手料理(1)

 お泊まり会から帰ってきた翌日は振替え休日。カレンダーとは無関係なお仕事をしている母由美子であるが、たまにはこう言う日が休みになることもある。普段だったら、昼前まで母娘共々惰眠をむさぼって、それからデパートかショッピングモールに買い物、なんて言う事も考えられるところだ。
 が、今日はそういう訳には行かない。
「それじゃ、バイト、行ってくるから」
「気をつけてね。お昼、食べに行くから」
「……来ないで良いよ。それじゃ、行ってきます」
 いつものオーバーオールではなく、喫茶アルトの制服姿。見送りに出てきた母と二言三言、玄関先で言葉を交わして、少女はとんと廊下へと飛び出した。
 そして、お隣のドアへちらっと視線を投げかける。
 も、そこには誰の姿もなし。
 ちょくちょく、彼がそこで煙管を吹かしているとは言え、いつでもいるわけじゃない。土日祝日の朝は比較的いることも多いが、それとて百パーセント確実って訳でもない。
(……ビールもどきの文句、言ってやろうと思ったのに……)
 心の中だけで少女は呟き、視線を上へと上げる。腰ほどの高さの壁とひさしの間から空が見えた。今日の天気予報は曇りではあるが、その予想を嘲笑うかのような晩秋の晴天。
(こんな気持ちいい朝にジェリドに会うのもね……)
 そんなことを考えながら、階段へと続く角を曲がったら、そこには――
「おっ……ジャリ? バイトか?」
「おはよう、伶奈ちゃん」
「おはようさん、今日も可愛いね」
 きょとんとしたジェリドこと勝岡悠介の姿。その背後にはやっぱり少しびっくりしてる時任灯とにこやかに手を振る真鍋俊一の姿が見えていた。
「おはよう……朝帰り?」
 眉をひそめて少女が言うと、代表するかのように灯が軽く肩をすくめて答えた。
「バイトだよ、バイト。夜の工事現場で警備員。赤色灯振り回してたの、一晩中」
 青年の意外な答えに驚き半分、早とちりの恥ずかしさ半分、そこに少々の申し訳なさをミックスし、少女は「へぇ……」と相づちを打った。そして、改めて彼女は口を開いた。
「それじゃ、今から寝るの?」
「先にレポートをちょっと書いておきたい所なんだけどな……セイキがなぁ……」
 教え子の言葉に青年がぼんやりとした口調で答えれば、少女は最後のひと言に目を丸くした。
「せっ、セイキ!?」
 思わず少女は大きな声を上げた。
 その大きな声に青年達はパチクリと三回ほど瞬きを繰り返す。
 窓の外では鳶がドブネズミを咥えて空を舞っていた。
 ちなみにこの時少女は『保健体育の凄い版』だと思っていた。
 大学生になったら凄い授業があるんだなぁ〜とかそんな授業、受けたくないなぁ〜とか考えてた。
 数秒ほど……割と長い。
 そんな時間はぽん! と言う手を叩く音によって終わりを告げた。叩いたのはよりにもよってジェリドこと勝岡悠介。彼はニマッと軽く笑って言う。
「…………精密機械概論、略して精機な? お嬢ちゃんは何を想像してたのかな?」
 それは底意地悪い笑みだった。
 一秒の半分ほどを使って、少女は言葉の意味を咀嚼する。そして、ニマニマ笑う青年達の傍らで彼の友人二人(伶奈の恩師を含む)が「ぷっ」と小さく吹き出した瞬間、少女の顔がまっ赤に茹だった。
 そして、少女は絶叫していた。
「きっ、気づいてたし! 知ってたし! 解ってたし!!!!」
 一息にまくし立てても、青年は動じることはなく、ニマニマと人を食ったような笑みを浮かべたまま、手短に二つの言葉を言うのだった。
「負け惜しみ、ご苦労さん」
「むかつく……」
 呟いてみても勘違いしてたのは事実だし、負け惜しみなのも事実だし……ぷっくーとほっぺが膨らみ少女は明後日の方向へと視線を向けた。アイボリーのちょっと汚れた壁しか見えないのが、さらに悔しい。
「あはは、後で殴っとくから。それじゃ、俺たちは行くよ」
 背後から灯の優しい声。視線を戻せば伶奈の横を青年達がすり抜けていくところだった。その青年の背後に少女は大きめの声をかけた。
「ビールもどき、まずかったよ!」
 その大きめの、怒鳴り声に近い声に悠介は首だけを振り向かせて応えた。
「最初からまずいって言ったろう? また、買ってきといてやるよ」
「いらない!」
「あはは、遠慮すんな、じゃーな!」
 悠介の声を置き土産に青年達三人はトントンと階段を駆け上がっていく。
 その後ろ姿を少女は少しのふくれっ面で見送った。
 ひさしと壁の間から見える高い空が妙にまぶしかった。
 そのまぶしい空と青年達が曲がった角に向かって少女は大きな声を投げかけた。
「ばか!」

