バレンタインデー物語(1:伶奈)

 伶奈は土曜日には喫茶アルトで店番のアルバイトをしている……とは言っても、暇な土曜日だ、最大のお仕事は『暇でもあくびをしないようにがんばる』であったりするから、違う意味で大変。
 そんな中、ここしばらくはお昼ご飯のまかない料理は伶奈が作ることになっていた。
 もちろん、丸ごと全部、伶奈が一人で作るわけではなく、翼の監視監督付。味付けも翼がチェックをしているので、まあ、良いところ翼と伶奈の合作という所だ。
 今日のメニューは白身魚のフリット。フリットとは洋風天ぷらのこと。これをタルタルソースで頂く。これにサラダとスープ、それからフォカッチャが主食だ。
 との、まかないメニューを聞いたとき、伶奈は思わず呟いた。
「……フリットなら豚さん……」
 その呟きに翼が伶奈へと視線を向け、そして、問うた。
「……伶奈……最後に魚……いつ食べた?」
 言われて伶奈は少し考える。
 考えること数秒……
 そして、彼女は答える。
「……えっと、先――」
 も、その言葉が最後まで紡がれるよりも早くに翼が言った。
「ツナを除く。後、回転寿司のネタも」
「――週にツナサンド…………………………………………おっ、覚えてない……」
 イヤな汗をだらだらかきながら沈黙、その後にやおら呟くように少女は答える。
 その答えに翼はことさらに大きなため息を吐いてみせ、そして、言った。
「……今日のまかないは白身魚のフリット……良い?」
「……はい」
 すでに三枚に下ろされた大きな魚を冷蔵庫から取り出す。なんの魚かは良く知らないが、『白身魚』なのだそうだ。まあ、この辺りは比較的安く料理を出してる店らしい材料だ。これを一口大に切り分ける。切ったものを卵と小麦粉、それから隠し味に粉チーズを入れた衣を付けてかりっと揚げる。これがフリット。奇麗に出来上がると衣はかりかりで、中はふわふわの美味しい洋風天ぷらが出来上がる。中身が豚なら大好き……と言えるが、白身魚だと嫌いではないという感じの料理だ。
 そんな作業をしながら、伶奈はふと……数日前から気になっていた話を尋ねた。
「ねえ……血って食べられるの?」
 すると、すぐ隣で野菜を切り分けていた翼が、その手を止め、顔を上げた。
「チ? 血液?」
「うん、血液」
「……豚の血はソーセージ……マムシや……スッポンの生き血は滋養強壮……モンゴルの遊牧民は……家畜の血一滴も無駄にしない……って、言う」
 訥々と答えると、伶奈も一口サイズに切った白身魚に衣を付ける手を止めて聞き入った。
 その説明が終われば、数秒……作業の手を止めまま、伶奈は考えた。
 そして、伶奈はぽつりと呟く。
「……じゃあ……バレンタインのチョコに血を混ぜるのも大丈夫なんだ……」
 伶奈がぼんやりと呟いた言葉に翼がひと言、鋭く言った。
「…………待て」

 英明学園に伝わる伝統のおまじない。バレンタインデーにチョコを作るとき、自分の左薬指の根元から抜いた血を混ぜ、それを食べさせると両思いになれる。これは大昔、黒雪姫とも賞された伝説の生徒会長が開発し、その利き目の強さに自ら禁じたという伝説のおまじない。ちなみにその黒雪姫は高校を卒業後すぐに、格好良い年上の青年実業家と結婚した。
「……――って言う伝説を先輩から……」
 美味しそうに揚がった白身魚のフリット、卵たっぷりのタルタルソース、サラダは軽く茹でた温野菜、それからオニオンたっぷりのスープにフォカッチャ。美味しそうなお昼ご飯がテーブルの前に並べられた。もちろん、三人全員並んで食べるわけには行かないから、翼はキッチンで食べてるし、和明に至っては二人が終わってからと言うことにはなっていた。
 そのまかないランチを食べながら、伶奈は学校で聞いてきた噂話を老店主と自身のランチの上前をはねてる妖精に語って聞かせた。
