出ていく人、残る人(完)

 さて、話ちょっと戻って、追い出し会当日、営業終了後五分ほどの事。
 その頃、タカミーズの二人が喫茶アルトに顔を出した。
 裏口から中に入るとキッチンでは明日の下拵えやら食器の後片付けやらをやっているキッチンの二人組がいた。その二人組に軽く声を掛けると、アシ求めずに、二人はフロアの方へと顔を出した。
 フロアには凪歩だけではなく、伶奈の姿もあった。どうやら、閉店作業をさっさと終わらせるために、自主的にお手伝いをしているらしい。そちらの二人にも声をかけたら、貴美はフロアに背を向けるカウンター席に腰を下ろした。
「見てると、口出ししちゃいそうになるんよねぇ〜」
「部活を引退した面倒くさいOBみたいで――痛っ!」
 隣に座って余計なひと言を漏らす直樹の頭をぐーで一発。頭を抱えて悶絶している青年を一瞥したら、彼女はカウンターの内側に居る老紳士に声をかけた。
「長い間、お世話になりました」
「いえいえ……こちらこそ。おかげで楽をさせて貰いました」
「あはは、もう、喫茶アルトの『名義上』店長だもんね」
「老兵は消えるだけですよ……っと、そうそう、これ、つまらない物ですけど……」
 そう言って老店長は白い紙に包まれた小さな箱を取り出した。
 長さは二十センチほど、手に取ってみると、思ってたよりもずっしりとした重量感を感じた。
「えっ? いや……こー言うの……」
 思わず遠慮の言葉を吐くが、老店主は軽く首を左右に振ってみせるだけ。
「たいした物じゃないですよ。記念品ですから……」
 そう言われると突っ返すわけにも行かず、貴美はかさかさと包み紙とその中のボール紙の箱を開いてみた。その中から出てきたのは、小さめのペティナイフ。小さいながらも木製の柄と鞘までしっかりと作り込まれた逸品だ。
 刀身には『貴美』、そして、柄の方には『Cafe−ALT』の文字が、それぞれ彫り込まれていた。
「ペティナイフなら飾ってても邪魔にはならないでしょうから」
 老紳士がそう言えば、貴美は深々ともう一度、頭を下げた。

 その話を貴美がしたのは、宴もたけなわが過ぎた頃の事だった。機嫌が良いのか、グビグビと結構なペースで飲んでいた貴美の顔はすでに真っ赤。酔いも回って、舌の滑りも良くなったようだ。ずいぶんと饒舌になっている。
 その彼女から、伶奈は視線をテーブルの上へと戻した。
 そこに出された料理達は大半が参加者の胃袋に納まり、残った物も酒の肴にちびりちびりとではあるが、着実に消費されようとしている感じ。伶奈もお酒こそ飲んでは居ないが、ピザやパスタ、鶏肉にと色々食べ過ぎて、ちょっと苦しいほどだ。約束の十二時には多少時間があるが、そろそろ、部屋に引き返しても……と思い始めていた。
「……翼ちゃんもペティナイフ欲しい……」
 そう言ったのは頬っぺたの両側を押さえて左右にゆらゆらと揺れてる寺谷翼さんだ。その揺れが止まったと思ったら、右手を目の前に置かれたグラスに伸ばして、そこに注ぎ込まれたハイボールをグビグビと一気飲み。
 見ていて大丈夫なのか? と思うほどの勢い。されど、彼女は飲み終え、空っぽになったグラスをトンッと軽やかにテーブルに置くと、気持ちよさそうな声を上げた。
「はいぼーるがおいしくて、つばしゃん、しゃーわせぇ〜」
 そして、再び、揺れ始める。
 その様子を見やり、少女が思わず、呟いた。
「…………メトロノームみたい」
「フラワーロックなんて……今の子は知らないかしらね?」
 呟きに手元でグデーッと伸びてるアルトが言った。ちなみにこの妖精、すでに下着姿。白いブラと白いガーターベルトに包まれた見事な幼児体型をさらけ出していた。
 服を着ろと良夜も小声で言っていたのだが、もちろん、利き目は皆無である。
 そのアルトをちらっと見ては、ため息一つ。
 そんな伶奈と妖精を尻目に脱ぎこそはしてないが、ハーフボトル一本をあらかた飲み終え、良い感じに出来上がった美月が口を開いた。
「うちのアルバイトを卒業する人には、みんな、あげてるんですよ〜凄く高いって訳でもないんですけどぉ〜」
「翼ちゃんも卒業するからちょーだい」
 メトロノームのように揺れる翼が言えば、第一ボタンと第二ボタンを外し、魅力的な肩甲骨を晒す美月が答えた。
「……いや、あの、辞められると困るんですけど〜」
「あした卒業して、あさって入学する〜」
 翼が明るい声でそう言うと、美月は大きく黒目がちな瞳を更に大きく見開き、ぽん! と胸元で手を叩いた。
