小さな我慢(完)

「げほっ! ごほっ! ごほごほ!!」
 一月下旬とある放課後、家庭科実習室ドール組四方会合同作業スペースに、愛らしい少女が咳き込む声が響き渡った。
 舞い上がるパズルのピース、せっかく色分けされていた物が全部奇麗にまぜこぜ。
「ああ……」
 ロボットの羽にシール(デカールと言うらしい)を貼っていた蓮がため息を吐いた。
 しかし、咳き込んだ本人がそのパズルのピースをより分けていた張本人――東雲穂香だからしょうがない。
「大丈夫?」
 伶奈が尋ねると穂香は軽く首を左右に振った。
「……私は大丈夫だけど、私のパズルが大丈夫じゃない……」
 憮然とした口調、垂れた鼻をハンカチで軽く拭いながら、穂香が言った。それは鼻に掛かった若干の鼻声。彼女が風邪をひいてるのであろうことは疑う余地もなかった。
「まあ……穂香の場合、思い当たる節が多すぎるよね……」
 シルクの端切れを型紙に会わせて切っていた伶奈が、その手を止めて、口を開いた。
 その言葉を受けるように、蓮が言葉を続ける。
「……しのちゃんは帰り道には傘をささない子だから……」
 そう言った蓮の手は羽にシールを貼る作業をやめやしないし、視線もその翼の上を凝視したまま。
「どういうこと?」
 尋ねたのは事情を知らないドール組三年生の三角希花だ。
「あの……穂香の家、学校から歩いて三分の所だから……傘を持ってても帰り道にはささずにダッシュで帰っちゃうんです」
 伶奈がぼそぼそ……っと比較的控えめな声で言えば、希花は「ああ……」と軽く相づちを打った。
 しかも、タチの悪いことに彼女は朝に降ってなければ、昼からの降水確率が八十パーセントとの予報が出てても持ってこないのだ。
「だって、邪魔だし……」
 言い訳じみた言葉を穂香がバツが悪そうに吐けば、伶奈はため息交じりの口調で諭すように言った。
「……そう言って、この間、みぞれが降ったときもダッシュで帰るって言って、濡れて帰ったじゃん……風邪、ひいて当然だよ……」
「うう……反省してま――ゴホッ! ごほごほっ!」
「……帰ったら?」
 再び、咳き込む穂香を見やり、和夏子が言った。その彼女の手にはアレンと名付けられた男性のカスタムドールの姿。穂香が咳き込む度、その咳やツバキが彼に掛からないよう、和夏子は自身の大きめの胸に抱くような感じで庇っていた。
「……はい」
 和夏子の言葉に、素直に頷き、穂香は席を立つ。
 すると、その顔を見上げて、蓮が言った。
「…………しのちゃん、傘、ある?」
 その言葉を聞き、伶奈はちらりと窓の外へと視線を向けた。
 家庭科実習室の外は中庭、そこにはしとしとと二月の冷たい雨が降りしきっていた。お昼過ぎくらいまでは降っていなかったのだが……
 同じく外を見ていた穂香が応えた。
「……ない」
「……はぁ……私、折りたたみ傘持って来てるから……」
 そう言って伶奈は自身の鞄から小さめの折りたたみ傘を一つ取り出した。パステルカラーのチェック柄がパッチワークのようにも見える可愛い傘だ。
「伶奈チは?」
「私は駅まで美紅と一緒に帰るから、入れて貰うよ。あっちに帰ったら、今日、お母さんが居るから、駅まで迎えに来て貰う」
 伶奈がそう言って傘を手渡すと、穂香は気恥ずかしそうに頬を染めて、コクンと小さく頷いた。
「うん……ありがと。じゃあ、借りて帰るね」
 そう言って一足先に帰る穂香を、伶奈は見送った。
 そして、二日後、熱を出して寝込んだ。
「……だって、お母さん、電話に出ないんだもん……」
 寝てたらしい。
 なお、伶奈が休んだ日、穂香は元気になって走り回ってたらしい……なんか、納得いかない。