 すると、目の前で聞いていた『格好いい年上の青年実業家』のなれの果ては頭を抱えた。普段はきりっとしていて、一分の隙もなく、かと言って近づきがたいかと言えば、そんなことは全くない、温和な老紳士が、天井を見上げ『ああ……』としばしの間、絶句するほど。
 絶句している老紳士を見上げつつ、少女はほかほかのフリットを口にパクリ。揚がり具合も良い感じ、外はカリカリ、中はふわふわ、絶品フリットに舌鼓……だけど、頭の片隅では『豚さんが良かったのに……』とか思ってたりするのはちょっと秘密。
 その一つ目が飲み干される頃、老紳士がやおら口を開いた。
「えっ、えっとぉ……色々と……話が伝説化するうちに変わってるようですが、まず、真雪さんが今日の伶奈さん同様に、私に『人の血って人に飲ませても大丈夫か?』って聞いたんですよ。それで、私は雑菌だらけだから危ないって答えたんです。それで、彼女が生徒会を通じて『止めろ』って通知を出しただけで……そもそも、その時、真雪さんは二年生で、生徒会長じゃなかったですよ」
 いくつものため息を吐きつつ、彼がそう言うと、手元、伶奈のフォカッチャをストローで器用に切り分けながら食べていたアルトが、顔を上げた。
「だいたい、真雪はその手のおまじないは全く信じてなかったわよ。『精神主義、神秘主義は玉音放送で終わった』が口癖だもの」
「……――ってアルトが言ってる」
 黒ゴス姿の妖精が言った言葉を老紳士に伝えれば、老紳士はクスッと少し頬を緩めて口を開いた。
「ああ……よく言ってましたね……まあ、その割には血液型占いと星座占いは毎朝テレビでチェックしてましたが……」
 少し懐かしそうに目を細めると、また、彼は言葉を続けた。
「そもそも、私はあの人にバレンタインに何かを頂いた事なんてないですよ。むしろ、バレンタインだから何か美味しい物を作れ……って、言われてたんです」
「お店を始めてからは女子大生の義理チョコを沢山貰ってるものね」
 アルトが補足するように言うと、少女はその言葉と共にひと言付け加えるように言った。
「へぇ……モテるんだ……」
 少女がそう言うと、老人はクスッと皺だらけの顔を緩ませて、口を開いた。
「あはは、違いますよ。バレンタインデーにバイト先の同僚に渡すための義理チョコを買ったのに、カウンターの上に忘れていちゃった女性がいたんですよ、昔。それで、翌日に渡すのもおかしいから、もうアルトのみんなの義理チョコにしてっ事になって……それで、私がホワイトデーにその方にマシュマロコーヒーを煎れて出したら、翌年から、なぜか『店長に安い義理チョコをお供えして、マシュマロコーヒーを貰おう』ってイベントが起こり始めたんです」
 そして、彼が喋り疲れた喉を癒やすかのようにコーヒーカップに手を伸ばすと、そのコーヒーカップからコーヒーを盗み飲んでいた妖精が言葉を続けた。
「それで貰うのが増えすぎて、食べきれなくなった頃から、それを非モテな大学生が『供養』と称して食べるようになって、その時に『お賽銭』と称して、貯金箱にマカロンの値段と同じ金額を入れるの。すると来年にはせめて義理チョコくらいは貰えるという……まあ、これもおまじないよね」
 アルトの語る言葉に伶奈はいろんな感情をかき立てられたが、残念ながら、それを手早く、端的に言い表せるほどの語彙の持ち合わせはなかった。そこで、たった一言、万感の思いを込めて彼女は呟いた。
「凄いね……」
 さて、そんな一月下旬の喫茶アルトでは各種バレンタインスイーツの注文が始まっていた。定番のガトーショコラや絶妙な硬さの生チョコレートをパウンドケーキ型で固めた生チョコボックスと言った“大物”から、チョコトリュフやチョコチップ入りのクッキー、生地にココアパウダーを混ぜ込み間に生チョコクリームを挟んだチョコマカロンなんかも人気らしい。
 と、こう言うようなものを売っているので、喫茶アルトのスタッフ一同は、店長を除いて全員女性だというのに、全員が全員、本命彼氏がいるはずの美月までもが「買う」の一択になっていた。
「料理と製菓は全然違うんですよ? 知ってましたか?」
