手料理(2)

 事の起こりはちょいと前、九月にまで遡る。そう、美月とアルトが良夜の部屋で鍋と酒で盛り上がって、喫茶アルトでは最後の頼みの綱だった店長三島和明氏がぎっくり腰に倒れた夜にまで遡る。
 あの日、ぎっくり腰に倒れた和明の代わりに、伶奈がパフェを作ったり、ワッフルの飾り付けを行った。その時、リンゴの皮を剥いたり、キウイを切って並べたり、バナナを切ったり……いろいろやった。
 結果、それは一部の客から『趣のある飾り付け』と評された。
 まあ、リンゴは皮の取り残しを恐れる余りにがたがたになってたし、キウイは力を込めすぎて握りつぶしかけてたし、バナナですら厚さがばらばらという状況だったのだから、仕方がない。それにリンゴとキウイに関しては、皮に可食部分がたっぷり残されていたってのも大きな問題だ。
 そんなわけで、翼は美月に「ちょっとくらいは教えた方が良い」と提案した。
 提案したのは、そんな事があった翌日、営業終了後の反省会と言う名のお茶会時。
 温かいコーヒーをちびちび飲みながら、提案したら、凪歩が言った。
「良いじゃん、別に料理なんて結婚してから覚えたら」
「……相手が、居るの?」
 お気楽に言ってのける凪歩に翼がコーヒー片手に尋ねれば、若干の冷や汗を浮かべながら、彼女は応えた。
「相手が出来てから、慌てたら良いんだよ!」
 そして、この場で一番偉い人は言った。
「……せめて、リンゴくらいは剥けるようになりましょうよぉ……」
 と、美月は言った物の、さすがにリンゴを無駄にするのはもったいない。大根辺りが適任ではないか? かつらむきは包丁を練習する基本……と美月が凪歩に命じてみた。そしたら、まあ、これが家庭科の実習はちゃんと受けてたのか? って言いたくなるような体たらく。かつらむきというか、ズタボロに裁断された大根の切れっ端を大量生産した挙げ句――
「ピーラー使ったら良いじゃんか!!」
 と、逆ギレ。
 これじゃ、いけないとキッチンスタッフは一念発起。凪歩に包丁の使い方を教えよう……って事になった。
 そこで、ここはキッチンチーフたる美月の出番! とばかりに、彼女が『正しいかつらむきのやり方』を説明した。
 その説明がこれだった。
「ひょいと握って、ピッと当てて、するする〜っと回したら、かつらむきなんて出来るんですよ? 知ってましたか?」
 これで本当に向こう側が透けて見えるような、薄いかつらむきを作るのだから恐ろしい。
 しかし、こんな物を『教え』として伝授された方は溜まらない。
 結果、凪歩は翼に教えを請い、美月がテーブルの上でのの字を書くという状況になった。
 そして、この時、のの字を書きながら、美月は言った。
「もー良いです、暇なときに伶奈ちゃんにも教えておいて下さいね!」