 熱の方は大したことなく、八度を少し下回る程度。それよりもしんどいのが咳と喉、特に喉がきつい。鼻がつまってるから口呼吸をしてしまい、それで冷たく乾燥した空気を吸い、更に喉が悪化するという悪循環。唾を飲み込むとその痛みで目が覚めてしまうほど。おかげで昨日はろくに眠れていない。母のアドバイスに従って、マスクを付けて寝てみたのだが、寝ると息苦しくて無意識のうちに外してしまうようだ。目覚める度に、顎の下にマスクがずれてた。
 そんな伶奈にスーツ姿の母が心配そうな視線を向けた。
「大丈夫? 寝てられる?」
「ゲホッ……ゴホッ……大丈夫……寝てるから……」
「インフルじゃなくて、ただの風邪だと思うから……しばらくゆっくり寝ておくのよ。冷蔵庫にゼリーとか買って入れてるから、喉が渇いたらそれを食べてね。後、美月さんに連絡して、様子を見に来て貰えるように……」
「美月お姉ちゃんには連絡しないで……仕事中なのに……あと、灯センセには……――」
「家庭教師を休むのは連絡して置くわよ。それじゃ、寝てるのよ」
「うん……行ってらっしゃい」
 そう言って伶奈は分厚い掛け布団の中に体を潜り込ませた。
 母が病院勤めなんだから、そのまま、母と一緒に病院へ……と言うのも考えたのだが、帰り道がしんどい。知っての通り、駅から伶奈の家にまで続く道は結構急で長い坂道だ。歩きだと三十分以上はかかる。しかも、今日も雨。あの坂道を雨の中、三十分もかけて登ってたら、絶対に風邪が悪化する。タクシーでも使えば良いのかも知れないが、それももったいないし、美月に頼るのも気を遣う。それなら、家で寝てた方がマシ……と言うのが伶奈の下した結論だ。
(ちょっと退屈で……しんどいだけ……)
 寝不足でぼんやりしつつも、咳が出るのと喉が痛いのとで、全く眠れない。
 仕方ないからテレビを付けて、ぼんやりと眺める。
 やってるのは余り興味の無い芸能人のゴシップばっかり流してるワイドショーとか、国会中継とか、ニュースとか……田舎らしくチャンネル数も少なくて、それに応じて選択肢も少ない。
(意地悪なのは世界じゃなくて、この地域のテレビ局……)
 お正月にも思ったことを、ニュース番組を見ながら、少女は思う。
 そして、彼女は夢うつつの世界へと……

