バレンタイン物語(2:翼……と、名も無き女子大生)

 バレンタインデー直前、まさに前日、土曜日。その夕方前。
 本来、美月は土曜日はお休みだ。そのために伶奈にアルバイトをして貰っているし、今日も彼女はレジの所にちょこんと座って退屈そうにあくびをかみ殺している。
 その土曜日、今日は恋人の良夜が先々週辺りからちまちま始めてる引っ越し作業のせいで出掛けられないので、美月は朝から溜まっている家事の方をこなしていた。主に洗濯。後は駐車場の草むしりとか、窓ふきとか。
 この日の美月はこんな感じで一日が終わるはずであった。
 だがしかし。
 未だ、洗濯物の途中の美月は、一人の女子大生に捕まっていた。余り人気の無いフロアーの中、カウンターの内側に立つ美月の前には、ストゥールに腰掛けた女子大生。非常に不機嫌そうな顔をしている。
 学部は知らないが多分三年生だと思う。ちょくちょくアルトに来ているので顔は覚えているが、名前を美月は知らない。客商売には良くあるタイプの『顔見知り』だ。凪歩に聞けばもうちょっと詳しい話も解るかも知れないが、今日はあいにく彼女は休みだ。
 美月に比べると少し背も高く、胸元を含めて、各部の数値はどれも大きめといった所か? 化粧もけばくなく、上品に上手にやってる感じ。目を見張るほどの美人ではないが、平均値よりも下と言うほどの不美人でもない。望めば恋人の一人や二人は作れそうな女性だ。
 うつむき加減の顔に真剣なまなざし。ジトォ〜〜〜〜とカウンターの向こう側に立ってる美月を彼女は見つめていた。
「えっとぉ……ですね……予約のキャンセルはもう無理と言うか、すでにケーキは届けられているというか……」
「でもね、でもね、聞いてよ、三島さん」
「まあ……そりゃ、聞いてますよ? 恋人と別れたって言うのは、可哀想だとは思いますが、こちらも……」
 半泣きになってる女子大生の顔を見下ろしながら、美月は自身の顔が何とも言えない苦笑いに変わっていくことを自覚していた。
 彼女のお願いというのは、ひどく簡単な物であった。それは、『バレンタインデーのために予約しているケーキをキャンセルしたい』だ
 しかし、すでにバレンタインデー前日。外注先のケーキショップ『ひさか』からすでにケーキは届けられ、キッチンにあるケーキ用の冷蔵庫に安置され、その時を今や遅しと待ち構えている。
 それでも普通のケーキならば、当日売りすれば、売れることも考えられようが、問題は彼女が頼んでるのが五号のケーキって所だ。
 一号がだいたい三センチと考えていただければ問題ない。
 すなわち、五号とは十五センチ。
 直径十五センチのガトーショコラバレンタインスペシャル。
 こんな物、他に買う奴なんてそうそう居ない。
 居るとしたら、三年前の三島美月場くらい物。まあ、その前年に四号十二センチのガトーショコラをほぼ一人でやけ食い出来ちゃった物だから、二人なら五号でも行けるんじゃないか? と思って買ってみたら、いけなかったという間抜けな話。
 閑話休題。
「だってね、だってね、彼はケーキならいくらでも食べるし、私も好きだから……」
 そう彼女は半泣きで呟いたら、どんっ! とテーブルを叩いて、顔を上げた。
「でも、出来たかもしれないって言ったら、『誰の子?』って聞くような奴とつきあえないよ!? あんた以外に誰の子がいるんだって話だよ!!??」
 どんどん! 二回、彼女はカウンターに自身の拳をぶつけた。その度に置かれたグラスの中に小さな波が立ち、数滴の水滴がグラスの表面を滴り、木目美しいカウンターに小さな水たまりを作る。
 その水たまりからチラリと右に視線を動かせば、カウンターの一番奥で黙々と楽しそうにパイプを磨いている老紳士の姿があった。彼の視線は自身の手元、パイプに釘付けでこっちを見やしない。
 そんな祖父の横顔を見やり、美月は――喫茶アルト“ほぼ”店長三島美月は内心、ため息を吐く。
