さて、翌日の夜、そろそろ喫茶アルトの営業時間も終わりが見えてくる頃、良夜は喫茶アルト、窓際隅っこいつもの席で、伶奈を捕まえた。
正確に言うならずいぶん前から彼女がいることを、良夜は知っていた。しかし、あいにく、今夜の彼女には家庭教師がついていた。喫茶アルトフロア係時任凪歩の弟君、時任灯だ。彼からあれやこれやと教えられながら、思ってたよりもずいぶんと難しげな問題集を解いているらしい。
ここに宴会の話を聞きに行けるほど、良夜の面の皮は厚くない。
珍しくカウンター席の一角を占領し、老店主との雑談を愉しんだり、アルトと遊んだりと、ずいぶんと有意義なひとときを過ごしていた。
そして、灯が席を立って帰ったのを確認すると、良夜はひょっこりと伶奈のいる窓際隅っこ、いつもの席に顔を出した。
いつもの席の上には未だに教科書やらノートやら参考書やら。それらの上を少女の鉛筆と視線が忙しそうに行ったり来たりを繰り返していた。
「あれ……終わったんじゃないの?」
良夜が尋ねると伶奈は少しだけ視線をあげ、手を止めた。
「うん……宿題、学校の」
「……ああ、大変だね」
「ううん……量は少ないから……吉田さんの追い出し会?」
「あっ、知ってた?」
「うん……アルトから聞いた……うんっと……来週の金曜日なら、また、お母さん、宿直で、私がこっちに泊まる日だから、帰る必要が無くて都合が良いよ」
すでに考えてたのか、伶奈はよどみなく答えた。
そうなれば良夜の方も話が早い。
「りょーかい……それじゃ、一応、お母さんには伝えておいてね。伶奈ちゃんには飲ませるつもりはないけど、酒の出る場だしさ。後、美月さんとも相談したけど、日付が変わるまでには部屋に帰るようにね。余り、遅くまでやるつもりもないけど……」
良夜がそう言うと伶奈は大きな目を大きく見開き、パチクリと数回瞬きを繰り返し、そして、言った。
「えっ?」
そんな伶奈の様子に良夜は軽く苦笑い。格好を崩したら、諭すような口調で彼は言った。
「……どれに対して『えっ?』って言ってるのか知らないけど……一応、大人としての立場って物もあるわけだし……」
「ちっ! ちっ、ちがう!」
血相変えて伶奈は首を左右に振って見せるも、良夜の頭の上にちょこんと座っていたアルトがぽつりと尋ねた。
「何が?」
「なっ、何がって……なっ、何でも良いじゃんか!!」
良夜の頭の上に居座るアルトに向かって、伶奈が大声を上げた。
もっとも、アルトが頭の上に居るから、その今にも噛みつかんばかりの勢いが自身に向けられているようで、青年の苦笑いはますます濃くなる一方。
「俺を挟んで喧嘩するのは止めてね?」
苦笑いで青年が言えば、少女はパッと顔を朱色に染めた。少し浮かび上がっていたお尻は元の場所、クシュンと小さくうつむいたら、彼女はぼそぼそと、先ほどの勢いが嘘のように小さな声で言葉を紡ぐ。
「うっ、うん……お母さんには言って置くし、お酒は飲まないし、日付が変わるまでには部屋に帰ります……はい」
そんな風に伶奈が言うと、アルトはトーンと良夜の頭の上から飛び降り、テーブルの上へと着地を決めた。そして、したり顔を良夜へと向けると、偉そうな口調で彼女は言う。
「前二つはともかく、十二時までに部屋に入るって言うのはどーかと思うわよ? 私。どーせ、“家”の中じゃない?」
偉そうにそう言うアルトの頭をコツンと指先で一つ突き、青年は軽くため息を吐いて言った。
「お前、さっきもそれ言ってたよな……いい加減、納得しろ、美月さんや店長に言われたろう?」
「解ってるよ……ああ、ヤだヤだ、就職決まると人生、守りに入るんだから」
そう言って、妖精さんは大げさに肩をすくめ、ことさらに大きなため息を吐いて見せた。そんなアルトを見やり青年もため息一つ。絞り出すようにひと言だけ言った。
「……なんて言いぐさだ……?」
「あはは」
そして、少女が屈託なく笑えば、青年も少しだけ頬を緩めた。
