せいちょう(完)

 前回ラストシーンから少々話を戻す。
 売り場から少し離れたところにあるトイレ。デパートだけあって、壁にはさりげなく造花が飾られていたりするし、内装も明るい。掃除も行き届いてて、清潔だ。そんな奇麗なトイレの中は、やっぱり、日曜日、それも女性下着の売り場傍となれば結構な人混みになっていた。
 お腹の違和感を抱えながらの順番待ちに、少女の表情は曇る。
「ホント、肉娘だから便秘になるのよ」
 伶奈の頭の上でアルトが嘯けば、少女はぼそっと控えめな声で否定する。
「……便秘じゃないって……」
 されど頭の上の妖精も負けては居ない。
 そして、始まるしょうもない言い争い。
「じゃあ、さっきは出たの?」
「……出てない……」
「ほら見なさい、やっぱり、便秘だわ。お野菜を食べなさい、お野菜。あと、ヨーグルトも効くらしいわよ」
「……毎朝飲むヨーグルト飲んでるし……だいたい、なんでアルトがついてきてるんだよ……?」
「貴美がブラを合わせてるところと貴女がトイレしてるところとだったら、貴女がトイレしてるところで待ってる方がマシだからよ」
「……訳解んない。とりあえず、覗かないでよ……」
 そう言ってる間にようやく順番が回ってきた。五つほどあるドアの一つを開けて、中に入ると「覗くな」と伶奈に言われたアルトが閉めたドアに張り付き、あがくように壁をのぼっていく。
 付き合ってる中、理解したのだがどうもアルトは足下から上空二メートルくらいまでしか飛び上がれないらしい。地べたの上に居ても二メートル、ビルの天辺に居ても二メートル。んで、後は壁を伝って這い上がることが出来る……
 ところで、今日のアルトは黒いゴスロリドレス、金色の髪や白い肌が良く生えて、伶奈はよく似合ってると思う……思うのだが、黒い服を着た小さな生き物が白い壁やドアを這い上がっていくのは――
「………………ゴキブリ」
 ――にしか見えなかった。
 その呟きが宙へと消えて、少女はカチャカチャとオーバーオールのホックを外し、ズボンをするすると膝まで下ろした。
 ら、ようやく、扉の上にまでのぼった妖精が、その扉の上で仁王立ちになって大声を上げた。
「うるさいわね! こっちだって一生懸命やってるのよ!!」
 そう言った大見得を切ってる妖精は、肩で息をしていた。
 その妖精を見上げつつ、軽くため息、そして、少女は呟くように言った。
「……一生懸命やるほどのことでもないと思うけど……こっち向いて立たないで、あっち向いてて……」
「はいはい」
 そう言って、アルトがこちらに背を向け、扉の上に座る。少女はそれを確認したら、ようやく、便座の上に座って、ショーツを脱いだ。
 ら――
「えっ?」
 ――真っ白いお子ちゃまショーツが真っ赤だった。
 外から幼い少女とその母親らしき女性の会話が聞こえた。
 そして、少女の脳みそが超高速で空転し始めた。
「ちょっと……やっぱり出ないの? 下剤でも買えば? 生薬の奴」
 頭の上からアルトの人を茶化すような声が聞こえた。
 その声に空転していた頭の歯車がほんの少しだけかちんとかみ合う。
「あっ……アルト……」
 その呟きに、便所のドアの上、後ろを向いて座っていた妖精がひょいと振り向いた。そして、一瞬だけ目を大きく見開いたかと思ったら、ポソッとひと言言う。
「あら……旗日……って、真雪の時代の言葉かしら?」
 と、妖精がアホなことを言ってくれたおかげだろうか? それまで猛スピードでぐるんぐるんと空回りしていた脳みその歯車が一気にかみ合う。
(とりあえず、アルトは後で捻ろう)
 まずは一番大事なことを心に決める。そして、オーバーオールの胸ポケットに入れてるスマホを取り出して、吉田貴美を呼べばきっと助けてくれるはず……はず……スマホ……胸ポケット……は、今、膝から下、そして、彼女の膝の間には汚れたショーツがあった。