 そして、彼女は言った。
「ああ、それなら!」
「あんたも、納得してんじゃねーよ!」
「はっ!? 暴力反対です〜」
 良夜に後頭部を一発はたかれ、美月は涙目で抗議の声を上げた。
 が、良夜はそれを軽くスルー。
「ったく……翼ちゃんも降臨なさったし、時間も良い具合だし、そろそろ、お開きにすっか?」
 良夜がそう言うと、グラスに入っていたコークハイを一気に干して、貴美が立ち上がった。
「そやね。私やなぎぽんはともかく、伶奈ちゃんやつばさんは明日も仕事やしね」
 そう言って貴美が立ち上がると、残った料理をいくつかの皿に取りまとめ始めた。ピザは全部まとめて大皿一枚、ブルスケッタ用の具材も一つのお皿に、パスタや鳥のトマトソース煮は味付けが違うからまとめるわけにも行かないし、たいした量が残ってないので――
「りょーやん、喰いな」
 ――そう言って貴美が良夜の前に置いた。
「……残飯処理なら二条さんでも呼べよな……」
 文句を言いながらも、残った料理を口の中へと押し込む。もっとも、さすがに一人では食べきれないから、残りは直樹の元へ。やっぱり、直樹もなにやら文句を言っているようだが、全会一致で黙殺された。
 それから、べろんべろんの翼以外の面々によって、使い終わった皿がキッチンのシンクにまで下ろされた。これを翌日の朝『誰か』が洗うってのが、喫茶アルト宴会翌日の風景だ。
 まあ、その『誰か』は概ね、飲み会には参加しない和明なのだが……
 そんな片付けも一応終わったら、後は女性スタッフ二人を家に送り届けるだけ。運転手は『頼みやすい』って理由だけで頼まれている浅間良夜が素面で待ち構えているいるから大丈夫。
 ただ、問題は……
「伶奈ちゃんほっといて、大丈夫ですかねぇ……」
 ぼんやりと酒臭い吐息混じりに美月が呟く問題だ。
 もちろん、伶奈の主張は決まっていた。
「部屋で寝るだけだし、おじいちゃんいるし……」
 そもそも――
「…………一人で留守番できない子供じゃないもん」
 ――なのである。
 しかし、それはあくまでも少女本人の理屈でしかない。大人――特に預かっている立場の美月はそういう訳にも行かない。いくら酒が入ってふにゃふにゃ言ってる彼女であっても、こう言うところだけは一応、理性が残っているらしい。
 喫茶アルト裏口、良夜のモスグリーンの軽自動車は後部座席が狭すぎるので、トコトコとアイドリングをしているのは美月のもパステルカラーの軽自動車の方。そちらの各座席に座っているぬいぐるみをタイムカードの下のカラーボックスに押し込みながら、美月が言った。
「それじゃぁ〜りょーやさん、ひとりでおねがいしますね〜」
 しかし、その言葉に待ったをかける女がいた。
「ああ、美月さんもいっといでよ。帰りに一人は危ないしさ。それにほらりょーやんが良からぬことを考えると危ないじゃん? なぎぽんはともかく、つばさんはべろんべろんの翼ちゃん状態だし」
 吉田貴美だ。顔は真っ赤ではあるが、足下はしっかりしているし、軽い口調は酔いを感じさせないほど。
 その彼女がそんな事を言ったら、伶奈の頭の上で大きなあくびをしていたアルトが言った。
「良夜が送り狼なんて……こっちの二階で寝てる伶奈が問題を起こす確率の方が高いわよ」
 と、アルトは言ってる物の、さすがに半分眠りに落ちそうな感じになってる翼を一人で……って言うのは、良夜自身、気が引けるようだ。酔っ払ってて役に立つのかどうなのかは解らないが、とりあえず、美月とオマケにアルトも連れて行く事になった。
 じゃあ、伶奈の方はどうなるのか? と、言えば、話は簡単。
「おっじゃま〜」
 吉田貴美が残る事になった……と言うか、部屋に来る事になった。
 ちなみに高見直樹の方はと言えば、「女子中学生の部屋に男が入って良い時間じゃない」と貴美が追い返してしまった。
 今はフロアで椅子を三つか四つ並べてベッドにして寝てる。
「良いの?」
 伶奈が尋ねると貴美は整った顔を軽く緩めて答えた。
「酔ってるから、むしろ、こっちに連れて来られる方が辛いんちゃうかな?」
「……吉田さんの方が飲んでると思うけど……」
「肝臓の鍛え方と飲み方がちゃうって」
 貴美はそう嘯いてみせる物の、彼女だって結構酔ってる。顔は真っ赤だし、吐く息は酒臭い。平地はともかく、階段を登るとさすがに足下が危なっかしい。手すりがずいぶんと活躍している。
 そんな調子で二階にまで上がってきたら、伶奈は貴美を部屋に招いた。