「それじゃ……次の金曜日で予定は動かないと思うよ。それと……一応、吉田さんに花束を贈ろうかと思ってるんだよ」
「マジでするの? それ……」
良夜の言葉に、今度はアルトが眉をひそめる版だ。
「最後だし、盛大に送り出してやろうかと思ってな」
「……最後だし、仕返ししてやろうって思ってる、だけでしょ?」
「正解――まっ、それはともかく、それで、ひとり千円集めてるんだけど……伶奈ちゃんは五百円、出してくれるかな?」
アルトとの会話を打ち切り、良夜は興味深そうに二人のやりとりを眺めていた伶奈へと視線を戻し、言葉を続けた。
すると伶奈は微かにほほを膨らませ、まぶたをじとっと細めると、淡々とした口調で言った。
「私も千円払う……」
子供扱いと思ったのだろう。それくらいは良夜も察することが出来た。しかし……
「この前、花屋に行ったらバラの花束三十本で四千五百円くらいだったからね。俺と美月さん、それと寺谷さんと時任さんの四人で四千円、伶奈ちゃんが五百円でジャスト四千五百円。一人……いくらだ? 九百円か? それも面倒くさいし、そもそも、貰ってる額も付き合いの長さも違うしね」
良夜がそう言うと、その愛らしいほっぺは未だに膨れ気味ではあるが、少女はコクンと小さく頭を縦に振った。
そんな伶奈に対して、アルトはトンと床――もといテーブルを蹴ると、ぽーんと少女の頭の上へと飛び上がった。体重を感じさせない軽やかな跳躍。少女のふくれっ面の上で軽く一回転したら、妖精は少女の頭の上に着地を決め、そして、言った。
「まっ、この企画、貴美に対する嫌がらせだから、ここで抜けておくと良い顔が出来るわよ、逆に」
頭の上から少女の顔を覗き込みながら言ったセリフに、良夜は頬を緩め、冗談めかした口調で言う。
「むしろ、伶奈ちゃんが抜けると俺たちに対する風当たりが厳しくなるので、伶奈ちゃんには軽く一枚噛んでいて欲しい」
少女は膨れていたことも忘れたかのように良夜へと視線を移した。そして、まじまじと彼の顔を見つめていたかと思うと、心底不思議そうな口調で呟いた。
「………………大学生って、もっと大人だと思ってた」
そう言う少女の頭の上でアルトは顔も上げず、右手だけをするっと良夜の方へと向けた。
そして、そのままの格好で、彼女は言った。
「驚くべき事に、これが後にひと月もしないうちに社会人なのよ、びっくりでしょ?」
「うるせーぞ、アルト。それじゃ、お金は今払ってくれても良いし、都合が悪ければまた後日でも良いよ」
「あっ、今、払います……じゃあ、五百円」
それを受け取ったら、良夜は五百円玉を財布の中へと入れ、スマホを取り出した。その表面を軽く撫でてスケジュールアプリやメモアプリやらを立ち上げ、メモを取っておく。特に伶奈から預かったお金のことは忘れないように……
「ところで……」
と、良夜がスマホを弄っていると、伶奈がおずおずと言った感じで声を上げた。
「何?」
顔も上げずに青年は答える。
「……美月お姉ちゃんに花束なんて、上げたこと……ある?」
「あるわけないじゃない……」
即答したのは良夜ではなく、伶奈の頭上を住処にしている妖精さんだ。
そして、妖精の発言を確認するかのように少女は尋ねる。
「……ないんだ……?」
その少女の言葉に気恥ずかしさを感じながら、青年はすっと視線をあげた。目の前にはすっかり真っ暗になってしまった山の姿、ポリポリと頭を掻きながら、青年は呟くように答える。
「いや……まあ、余り花を贈るって発想はなかったからなぁ……美月さんが欲しがってるかどうかも――」
「欲しがりますよ?」
言葉を遮ったのはその薄っぺらな胸元に大きめのトレイを抱えた三島美月嬢、まさにその人。
「うおっ!?」
と、目を剥いて驚く良夜を尻目に、玲菜は教科書やノートを片付けていくし、美月はその空いたスペースに料理を並べていく。ぱっと見はイタリア風の天ぷら――フリットにサラダ、スープ、フォカッチャと言ったところか?
