せいちょう(1)

 ユニットバスの狭い湯船の中、お湯を溜めて少女はゆっくりと暖まっていた。十二月になるとやっぱりお湯に浸からないと始まらない。肩まで浸かって湯船の縁を枕代わり、狭い湯船からはみ出す足を反対側の縁に引っかける。そして、乳白色の天井を見上げてご機嫌の鼻歌。その鼻歌に会わせて、つま先が左右に踊る。
「ふら〜い、みーとぅーざむ〜ん」
 口ずさむのはアルトがいつも歌ってるスタンダードジャズの名曲。アルトが歌ってるのを聞いてただけの頃は、大好きってほどでもなかった。しかし、アルト二階の部屋で見つけたレコードを聞き始めてからは大好きな曲の一つになっていた。
「……――いんざあざーわーど〜ず〜あいら〜びゅ〜♪」
 じっくり、ゆっくり、浸かって、お気に入りの曲を一曲、アカペラで歌いきる。幸せなひとときだ。
 そして、勢いよくザブ〜ンとお湯の音を立てて、少女は立ち上がった。
 ぽたぽたとお湯の滴る裸体で湯船からでたら、ピッと! と引っかけてあるバスタオルを引っ張る。勢いよくバスタオルを引っ張ると、なんか、気持ちが良い。映画のワンシーンのよう……とか言いだしたら、中二病だと笑われるので、心の中だけで思う事にしてある。
 それから良く体を拭く。
 ふと、目に入った鏡、胸元くらいまで映っていた。穂香をして『フェチなあばら』と表された胸元も最近は膨らみ始めたようで、女らしい曲線を描き始めていた……と少女自身は思う。まあ、体育の着替えの時に周りを伺い見た結果、平均値よりかは若干発育が悪いような気はするが、それは、そこ、
(まあ、お母さんの娘で、美月お姉ちゃんの親族だしね……)
 って奴だ。
 余り気にも留めずに、体をバスタオルで拭く。
 と、ふと、胸元に小さな違和感が生まれた。
「ん?」
 呟き、改めて、胸元の周りを弄くり回してみる。
 思い出されるのは、体育の時の事だ。今週は千メートル走のタイムを計るって奴だった。それをやった後にも同じ違和感を感じたわけだが、場所が場所だけに「気のせい」と思い込む事にしていたし、実際、それはすぐに収まった。
 訳だが……
(この間よりもちょっとひどい……気がする)
 自身の胸元を触ったり、タオルで拭いたりしてみて、その違和感が気のせいでもなければ、いつまでも我慢できそうな感じでもない事をもう一度、少女は確認した。
 そして、その若干の違和感をかみ殺しながら、少女は体を拭き、下着を着て、パジャマも着込んで、バスルームから外に出る。
 出たら、居間では通勤着のスーツ姿のまま、母がごろ〜んと横になっていた。彼女の前にはテレビ、その中ではでぶっちょなオカマが偉そうになにやら語っている姿。
 その母に少女は声を掛ける。
「お母さん、なんか……胸が痛い」
 すると、テレビを見ていた母が上半身をくるんと伶奈の方へと向ける。その口にはザラメセンベイ。あんなだらけた食生活をしてるから、休みの度に太るんだよね……とか、少女は頭の片隅で思う。
 そんな少女の思いも知らず、母はパリポリと咥えていたところを食べ終えると、ぽかんとした表情で言った。
「初恋?」

「今時、初恋で胸が痛むとか……表現、古いよね……」
 喫茶アルト二階、伶奈の部屋。壁際に置かれた古びた学習机の前、制服姿の少女は頬杖をついて座っていた。背後にはお気に入りのスタンダードジャズ、目の前には仕上げられた宿題と元はココアが入ってたけどすでに空っぽになってるマグカップ、頭の上には――
「それで、甘酸っぱい痛みじゃないならなんだったの?」
 ――と尋ねて、ふわりと顔を覗かせる妖精さん。
 ぷらぷらと長く美しい髪と小憎たらしい顔(主観)が少女の顔の前で揺れるのを見つつ、少女は答えた。
「成長期だろう……って……」
 口に出して応えるのは若干と言わずに気恥ずかしい。頬が熱くなるのを少女は感じる。
「ああ……そう言えば、美月もそんな事を言ってた時期があったわね……一瞬だけ」
 そんな事を言いながら、妖精はとんと頭の上から学習机の上へと着地を決めた。そして、数学のノートの上に足を伸ばして座る。その妖精が小さな顔を少女の方へと向け、改めて言った。
「良かったじゃない、この間のお泊まり会でブラが欲しい、かわいいキャミが欲しいって言ってたでしょ? これで買ってくれるわよ」