 一応、掃除は欠かさない部屋は奇麗な物。しかし、部屋の中央、ラグの上に置かれているのはローテーブルとかフロアテーブルとか言うのじゃなくて、はっきり言えば、ちゃぶ台。ホームセンターで買ったレースのテーブルクロスでなんとか可愛く見せているが、中を覗けば古びたちゃぶ台以外の何物でも無い。もうちょっと良い物を用意すべきだったかと後悔しきり。
 そのちゃぶ台の前に座ると貴美は緩い笑みを浮かべて言った。
「部屋、酒臭くなったらごめんね〜」
「あっ、ううん……大丈夫……」
 その言葉を聞くと貴美は軽く微笑み、持って来ていた大きな花束をちゃぶ台の上に丁寧に置いた。そして、その柄と言うべきだろうか? 根元の方をチョン……と軽く突くと、貴美は伶奈の方を見て頬を緩めた。
「楽しかったね〜」
「こう言うの、嫌いだって……聞いたよ?」
「楽しんでも二時間、嫌がっても二時間なら、楽しまなきゃ損じゃん?」
「???? 嫌なのに楽しめるの?」
「そうやねぇ〜大概の事は多少嫌でも愉しもうと思えば、楽しめるんよ」
 貴美が軽い口調でそう言った。
 その言葉に少女は口を噤む。
 そして、数秒……少しだけ、視線を逸らしたら、ぼそぼそ……と小さな声で呟いた。
「……どうしても、楽しめない事があったら?」
 右手で頬杖をついた貴美は目元口元だけをふんわりと緩めた。そして、彼女は伶奈の顔を酒で上気し、赤く潤んだ瞳で見ながら、言った。
「そん時ゃ、逃げるよ」
「逃げちゃう……の?」
「うん。まあ、逃げれない事もあるかも知れないけど……それでも、逃げるよ、力一杯」
 貴美の言葉に伶奈は逸らしていた視線をあげ、少しだけ居住まいを正す。そして、貴美のとろんとゆるんだ顔を見ながら、また、尋ねた。
「逃げられなかったら?」
「うーん? まあ、今までどーーーーーーーーーしても嫌な事で、どーーーーーーーーーしても逃げられなかったって事はなかったけど……――」
 そう言って、貴美は言葉を切った。
 視線が伶奈の顔を捕らえる。
 伶奈も貴美の顔をジッと見つめる。
 とろんとしていた瞳から酒の色が少し消えた……ような気がしたのはホンの一瞬だけ。彼女が一度だけ瞬きをすると、すぐにアルコールと眠気に濡れ、とろんとゆるんだ物に戻っていた。
 その濡れた瞳で伶奈を見つめながら、貴美は言った。
「逃げといで」
「えっ?」
 思いも寄らぬ言葉に伶奈はきょとんとした表情を見せてしまうも、貴美はそれを意に介す事もなく、つらつらと言葉を続けた。
「どーーーーーーーーーーしても嫌な事から、どーーーーーーーーーしても逃げられそうになかったら、うちにおいで。住所、後でメールしとくからさ」
「えっ? あっ……あの……」
「何処かに逃げ場があると、楽なんよ、気分が。まあ、私の場合、下で椅子をベッドにして寝ちゃってる男なんやけどねぇ〜……っと、若干恥ずかしい事言った」
 そう言った貴美の頬が酒ではない理由で少しだけ赤みを増した。
 そんな貴美の様子に伶奈も少しだけ格好を崩した。
 目元と頬が緩むのを自分でも自覚する。
「ありがと……」
「まあ、ウェイトレスの働き口ならいくつか知ってっから、うちに逃げてくるときはただじゃすまいと思っときぃ?」
「あはは……」
 貴美の冗談めかした言葉に伶奈は少しだけ声を上げて笑った。
 その笑い声が消えると、伶奈は少しだけ申し訳なさそうに呟く。
「みんな……優しい……ね……」
「伶奈ちゃんだってさ、目の前に泣いてる三歳児が居たら助けてあげるっしょ? 迷子ならお巡りさんを呼ぶなり、迷子センターに手を引いていくなり、それくらいしか出来なくても、それくらいはしてあげるんじゃない? 一緒、一緒」
「それだけ……なの?」
「それだけだって。伶奈ちゃんよりも、ちょっと長く生きてるから、出来る事がちょっと多いだけ……まあ、出来ない事も多いけどさ」
「うん……ありがと……」
「どういたいしまして」
 そう言って女子中学生と女子大生は互いの顔を見ながら笑い合った。
 そして、二人は美月と良夜達が帰ってくるまでの時間を楽しくもくだらない雑題で費やすのだった。

 それから数日後……
「やっぱり……吉田さんみたいな女性ひとになりたいなぁ……」
 との少女の呟きに、喫茶アルト(古株常連客を含めた)周辺が騒然となった……のは、ちょっとした余談である。

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