 そして、女子大生の方へと顔を向けて、美月は言った。
「……まあ、とりあえず、相手の方と話し合ってみないと……お子さんのこともあるわけですし……」
 美月が言うと、彼女は自身を落ち着けるかのように水滴が滴るグラスへと手を伸ばした。うっすらとルージュを引いた唇にグラスが押しつけられ、よく冷えたお冷やが彼女の白い喉を上下に動かした。
 そして、それをカウンターの上へと戻して、彼女は言う。
「いや、出来てなかった」
「………………はあ?」
 思わず、美月が素っ頓狂な声を上げると、彼女はプイッとそっぽを向いた。
 そして、バツが悪そうにぼそぼそ……と消え入るような声で呟き始めた。
「おっ、遅れてた……だけ……私、今まで、遅れたことがないから、ちょっと慌てて……」
 その告白に美月は思わず天を見上げた。
 喫茶アルトの見慣れた天井とそこからぶら下がるペンダントライトが見えた。
 そこを数秒、美月は見上げた。
 女子大生は逆に床を見ていた。
 お互いに何も言わない。
 沈黙のひととき。
 何処かでカラスの鳴く声が間抜けに響いた。
 そして、視線を女子大生へと戻して、やおら、美月は尋ねた。
「えっ……えっとぉ……ただの勘違いで、こんな大騒ぎになってるんです……か?」
 尋ねた言葉に女子大生の顔がバネ仕掛けのように跳ね上がり、美月の顔を真っ正面に捕らえる。そして、彼女は更に二回、カウンターを叩く。
 先ほどよりも水の減ったグラスの中で、先ほどよりも大きな波が生まれ、そして、先ほどと同じだけの水滴がグラスの表面を流れて落ちる。
 その落ちた水滴を振るわせるように、彼女は大声を張り上げた。
「じゃあ、聞くけどさ! 三島さんだって、あのバレンタインデーの翌日にフロアで大げんかしたって言う彼氏が、とっさに『誰の子?』って聞いても笑って済ませられるの!? 『貴方の子に決まってるじゃんか〜カッコ笑い』で済ますか!?」
 と、彼女に言われて、美月はしばし黙り込んだ。
 許せるか許せないかと言えば、そりゃ、まあ、許せはしない。しかし、良夜の舌禍事件に対していちいち怒ってても仕方ないというか、諦めているというか、そこを含めて彼の人間性と思っているというか……彼の舌の一部は脳みそではなく、脊髄に繋がってて、その脊髄反射で動いてるからしょうがないと思っているというか……
 と、まあ、色々考えてはみたが、それよりも大事な事が、美月にはあった。
「えっ……えっとぉ……まず、三年生、ですよね? なんで、入学前の事件、知ってるんですか?」
 美月がおずおずと尋ねると、グラスのお冷やを一息に飲み干した女子大生が応えた。
「一年のバレンタインの頃に『そー言えば』って、先輩が教えてくれた。毎年、語り継がれてるみたいだよ? 各学部、各サークルで」
「……やめましょうよ、あの事件を子々孫々に語り継ぐの」
 苦笑いで美月が言えば、ジトォ〜〜〜と斜め下から彼女の三白眼が美月を睨み上げる。
 そして、ゆっくりとの女子大生は言った。
「…………キャンセル、受けてくれなきゃ、孫子まごこの代まで語り継いでやる」
「ちょっ、やっ、やめましょうよぉ……」
 半泣きの美月を置き去りに彼女は両肘を付くと、自身の口の前で指を組んで見せた。口元を隠した、例の司令官ポーズだ。あのポーズを取るとジトォ〜っと冷たい瞳で美月を見上げながら、彼女は宣言した。
「………………今の私はね、直径十五センチの行き場をなくしたガトーショコラと恋人のいる幸せそうな女にはいくらでもきつく当たれるんだよ……」
「ふぇ〜〜〜〜」
 結局、美月は『ポケットマネーでそのケーキを七掛けで買い取る。そして、例の事件は忘れる』という条件で、彼女に折れて貰うことになった。

 さて、その日の営業終了後、母に迎えに来て貰った伶奈を送り返して、残ってるのは美月とキッチン担当下っ端の寺谷翼さんの二人きり。店内の明かりをほとんど消したら、窓際隅っこいつもの席を二人で占領。温かいコーヒーと売れ残りのシュークリームとエクレアを肴に、反省会と言う名のお茶会が催されていた。