「そうなんだけど……」
 少女はアルトの言葉にそう答えはしたが、問題がない事もなかった。
 そういうのも母の仕事はカレンダー無関係のお仕事、一方、伶奈はカレンダー通りにしか休めない。結果、買いにいけるのは半月ちょっとしたら始まる冬休みになってから……と言う話し合いがもたれたわけだが……
「――……でも……」
「でも?」
 問いかけ直す妖精の顔からプイッとそっぽを向く。そこのは小さめの窓が一つ、そしてその窓の外、まん丸い月がきーんと冷えた夜空に光っているのが見えた。
 その美しい月を窓越しに見上げながら、少女は茹だった顔で答える。
「……昨日、体育、バスケだったの。それで、走ったり飛んだりしてたら……擦れて、もう、泣きそうになったんだよね。ここ数日で物凄く……痛みが強くなってる、と思う」
 視野の外で小さなため息が聞こえたような気がしたが、それでも少女は月を見上げたまま……
 妖精が含み笑いが混じった声で言う。
「絆創膏でも貼ったら? 先っぽ」
 その言葉に少女もため息一つ。そして、月から手元、妖精がくつろぐ数学のノートへと視線を戻したら、静かな口調で答えた。
「……お母さんもそれ、言ってた……」
 妖精の顔から笑みが消え、真顔になった。その真顔のまま、まじめくさった口調で妖精は言った。
「…………言っとくけど、私は冗談のつもりよ?」
 真面目な口調に対して、少女も真面目な口調で答える。
「…………お母さんは本気だと思う……大判の絆創膏、出してきたし……」
「……大変ね」
「……大変だよ」
 妖精と少女は互いにそう言い合って、ため息一つずつ……
「それで結局、どうするの? 冬休みまで絆創膏?」
「イヤだよ、恥ずかしい! バカみたいじゃん!」
 アルトの言葉に目を剥き、少女は一息に言葉を紡いだ。そして、一息吐いたら、改めて、言葉を続ける。
「美月お姉ちゃんにでも付き添って貰って、イオンにでも行ってこいって」
「美月……ねぇ……まあ、妥当なところかしら?」
 と言う話を母としたのが、昨夜の事。それで今日は母が夜勤だからこっちにお泊まり。問題は、美月がお休みの土曜日は伶奈がアルバイト、そして、伶奈が休みの日曜日は美月が出勤の日と言う事だ。
「と言うわけで、今から、調整して貰いに行ってくる」
 そう言って少女は座っていた椅子から立ち上がった。
「あら? 今から?」
「そろそろ、仕事も終わる頃だから……」
 不思議そうに尋ねる妖精に少女が格好を崩して答えると、妖精はぽーんと机の上から飛び上がった。
 ちょこんと頭の上に着地を決める、心地よい感触。
 少女の頭の上から妖精はふわっと顔を覗かせ、そして、言った。
「上手くすれば、ケーキも貰えるし?」
「……そこまでは思ってないよ。休みの調整が必要だし……場合によっては凪歩お姉ちゃんにでも頼まないと……になるかもだし……」
 空っぽのカップを片手に、少女は妖精と言葉を交わしながら、部屋を出る。パチン……と階段の脇にあるスイッチを押したら、暖かい橙色の灯がパッ! と頭上に輝いた。
 その光を受けながら、トントン……と、少女は階段を駆け下りる。
 階下に下りたら英明学園指定の革靴をつま先に引っかけ、歩きながらトントンッと左右二回ずつ、つま先を地面に叩き付ける。
「革靴でそれやると、痛むわよ?」
「解ってるけど、めんどくさい」
 頭の上から降ってきた苦言に、言葉を返す。次に戻ってきたのは軽いため息だけ。
 そして、居住スペースとフロアとを隔てるドアを開いたら、その向こうから薄暗い明かりと楽しげな声が飛び込んできた。
「ごめんね、店、終わった後にフラッと来ちゃってさ。卒論、行き詰まっちゃってさ……」
「良いんですよ〜パンの耳のラスクとコーヒーくらいで良ければ、いつでも」
「まあ、仕事中に来られると、威圧感、半端ないしね」
「…………やましい事があるから」
 余り聞かない声が一つとなじみ深い声が三つ。なじみ深い三つは美月、凪歩、翼だろう。そして、もう一人は――
「あら、貴美が来てるのね」
 頭の上で妖精が少しだけ不思議そうな声を上げた。
「タカミ?」
