今年の最後、今年の初め(2)

 さて、アルトでゴミ焼きのお手伝いをし、お駄賃にドルチェ付きランチをいただいて帰ってきた伶奈は、本格的な大掃除に取りかかった。
 寝室兼用のリビングはセンターテーブルを取っ払って掃除機をかけて、ベッドの上に敷かれた布団はシーツも変えて、奇麗にベッドメイク。それからキッチンも今日はちょっと頑張ってしっかりめのお掃除。床に掃除機をかけた後にはぞうきんで水拭きまでする念の入れよう。
 お昼少し過ぎから始めて、気づけばもう外は真っ暗だ。
 そして……――
「……まずは、私を褒めなさい」
「……アルトだったら簡単そうだったんだもん……」
 目の前、鼻の先に浮かぶアルトからは異臭がしていた。その姿はいくら暖冬傾向とは言え十二月暮れも押し迫ったこの時期にはあり得ないほどに不似合いな下着姿。しかも、その可愛いショーツも必要なのか甚だしく疑問だけど可愛いことだけは疑いの余地のないブラも、そして、もちろん、美しい金髪も真っ白い白磁の肌もどす黒い油でぎとぎと……
 妖精さんがこんな姿になったには訳がある。
 伶奈が母に「これだけはしてて」と頼まれたことは、換気扇のフィルター交換だった。
 プラスティックの枠に不織布<ふしょくふ>が貼られた換気扇フィルターはこっちに引っ越してきたときに交換した物だ。それ以来、八ヶ月ほど、一回も交換はしていない。真っ白だったフィルターはもはや真っ黒で、よく見れば油がしみ出し、滴るほど。
 これは交換しなきゃいけない。
 伶奈も覚悟を決めて交換にチャレンジ。
 やり方は難しくない……はずだ。
 でも、背が届かない。
 そこで椅子を用意して、その上に上がることにした。
 椅子の上に上がって、茶色い鉄板で作られた、レンジフードの中に顔を突っ込む。
 つーん……と腐った油特有の悪臭が伶奈の鼻腔を容赦なく突き刺す。よく見れば、どす黒く変色した油が換気扇フードの中にべったりだ。
 これは辛い。後でここも掃除しなきゃ……と少女は心に決めつつ、フィルターの取り外しに挑戦。
「大丈夫なの?」
 下から声が聞こえた。
 三口コンロの上でアルトがちょっと不安そうにこちらを見上げていた。ちなみに奇麗に磨き抜かれたガラストップの上に立ってる物だからスカートの中が見えてた……って話は、完全な余談である。
「うーん……大丈夫……――わっ!? 垂れた!?」
 どうやらプラスティックの枠と換気扇本体との隙間に油がたまっていたようで、それがフィルターを外した表紙にあふれ出したようだ。その異臭を放つぬめぬめの気持ち悪い油が伶奈の手にべったり……その感触に驚いた少女がそのはずしたフィルターを手放したとして、誰が攻めることが出来よう?