「……と、言う訳なので、このケーキ、七掛けの半分……定価の三割五分で買っていただけると非常にありがたいんですけど……」
 そう言って美月はテーブルの上に一枚の紙切れを置いた。例の女子大生が置いて帰った予約引換券だ。ケーキ本体はキッチンのケーキ用保存ケースの中。
 その紙をひょいと取り上げ、一瞥。そして、彼女は美月の方へと押し返した。
「いらない」
「そう言わないで下さいよ〜私、すでに四号のケーキ買っちゃってるんですよ? 例年、翌日まで残る、四号のケーキ。これに五号が来ちゃったら、良夜さんが糖尿病になって死にますよ? ほんと」
「………………チーフが、喰え」
「食べきれませんよ〜」
 仏頂面が冷たく言い放てば、美月は半泣きから七分泣きへと進化して、パタンとテーブルの上に突っ伏した。コツン……と額をテーブルの上に置いて「ううぅ……」と嗚咽を漏らす。
 そんな美月の頭の上で翼はため息一つ。そして、彼女は言った。
「チーフは……甘い」
「そりゃ、解ってますよぉ……予約キャンセルはご遠慮下さいって、そのチケットにも書いてあるのは覚えてますけど……アレ、言いふらされるのは非常につらいんですぅ〜」
「……アレ…………チーフが、りょーやんを引っ叩いた挙げ句に感極まって、その場で抱きついて、涙のキスシーン……」
 その言葉に美月は顔を上げて、真顔で尋ねた。
「えっと……誰ですか? そう言うドラマみたいな脚色した人」
「……さあ? 私は、そう、聞いた……」
「えっと……引っ叩いたってのは本当ですが、キスシーンなんてありませんからね?」
「…………平凡」
 呟く翼の目の前、パンパン! と平手をテーブルに叩き付けて、美月は懇願する。
「平凡で良いんです! それでですね、ともかく、買って下さい、お願いします、私を助けると思って!」
「………………………………………………」
 パクリ……シュークリームを半分ほどかじって翼はため息を一つ、こぼした。

 そして、翌日……日曜日、バレンタインデー当日。
(私も甘い……)
 ため息を吐く翼のお財布には昨夜のチケットが入っていた。
 翼も一応友チョコという物を二つ用意してある。二人とも女で高校時代の同級生だ。一応、親友と呼んでも良いし、同時に悪友と呼んでも良い、そう言う関係。
 その彼女たちに渡すのは、余り高級ではないチョコマカロンやチョコチップ入りクッキーってことにしてある。チョコを渡しっこするのは寂しいからやめようという暗黙の了解って奴が、この三人組には存在しているからだ。クッキーやマカロンなら『チョコではない』という寂しい女どもの言い訳だ。
 もっとも、彼女ら二人もバレンタインだからと言ってすぐに会えるわけでもない。片方は社会人で仕事があるし、片方も大学に通ってて隣の県に住んでいる。だから、会うのは来週二十日土曜日の夜と言うことにしていた。それに合わせて、クッキーやマカロンの受け取りはそれに当日受け取りにしているから問題ないが、すでにキッチンにまで届けられているガトーショコラは問題だ。
(どうしよう……)
 暇な日曜日の勤務中、翼はぼんやりと考えていた。
 翼はこう言う性格なので友人は極端に少ない。喫茶アルト関係者を除けば、友人と言えるのは先の二人くらいの物だ。さりとて、彼女らに会うまでチョコレートケーキを保存しているわけにも行かない。いくら冷蔵庫に入れてたって味が劣化してしまう。
 まあ、定価の三割五分で買ってるわけだから、最悪、今夜、一切れ食べて、明日の夕飯にもうひと切れ食べて、残りは処分しても元は取れる計算だ。
 しかし、もったいない。
 と、考えていたら、美月がひょっこりとキッチンに顔を出した。
「カルボとペペロンチーノ、それから、ミートソース、それぞれ、スペシャルセットです。後、マカロン、一つずつ付けてください」
