出ていく人、残る人(1)

 喫茶アルトの裏口、キッチン側の入り口横には一つの小ぶりなカラーボックスが置かれている。高さが一メートル弱、幅が四十センチほど、奥行きは三十センチ程度、仕切りは二つ。木目調の合板で作られたごくごくありきたりなカラーボックスだ。
 元々は事務所の方に置いてあったのだが、貴美が事務室にまでタイムカードを押しに行く時間が惜しいと言って、こちらに移動させた。
 そのカラーボックスの上にはずいぶんと古い形ではあるがタイムカードのレコーダー。それから側面には布製のポケットが画鋲で留められていて、その中にはタイムカードが数枚、無造作に突っ込まれていた。
 そのタイムカードは全部で六枚。
 三島和明、三島美月、時任凪歩、寺谷翼、西部伶奈、そして、吉田貴美。
 前五人のタイムカードには規則正しく刻の刻印がなされ、彼らが日々真面目に勤労に励んでいることが見て取れた。
 しかし、問題は最後の一人。吉田貴美の分。
 彼女の名が書かれたタイムカードに刻印は全くない。
 実際、彼女が喫茶アルトで最後にバイトをしたのはずいぶん前の話だ。夏休みに恒例の喫茶アルト従業員研修(慰安)旅行に行ったり、その後に翼や凪歩が免許を取りに行ってたときに、ヘルプに入って貰ったのが最後だ。
 もちろん、その時に使っていたタイムカードが未だにポケットに突き刺さっている……と言うわけではない。きちんと、毎月毎月、新しいタイムカードが供給されているのだ――
 ――三島美月の手によって。
 締め日の夜、退勤の押印をしたら、全員のタイムカードを回収して、輪ゴムでひとまとめ。それを、事務所の所定の位置に片付ける。そして、新しいのを用意する。その時、各々の名前と当該月をボールペンで記入しておくのは、ひと月に一度の大事な仕事になっていた。
 で、その時に、吉田貴美と書いた一枚を毎月毎月用意しているのだ。
「なんで……?」
 それに気づいた伶奈が何気なく尋ねると、美月は少し寂しそうな笑みを浮かべて、答えるのだった。
「なんとなく……ですよ」

 さて、三月中頃のとある日曜日、良夜は昼前に喫茶アルトに顔を出した。休みの午前中を家事の消化に当てた美月と出掛けるためだ。
「あっ、いらっしゃいませ……」
「あら、早かったわね」
 美月の代わりに店番をしている伶奈とその伶奈の頭の上でくつろぐアルト、二人と二言三言言葉を交わす。そして、椅子を伶奈の頭から良夜の頭へと変更した妖精さんを連れて、窓際隅っこ、いつもの席へと向かった。
 窓際の席は早春の優しい日差しを一杯に受けた心地よい。その椅子に腰を下ろしたら、テーブルの上に着地を決めた妖精さんと愚にも付かないおしゃべり。話した片端から忘れていくようなどーでもいい話をしつつ、美月を待つ。
「お待たせしました」
 そう言って美月がひょっこりと顔を出したら、翼が作ってくれたまかない料理のお昼ご飯を頂く。
 それを食べたら、頭の上に乗ってたアルトは伶奈に預けて、いざ、お出かけ。
 この日のデートはドライブを兼ねて隣県にあるイタリアンレストランへの遠征。遠回りになるが海岸線をずーっと走って、奇麗な景色を堪能するコースをチョイス。
 ちょうど岬の先端に達する辺りで日が暮れてきたので、そこにある遊歩道を散歩しながら、海岸線に沈む夕日を眺める。
 真っ赤に燃える水平線と紫色に染まる空とのコントラストはなかなかの見もの。
 丸い太陽がすっかり水平線の向こう側へと姿を消し、そして、残暑すら消えるまで、遊歩道途中にある東屋を占領して、恋人達はのんびりとしたひとときを過ごした。
 そして、本命はイタリアンレストランでのディナーだ……と言えば聞こえは良いが、実際は美月の偵察。