 さて、伶奈は『美月お姉ちゃんには伝えないで』と母由美子に頼んだ。その頼み、母はちゃんと守った。
 しかし、伶奈も由美子もこのルートで美月に伝わることまでは思い至らなかった。
 そのルートとは……?
「申し訳ありません。伶奈、風邪で寝込んでしまって……今日の家庭教師の授業はお休みと言うことで……」
 病院のお昼休み、食事を手早く済ませた由美子が、灯の携帯電話に連絡を入れた。
 その電話を受けた灯はちょうど、アルトに昼飯を食べに行く真っ最中。傘を肩に引っかけ、電話を受ける。もちろん、そんなことを聞けば、返す言葉はただ一つ。
「はい、お大事にとお伝えください」
 これ以外にないだろう。
 そして、電話を切ったときには目の前には喫茶アルト。出迎えてくれる姉凪歩に向かって、こう尋ねちゃうのも仕方のない話だ。
「伶奈ちゃん、風邪ひいて寝てるんだって?」
 これを聞いた凪歩が、キッチンに戻ったついでに美月に尋ねる。
「伶奈ちゃん、風邪ひいて寝込んでるんだって。大丈夫なのかな?」
 そして、美月が食材の入ったバスケットを持って、西部家に現れたのが、ランチタイムが一区切り付いた二時少し前。ちなみに美月は『いざという時のため』に西部家の鍵を預かっていたりするから、これまた、タチが悪い。ちなみに去年の四月に預けて、十ヶ月ほどにして初めての『いざという時』である。
 と、まあ、このルートで話が伝わったってのを聞いて、伶奈は風邪とは違う意味で頭が痛くなった。
「遠慮しなくて良いんですよ〜家から近いんですから〜食欲はあります?」
 部屋に入ってきた美月がベッドの上で寝転がったままの伶奈の顔を覗き込む。そして、心配そうに細い眉で八の字を描いたら、彼女は静かめな口調で尋ねた。
 その問いかけに伶奈は布団から鼻の上だけを出して、答えた。
「……お腹は少し空いてるけど……喉が痛くて……」
「じゃあ、お粥でも……」
 そう言って美月は伶奈の枕元から隣、キッチンへと足を向けた。
 その美月の頭の上から、ふわりと下りてきたのが、喫茶アルトの住まう小さな妖精さん、アルトだ。ふわっと広がるスカートを手のひらで押さえて、彼女は玲那の枕元、横向きに寝転がる伶奈の目の前に、ふんわりと着地を決めた。
 そして、小さな顔の大きな瞳で少女の顔を覗き込んだら、彼女は言った。
「今年の風邪はきついのね、バカがひいたわ」
「……喧嘩、売りに来てるんなら、帰って……」
 弱々しい声にアルトの眉がへの字を描く。
「あら、本格的に調子が悪そうね」
「……フン……」
 小さく呟いた少女の額に、アルトの小さな手のひらがぺたりと張り付いた。ひんやりとしたアルトのてが心地良い……
「熱は……あまりないみたいね」
「……七度八分、だった……」
 少女が呟くように応えると、アルトはペチペチと二回ほど伶奈の額を平手で叩いた。
「たいしたことが無くて何よりだわ」
「うん……ありがと」
 小さく礼を言うと伶奈は体を起こした。
「つっ……」
 体を起こすと頭が殴れたかのように、ずきんっ! と痛んだ。しかし、それも一瞬だけで、すぐに納まる。総論的には朝寄りかはマシになっていると言ったところだ。
 思わず呟いた言葉にアルトが尋ねる。
「大丈夫?」
「頭、痛い……でも、もう、大丈夫」
「血糖値が下がってるんじゃないんですか? すぐに出来ますよ」
 キッチンの方から調理をしている美月の声が聞こえた。その声の向こう側から聞こえる規則正しく包丁がまな板を叩く音とお湯の沸く音が聞こえていた。
「お店、大丈夫?」
 弱々しく伶奈が尋ねると、答えたのはアルトの方だった。
「二月は四年が大学に顔を出さなくなるから、普段よりかは暇なのよ。それに和明達三人もいるし……」
 そこまで言うと、アルトは一端言葉を句切り、伶奈の目の高さまでぽーんと飛び上がった。そして、自身の視線と伶奈の視線を同じ高さに合わせたら、頬を膨らませて、言葉を続けた。
「それより、由美子に口止めしてたの? 遠慮するなんて、水くさいったら……」
「……仕事中だし……私が我慢したら良いだけだから……」
「……そう言う考え方、嫌いよ」
 アルトはそれだけをひと言言い捨てると、伶奈の膝の上に掛かった布団へと着地をした。そして、プイッと視線を逸らす。
 そのアルトの金色の高等部を見ながら、伶奈は応えた。
「……ごめん」
 小さな声で呟くと、アルトはチラリと伶奈を一瞥し、そして、言う。
「……美月に礼だけ言えば良いわ」
 そんなやりとりをしているうちに、美月の居るキッチンから取り出しの良い香りが伶奈の居る今、ベッドの上にまで届き始めた。その香に少女のお腹がぐぅ……と小さくなった。
 良く考えると昨日の夜も普段の半分ほどで、今朝の食事も食べていないって事を、少女は思い出す。
「お待たせしました」
 暖かな湯気が立ちこめる一人用の土鍋を持って美月が寝室兼用のリビングへと顔を出した。薄桃色の蓋が可愛いそれは、伶奈の家で見たことのない代物。アルトから持って来たのだろう。
「ありがとう……」
 タオルを鍋敷きの代わりにして、膝の上に土鍋を置く。そして、雑炊を食べる。具材は小さく切った鶏肉と野菜。よく煮込まれているおかげで、ほとんど噛まないで食べられるほど。おかげで唾を飲んでも痛む喉にも優しい。
 木製のさじも家で見たことのないものだ。よっぽど、しっかり用意してきたようなのは、前に良夜の家に料理を作りに行ったら冷蔵庫が空っぽで、食器棚も悲惨な品揃えだったという実例があるから。
 その匙で薄味の雑炊をすくって食べる。
 そして、少女は尋ねた。
「お店……大丈夫?」
 その言葉に、テーブルの前に座った美月が頬を緩めて応えた。
「この時間は大丈夫ですよ。少ししたら帰りますけど」
「そっか……」
 薄味ではあるが鳥の旨味がしっかり利いてる雑炊をフーフーしながら、少女は小さめの声で相づちを打った。
「それで何か必要な物とかあります?」
「えっ……別に……――あっ……」
 美月の問いかけに半ば反射的に答えかけた言葉が止まる。
「なんです?」
 テレビに視線を向けていた美月が小首をかしげて尋ねれば、伶奈は小さめの声で応えた。
「……アルト、置いて帰って……話し相手、欲しい……」
「良いですよ」
 にこりと頬を緩めて美月が頷けば、伶奈も少しだけ恥ずかしそうに頬を朱色に染めた。
 そして、その膝の上、伶奈の上前をはねていた妖精が眉をひそめて、言うのだった。
「……置いて行かれる者の意見も聞きなさいよ……」

 まあ、なんだかんだ言って、ちゃんと居残るアルトも付き合いが良い……と、アルト本人も思った。
 何と言っても――
「スー……スー……」
 食事を終え、美月を見送ったかと思うったら、それから三分と掛からずに、伶奈は熟睡し始めたのだから……
 こうして、話し相手として取り残された妖精さんは、話し相手のいない無人の部屋で夜八時、帰ってきた由美子が伶奈を起こすまで、一人でボサ〜〜〜〜〜〜っとテレビを見る羽目になった。
 ちなみに、やっぱり、テレビに面白い物はなかったらしい。

 さすがに伶奈も申し訳なかった……と思ったのは、これから三日後、熱もひいて喉の痛みも消えたときのことだった。
 

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