳行あつゆき君は婚約者に内定した。

「三年、地道に呼びかけ続けたらしいわよ……」
「そりゃ、確かに……バカ――いや、奇特なひとだな……」
「父さんも母さんもアレを逃したら、小夜子は一生独身だと思ったのよねぇ……あの時」
「……親のセリフか? それ……」
「親以外、誰が結婚の心配をするのよ? 今時」
「……それもそうか……」
 そんな話をしながら、良夜は薄霞の空の下、のんべんだらりと喫茶アルトへと向かう道を歩いていた。
「母さんも美味しいイタ飯屋でランチが食べたい」
 これが建前上の理由。
「良夜と付き合いたいって言うバカ――奇特なの顔が拝みたい」
 こっちが本音。
 時間はお昼少し前、春の陽気は徒歩でアルトに向かうには暑いくらい。ワイシャツの上に薄いジャケットを引っかけていた良夜は、それを脱いで小脇に抱えるような感じでアルトへと向かった。
 から〜ん
 アルトのドアベルが乾いた音で鳴れば、カウンターでくつろいでいた黒髪の女性、三島美月がぱたぱたとこちらに駆け出してきた。
「あっ、いらっしゃ……えっと……こちらの方は?」
 パチクリと数回瞬きを繰り返し、美月は良夜とその隣に立つ母との顔を見比べた。怪訝そうな表情、初対面の女性の事を値踏みしている……とでも言ったところか? まさか、浮気相手だとは思ってないと思いたいが……
「あっ、こっちは――」
 そんなことを考えながら、青年が答えようとするよりも先に母が答えた。
「浅間良夜の母です、いつも、息子がお世話になってます」
 言って母がぺこりと頭を下げた。
 それに釣られるかのように美月も慌てて頭を下げる。
「あっ、こちらこそ〜良夜さんには――」
 深々としたお辞儀、そして、返す言葉が凍り付く。
 ゆっくりと美月が顔を上げる。その上げた顔の笑顔も凍り付いていた。
「おっ……おかあ、さん?」
「まだ、お義母かあさんって呼ばれる筋合いはありませんよ?」
 にこやかな笑顔で母はそう言い切った。
 言われた美月の顔から一気に血の気が引いた。もはや、土色。凍り付いた笑顔のまま、額の辺りに粘っこい汗の玉が一つ二つと言わずに浮かび上がらせていた。
 その恋人の顔を見やり、良夜はため息を吐いた。
「母さん、美月さんをからかうなよ、頼むから……美月さんも、冗談で言ってるだけだから、そんなに固まらないで……」
「あっ、あは……あはは……はっ、始め、まして、みっ、三島、みっ、みづ、美月と言います」
 引きつった笑みで美月はそう言いながら、ちらちらと良夜の顔に視線を投げかける。何か言いたげな雰囲気なのは確実だ。しかし、それが恨み言なのか、助け船を求めているのか、もしかしたら、両方か、全く違うことなのか、それを判断することは良夜には出来なかった。
「とりあえず、いつもの席に行ってるから……あっ、後でちょっと話が……」
「えっ、ええ……こちらもちょーっとお話がぁ……」
 美月の静かな口調に良夜は一つの確信を持った。
(あっ、怒ってんな……)
 どこでどう判断したというのは難しいところだが、彼女との長い付き合いの中で学んだ全ての知識がそれを彼に教えていた。口調とか静かに広がってるロングヘアーとか……どうやってご機嫌を取った物やら……と内心、ため息を吐きつつ、良夜は自身の母を窓際隅っこいつもの席へと押し込んだ。
 窓からの景色が美しい席に母を座らせると、彼は椅子に腰を落ち着ける間もなく、その場を後にする。
 向かう先はキッチン。
「りょーやさん!? お母さんを連れてくるなら、電話の一本もして下さい!!」
 入った途端に罵声が飛んできた。
「チーフ、うるさい。りょーやん、連れてけ」
 向こうで翼が淡々と文句を言っているが、ひとまず、無視。相手にしている暇はない。
「ごめん! こっちも母さんに急に言われて……」
 頭を下げてペチン! と合掌。誠心誠意、お詫びの気持ちを表せば、その頭の上で美月の不機嫌そうな声が響く。
「私にも心の準備という物があるんですよ? 知ってますか?」
 その言葉を聞きつつ、顔を上げれば、やっぱり不機嫌そうな顔をした我が恋人の顔。その顔を見ながら、彼も言い分を並べ立てる。
「……まあ、それもそうだけどさ、俺だって、美月さんのご両親にはほとんど不意打ちで紹介されたわけだし……」
「良いじゃないですか……うちのお父さんなんてアルトの子分なんですから……二−三発刺されたら黙りますよ」
 膨らんだほっぺのままでぷいーっとそっぽを向いてる美月に苦笑い。