 そのまま、少女は固まった。
「どうしたのよ……スマホで貴美、呼びなさいよ……」
 固まった少女に頭の上空、扉の上からアルトが言った。
「…………だっ、だって……」
 そう言いながら何回も膝下にあるズボンとドアの上でこちらを見ているアルトを交互に見やる。そして、察しろ……の念をアルトに送った。
 すると、アルトはきょとんとした表情で言った。
「……便秘、解消しそうなの?」
「違うし!!」
「……冗談よ、スマホね。取ってあげるわよ」
 そう言ってアルトはくるんと背中から一回転、ぴーんと伸ばした背のままで真っ逆さまに落下! 少女の膝にぶつかる直前、小さなトンボのような羽を一杯広げて急ブレーキ! そして、体を半回転させてトンッと軽やかに膝小僧へと着地を決めた。
「十点、十点、九点、十点、十点、九点、八点!」
「なんの点数だよ……早く、スマホ、取りに行ってよ……」
 揃えた両足、ピンと天高く上げられた両腕、新体操の着地シーンを思い起こされる完璧なポーズに、満面の作り笑顔。切羽詰まってんだから、余計な小ネタは入れないで欲しい。
 そして、アルトはトントンと軽やかに伶奈の足下を駆け下りていき、そして、胸ポケットの辺りに顔を突っ込んだ。
 もそもとズボンに顔を突っ込んでアルトがうごめく。それがズボン越しにもなんとなく見えた。
 そのまま、待つこと数秒……
 不意にズボンの生地が上がったり下がったりするのが止まり、そして、中から少し大きめの声が聞こえた。
「伶奈、ちょっと聞いてみたいんだけど、スマホと私、どっちが重いと思う?」
「うん? スマホの方じゃないか……――あっ!?」
 答えて少女は気がついた。
 そして、アルトが膝の間で膝の間から顔を出して、コクンと頷いた。
「引っ張り出すくらいならともかく、持って飛ぶのは無理かも……」
 足首まで下ろしたズボンのところから見上げてる妖精とそのズボンの持ち主とが見つめ合う不思議な時間が、三十秒ほど流れた。
 隣のトイレで水の流れる音がし、がさごそと衣擦れの音が聞こえた。
「おかーさーん」
 幼い女児の声も聞こえた。
 そして、少女は言った。
「がっ、がんばって!」
「貴女! 帰ったら、三十キロの小麦粉の袋持たせて歩かせるわよ!?」
 顔を真っ赤にしながら大声は上げるものの、妖精は再び、ズボンの中へと顔を突っ込んだ。もそもそとズボンの生地が上下運動を再開し始める。
 なんだかんだ言いながら、助けてくれる妖精が少女には嬉しかった。
「がっ、がんばって……」
 少女は祈るような気持ちで彼女を見守る……
 スポッとスマホを胸ポケットから引っ張り出したら、両手で頭の上に掲げ持ち、妖精はふらふらと飛び上がる。普段以上によたよた、ふらふらした飛び方で、見てる方がとっても不安。
 そして、ようやく膝の上にまで飛び上がってきたら、膝の上に置かれてあった手のひらにポテッとスマホを投げ出し、自身は膝の上にひっくり返った。
 太ももを横断するようにひっくり返って、ゼーゼー、ハーハー……息切れがひどくて、今にも膝の上から落っこちそう。堕ちればそこはトイレと言う名の奈落の中、あまりにも可哀想だから、ちょっと手で押さえてあげる。
「ねえ……伶奈……」
 息切れの荒い息の中、妖精が小さな声で言えば、少女は顔を上げて答える。
「なに?」
「……貴女、ちょっと生えてるわね……」
「……?」
 少女は小首をかしげた。
 真っ白い壁がやけに奇麗。
 そして、数秒が経過し、隣でドアが開き、閉まり、また、衣擦れの音がし始める頃、ようやく、少女はアルトの言葉の意味を理解した。
「……!? どっ、どっどどどどどどどどどど!!!!」
 内太ももから顔を上げたアルトが妙に可愛い顔をこちらに向けて言った。
「ド・ド・ドリフの大爆笑?」