 って言うのが美月の言い分らしい。どこがどう違うのかはよく解らないが、そういうものなのだろう。
「てか、凪歩お姉ちゃんや翼さんも買うの?」
 食事が終わって相変わらずのレジの番。あくびをかみ殺しながら、伶奈が妖精さんに尋ねると、頭の上であくびをかみ殺していた妖精が、投げやりな口調で答えた。
「二人とも、去年は友達に渡すって言ってたわよ。男か女かは知らないけど、多分、女ね。やっすいチョコマカロンだったもの」
 そして、美月は四号のガトーショコラ。美月と良夜二人で食べたらしい。余った分は良夜が持って帰って、翌日の朝ご飯に食べるという事をしたそうだ。
「それで、伶奈はどうするの? 誰かに義理チョコでもあげる?」
「……おじいちゃんと灯センセにはお世話になってるから上げなきゃ……灯センセに上げると真鍋さんにも上げないと泣いちゃいそうだし、そしたら、ジェリドにも一応……それから四方会のみんなにもあげて……他のクラスの人は……今年は日曜日だし、上げないと思う……」
 指折り数えて伶奈が答えると、頭の上からアルトがひょこっと顔を覗かせ、ニマッと笑った。
 そして、彼女は底意地悪い口調で尋ねる。
「あら……最後なの?」
「……どう言う意味だよ……?」
「べっつに〜」
 楽しげに笑うアルトを手のひらで払いのけると、彼女は玲那の頭からふわりと飛び降り。そして、クルン……と空中で一回転。そのまま、レジの片隅にちょこんと着地を決めた。
 そんな妖精のアクロバティックな着地を横目で見やり、少女はため息交じりに応えた。
「暇つぶしの相手にはなってるから、やっすい義理マカロンを上げるだけだもん……」
「……あら、最後は『他のクラスの人』のつもりだったんだけど……」
 アイボリーのレジの上、ちょこんと隅っこに座ってるアルトが楽しそうにストローを伶奈の方へと向けた。
 そのストローの切っ先を指先でぴんっ! 軽く弾くと少女は眉をひそめて応える。
「……アルト、捻るよ?」
「あら、こわい。慎まなきゃね」
 嘯くアルトからプイッと視線を斬って、伶奈は大きな窓の外へと視線を向けた。
 窓の外はあいにくの曇天、低い雲が垂れ込めて、今にも泣き出しそう。気温はそんなに下がってないから、降ったとしても雨だろう。その低い雲の下、国道を少なくない車が行ったり来たり。
 その風景をぼんやりと見ながら、少女は呟くように言った。
「バレンタイン終わったら、私がこっちに来て一年だね……」
「あら、そうだったわね……」
「うん……あっと言う間だった……私、アルトのみんなと四方会のみんな、それから灯センセ達には感謝してるよ」
「私には?」
「……アルトのみんな、じゃないの?」
「それもそうだったわね」
 頬を緩めるアルトを見やり、少女はひょいとレジの横に積み上げられていたパンフレット兼注文票を取り上げた。そして、もう一度、指折り数えて必要な数を計算する。一応、手芸部ドール組の先輩にもあげた方が良いのかなぁ……この辺りは一緒にやってる穂香や蓮とも相談が必要か? そんなことを考えながら、少女はその紙をぱたぱたと四つ折にし、ポケットにねじ込んだ。
「まっ……チョコチップのクッキーかマカロンだよね……数も多くなるし」

 そして、当日。今年の二月十四日バレンタインデーは日曜日。それぞれにお菓子を持って穂香の家に集合と言うことになった。伶奈もアルトで買ったチョコマカロンとクッキー、それからココアパウダーを持って、穂香の家へと行く予定……
 ではあるが、その日の朝、一番、家から出ると少女はお隣のドアの前に立った。
「…………………………」
 ジーーーーーーーーーーーっとそのドアを眺めること、だいたい一分。
(こう言うときに限って、煙草を吸いに出てこない……)
 と、恨みがましく思うが、だらだらしてれば電車に乗り遅れる。
 意を決して、チャイムを一押し。
 待つこと数秒。
『……はい』
 インターフォンの向こう側から、部屋の中から家主の不機嫌そうな声が聞こえた。