 そして、その真下に妖精さんが居たのは不幸な事故、もしくは――
「そっ、そんな所にいるのが悪いんじゃんか?!」
 とっさに叫んだ言い訳に対して、妖精も叫び返す。
「まずは謝りなさいよ!!」
 なお、本日の妖精さんは真っ白いシルクのドレス、レースたっぷりのふわふわゴスロリドレス。
 それが、今、過去形になった。
 頭から油ぎとぎとの換気扇フィルターを被ったせいで、真っ白だったゴスロリドレスはもはやまっ茶色。ぎとぎと感もひっくるめると……
(わぁ……ゴキブリだぁ……)
 内心思ったことは言わない。きっと刺される。
「とっ、ともかく、洗わないと、シミになっちゃうよ?」
 ごまかすように少女が言えば、妖精はぱっぱっとドレスを脱ぎ捨て、シンクの中に放り込む。そして、あっと言う間の下着姿。その艶姿、隠すことなく、ストローをピッ! と少女の方へと向ける。そして、彼女は顔を真っ赤に染め上げ、言った。
「もう、着ないわよ! てか、弁償なさいよ! 弁償!!!」
 その言葉に少女は椅子の上から飛び降り、そして、大声を上げ――
「どっ、どう――」
 ――賭けた所で、言葉が止まる。
 そして、少女の脳みそが急速に回転し始める。
 沈黙はきっちり一秒。アルトの顔をジッと見つめながら……その後、少女は落ち着いた声で言った。
「……解ったよ、お年玉で買う」
「……あら……?」
 機先を削がれたのだろうか? アルトは愛らしくコテンと小首を傾げる。心なしか、こちらに向けてるストローからも勢いがなくなったようだ。
 そして、彼女は不思議そうに呟いた。
「……素直ね……」
「…………まあ、お年玉、若干、期待してるし……おじいちゃんとか美月お姉ちゃんとか……」
「…………計算高くなったわね…………」
 本音をぽろりと見せればアルトは苦笑い。それに少女も苦笑いを浮かべながら、口を開く。
「その代わり……ね?」
 そう言って、彼女はするりと指をレンジフードへと向けて見せた。
 そして、彼女は努めて冷静な口調で言う。
「あそこの中……絶対、アルトの方が楽に出来ると思うんだよね……」
「……待ちなさい!!!」
 で、この後「やって」「やらない」の押し問答が続き、結局、服一着に下着もひと組付けるという取引が行われ、アルトがレンジフードの中を掃除することになった。
 まあ、それが伶奈が思ってた以上に大変。
 水拭きだけじゃ落ちないのは解ってるから、マジックリンをたっぷりと中に散布……すると、換気扇を使っても地獄のような匂いがレンジフードの中を満たした。さらには何気なく「天井も……」と思って、天井にもマジックリンを吹いたら、それが天井こびりついていた油を浮かし、一緒に頭の上から降ってくる始末。
 まさに黒い雨である。
 その中で一生懸命ぞうきんでごしごし拭いてくれた妖精さんには、頭が下がる思いだ。
 その間、他の所を掃除していた伶奈もこれは素直に頭を下げざるを得なかった。
「ありがと、さすがアルトだね」
「貴女、絶対、これをさせるために連れてきたんでしょ……」
 ジト目の妖精から視線を逸らして、少女はふるふると首を三回横に振った。そして、棒読み口調で彼女は言う。
「友達、疑うのいくない」
「…………覚えてなさい。とりあえず、お風呂よ、お風呂! 大きめの鍋に適温のお湯を入れなさい!」
 なんてアルトが言うから、その通りに…………するのは止めて、少女は部屋の風呂場へと足を向けた。
「あら……?」
「私も汗をかいちゃったし。どうせ、お母さんももうすぐ帰ってくるしね」
 そう言って、バスブラシにたっぷりと洗剤を付けて、湯船を洗う。
 終わった……と思ってた所にもう一踏ん張りっていのはちょっと辛い。でも、せっかく部屋も奇麗になったことだし……なんて思いながら、少女は湯船の中だけではなく、鏡や床、カラン、シャワーヘッドなんかもいつもよりも念入りに掃除していく。
 そして、掃除が終わったら熱めのお湯が溜まるのをのんびりと待ち、お湯が溜まるまでにジップロックにスマホを入れておく。これでお風呂の中でも音楽が聴けると言うことを、最近、知った。
 そして、お湯が溜まったら、晴れてお風呂だ。