「……――と、言う訳よ」
 その話をしてくれたのは、その場に居て、一部始終を眺めていた妖精さんだった。
 ここは喫茶アルトキッチンの一画、隅っこの辺り。大きな寸胴ではお湯が沸いてたり、スープが煮込まれてたりと、暇とは言え、一定の活気が残されていた。
 そのキッチンの片隅、輪切りにした切り口もみずみずしい大根、片刃の包丁は薄刃包丁という物らしい。それら二つを渡されて、少女は固まっていた。
 その少女のすぐ下、作業台の端っこにちょこんと腰を下ろしているアルトが、さらに言葉を続ける。
「まあ、美月はキッチンで遊んでるうちにいろんな事を覚えた子だから、人に物事を教えられるような人間じゃないのよ」
 その言葉を、伶奈はそれを近くに居る翼にも伝えた。もっとも、この後に小さな妖精さんがその手に持ったストローで翼の方を指し示し
「まっ、この口べた鉄仮面が人に物を教えられるか? って言われたら、結構、厳しいわけだけど」
 って言った言葉の方は苦笑いと共に聞こえなかったふりをしたのだが……
 さて、その口べた鉄仮面の教え方と言えば、まずはやってみせる。そして、後は――
「……練習、すれば、出来る……と、思う」
 ――だった。
(美月お姉ちゃんのよりひどい……)
 と思った物の、彼女の場合、包丁の握り方がおかしければ手をさしのべ、握り方を矯正してくれるくらいのは気は利くらしい。働く女性らしい力強くありながらも繊細さを感じさせる奇麗な指が伶奈の手に触れ、包み込む。その優しい指先の動きに少女の鼓動が高まり、ほっぺたが熱くなった。
 が!
 その数分後、見事に細切れな大根を見やり、彼女は言った。
「……ぶきっちょ……」
 その呟いた言葉に、少女の心が凍り付いた。
「うぐっ……」
 結局の所、こー言う物の上達は練習以外にあるわけでなし、結局、伶奈の今日の仕事はキッチンの片隅でかつらむきを作り続けることになった。
(……お母さんとイオンに買い物でも行けばよかった……)
 って、思わないこともないが、こうしてるだけで五千円貰えると思えば我慢も出来るだろうか?
「一つ間違うと、リストラ要員がシュレッダー係やらされてる感じに見えてくるわね」
「……アルト、余計なことを言ってると、捻るよ?」
 話をしつつ、かつらむきをジョリジョリ……と、上手く作れるほど世の中甘くはない。ぼたぼたと切れっ端のような大根が作業台の上へと落ちるのみ。その無残な大根の切れっ端を見るにつけ、物凄い罪悪感を感じてしまうほど。
「伶奈、もっと……肩の力を抜いて……眉の間に、谷、作っちゃダメ……」
 仕事に戻っていた翼が伶奈の肩を軽く叩いて、声をかけた。
 その言葉に少女は手を止めた。
 そして、少女は手にしていた大根と包丁を作業台の上へと置いて、フェイスマッサージを始める。特におでこ中心で。
「それ……役に立つの?」
「……知らない」
 妖精と言葉を交わして、少女は再び、薄刃包丁と大根を手にする。
 すると、妖精が言った。
「役に立たなかったみたいよ……」
 って事らしい。
 眉と眉の間に深い谷を作りつつ、大根と包丁を握る時間が小一時間ちょっと。そのキッチンには時々凪歩がやってきては注文を翼に伝え、翼がその注文の料理を作る。そのすぐ近くで我関せじとばかりにかつらむきを作る時間が、小一時間ちょっと、である。
「本当に異常な光景ね……」
「うるさいってば……」
 アルトの茶々にさらに谷を深くしたり、
「……ピーラー使えば良いじゃん……」
「……それを考えたら負けよ……」
 根源的なところに疑問を持ったり、持つことを許されなかったりしながらの小一時間がようやく終わった。
 思った以上に長い。
「ふぅ……」
 軽く息を吐いて、少女はテーブルの上に小指ほどの太さにまで細くなった大根と薄刃包丁を作業台の上に戻す。
 そして、お皿の上に山盛りになった大根の切れっ端を一枚取り上げた。最初の頃はただの大根の切れっ端であった代物も、これだけ練習してれば多少はマシになる。厚さは薄くなって、長さもちょっとは長くなっている。見ようによっては大根のかつらむきっぽい代物と言っても罰は当たらない感じ。まあ、どう考えてもピーラーでやった方が早いと思うけど……
 そんな成長の証は見えども、合格にはまだまだって言う微妙なかつらむきを、少女は光にすかしてみた。向こう側が明るく見えるところ、暗く見えるところで、厚さのムラがよく解った。
 それを感慨深い気分で眺めていると、トントンッと妖精が伶奈の手元から腕、肩の上へと駆け上がる。そして、少女と同じ目線の高さで、かつらむきを覗き込む。
 そして、彼女は言った。
「売り物にはならないわね」
 淡々とした口調で彼女が言えば、少女はちらりと妖精の顔を見て言う。
「……捨てるの?」
「貴女、スタッフが昼にニンジンの皮や肉の切れっ端ばっかりのナポリタンを食べてるのに、その大根が捨てられると思ってるの?」
「……じゃあ、後でまかないのナポリタン?」
「……ナポリタンに大根はどうかしらね……幅を広めに刻んできんぴら大根が良いんじゃない?」
「……私が?」
「貴女がするなら、適当に刻んでツナ缶を乗せて、マヨネーズぶっかけた、大根サラダね」
「…………落差、ひど……」
 とは言え、自分に出来る料理なんてそんな物かなぁ〜とか、それなら失敗の心配もないかなぁ……なんてくだらない事を思いつつ、少女は再び、包丁、そして、新しい大根を手にした。
 するする……ぽとり……するするするする……ぼた……する、ぽた……
 先ほどよりかは若干マシにはなっているが、やっぱり、長続きはしないかつらむき。何が悪いのかなぁ……なんて思ってるところに凪歩の姿。
 新しい注文かと思って眺めていたら、彼女は翼の後を通り過ぎ、伶奈の方へと近づいてきた。どこか裏のある笑い顔……何かありそうな予感を感じていたら、伶奈のすぐそばにまで近づいて、彼女は言った。
「お母さん、来てるよ」
「本当に来たの!?」
 顔がかーっと熱くなる。自分自身、顔が赤くなっていくのを自覚した。それは羞恥なのか、怒りなのか、その両方なのか、少女自身にも解らない。
 そんな伶奈の顔を見やり凪歩がクスッと笑ってひと言言った。
「注文取りに行く?」
「行く!」
 くるりと振り向き、キッチンからフロアへと少女は掛け出……しそうにするも慌てて、ブレーキ。くるりとUターンしたら、出しっ放しの包丁をひょいと拾い上げる。そして、シンクへと向かったら、軽く汚れを洗い流して、包丁立てへ。
「あら、忘れていくかと思ったわ」
 頭の上で妖精が嘯く。
「翼さん、そういうの絶対に許さないもん……」
 冷たい水に手を晒し、さらにアルトと話をしてれば、少しは頭に上った血も多少は下がる。
 軽くため息を吐いて、再度くるりとUターン、いよいよ、フロアへ。今度は先ほどよりも少々ゆっくり気味。落ち着いた速度ではあるが、しかし大股で、まるで床を踏み抜かんばかりの力強さと肩で風切る勢いで、彼女はフロアへと向かった。
「……走らなくても、あの歩き方はダメよね……」
 その背中に凪歩が呟いたことを伶奈は気づかなかった。