「……西部です……あの、灯センセ達、いる?」
 緊張感たっぷりの声で少女が言えば、インターフォンとドア、両方越しに大きな悠介の声が聞こえた。
『灯! ジャリが来てるぞ!』
 そして、更に待つこと数秒。
 ガチャリ……と音を立ててドアが開いた。
「どうしたの? 伶奈ちゃん」
 中から顔を出したのは精悍な顔つきの家庭教師、時任灯だ。徹夜で遊んでいたのだろうか? 目元には隈、薄くはあるが不精髭らしきもので顎が飾り付けられていた。その背後には同じく普段は精悍なのに眠そうな隈を目の周りに作ってる真鍋俊一や、天敵、ジェリドこと勝岡悠介の姿も見えた。
「なんだ? バレンタインだからってチョコでも持ってきたか? クソジャリにしては良い心がけ――」
 ついでだから……と言ったところか? たばこ盆を片手に軽口を叩きながら出てくる悠介。その彼が持ったたばこ盆の片隅にトンとビニールでラッピングされたマカロンの包みを置けば、彼のセリフは途中で固まった。
「えっ? まじで?」
 思わず絶句する悠介から視線を離して、少女は未だ玄関先に突っ立っている二人へと顔を向けた。そして、恭しく頭を下げると、その手にしていた二つの包みを一つずつ、彼らに渡した。
「…………ふんっ! こっちが灯センセ、こっちが真鍋さんの。お世話になってるから……」
 そう言うと、そのつつみを受け取った俊一がニマッと彫りの深い顔を破顔させ、弾む声で言った。
「ありがと。ホワイトデーは期待しててね」
 そして、灯の方も整った顔を緩ませ、口を開いた。
「ありがと、大事に食べるよ」
 俊一と灯の二人が素直に例を言ってる好きに、悠介は一人、壁を背もたれに床の上に座り込んだ。そして、たばこ盆を傍らに放置したら、早速、マカロンの包みを開けて、その丸い焼き菓子をぽいっと口の中へと放り込んだ。
 もぐもぐ……と、咀嚼したら、彼は言った。
「義理だろう? ホワイトデーには飴玉かマシュマロくらいは返してやるよ」
 早速一つをコクン……と飲み干したら、彼はたばこ盆の上から煙管を取りだし、小さく丸めた刻み煙草を火皿の中へ通し混み始めた。
 その様子を見つつ、少女は、ぽつり……と呟く。
「……ジェリドのは本命」
「えっ?」
 から〜ん……と煙管がたばこ盆の中に落ち、そして、火皿の刻み煙草が零れて広がる。
「えっ?! ちょっ、おまえ!?」
 しどろもどろになってる青年を冷たい視線で見やり、少女は言葉を続けた。
「……だから、両思いになれるように、私の左手の薬指の根元から抜いた血をたっぷり混ぜてあるから……血の味、しなかった?」
「ぶっ!? てめえ、なんて物、食わしやがる!?」
 吹き出す青年の顔を見ながら、少女は自身の左手を背後に回す。そして、自身も別の意味で吹き出しそうになるのを必死で押さえながら、少女は顔を背けつつ、言った。
「ジェリド、私に意地悪だから……」
「いっ、意地悪と、そー言う問題じゃねえからな!? 腹、下すぞ!? つか、そんなの食わせなくても……」
 真っ赤な顔で慌てる青年、もはや、限界。彼の顔の前に少女はパッ! と左手を突き出す。もちろん、薬指を始め、どの指にも傷なんてありはしない。
「嘘に決まってんじゃん、バーカ、バーカ!!! 念入りに選んだ義理マカロンだよ! お返しはマシュマロが良い!! 中にクリームとかジャムが入ってるの!!! エンゼルパイ可!」
「おっ、おま!? くそじゃり!!! 言って良い冗談と悪い冗談があるんだぞ!?」
「これは言って良い冗談だもん! ばーか、バーカ、バカジェリド!」
 バレンタインデーの朝、少女と青年の喧嘩する賑やかな声がアパートに響き渡った。

 その横では……
「……これ、結構、美味いな……」
「血の味はしないけどなぁ……」
 灯と俊一が義理マカロンをパクパクと口に運んでいた。
 

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