それを並べながら、美月はテーブルの上へと落としたまま、言葉を続けた。
「そりゃ、花束いただけるんでしたら、喜んで頂きますよ?」
「……それじゃ、来月にあげるよ」
「誕生日ですか? 誕生日は誕生に他の物が……」
「……社会人一年目だから、遠慮してよ?」
「はいはい……――っと」
良夜と話をしながらも、慣れた手つきで料理のお皿を並べ終えると、美月はひと組のカップルのやりとりをきょとんとした表情で見上げていた少女に声をかけた。
「では、伶奈ちゃん、ごゆっくり」
「うっ、うん……頂きます」
屈託のない笑みに伶奈は軽く言葉につまりながらも、コクンと首を縦に振った。
そして、美月がその場を離れれば、青年も美月の後を追うようにその場を離れる。
「じゃあ、またね、伶奈ちゃん」
「うん」
食事を始める玲菜をその場に残し、踵を返す。そして、頭の上にアルトが着地するのを感じたら、良夜は美月と共にディナー客も帰り閑散とし始めたフロアを後にした。
彼らが向かうのは向かう先はキッチン、フロアとキッチンの境目辺り。そして、美月だけがキッチンの奥へと入るのを見送ると、青年は壁際の隅っこに置かれている小さな丸椅子に腰を下ろした。
「やっぱり、来週の金曜だってさ、伶奈ちゃん」
「ああ……やっぱり、そこを選びましたかぁ……それじゃ、良夜さん、申し訳ありませんが、翼さんを迎えに行ってくれます?」
大きな寸胴の前、スープのあく取りを始めた美月がそう言うと、その傍、シンクのところで洗い物をしていた翼が小さな声を発した。
「……よろ」
こちらを見もせずに発せられる翼の言葉に相変わらずだな……なんて思いながらも、青年は軽く首肯した。
「りょーかい。寺谷さんを迎えに行った後に花屋だな……あっ、花代、ひとり千円な、さっきも言ったけど」
「……花束、誰が渡すの?」
尋ねたのはアルトだった。
その言葉に良夜は即答した。
「美月さんだろう?」
その言葉に美月があく取りの手を止めて、言う。
「えっ?」
「えっ? じゃないよ……こう言うのは責任者とか、上司とかがやる物だろう?」
良夜がなんとなくそう言うと、美月はきょとんとした表情を青年に向けて、言った。
「むしろ……こー言うのは、直属の部下が……」
その言葉がコトコトと煮立つ寸胴のBGM越しにキッチンに生まれた時、ナイスなタイミングで吉田貴美の直属の部下――時任凪歩が汚れた食器を持って帰ってきた。
そして、彼女は悲鳴のような声を上げた。
「ちょっと待って! そんな、改めてやるの、恥ずかしいって!! 翼さんがサクッと渡しちゃえば……」
凪歩の苦し紛れなセリフに翼は大きな絵皿をスポンジで洗いながら、冷たく答える。
「……ヤなこった……」
こうなると始まるのは、女性三名による押し付け合い。
尚、この時、三人、否、良夜とアルトを含め、五人は思っていた。
(渡した奴は吉田貴美になんて言われるか、解らない)
……と。
で、当日……
「えっ? あれ……? なっ……なんで?」
喫茶アルト最下層バイトJCウェイトレス西部伶奈は深紅の大輪が美しいバラと白く小さな花が可憐なかすみ草がほどよく混ぜられた大きな花束を胸に抱き、苦笑いを浮かべている吉田貴美の前に立っていた。
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