家族(1)

 さて、良夜の卒業式まであと二日という土曜日。良夜は喫茶アルトに顔を出していた。
 春晴れの気持ちいい空、さんさんと降り注ぐ春の陽気が眠気を誘う、窓際隅っこいつもの席。デート……としゃれ込みたいところではあるが、先日、貴美にお説教されて懲りたのか、今日の美月は伶奈について仕事を教えているようだ。どうやら、伶奈に仕事を仕込めば、自分がよりいっそうサボれるという事実に気づいたらしい。
「やりたくない伝票整理や帳簿ツケを中心に教えてるらしいわよ」
 と言うアルトの言葉に青年は――
「中学生に伝票整理やらせるんだ……あの人……」
 ――と思ったもんだ。
 そういう訳で、いない恋人の代わり……と言うには甚だしく不適切ではあるが、今日の良夜の相手はアルトがしている。
 概ね、どーでもいい話。
 さっきまでは良夜が買った新作ゲームの話をしていた。軍師がビーム撃ったり、刀の一振りで数百人が吹っ飛ぶ例のアレ。
「そー言えば、良夜、服は? 卒業式に着る奴」
 ほぼ空っぽになったコーヒーカップの縁、ちょこんと座った妖精さんが顔を上げて尋ねた。
「それなぁ……就活の時のスーツで――」
「ださ……」
 良夜の言葉は最後まで紡がれることなく、見事に終わった。
「…………」
 その冷たいひと言に思わず青年は絶句した。そういうのも、まあ、余り格好良くないことは自覚していたからだ。されど、青年はすぐに気を取り直し、言葉を続けた。
「つーたって、ただじゃねーんだぞ? それに就職してからも使える丈夫な奴を買ったし」
「何色?」
「ダークブルー」
「黒にすれば良かったのに……大人なんだから冠婚葬祭に行くときの格好って物もあるの、解る?」
「ハルヤマに買いに行ったとき、『ダークブルーのビジネススーツなら就活だけじゃなく、就職してからも使えますよ』って勧められたもんだから、『はあ……』って感じで、ダークブルーのビジネススーツ買っちゃったんだよ……」
「相変わらず、ふわっふわ、ふわっふわ、流されながら生きてるわね……呆れるわ」
 呆れたの言葉通り、コーヒーカップの上でアルトは大げさなほどに肩をすくめて見せた。
 その言葉には返す言葉もない。
「……うるせぇ」
 負け惜しみを呟くと、青年はプイッとそっぽを向いた。向いた先は、新緑まぶしい対岸の山々。気持ちの良い春の陽気。
 その景色を見つめながら、青年はやっぱり、負け惜しみの言葉を呟いた。
「……良いんだよ、死にかかってる老人も結婚しそうな親族も居ねーから」
「………………」
 ぽんぽんと返ってきていたアルトの言葉が止まった。
 一呼吸どころか二呼吸ほども。
 その沈黙に耐えきれず、青年は窓の外から手元、コーヒーカップの上へと視線を戻す。そこにはカップの縁に腰を下ろして、うつむく妖精さんの姿があった。
「…………」
「どうした?」
 思わず、青年が尋ねた。
 すると、妖精は顔も上げずに小さな声で応える。
「バカね……」
「何がだよ?」
「……人間、いつ、どこで、どんな風に死ぬか、解らないのよ? 今日、またねって言って別れた人と、二度と会えないこともあるの……」
 しんみりした口調はどこか寂しげ。もしかしたら、そう言う経験があったのかも……と思わせるに十分。長く生きてるそうだから、そう言う経験があってもおかしくないのかもしれない。
 そんな気持ちを口には出さず、ひと言だけ、青年は言った。
「…………ねーよ」
「あるわよ……」
 妖精がぽつりと言った。
 思わず、青年の言葉がつまる。
 そして、妖精はすとん! とコーヒーカップの上から飛び降り、スチャッ! と良夜の方へとストローを突き出し、その目を大きく見開き、そして、断言した。
「和明が明日、私に刺殺されることだって!」
「お前がるのかよ?!」
「アレはいつか私が殺るのよ!!」
 なお、今朝、起きたら、また、胸の上に大きな皿が乗っていたらしい。
 どうして、そういう事をされたか……それは心当たりがありすぎて解らない、だそうだ。

「じゃあ、美月さん、俺、帰るから」
「はーい、またです〜」