 そう言って美月は翼に焼き菓子の棚から持って来た小さなマカロンを二つ、皿の上に載せて手渡した。
 その手渡されたマカロンと美月の顔を見比べ、翼は呟く。
「……マカロンも?」
「はい、灯くん達三人組なので。去年のクリスマスにもがんばっていただいたので……まあ、勝岡さんは手伝って貰ってませんが、一応」
 そう言って愛らしい笑みを浮かべる美月を見やり、翼はしばらくの間、沈黙した。
 数秒ほど。
 そして、ひと言言った。
「……安い」
「こっ、こー言うのは気持ちなんですよ〜知ってましたか?」
「……知らない……」
 冷や汗かいてる美月に向かって、ひと言だけ答えたら、翼は一端言葉を句切った。
 更に考えること数秒……
(奴らにくれてやれば、ホワイトデーに何か帰ってくるかもしれない……)
 との打算を下して、翼は口を開いた。
「…………礼のガトーショコラ、付ければ良い……義理チョコ扱い……で」
「まあ、私は良いですけど……」
「どうせ……食べきれないから……」
「はい、わかりました」
 応えて美月が早速料理に取りかかれば、翼もその下手間に入る。フロアはひとまず、和明一人にお任せ。
 そして、料理が完成したら、持っていくのは、なぜか、翼の役目になった。
「そりゃ、一応、そのケーキ、翼さんのですから〜」
 美月は明るい口調でそう言った。
 まあ、実際、翼もホワイトデーのお返しには過分なまでに期待しているから、持っていくのはやぶさかではないのだが……三人分のパスタスペシャルセット(サラダ、フォカッチャ付き)は結構重い。ここにガトーショコラのお皿まで載ると、慣れてないキッチンスタッフには一苦労だ。
 結局、三回、一人分ずつのデリバリー。それからケーキを最後にまとめて持っていくと、三人の男達は不思議そうに小首をかしげた。
「えっと……ケーキ、頼んでないけど?」
 灯が代表するかのように尋ねた。
 その問いかけに翼はぶっきらぼうにひと言だけ答えるのだった。
「……義理チョコ……」
 四分の一ずつのサイズにカットされたケーキの上には、美月が用意したマカロンがなぜか爪楊枝で突き刺さっていた。
 そのマカロン付きのケーキと翼の仏頂面とを三回見比べ、灯がぽつり……とひと言だけ漏らした。
「あっ……ありがとう……」
「……んっ」
 そして、翼は踵を返す。
 その背後では相変わらず、不思議そーにケーキを眺めている三人の男達の姿があった。
 そんな三人組を置き去りに数歩進んで立ち止まると、翼は後ろを振り向き、彼らに言った。
「…………値段、メニューにだいたい書いてるから…………」
 その言葉に一瞬、きょとん……とした表情を見せたかと思うと、数秒後に、彼らは深いため息を吐くのだった。

 なお、灯はこの後、家に帰って、更に凪歩から今度はチョコチップ入りクッキーを三袋貰った。
「シュン君と勝岡くんに、渡しておいてね。ホワイトデーは倍返しで良いから♪ 値段はメニューを見てね」
 と、言うわけで、灯達、二四研の三馬鹿のバレンタインは結構実入り多く、そして――
「バレンタインの押し売りだったよな……」
「値段確認しろはないよな……」
「ジャリにはなんかやってやる……」
 灯、俊一、そして、悠介が一言ずつ呟き、ため息を吐いた……

 そして、彼の女子大生が夕方頃、喫茶アルトに――
「仲直りしたから、例のケーキ、残ってる!?」
 ――って、駆け込んできたわけだが、彼女に与えられるケーキはすでに灯達三馬鹿と翼の胃袋の中に収まっていた。
 どうやら、彼氏の方が土下座して許しを請うたらしい。
「ふぇ〜〜〜せっかく、仲直りしたのにぃ〜〜〜〜」
 と、泣いてる女子大生に美月は……
「マカロンとチョコチップクッキー、一袋ずつ、持って帰ります?」
 と、冷たかった。

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