せいちょう(2)

 最近の喫茶アルトの流行語。
「吉田さんに言う」
 誰が言いだしたのかはよく解らないが、このセリフが妙に流行っていた。
 例えば、伶奈が遅刻したとき。
 伶奈だって遅刻するときがある。自宅から出勤する時よりもアルトに泊まってるときがヤバい。家なら母が枕元でゴゾゴゾしてたら目が覚めるし、それで覚めなくても時間になれば母がどうやってでも起こしてくれる。しかし、アルトで泊まってるとそれがない。一応、目覚ましタイマーをセットしたスマホが枕元にあるが、それだって、夜更かしした翌日には無意識のうちに切ってしまう事がある。で、親の目から離れてアルトの部屋に一人だと、友達といつまでもメールのやりとりをして、夜更かし気味って事も、まあ、割とありがち。
 さすがに一時間も二時間も寝過ごしてしまうって事はないが、十五分ほどの寝坊で大慌て! って事はこの数ヶ月の間に数回あった。夏休みには三十分寝過ごして、美月が起こしに来た……って事も一回だけ会った。
 そして、その三十分の寝坊をした時、パジャマ姿のまま、ぺこぺこと何回も頭を下げる伶奈に対して、美月が言ったのが――
「ああ……じゃあ、次にやったら、吉田さんに怒って貰う、と言う事で」
 ――だった。
 これが伶奈に対して使われた最初の一回……だったような気がする。
 それから、フロアであくびをかみ殺してるのを美月に見られたときや、フロアでジェリドこと勝岡悠介相手に口げんかをしてたときにも言われた。後は伶奈以外だと、皿洗いがいい加減だった凪歩に対して、翼が――
「……私は別に良い……けど……吉田さんはなんて言うか……」
 ――なんて、何処かのロック歌手みたいなセリフを吐いてた。
「……だから、吉田さんはやっぱり怖い人なんだと……」
 と言うお話をデパートへと向かう道すがら、伶奈は貴美にしていた。その身は貴美の運転する美月の妖精まみれ一号の中、膝の上には美月が積みっぱなしにしている妖精さん。一抱えもあるような巨大でずんぐりむっくりなぬいぐるを胸にぎゅーっと抱きしめたままで話をしたら、ハンドルを握る貴美は苦笑いを浮かべて言った。
「……おっけ、おっけ、あいつら、人をなまはげか閻魔様扱いしやがってたわけやね……」
 その横顔、笑っては居るがどー見ても目が笑っていない気がする。
 その横顔を見つつ……
(後……吉田さん、時々、すごい、すごむんだもん……)
 なんて、伶奈が心の中で付け加えている事に、気づいているのは頭の上であくびをしている妖精、ただ一人であった。

 さて、貴美が運転する車は国道から県道へと入り、新市街ほぼど真ん中にあるデパートへと向かっていた。
 ちなみに伶奈はそのデパートには初めて。
「来た事ないんだ?」
 ハンドルを握る貴美が尋ねる。本日の貴美はロングブーツに黒いミニのワンピース、その上にモモンガカーディガンとか言う大きくてフンワリとしたポンチョのようにも見えるカーディガンを羽織っていた。格好いいというか、セクシーというか……
「うっ、うん……お母さん、こっちは車が混んでるし、何より、駐車場代がただじゃないからって……」
 その言葉に軽く頷いた伶奈は、相変わらずのオーバーオール一択。
「ああ……駐車場はある程度買い物すればただになるから良いけど、渋滞はどうしてもねぇ……」
 伶奈の言葉に貴美が軽く首肯すれば、伶奈のオーバーオールの胸ポケットからひょっこりと顔を出してるアルトが言った。
「……――と、渋滞の元が言ってるわよ」
 その言葉に伶奈は少しだけ頬を緩めた。
 信号はきっちり黄色で止まるし、制限速度はぴったり守って、徐行と言われれば歩いた方が早いかと思うような速度。そんな車が片側一車線、追い越し禁止の道を走ってれば、そりゃ、前はガラガラ、後ろは大渋滞。
「吉田さんって……もっと、こう……飛ばすのかと思ってた……」
 正直意外……としか言いようのない運転に伶奈がポソッと呟いたら、貴美は少しだけ格好を崩して答えた。
「うちはこれ以上道に税金を支払う余裕はないの」
「道に? 税金?」
 貴美が冗談めかして言った言葉に伶奈が首を捻る。
 その質問に貴美はちょっとだけ肩をすくめて答えた。
「違反の罰金。最近は減ったけど、前はなおがちょくちょく払ってたんよ」
 そう言えば、一緒に住んでるだっけ……と伶奈は前に聞いた話を思い出していた。優しそうではあるが、どこか気弱そうな青年の顔を思い出す。正直、派手な貴美とお似合いとは言えない感じって言うのが、伶奈が直樹に対して抱いていた印象だった。