 キッチンでディナーの仕込みをやり始めた美月とひと言言葉を交わして、良夜は喫茶アルトを後にした。
 夕方……と呼ぶにはちょっと遅い時間帯。太陽は西の空、山の稜線へととっくに隠れてしまっていた。未だ赤い残照が稜線をこがしこそしているも、それも時間の問題だろう。多少は日も長くなってきているようだし、一頃に比べれば明るくはなっているのだが、この時間になるとさすがに薄暗い。
 最近はこのくらいのタイミングで家に帰るのが日課になっていた。これ以上遅くなると美月もディナーの下ごしらえで忙しくなるし、何より、自身も腹が減る。
 普段ならまっすぐに部屋に帰るところではあるのだが、今日はクリーニング店へと立ち寄った。
 アパートからさほど離れてないところにあるコインラインドリー併設のクリーニング店は、一人暮らしの大学生には便利な施設。良夜もこの四年間、ちょくちょくお世話になっていた。
 もっとも、お世話になってたのはもっぱらコインラインドリーの方でクリーニングの方はこれが初めてではあるのだが……
 そこで中年女性の店番から、クリーニングに出してあったスーツ一揃えを返してもらって、徒歩で自宅へと戻る。
 家に帰ったら食事の段取り。アルバイトを辞めてから、チマチマと自炊をしているのだが、やっぱり、バイト先で貰ってきた売れ残り中心の食生活に比べると高くつくし、手間も掛かる。
 買い置きの豚バラ肉を適当に刻んで、キャベツと一緒に炒めて、味付けはオイスターソース。最終的な味付けの調味料がバージョンアップしただけの、入学当時から変わらない料理の完成だ。
 それから温かいご飯にインスタント味噌汁。買ってきた壺漬け、それからカット野菜にドレッシングをかけただけのサラダが今夜の食事。
 完成したら、ガラステーブルの上にそれらを並べて、テレビを付ける。
 BSのドキュメンタリー。世界中の珍しい自然現象や人を寄せ付けない厳しくも手付かずの自然なんかを流してる奴。富士山よりも遙に高い山とか砂漠の真ん中とか大きな川を何日も遡ったような所とか。
 凄く面白いというわけでもないのだが、見てて飽きない。
(いくら金と暇があっても、こう言う所、絶対に行かねぇもんなぁ……)
 なんて思いながら眺めていると、なんだか、感慨深い。
 それをぼんやりと見ながら、青年はもそもそと凄く美味しいって訳でもない食事をのんびりと食べていた。
 ピンポーン……
 玄関先から聞こえる音に青年は箸の動きを止めた。
「あっ、はーい」
 箸を置いて立ち上がるとパタパタと青年は玄関へと足を向けた。
(なんかAmazonで買ったっけかなぁ……?)
 なんて事を思い浮かべるのは、彼の家を訪ねてくるような人間と言えば、それくらいしか思い浮かばなかったから。タカミーズならドアの向こうから何か言ってくるだろうし(主に貴美が)、美月は仕事中だし……
 ガチャリ……とドアを開けるそこには大きなフレームのメガネで笑い皺の目立つ目元を隠した中年女性が立っていた。バレッタでアップにまとめた髪はこの時間帯だと真っ黒に見えるが日にかざすと赤みがかって見えることを、彼――息子は良く知っていた。
 唖然としている良夜を置き去りに、萌黄色のカーディガンの下に白いブラウス、長めのスカート姿の中年女性――母がにこりと頬を緩めてひと言だけ言った。
「来ちゃった……」
「……それ、ねーちゃんが二−三回やったから、インパクトない」
 良夜が捨て鉢な気分でそう言うと、母、和泉いずみは肩からぶら下げたハンドバッグに手を突っ込んだ。取り出すのは、クソ生意気にもリンゴのマークがついた最新式のスマートフォンだ。
(ねーちゃんと同じで家電製品とはわかり合えない人間のくせに……)
 安い台湾製スマホを格安SIMで使ってる青年が内心呟く。
 それを知ってか知らずか、彼女はその表面を数回撫で、何処かに電話を掛け始めた。
 無言のまま、待つこと数秒。
 唐突な大声が玄関先に響く。
「ちょっと!? 小夜子! あなたのせいで、なんか、微妙な空気になっちゃったじゃないの!!!」