「どこ見てんだよ!!!」
 思わず力一杯閉じた足にアルトの顔が挟まれたのは、自業自得という奴であった。

「ちょっとした冗談だったのに……」
「アルトの冗談は時々底抜けにタチが悪いんだよ……」
 鼻の頭を痛そうにさすってるアホを頭の上に置いて、少女はスマホを弄る。
 そして、思い出した。
「……あっ、私、吉田さんの電話番号、教わってない……」
「…………バカなの?」
 頭の上でアルトが嘆く。
「……アルトに電話したら誰か知ってる人が居るよ……」
 そう言って、伶奈がアルトに電話をかれば、数回のコールの後に美月が眠そうな声で電話に出た。その美月とちょっとした雑談、どんな下着を買ったか? とか、混んでたか? とか……そんな言葉を交わしたら、いよいよ本題、貴美の電話番号を聞けば、当然――
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
 そう尋ねられる。
 とりあえず、
「はぐれちゃって……」
 そう言ってごまかすことにすれば、美月は真剣な声色で言った。
『もう……ちゃんと、面倒を見てて下さいって言ったのに……』
「あの、その、ちっ、違う……別に迷子になってるわけでもなくて……だから……その……」
 美月の中で貴美が悪者になってしまいそうな勢いに少女は思わず慌ててしまうも、ノープランで吐いた嘘に嘘を重ねて、しどろもどろ。
『今、どこに居るんですか? 吉田さんとはどこではぐれたんですか? 大丈夫ですか? 変な人、周りに居ませんか?』
 等々……矢継ぎ早に問われれば、少女のただでさえ、混乱気味になってる頭はあっと言う間にパンク寸前。
 結局、
「せっ! 生理! 生理になっちゃって……今、とっ、トイレ……吉田さんはブラ、あわせてる……自分の……」
『……もっ、もしかして、下着、汚しちゃって、出るに出られないんですか?』
 少女が消え入るような声で言えば、美月の声も一気に落ち着くというか、なんというか……若干、気恥ずかしそうな代物になってるというか……
「うっ……うん……だから、あの……生理用品、持って来て貰おうって……思ってるだけで……べっ、別にはぐれたわけじゃぁ……」
『あっ、あっ、そっ、そうなんですか〜そっ、それは失礼を……それじゃ、えっと……090ー××××……』
 なんとか、番号を教わって一安心……さて、電話を掛けようかな? と思ってみたら……
「伶奈ちゃーん、まだ、がんばってんの?」
 外で吉田貴美が小っ恥ずかしいことを言いだしているのが、聞こえた。

「私に来るかと思って持ち歩いてたんよねぇ……」
 と言う貴美にナプキンを貰って、一安心。下着の方は先ほど買ったばかりの新品ショーツ。せっかく、ブラとおそろいワンセットで買ったというのに、いきなりショーツだけを身につけてしまって、なんだか、がっかり。
 初めてのナプキンに何とも言えない違和感を感じながらも、予定通りに道産牛のビーフシチューパンと男爵いものカレーパン、後、牛肉コロッケって言うのもちょっと興味がわいたので購入。
 それをイートインスペースで食べてたら、貴美が「足りない」と言いだし、更に味玉入り味噌ラーメンをぺろりと完食……したら、今度は食べ過ぎたと言いだして、もう、苦笑いが止まらない感じ。まあ、伶奈も一口貰ったら、これがびっくりするくらいに美味しかったので、食べ過ぎるのも解らなくない。
 もうちょっと、何か見て帰ろうか? と貴美は言ったのだが、ビニール袋に包んでナップザックに放り込んでる汚れた下着が気になるというか、なんか、怖いというか……
 結局のところ、今日はこれにて終了。来たとき同様、貴美の渋滞の元になってる運転に申し訳なさを感じつつ、未だ明るい日の下をのんびりと車で走る。
 そして、アパートの前に止めてもらったら、少女はそこで車を降りた。