 そんな青年がちょくちょく違反をして罰金を払ってたというのは意外だ。
「むしろ、逆だと思ってた……」
「みんなそう思ってるわよ」
「……――って、アルトも言ってる」
「よく言われるやね」
 そんな話をしながら、貴美が車を目的のデパートから少し離れたところにある大きな立体駐車場に放り込んだ。なんでも、デパート併設の駐車場はいつも一杯。だから、多少歩くことにはなるが、こっちに止めた方が早いらしい。
 立体駐車場を出たら、片側二車線の太い県道の歩道を、妖精を胸元に入れた少女とその付き添いは歩き始めた。好天の日曜日だけあって、歩道はそれなりの人混みだ。油断すると誰かにぶつかりそう。
 お気に入りのジーンズのナップザックを背負った伶奈が、その人混みの中、貴美と共に歩く。すると、すっと貴美がハンドバッグを肩に引っ替え治すと、伶奈の右手に手を繋いだ。
「あっ……ありがと」
「いえいえ」
 礼を言う伶奈に貴美が笑って答える。
 怖がったのはちょっと悪かったかな? なんて、少女は思う。
 そして、デパートの中へ……豪華、と言うわけではないのだが、重厚とでも言うべきだろうか? 大理石の壁に細かな彫刻が施された窓枠、そのどれもが使い込まれた歴史が刻まれているようで、なんか、妙に緊張する。もちろん、神奈川に住んでたときにもデパートに行った事もあるにはあるのだが、そっちは駅ビルと一緒に新しくなった奴で、ここのような歴史を感じさせるたたずまいではなかった。
「あっ……あの……やっすい、ジュニアブラって言うんで良いんだけど……」
 妙な高級感に圧倒されながら、おそるおそる言えば、貴美はニマッと人好きする笑みを伶奈に向けた。
「上を見りゃキリがないほど上があるけど、下を見ればそれなりの値段だって」
 貴美の快活な言葉に、下を向く。床も妙に立派な感じ、その床を見ながら少女は控えめな声で呟いた。
「下を見るなら……最初から下しかない所で良いのに……」
「私が上の下着を買いたいのと……後、今、北海道物産展やってんよねぇ〜んで、私は男爵芋のカレーパンと道産牛のビーフシチューパンが食べたい」
 視線の外から降ってきた言葉にパッと少女は顔を上げた。
 そして、貴美の楽しそうな顔を下から見上げて、少女は、また、呟く。
「……道産牛のビーフシチューパン……」
 男爵芋のカレーパンも捨てがたいが、しかし、道産牛のビーフシチュー……その魅惑的な響に少女の心が反応した。ビーフシチューは好きだ。しかし、それをパンの中に入れてる食べ物は聞いた事がない……されど、そんな物、絶対に美味しいに決まってる。それは予感ではなく、もはや、確信であった。
 そんな事を考えていたら、胸元から顔を見上げていた妖精が、ぼそっと言った。
「……牛って言葉に目を輝かせるのは辞めなさい……」
 って言うアルトの言葉は通訳しない……と言うか聞こえないふり。
 貴美が大股で颯爽と歩く様は格好いい。しかし、いかんせん、足の長さが違う。油断すると引き摺られそうになっちゃって、ちょっと大変だ。そんな貴美が、新館へと続く通路へと曲がりながら言葉を続けた。
「後、北海道名物ザンギだよねぇ〜」
「……ザンギ……」
「……目、輝かせんな、肉娘」
 って、アルトが胸元で言ってるけど、やっぱり聞こえないふり……をしている伶奈の顔を貴美が覗き込んでぼそっと小さく呟いた。
「……ジンギスカン……」
「ジンギスカン……」
 少女の足が止まれば、手を繋いでいた貴美の足も止まる。
 隣を後ろから来た別の女性達が抜いていく。
 そして、貴美がまた言った。
「――は高いのでパス」
「……えっ?」
 貴美の言葉に言葉がつまり、顔を上げれば、そこに見えたのは貴美の人を食ったような笑みだった。
 その貴美が握っていた手を放して、ぽん! と伶奈の肩を一つ叩いた。そして、軽く頬を緩めて言う。
「昼間っからジンギスカンを食べるお金はないなぁ〜伶奈ちゃん、持って来てる?」
「……うっ、ううん……」
 顔を真っ赤にして少女はうつむき、顔を左右に振った。
 その胸元で妖精が嘯いた。
「……遊ばれてるわよ」
 さて、そんなこんなで遊ばれながら、新館の方へと入れば、店の内装も現代風で先ほどよりかは居心地が良い。
 その真新しい建物を歩いてるうちに感じる小さな違和感……
「あっ……」
 足を止めて小さく呟くと、貴美も足を止めて振り向いた。
「どったん? お腹でも痛いん?」
 彼女がそう尋ねたのは、伶奈が無意識のうちにお腹を押さえていたからだろう。痛いと言えば痛いのだが……