 そんな言葉から始まった母娘の会話、その片方を聞きつつ、息子はため息を吐いた。卒業式を見るために来たのだろうか? もしかしたら、美月の顔も見に来たのかもしれない。多分、後者の方が重要度が高そうだ。
「……――うん、そうそう、今から。それじゃ、また後でね。あっ、新しい部屋、結構、広いわよ。それじゃね」
 それだけ言うと彼女はスマホをハンドバッグへと返し、息子へと顔を向けた。
 その顔を見返し、青年は言う。
「……終わった? 卒業式でも見に来たのか?」
「終わった。まさか、大学の卒業式なんて、親が出るもんですか。社会に出るバカ息子の顔を拝みに来たのと、後、卒業祝いを運んできただけよ。悪い?」
「……悪いって言ったら帰んのかよ……?」
 青年がそう言った瞬間、彼女はフラッと身体をゆらして、壁にしだれ掛かった。
「ひどい! りょーや君、ママがどれだけ――」
「……芸風がねーちゃんと同じなんだよ……母さん……」
 冷たく良夜が言うと、泣き崩れようとしたままの体勢で母は固まった。
 そして、すっくと身体を起こすと、素の表情に戻って彼女は言った。
「逆よ、小夜子の芸風が母さんと同じなの」
「それもそうだけどさ……上がる? ここで漫才しててもしょうがないし」
 軽くため息を吐きながら青年が部屋に入れば、和泉も同じく部屋へと足を踏み入れた。
「あら、奇麗」
 ひと言呟く母の声を聞きながら、食べかけの食事が並ぶガラステーブルに腰を下ろす。
「部屋が奇麗すぎて、逆につまらないわね」
 立ったままで辺りを見渡していた母はそう言うと、良夜の右隣に腰を下ろした。
「男の一人暮らしが片付いてたら、そんなにおかしいか?」
 良夜がそう言うと、彼の前に腰を下ろした母が軽く肩をすくめて応えた。
「『男』は差っ引いても良いわよ、女の一人暮らしもひどいのはひどいから……それで、大学四年、どうだったの?」
「楽しかったよ。思ったよりも世界は広かったな……」
 母の言葉にそう答えると、青年は心の中でひと言付け加えた。
(妖精とか居たり……)
「そう言うなら世界に出てみたら?」
 良夜が摘まむキャベツと豚バラ肉のオイスター炒めを興味深そうに覗き込みながら、母がそう言うと、息子はにべもなく応えた。
「行けって言われたら行くけど、自分からは行かない」
「まあ……あなたはそう言う子よね」
 呆れているというか、諦めているというか……母がため息交じりで答える。
 その言葉に良夜は顔も上げず、パクパクと食事を再開しながら、少し早口気味の声で言った。
「てか、母さんこそ、いつ帰ってきたんだよ……? 盆も正月もなしに海外で仕事してた癖に、卒業式だからってアポなしでこっちに来やがって……こっちの都合も考えろよな? 今夜はともかく、明日はアパート引き払った連中が泊まりに来るから、泊められないぞ。後、親父は?」
「じゃあ、今夜は泊めて貰って、明日は何処かのビジネスホテルにでも泊まるわよ。お父さんは東京、顔を見に来たがってたけど、外せない仕事があってね。それと、これがお祝い」
 そう言っては母はハンドバッグから奇麗な包み紙に包まれた小さな箱を取りだした。
 取り出された物がテーブルの上へと置かれれば、良夜は箸を置いてその箱へと手を伸ばした。
 余り大きくもなければ、重くもない、小さな箱。
 チラリと視線をあげると母が小さく頷いて見せた。
 それに従い、良夜は素直に箱を開く。出てきたのは――
「財布か……」
 良夜が呟くとおり黒い財布。
 呟きに何か感じる物があったのか、母は細い眉をひそめ、口を開いた。
「いやなの?」
「持ってるし……」
「……スーパーの雑貨売り場で買った九百八十円の奴でしょ? それも中学の時に買ったの。物持ちが良いのは良いことだけど、大人なら小物にも気を遣う物よ?」
 言われて青年は尻ポケットに入れてあった財布を取り出した。黒い合皮製、二つ折りの良くあるタイプの財布だ。実際、母が買ってきたのも黒皮の二つ折り。もちろん、合皮ではなく……牛革だろうか? ぱっと見はほぼそっくり。もっとも、古い方はあっちゃこっちゃにほころびが出てきてくたびれているが、新しい方はそんなこともなく、奇麗な物。