 お気に入りのスタンダードジャズ、最近、レンタルCDで見つけたアレンジアルバムを再生。音楽を聴きながら、熱いお湯にゆーーーーーーっくりと浸かるのが幸せ。
「貴女も成長したわね……油断してるとデブ一直線よ?」
 いつものように湯船の中でぷかぷかとあらゆる所丸出しの背泳ぎをしているアルトがそう言うと、伶奈はクスッと小さく笑って応えた。
「……アルトって、ちょっとスタイルが良い人、全部、デブ扱いするよね?」
「スタイルが良いって言うのは、美月みたいなのを言うのよ」
「……まあ、美月お姉ちゃんが奇麗なのは間違いないけど……」
 呟くように返事して、少女はざぶ〜っとより深く湯船に浸かる……と、足が余るのでそちらは湯船の縁に引っかけてしまうのが伶奈お気に入りの格好だ。
「ふぅ……」
「年寄り臭い」
 ため息を吐いたら、アルトが笑う。
 浴室の端っこ、鏡の前に置かれたスマホからは歌詞のない曲が流れていた。TAKE FIVEって曲。歌えないのがちょっと寂しいけど、これも好き。
 そして、少女もクスッと笑い返す。
「年寄りでも若くても、気持ちいいものは気持ちいいんだよ」
「まっ、それもそうかしらね?」
 そう言って、アルトはザブッ! っと湯船の中に体を沈めた。
 湯船の中で金色の髪がふわっと広がり、妖精が両手両足、ついでに泳ぐときも便利に使える万能な羽までも駆使して、見事な潜水を披露した。
 そして、彼女は湯船を縦に泳ぎ切ると、少女の足下からすっと顔を水面に出した。長い髪が顔や額、頬っぺたに張り付いて、金髪の貞子のようだ。
 そして、今度はクロールで伶奈の顔の方へと戻ってくる。
 その戻ってきた金髪の貞子が鬱陶しそうに髪を整えているのを横目で見ながら、少女は言った。
「今年ももう終わりだねぇ……」
「そうね……終わりね。いい年だったわ……と言えば、貴女は怒るかしら?」
 髪を後ろにまとめ、手で押さえてアルトが言った。
 つんとしたすまし顔、ポーカーフェイス……と言う奴なのだろうか? 感情の読み取れない顔から視線を逸らし、少女は乳白色の天井を見上げた。
「……怒りはしないよ……いろいろなことがあったし……トータルで考えてプラスなのかマイナスなのか、自分でも解らないし……」
 ぼんやりとした口調で少女は呟く。
「……そう……」
「うん……」
 そして、スタンダードジャズの落ち着いたメロディラインが一転、激しい物へと変わった。早口の少女達が一気にまくし立てるメタル調の曲だ。
「……こんなのも聞くのね?」
「穂香の趣味。持ってたから貸して貰ったの。最近はAKBよりかは好きだよ」
「ふぅん……まあ、デイヴ・ブルーベックよりかは中学生らしい、かしらね?」
「だれ? それ?」
「……知らないで聞いてるのね……」
 呆れ顔でもう一度、彼女はチャプン……とお湯の中に潜っていく。やっぱり、金色の髪がふわりと広がる。それはまるで湯船の中を走る流れ星の尾のようにも見えた。
 その流れ星が、再び、少女の胸元、水面へと顔を出したとき、少女は呟くように言った。
「……今、この瞬間は幸せ……」
「そうね……それじゃ、終わりよければ……で、流しておきなさい」
「うん……終わりよければ……だね」
 話をしている所で、スマホの音楽が途切れ、代わりに古い黒電話の呼び鈴を模した電子音が狭い湯船の中に響き渡った。
「誰かな?」
 呟き、少女は体を湯船から鏡の方へと乗り出す。
 上半身、少し膨らみかけた幼い胸元と華奢な腕だけが鏡の方へと伸びた。
 そして、ジップロックの上からタッチパネルのボタンを押して、「もしもし」と声をかければ、聞こえてきたのは、彼女のもう一人の姉貴分――三島美月の物だった。
『今夜、二年参りに行きますけど……良かったら、伶奈ちゃんもどうです?』
 スマホのマイクをジップロックの上から押さえて、少女は手元の妖精に、笑顔を向けて言った。
「まだ、今年は最後じゃなかったみたい」
「きっと、楽しいわよ」
「そうだね」
 アルトと言葉を交わし、そして、少女は美月の電話に応える。もちろん、母の居ない今、即答は出来ないけど……――
「行きたいから、行くつもりで用意してくれてたら……嬉しい」
 少女はそう答えた。
 

前の話   書庫   次の話

ご意見ご感想、お待ちしてます。