 パスタやカルパッチョ、ピカタなどなど、三人、いや、四人前ほどの料理を注文したら、美月が一口ずつ食べ、味わい、そして、メモを取る。もちろん、メモの内容は料理だけには留まらず、店内の雰囲気、ウェイトレス、ウェイターの働きっぷり等など、気がついたことは、なんでも全てメモに取る。
 このメモは持ち帰り、週明け、営業終了後に行うお茶会時の議題になったり、新作メニューのヒントにされたりと、色々便利に使われる事になる。
 恋人は真剣な表情で料理を味わい、メモを取っていた。
 そして、良夜は彼女が残した料理を頂く残飯処理係だ。
 会話少なく、黙々と食事をしては、メモを取り、食べ残しが良夜の方へと押し付けられる。
 これをデートと言って良いのかどうなのかは非常に悩むところだが、ただ飯なので文句は言わない。
「美味しかったですねぇ〜」
 運転している美月がそのセリフを吐くのは、これが五回目。結構なペースだ。ボキャブラリが貧困なのか、美月は基本的に『美味しかった』と『いまいちだった』しか言わない。後はその頻度で感動具合、もしくは失望具合を表明しているようだ。
 で、一時間の間に五回は結構多い方。
 かなり、褒めてると言って良いだろう。
 もっとも――
「俺、後半は味わってる余裕なかったけどね……」
 ――良夜は食っても食っても減らない焦燥感だけを味わってた。別に全部、食わなくても良いと思うんだけど、なんか、食ってしまうのは貧乏性だからだろう、と本人は思っている。
「あはは、いつも、お世話になってます」
 運転する横顔、右の頬に対向車のヘッドライトを浴びて、美月は年よりも幼く見える笑みを浮かべた。
 そんな美月の笑みにつられるように青年も頬を緩めた。
 そして、青年はパワーウィドウのスイッチに指をかけた。
 ウィーン……とかすかな音を立てて、窓が開く。
 開いた窓から肌寒い早春の夜風が流れ込み、良夜の前髪をゆらした。
 片側二車線の国道、周りはオフィス街。明かりの減ったビルの下を帰宅ラッシュに巻き込まれた車達が、のそのそと制限速度よりもずいぶんと遅い速度で走っていた。
 その車達と同じ速度の車の中、青年はぼんやりと周りを見るともなしに見ながら、口を開いた。
「こー言うのやれって言い出したの、吉田さんだっけ?」
「そうですよ〜ディナーのためのお店巡りをしてるって言ったら、『ちゃんとメモを取って、他のメンツにも教えろ』って」
 ハンドルを握る美月は、そう答えると一端言葉を切った。
 そして、微苦笑を浮かべて、言葉を続けた。
「そのうち付き合うって言ってたはずなのに、結局、付き合ってくれなかったんですよねぇ〜」
「あはは、美月さんと吉田さん、休みが入れ違いだから」
「そうなんですよねぇ〜」
 美月と言葉を交わすうち、渋滞に巻き込まれ、車が止まった。
 フロントガラス越しに見える信号はずっと向こうまで青信号。それでもぴくりとも動かないんだから、ずいぶんと気合いの入った渋滞だ。まあ、この辺りは来る度に渋滞しているのだが……
「吉田さんと言えば、未だに吉田さんのタイムカード、用意してるんだって?」
「あら、知ってたんですか? 恥ずかしいですねぇ〜」
「アルトが言ってたよ」
「吉田さんには色々お世話になりましたし……ほら、喫茶アルトの大きい方と小さい方でがんばってきたわけですしねぇ〜」
 少し寂しげな声で美月が言うと、良夜は視線を開け放たれた窓の外へと視線を向けた。そこには片側二車線、上下びっちりと埋め尽くされた車達の列。大きいのやら小さいのやら、種々様々。
 そんな車列をぼんやりと見ながら、彼は考える。
(さすがに巨乳の方と貧乳の方って、自分では言えなかったか……)
 そんな良夜に視線の外から美月が不機嫌そうな声をかけた。