 そんなに変わる物かなぁ……なんて思った物だが、確かに触り心地は合皮と牛革ではずいぶんと違う。物が良いのは間違いないだろう。
「壊すのは良いけど、なくしたら怒るわよ」
「あっ……うん、ありがとう……」
 母に軽く頭を下げると、ひとまず、それを古い財布の上に重ね、テーブルの片隅に置く。
 そして、青年は中断していた食事を再開。ぱくりと飯と豚バラ肉を同時に口に押し込んだら、むしゃむしゃと咀嚼。ゴクリと飲み込んだら、彼は改めて口を開いた。
「しかし……これ一つ届けるためにわざわざ帰国したの? 旅費も安くないだろうに……」
 そう言ったら、再び、もう一口、ご飯と豚バラ肉を口に押し込む。
 オイスターソースの味が口の中に広がって、なかなか、美味。豚肉とオイスターソースはよく会うなぁ……なんて思いながら、青年はターミナル駅前の喫茶店で早めの夕飯を食べてきたという母が口を開くのを待った。
 そして、彼女は淡々とした口調で言った。
「ああ、本命は小夜子の結納……ってほどでもないけど、あちらのご両親にご挨拶をね、してきたのよ」
「へぇ……ねーちゃんの結納なぁ……結納……」
 ぼんやりと言葉を豚肉とライスと共に咀嚼する……
 コクン……とご飯を飲み込む頃になって、ようやく、青年は言葉を理解した。
 その瞬間、良夜は手にしていた茶碗と橋をテーブルの上に叩き付けるように戻した。その勢いは、反動で腰が浮かび上がるほど。テーブルの上に置かれた茶碗が踊り、味噌汁の表面にさざ波が立つほど。
「結納だぁ!? 誰と結婚すんだよ!!??」
「高校の時の友達、良夜とも………………………………あれ? 会ったことないかも? そー言えば、連れてくるときは毎回良夜が居ない時を見計らってたわね、あの子……とりあえず、座りなさい。味噌汁、こぼれたわよ」
 母に言われて青年は浮かび上がっていたお尻をクッションの上へと落ち着けた。
 そして、ちょっと冷えたお茶をグビリと一口煽り、呟いた。
「……わざわざ? バカなのか? あのねーちゃんは」
「そういう訳だから、十一月、結婚式よ、兄弟は最低五万、普通は十万包む物だから、用意しておきなさいね、後、礼服も。カーテンレールに引っかけてるビジネススーツで来たら、出席させないわよ」
「はぁ? 十一月? 半年ちょっとじゃねーか……それで、十万用意しろとか、礼服買えとか、せめて、後、一年、待ってくれよ……」
 ため息を吐いた口に青年は豚バラ肉を置いたご飯を運ぶ。
 それを軽く咀嚼したら、コクン……と冷えたお茶で流し込む。
 さっきはそこそこ美味しいと思ったのに、今はもう、美味いのかまずいのかも解らない感じ。
 と、その時、ワイシャツの胸ポケットにねじ込んであったスマホが甲高い声で鳴いた。
『You’ve got Mail!』
 取りだしてみてみれば、一通のメール、それは姉、小夜子からの物だった。
『ごめんね』
 サブジェクトもなしに送られてきたメールには、それだけが書いてあった。
 そのメールが表示されたままのスマホをぽいとテーブルの片隅に置いたら、再び、良夜は食事を始めた。
 そのスマホをひょいと母親は取り上げ、表示されてるメールを一瞥し、そして、頬を緩めた。
「恥ずかしかったのよ、あれで。それにね、結婚なんて、ノリと勢いよ。やらない理由が全部なくなるまで待ってたら、いつまで経っても出来ないんだから、許してあげなさいよ」
 母はそう言うと息子のスマホをテーブルの上へと返した。その表面には相変わらず、たった一言、四文字の文字だけが浮かび上がっていた。
 それを拾い上げて、青年はその表面を静かに撫でる。
 そして、ぶっきらぼうな口調で言った。
「……十万は無理だから、五万……礼服の金は母さんも出してくれよ……半年で十万と礼服代を溜める甲斐性はあんたの息子にはないんだからさ」
 そう言いながら、彼はメールの返信を作った。
 そこにはひと言だけ――
『おめでとう』
 その五文字だけが記されていた。

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