 さて、階段と峠を一気に駆け下りる。三馬鹿とバカなやりとりをしてたしてたおかげで遅刻の危機。ちょっぴり、ピンチ。遅刻すると翼が無言で睨み付けてくるし、三回目遅刻したら――
「吉田さんにチクりますよぉ?」
 ――と、美月に言われているしで、遅刻は出来ない。
 吉田貴美は「凪歩、正座」から始まる説教を一時間やる人だとか聞いてるし、「中学生だから」の言い訳は通用しない事は、その言い訳を使用した凪歩が事務室に連行されていったことからも実証済み。だから……ちょっと怖い……と言うか、学内に彼女を恐れてない人は居ないとか言う噂まで聞く人なので、物凄く怖い。奇麗な人は怒ると怖い……のかも知れない。身近に例が居るし。
 と、言うわけで、坂を下りきってアルト対岸にまでたどり着いたときには、ほぼ全速力。きょろきょろと辺りを見渡し、視野に車やバイクが居ないことを確認すれば、足に残った最後の力を使って一気に渡る。
 そして、砂埃を蹴り上げながら、少女は店内に滑り込んだ。
「はぁ……はぁ……おっ! おはようござます!」
 切れた息を落ち着けさせる事もなく、声を出したら、控えめな声が帰ってきた。
「……おはよう……」
 その声の主は寸胴の前に立ってる寺谷翼の物。その声を背後に聞きながら、少女はキッチンの隅っこ、小さめのカラーボックスが置かれているところへと急いだ。
 そのカラーボックスの上にはタイムカードの機械。
 ガチャリと押して、刻印を見る。本日の出勤時間であるAM九時には三分の余裕。意外と沢山あった。
「はぁ……はぁ……はぁ……ふぅ、間に合った……」
 乱れていた呼吸を整えて、一安心……した背後にかけられる翼の言葉。
「……歩いてこれる時間に……出ろ」
 振り向き見れば、大きな寸胴の前でスープをかき混ぜていたのであろう手を止め、仏頂面がこちらを見ていた。
「あっ……はい……ごめんなさい……」
 素直に少女がぺこりと頭を下げたら、翼は再び寸胴へと視線を向けて、また、その鍋をかき混ぜ始めた。そして、先ほどよりも随分と小さな声で言葉を続けた。
「…………そこの道路、横断歩道もない、から……急ぐと、危ない……」
「うん……ありがとう。何か、手伝う?」
 少女がそう言うと、翼は少し手を止めた。そして、一秒ほど……そのままで居たかと思うと、余りはっきりしない口調で言った。
「……とりあえずは、良い……」
「うん……じゃあ、フロアに行くね」
 そう言って伶奈がフロアに向かう。
 祝日の朝一番ともなれば、店内に客の姿はほとんど見えない。居るのはコーヒー片手に英字新聞を眺めている偉そうなおっさんがカウンター一人きり。大学の教授で徹夜明けには必ず来る人だと言うことは、後で聞いた。
 そのカウンター席から少し離れたところへと視線を移す。
 そこでは、制服姿の凪歩と私服姿の美月が真面目そうな顔でなにやら話をしていた。
「あっ、おはようございます」
 先に気づいたのはシンプルなワンピースにカーディガンを羽織った美月だった。肩からハンドバッグをぶら下げているところを見れば、どうやら彼女は今日はお出かけらしい。
「おはよう、伶奈ちゃん」
 次いで凪歩。こちらはいつもの制服姿だ。
「おはよう、美月お姉ちゃん、凪歩お姉ちゃん……美月お姉ちゃん、出掛けるの? デート?」
 伶奈が尋ねると美月はほんの少しだけ肩をすくめてみせると、軽く首を振った。
「良夜さん、今日は大学で卒論を書くための実験をするとか、どうとか言ってまして……それで、今日は一人で買い物ですよ」
「下着と生理用品なんて良夜と一緒に行けるわけないでしょ?」
 美月の説明が終わるのとほぼ同時、どこからともなく飛んできた妖精が頭の上に着地を決めながら、いらない補足説明。
「お昼、どうすんの?」
 そう尋ねたのは話をしていた凪歩だ。お昼のまかないを作る都合もあるらしい。もっとも、作るのは凪歩じゃなくて翼だが。
「お昼は友達の所に顔を出すので、帰ってこないですよ。多分、話をすると思うので……帰ってくるのは三時か、もうちょっと後くらいですかねぇ……?」
「りょーかい、りょーかい、それですぐに出掛けんの?」
「いいえ、今回してる洗濯機が終わって干してからですよ」
「………………じゃあ、なんで、ハンドバッグぶら下げてんの?」
 凪歩が苦笑い気味に尋ねると、美月はそのハンドバッグへと視線を落として答える。
「………………さっ……さあ?」
 そう言った顔では笑みが凍り付いていた。