 窓際隅っこ、伶奈の指定席、今日は母由美子が座って、外をぼんやりと眺めていた。
 綿パンにトレーナー、伶奈が家を出た時にも着ていたラフな格好。普段から化粧が濃いというわけではないが、今日はほぼすっぴん。三十路も終わりかけた年相応の横顔に、窓から差し込む光が複雑な陰影を刻みつけていた。
 その横顔に少女の足が止まった。
「どうしたの?」
 頭の上でアルトが尋ねる。
「…………ううん」
 軽く首を振ってもう一歩、踏み出したところで母がこちらを向いた。
 こちらを向いたせいだろうか? 光の加減が変わったようで、彼女の顔に浮かんでいた複雑な陰影は姿を消して、代わりに明るい笑顔が浮かび上がる。
 そして、母はひときわ弾む声で娘に声をかけた。
「お疲れ様、がんばってるわね!」
 その言葉にもう二−三歩、足を踏み出し、少女はテーブルの傍へと駆け寄った。そして、パン! とテーブルに両手を手を突く。グラスの中でお冷やが波を作った。
 そして、少女は殊更に大きな声で怒鳴った。
「来ないでって言ったじゃんか!!」
「母さんだって、美味しいお昼が食べたいのよ」
 柳に雪、馬耳東風。さらっとした表情で返ってきた言葉。もしかしたら、最初から想定されていたやりとりなのかも? と思わせるセリフだった。
 そんな母の態度に少女の口調はいやが上にも強まる。
「お母さんは自分が仕事してるところに私が行って良いの!?」
 思わず言った言葉に母の目が細くなった。
 そして、数秒の沈黙……
 何かまずいことを言ってしまったのだろうか? と少女は考える。
 そんな娘の顔を見やり、母はため息交じりに応えた。
「はぁ……来なきゃいけないときは来て欲しいわよ。でも、来たいの? 救急病棟よ? 来るときは死ぬか生きるかよ?」
 そう言われれば、少女は激高してたことも、自分が言ったセリフも棚の上に片付けて、消え入るような声でこう言うしかなかった。
「………………イヤだよ」
「後、寒くなる前に、インフルエンザの予防注射に来るのよ。内科と救急は別棟だけど」
「……………………もっとイヤだよ」
 さて、母の注文は日替わり定食……ではあったが、祝日はやってないし、そもそも、この時間――一時半ちょっと過ぎはすでに終わってる時間帯。仕方ないから、トマトとチーズのデラックスハンバーグのサラダ付きセット、パンはガーリックトースト。それから食後の飲み物はココア、砂糖たっぷりで伶奈が煎れる……ってのが、本日の母のランチ。
「……私、野菜クズたっぷりのナポリタン、飲み物はお水だったのに……お母さんだけ良い物食べてる……」
「じゃあ、お金払いなさいよ……ただ飯のくせに……あと、ココアは自分で煎れれば良いじゃない……面倒くさがらずに」
 頭の上のアルトと話をしながら、キッチンへ……戻ると作りっぱなしで出してあった大根の切れっ端の所に翼と凪歩が居て、その大根の切れっ端をつまみ上げてはあーだのこーだのと話をしているようだった。
「わっ!?」
 首をすくめて声をあげるも、凪歩と翼から返ってきた言葉は意外な物だった。
「初日にしてはよく出来てるんじゃん」
「なぎぽんの三日目より上出来……」
 その言葉、出しっ放しにしてたことをとがめられるかと思っていた少女には望外の物。足を止めてパチクリと数回瞬きを繰り返して、少女は気恥ずかしそうに応え、そして、尋ねた。
「あっ、ありがとう……それ、どうしよう?」
 その伶奈の言葉に翼と凪歩が互いの顔を見合わせた。
 そして、翼が尋ねる。
「……注文、は?」

 そして、十五分後、少女は母の所へと出来上がった食事を運んだ。トマトとチーズのデラックスハンバーグ、パンはガーリックトースト、そして、セットのサラダはクルトンとチーズたっぷりのイタリアンサラダと、もう一つ……
「…………こっち、オマケ……」
 それは、全く不揃いな、売り物には決してならないような不揃いな大根の千切りにツナ缶たっぷり。味付けはマヨネーズに少々の隠し味……不格好なサラダだった。
「なに? このサラダ……随分と……趣のある刻み方だけど……」
 ほとんど無意識であろう母の呟きに少女がそっぽを向いて、ひと言。
「……うるさい……」
 そのひと言で母は全てを察したかのように笑みを浮かべ、そして、言った。
「そう……美味しそうね」
 お世辞混じりであることは十分に解っていたけど、それでも少女はほっぺが赤くなるのを自覚していた。
 

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