「トイレならそっちにあったわよ」
 胸元でアルトがそう言って、もそもそと体をその大きな胸ポケットの中から引っ張り出した。そして、貴美のすっかり黒く生え替わった頭の上へと飛び移りながら言った。
「行ってくるなら一人で行きなさい。ここで私は待ってるわよ」
「……――ってアルトが言ってるから……ちょっと、お手洗い、行ってくるね」
「じゃあ、私は……――」
 アルトの言葉を伝え聞けば、一端言葉を切って、辺りをきょろり、そして、一軒の店を見つけたら、言葉を続けた。
「そこのシャネルの前にでも居るから」
「じゃあ、行ってくる……」
 軽く手を振り、その場を後にする。
 目立つわけではないが決して見失わない程度、ほどよい間隔で設置されてるトイレへの看板。それを追いかけて、ぱたぱたと伶奈は走った。その間、だいたい、三十秒ほど。
 そして、トイレに入って、あれやこれして、五分ほど……
 様々な商品が並ぶショーウィンドウを大きな窓ガラス越しに見ている貴美の元へと少女は帰ってきた。
 その貴美の頭の上、最初に伶奈に気づいたアルトが言った。
「お帰り、沢山出た?」
「……うっ、うるさいな……聞かないでよ」
「肉ばっかり食べてるから、便秘になるよ……もう、肉娘なんだから」
「ちっ、ちがっ! もう! バカアルト!」
 と、ひとしきり喧嘩をすれば、その間に挟まれていた貴美が顔を上げて苦笑いを浮かべる。
「……人の頭を挟んで喧嘩しないでくれるかな?」
「ごっ、ごめん……」
 やっぱり、顔を赤らめ、貴美にぺこっと頭を下げれば、彼女は少しだけ格好を崩して、答えた。
「良いって、それじゃ行こうか? でも、野菜は食べた方が良いんちゃう?」
「だから、便秘じゃないって!! なんで、アルトと同じこと言うんだよ!?」
「あら、あるちゃんにも言われた? あはは、冗談、冗談」
 多くのお客さん達が行き交う新館入り口、シャネルの傍。少女の黄色い悲鳴と女性の明るい笑い声が響き渡った。
 そして、まずは頭の上に妖精を乗せた貴美がきびすを返せば、少女も真っ赤な顔のままで、その女性を追いかける。
 と、その瞬間、何気なく覗き込んだシャネルのショーウィンドウに少女の足が止まった。
 並ぶお財布、十五万円……
「……世界が違う」
 思わず呟く。
 その言葉に貴美が頬を緩めて応えた。
「ここで買う?」
「買わないよ!」
「まあ……シャネルの五番を下着にするには、ちょっと早いかな? こっちだよ」
 そう言って、彼女はエレベータへと足を向けた。
 エレベータまでは明るい通路をトイレとは逆方向に歩いて、十秒たらず。運良くゴンドラは一階に居るようで、入り口横のスイッチを貴美が押すと、すぐにドアが開いた。
 その中へと滑り込む。
 広くてゆったりとしたエレベータには伶奈達三人だけ。その中に入り、五階のスイッチを貴美が押したら、ゴンドラは静かに上昇し始めた。
 未だ、妙に緊張している伶奈に貴美が言った。
「つーか、神奈川にだってデパートの一つや二つあったっしょ?」
「……デパ地下くらいしか行った事ないし……シャネル、凄い高かったし……」
「まあ、シャネルは早いって。私でもちょっと早いかな? あー言うのって三十路を越えたキャリアウーマンか、お水が持ってるイメージだよねぇ〜……ってのはともかく……」
 そう言って貴美はまじまじと伶奈の顔を見つめた。
 大きな鳶色の瞳がまっすぐに伶奈を見つめれば、伶奈のほっぺがかーっと赤くなる。そして、妙にうわずった声で少女は尋ねる。
「なっ、何?」
「んっと……あっち向いて……――」
 そう言って貴美は右手人差し指を伶奈の鼻先へと突き出した。
「……あっち向いて……?」
「――ほい!」
 十分なためを作ってひょいと右を貴美が指させば、伶奈は反射的に左を向く。
「おっ、強い……けど、弱い」
 ポフッ♪
 貴美の左手が伶奈のオーバーオール越しの胸を触っていた……てか、揉んでいた。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 少女が声にならない悲鳴が上げて、そして、貴美はまじめくさった顔で言ってのけた。
「……夏より育ってんやね……さっすが肉娘……」
 そして、ゴンドラが新館五階、子供服、学校制服、マタニティ、ベビー用品売り場へと到着した。
 

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