「……ひっでーな、この娘……」
 青年がひと言漏らすと、美月はクルン! と良夜の方へ顔を戻した。そして、ずいっと一歩前に踏み出す。薄い胸元が良夜の胸元へと迫り、ふんわり黒髪から立ち上る良い香りが良夜の鼻腔をくすぐった。
 そして、美月が強い口調で言った。
「と・も・か・く! 埋め合わせはして貰いますからね! ケーキ一つ程度じゃ、納まらないと思ってて下さい!!」
「はいはい。初月給は期待しててね……ってまあ、十一月までにまとまった金を貯めとかなきゃ行けないから、余裕はないけど……」
「どうしたんです?」
 不思議そうに美月が小首をかしげれば、良夜はポリポリと軽く頭を掻きながら呟くように言った。
「ねーちゃんが結婚するから……そのお祝い……礼服、全額は出さないだろうしなぁ……いくら掛かるんだ……?」
 青年がそう言うと、ぽん! と美月が胸元で手を叩いた。そして、今までのふくれっ面がどこに消えたのか? と思わせるような満面の笑みで良夜の顔を見やり、彼女は言った。
「ああ、日が決まったんですねぇ〜それは良かったです、式はいつなんだろう? って思ってたんですよ」
 その言葉に今度は良夜が小首を捻る番。
「えっ? あれ? もしかして……知ってた?」
「指輪、着けてましたよ? 左手の薬指にダイヤ……さりげなーく見せびらかしてて、お姉さんも人の子なんだなぁ〜と……うれしいんだなぁ〜って……あれ? 気づいてませんでした?」
「えっ? 見せびらかして……た?」
 うれしそうに言ってる美月に良夜が震える声で尋ねれば、美月も朗らかに笑っていた顔を真顔に戻し、コクン……と小さく頷いた。
 そして、控えめな声、周りをはばかるような口調で彼女は言った。
「注文の品を持っていくと、テーブルの上に左手を上にして手を重ねてたり……」
「……指輪、見ながら……にやにやしてた…………若干……キモかった。後、りょーやん……頭、掻くな……埃が、飛ぶ」
 そう言ったのはその向こうでスープの灰汁あくをチマチマと散っていた寺谷翼女史。
 さらには……
「赤い眼鏡拭きかな? あれで磨いてたよ? テーブルで……」
 って言ったのは、午前中を勉強に費やしていた西部伶奈さん。お腹が空いたのでまかないを食べに下りてきた所で、この話題に混じってきた。
 そして、その頭の上でだら〜〜〜とくつろいでた妖精が言った。
「貴方が昨日『結婚しそうな親戚なんて居ない』って言ったとき、危うく、大爆笑するかと思ったわ。顔面の筋肉がつるかと思ったのよ」
 と、言って、大爆笑した。
 そうなると、確認しないではすまなかったので、ポケットにねじ込んであったスマホを取り出す。賭ける相手は本日公休日の時任凪歩さん。
『ああ、レジでおつりを渡したときに見た……わざわざ、左手出したんだよ、あの人』
 と、シンプルに応えた。
「なっ……なんで……教えてくれなかったの?」
 思わず良夜が尋ねた。
 ら、その場にいた四人の女達は互いの顔を見合わせ、コクン……と小さく頷きあい、さらにはその場にいないはずの凪歩までもが、電話口の向こう側で声を合わせて言った。
「気づいてると思ってた」
 こうなれば、当人に聞かずにはいられない。出ないかも……と思いながらも、奴の電話を鳴らしてみたら、珍しく出た。
 すると、彼女は言った。
『ねーちゃんも、ちょっと恥ずかしかったんだお? でも、同性には自慢したかったんだお? 女心だおー、だおー、だおー、あっ、後ね、美月ちゃんには来て欲しいなぁ〜って伝えておいて。私の友達枠で。ほら、活字が友達で三次元に友達少ないから』
 と、相変わらずの軽い口調に青年の頭の中でブチッ! と何かがキレる音がした。

「知らん! 俺、もう、マジで知らねえからな!! あのクソ女の結婚式なんてぜぇぇぇぇぇぇっっっっっっっっっっったいに出てやんねえからな!! 美月さんだけ行ってくりゃ良いじゃねーか!!!」
「おかーさん! りょーやさんが!! りょーやさんが!!!」
 怒って帰ろうとしている良夜の手を美月が半泣きになって引っ張るも、ずるずると引き摺られていくざまが、春休み、客の少ない喫茶アルトフロアで見受けられた。
 なお、卒業式は明日、である……が、そんなこと、良夜の頭の中からはすぽーんと消え去っていた。

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