「今日は、ありがとうございました……」
 貴美が運転する車から降りると少女は、そう言って深々と貴美に頭を下げた。
「ああ、私も楽しかったよ。色々あったけど、また、機会があったら一緒に買い物にでも行こうよ。今度はもうちょっと可愛いスカートとかさ」
「うん……あっ、はい。あっ、後、アルトが頭の上に居るから……忘れないであげて……」
 貴美の言葉に頬を緩めて答えれば、貴美、そして、その頭の上に乗ってるアルトも一言ずつ、別れの言葉を紡ぐ。
「りょーかい、またね」
「ばいばい、伶奈。楽しかったわよ」
 二人がそう言うと、開いていた助手席側のドアがウィーンと低いうなり声を上げてしまっていく……かと思ったら、再び開いた。
 そして、貴美が体を助手席側へと乗り出しながら、言った。
「大人になったやね、おめでたい……って事ばっかでもないけど、体は大事にしなよ。野菜も食べてね」
「あっ……うん……って、食べてるもん!」
「あはは、じゃ、今度こそ、また」
 顔を真っ赤にして抗議の声を上げるも、貴美は屈託ない笑みで軽く受け流すだけ。そして、軽く手を振ったら、彼女は窓を閉めた。
 そんな貴美に少女はため息をこぼす。そして、走り去る車を見送ったら、彼女はアパート、最上階へと続く階段をトントンと駆け上がった。
 一階から二階、二階から三階、三階から四階……その四階の角を曲がるよりも先に少女の鼻がそれを教えた。
 伶奈の家のお隣、ドアの前にはウンコ座りで煙管をくゆらせてる青年の姿。彼は伶奈の手に握られた紙袋を一瞥すると、冗談めかした口調で言った。
「よっ、ジャリ、お帰り……食い物か? 食い物ならくれ」
「ただいま……また、吸ってる……未成年のくせに……あと、食べ物じゃないし、食べ物でもあげないし」
 自宅の方のドアにもたれると、少女は眉をひそめてぼやいた。
「なんだ……食いもんじゃねーのか……って、ジャリよりかは大人だ」
 伶奈の言葉に軽い口調で言葉を返し、そして、彼はぷっか〜っと紫煙を吐き出す。煙が軒と壁の間、少し小春日和の空へとゆっくりと広がっていくのが見えた。
 それを目で追いながら、少女は呟く。
「肺がんで苦しんで死ねば良いのに……」
「……具体的で嫌な死に様を言うなよ」
 そう言って眉をひそめながらも、青年は煙草を吸うのを止めやしない。それどこから、す〜〜〜っと思いっきり煙管を吸い上げ、ふ〜〜〜〜と空へと紫煙を吐き出すほど。
 その様子と、空へと吐き出された紫煙を視野に捕らえながら、少女はため息交じりに呟く。
「だったら、止めれば良いの」
「大人の男は煙草くらい吸うものなんだよ、格好良く」
「……男は簡単に大人になれるんだね……安っぽい」
「うるさい、バカジャリ」
「バカはジェリドだよ。ジャーね、私、今日は急いでるから!」
 そう言って、少女はドアの方へと振り向き、ポケットから鍵を取り出す。ガチャガチャ……と鍵を開ける音が二人きりの通路に響く。
 その背中にかけられる声。
「……トイレでも我慢してんのか?」
「本当に、死ね! バカ!」
 ガチャリ……ドアを開きつつ、少女がひと言吐き捨てるように言えば、また、煙草を吹かしながら、青年は言った。
「……やけに機嫌が悪いな……あの日か?」
 その言葉に、かーーーーーーーーーーーーっと少女の顔が熱くなる。そして、彼女はドアの中に顔を突っ込んだまま、叫ぶ。
「肺がんで! 出来るだけ! 苦しんで! くたばれ! バカジェリド!!」
 どばたん!!
 力一杯閉められる音が四階中どころか、三階、そして、屋上、真っ青な空にまで響き渡り、そして……
「……冗談の解らんジャリだなぁ……」
 青年の呟きが煙草の煙と共に空へと消えていった……
 

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