 馴染みのあまりない名前に小首をかしげれば、アルトは投げやりな口調で答えた。
「吉田貴美、吉田さんよ、吉田さん」
 そちらの名前はもちろん聞き覚えがあった。されど、彼女がここにいる理由は思いつかない。地元とこっちを行ったり来たりしている……と言う話は聞いたのだが……アルトで最後に見かけたのはいつだっけ? とか……ぼんやりと考えながら、やっぱり、ぼんやりとした口調で彼女は言う。
「ああ……もう、辞めたんじゃなかったの?」
「そうだと思うけど……」
 アルトと首をかしげつつ、フロアに入る。そして、パタンと後ろ手にドアを閉めれば、夜のお茶会を楽しんでた四人の淑女達がこちらを向いた。
「やほー、伶奈ちゃん、おひさ。バイト、がんばってるみたいやね」
 最初に声をかけたのは噂の吉田貴美。窓際隅っこいつもの席、腰を浮かせて手を振っている姿がよく見えた。
 白いニットのワンピースに黒いベルトを合わせたコーディネート、そんな格好の貴美に伶奈はぺこりと深めに頭を下げた。
「ごっ、ご無沙汰してます……」
「……なんでそんなに堅くなるかな……?」
 整った顔を苦笑い気味に緩め、貴美はそう言った。
「あっ……べっ、別に怖いって訳じゃ……」
 消えそうな声で伶奈がそう答え、そして、四人の居るいつもの席へと急いだ。
「どうしたんです?」
 不思議そうに尋ねたのは美月だった。
「えっ……うん……っと……」
 気まずそうに伶奈は口をつぐんだ。
「頼むんじゃなかったの?」
 頭の上でアルトが呆れていた。
 視線が机の上をさまよう。
 食べかけのケーキがのったお皿が二つと汚れたお皿が二つ、それからコーヒーの芳ばしい香りを発するカップが四つ、見えた。
 そのテーブルからちらりと貴美の方へと視線が動いた。
 貴美の大きな垂れ目気味の瞳と視線が絡まれば、少女は慌てて、視線を落とす。
「……何? 私が居たら、言いづらいとか?」
「いやっ、あの……その……」
 貴美の質問に伶奈が即答できずに居れば、彼女はカタンと軽く椅子をならして、席を立った。そして、伶奈の方へと数歩、かつかつとパンプスの音を響かせて近づけば、少女の顔を覗き込む。
 垂れ目、鳶色の瞳が伶奈の顔をジーッと見つめる。
「私が、聞いたら、答えな、いかんよ?」
 声は決してあらぶっているわけでもない。どちらかというと静かで落ち着いた声だ。それなのに……と言うか、むしろ、それだから……と言うべきだろうか? どちらかは解らないが、ともかく、少女の背中にぞくっ! とした何かが走った。
「吉田さーん、そう言う事するから、怖がらせるんですよ〜」
 貴美の向こう側から聞こえる美月の声、優しい声にホッと安堵の吐息を漏らすのとほぼ同時、ぽん! と貴美のしなやかな手が伶奈の肩を叩いた。
「あはは、冗談、冗談。どったん? 初潮でも来て、下着血まみれで、あわててたりでもしてんの?」
 ひときわ大きな声、さっきの凄みのある声とは違う茶化すような声で貴美が言えば、ぽん! 少女の顔は一瞬で茹だり、そして、気づいたときには大声を上げていた。
「ちっ! ちがっ!!! かっ、買い物に付き合って欲しい……だっ、だけ……」
 叫んだ自分にしまった……と思っても、そして、思って、最後の方を小さな声に絞ってももう遅い。
「へぇ〜何々? 何、買うん?」
 嬉しそうな顔で貴美が少女の顔を覗き込んだら、少女は蚊の鳴くような声で答えていた。
「……………………ブラ」

 そして……――
「んじゃ、行こうか!!」
 次の日曜日、少女は、卒論を書かなきゃいけないはずの吉田貴美嬢と共に出掛ける事になった。足は美月のアルトを借りる算段を貴美がさっさとつけてくれていた。しかも行くのはショッピングモールじゃなくて――
「デパート行こう!」
 ――なんでか、デパートに連れて行かれる事になっていた。
 車の外はピーカン良いお天気……買い物日和と言えば買い物日和。
「なんで、そんなに真っ黒な顔してるのよ……」
 頭の上で妖精が不思議そうに尋ねる。
「だっ、だって……」
 少女は妖精の大きなぬいぐるみをぎゅーっと抱えて、助手席で固まっていた。

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