 そんな感じでお仕事スタート……とは言え、ただでさえ暇な祝日の上に、今日はフロアに凪歩がいた。
 から〜ん……とアルトのドアベルが乾いた音で来客を告げれば、レジ横、丸いすの上に座っていた少女が立ち上がる……よりも早く、声が聞こえた。
「いらっしゃいませ〜」
 一足先に凪歩が玄関先に顔を出し、大学生らしき男性客を迎え入れていた。その彼を国道側の窓際に案内すると、凪歩はそのまま、キッチンへと消えていく。おそらくはお冷やを取りに行ったのだろう。喫茶アルトではお冷やを持っていった人がそのテーブルの担当になるって言うのが原則だから、これであの大学生は凪歩が担当することになり、伶奈に出番は回ってこない。
 仕方ないので、伶奈はぺたんともう一度、丸いすの上へと腰を下ろす。
「……暇だね、アルト……」
 ぼんやりとした口調で少女が言えば、頭の上で妖精が答える。
「……そうね」
 あくびをかみ殺しながら、少女は言った。
「…………歌でも歌って」
「………………ぽっぽっぽー♪」
「……………………鳩ぽっぽは止めて」
「静かな湖畔の森の影から♪」
「童謡攻めなのね……まあ、良いけど……」
「もう起きちゃいかがと カッコウが鳴く♪ かっこー、かっこー、かっこー♪」
 本当に歌い始めるとは思っていなかった……なんて、少女は思うが、まあ、上手だからとりあえずよしとする。
 そして、一曲丸ごと歌い終わったところで、ひょこっと頭の上から天地逆さまになった妖精が降ってきた。小さな顔に長い髪がぶら下がり、少女の前でぷらぷらと揺れる。
 少女はその顔をじーっと見つめる。
 すると、その顔がニコッと微笑み、そして、言った。
「知ってる? 閑古鳥ってカッコウのことなのよ」
「…………物凄い遠回りな嫌味、止めようよ……後、解説されなきゃ、解らないボケは最低だって……前に誰かが言ってたよ……」
「バカね、教えてあげるところまでが嫌味なのよ。ボケじゃないわ」
「……むかつく、この妖精……」
 と、眉をつり上げたところで閑古鳥が鳴いてるのは事実だし、伶奈のやるべき仕事も特に増えない。
 結局、午前中、三時間でやった仕事は、さっきの男子大学生が食べたモーニングの会計が一件だけ。それも、レジをうちに来た凪歩が伶奈の存在に気づき(アルト曰く「思い出し」)――
「……伶奈ちゃん、する?」
 と、言って、譲ってくれただけのこと。居なきゃ、居ないで凪歩がやったであろう事は、疑いの余地がない。
「……私の存在意義ってなんだろうね……?」
「しょうがないじゃない……暇なんだから……そもそも、平日のランチタイムも和明と凪歩だけで回せてるのに、それよりずーーーーーっと暇な祝日に貴女が来て、仕事があるわけないのよ」
「……言いづらいことをあっさり言うね……」
 頭の上から降ってくる声に静かに嘆息し、少女はぐーーーーーーっと丸いすの上で体を伸ばす。ずーっと座りっぱなしだったせいか、あっちこっちが痛い。
「暇に耐えるのも仕事のうちよ、せいぜい、がんばりなさい」
「……お昼から、キッチンに行こうかなぁ……」
 なんて思っていたら……

 お昼、まかないに翼お得意の野菜クズで作ったナポリタンパスタを食べた伶奈は、なぜか――
「……ぶきっちょ……」
 ぽとり……だいこんから分厚い皮が作業台の上へと落ちるのを見やり、翼がぽつりと呟いた。
 その呟きが少女の胸に深く突き刺さる。
「包丁は動かさない……だいこんを、動かす……良い?」
 ――だいこんの桂剥きを作っていた。
 なぜか? なんて言っても、理由は分かりきっている。それは簡単、伶奈が翼に「午前中は暇だった。キッチンに仕事はない?」と聞いたら……
「……キッチンも暇……だから、料理、教える」
 と、翼が言い出したからである。
 祝日後半戦は波瀾万丈の雰囲気を醸し出しながら、今、始まった。
 

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