「今、何か不埒な事、考えてませんでした?」
「考えてないよ」
「……巨乳の方とか貧乳の方とか……」
「…………」
 頭の後ろから聞こえる言葉に一息の沈黙。そして、青年は控えめな声で応えた。
「考えてないよ」
「……即答しないのが怪しいですよねぇ〜? まっ、追求はしませんけど」
「そうしてくれるとありがたいな」
「…………語るに落ちるって知ってます?」
「知らないなぁ」
「……良夜さん、アルトに似て来てません?」
「止めてよ、それ」
 そっぽを向いた良夜とフロントガラス越しに進行方向を見ている美月、互いに言葉を二つ三つと言葉を交わし合う。
 そして、車はゆっくりと速度を上げていく。
 渋滞はもうすぐ越えそうだ。
「いざとなったら吉田さんに頼れるって言う……安心感、あるんですよねぇ……」
 美月が少し寂しそうな口調でそう言った。
 その言葉に良夜は窓の外から視線を美月の横顔へと戻した。
 フロントガラス越しに渋滞している車列を見つめる美月の横顔。そこには、寂しさ、心細さ、ふがいなさ、そんな物をない交ぜにした笑みが浮かんでいた。
「他の二人とか店長とかとは違う?」
「違いますねぇ……なんて言うか……吉田さんに言えば、卑怯臭い裏技を使ってもどうにかしてくれそうなんですよ〜」
「あはは、卑怯臭い裏技かぁ〜確かに……なんか、そんな気がする」
「実際、頼った事ってあまりないんですけどね。ほら、保険はかけてるだけで安心って言う感じ?」
 冗談めかした口調で美月がそう言えば、良夜はもう一度、声を出して笑った。
 そして、美月は小さな声で呟くように、独り言のように言った。
「でも、何処かで区切りは必要ですよねぇ……」
 車は速度を上げていき、宵の口の冷たくなり始めた風が開け放たれた窓から流れ込み、青年の前髪と美月の長い髪がパタパタと乱れ始める。
 それを見やり、青年は窓を閉めた。
 そして、空調機のスイッチを良夜が入れた。
 ふわっと吹き出し口から冷たい風が吹き出し、青年の頬を撫でた。
 その吹き出し口の角度を調整しながら、青年が言った。
「吉田さんの追い出し会、パーッとやろうか?」

「吉田さんの追い出し会、パーッとやろうか?」
 と、良夜が言ったら、美月が答えた。
「それじゃ、段取り、よろしくお願いします」
 と……
「えっ? なんで?」
 良夜は目を丸くしたが、言い出しっぺの法則という奴らしい。
 で、良夜はこう言う感じ的な物の経験は全くない。何と言ってもこう言うのは――
「貴美にやらせるとそつがないのよねぇ〜」
 テーブルの上、足を投げ出して座るアルトがそう言った。
 喫茶アルトフロア、窓際隅っこ、いつもの席。春休み中、平日昼間、ランチ少し前という時間帯はフロアに人影も少なく、まるで店内を貸し切っているのかと思うほど。
 その借り切りのようなフロアの隅っこ、テーブルの上、日だまりの中でぼんやりしている妖精に向けて、青年は言葉を放った。
「行動力も高いしなぁ……イベントの面倒事はあの人に押し付けときゃ、大概、なんとかなる……」
「無理矢理、なんとかさせる、でしょ?」
「そうとも言うな」
 軽く肩をすくめて、良夜はテーブルの上に置かれたコーヒーカップに手を伸ばした。少し冷えたコーヒーに口を付けて、一口すする。芳ばしい香が口いっぱいに広がっていくのを愉しむ。
 そして、彼は言った。
「まあ、吉田さんの追い出し会を吉田さんプロデュースでやるわけにはいかないしな、手伝えよ?」
「アイデアは出すわよ、私の言うとおり、馬車馬のように働きなさい」
「……他の人に頼めば良かった……」
「遅いわよ」
 

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