秋祭り(3)

 蓮はまっ赤な顔とまっ赤な目で穂香のパーカーを顔に押しつけていた。
 鼻血を出したのは、受け身も取れずにひっくり返ったせいでもあるが、それ以上に彼女は緊張すると鼻血が出やすくなる体質って言う原因も大きかったらしい。
 本人は必ず『緊張なんてしてない』という。しかし、周りから見て緊張してるんだろうな、と思うようなことがあると、たいてい、鼻血を出してしまう。
 例えば、幼稚園の時、お遊戯会。主役ほどではないが、端役と言うには重要過ぎるポジションに選ばれた事があった。そしたら、体育館、大勢の観客が見守る舞台の端っこ、下手側で出番を待ってるときに鼻血を出した。例えば、小学校三年生の時、従姉妹のお姉さんの結婚式があった。その時、蓮は花嫁が入場の際に着るロングドレスの裾を支えて歩くという大役を新郎側従兄弟共に担う羽目になった。そしたら、控え室、入場三分前の押し迫ったタイミングで鼻血を出した。それから、小学六年生の時、英明の入試。面接の直前にも鼻血を出した。
「南風野さんも人の子なんだねぇ……」
 話を聞いて、伶奈は思わず、そう言ってしまった。
 もっとも、伶奈がその話を聞き、そう呟くのは、蓮がまっ赤な顔とまっ赤な目で穂香のパーカーを顔に押しつけている『今』よりももうちょっと先でのお話。
 伶奈達の『今』はそれどころではなかった。
 蓮のまっ赤な目がいっそう赤くなって、さらに潤む。
 それは大雨の中、必死で耐えてるちっぽけな堤のようだった。
 そして、震える唇が開いて、言葉を紡ごうとした。
「……ご――」
 が、それは無駄だった。
 こんな時にも決して素早いとは言えない口調の蓮を制して、穂香が先に言葉を紡いでいたのだ。
「ごめんね! お化粧、めちゃくちゃにしちゃった!」
 明るくてひときわ大きな声、誰にも何も言わせない勢いだけはたっぷりとそこに含まれていた。
「……えっ?」
 穂香の言葉にさすがの蓮もぽかんと大きな口を開く。
 だらんと腕が無意識のうちに落っこちる。
 確かに、パーカーで顔を押さえつけたせいだろうか? せっかくのおしろいも口紅も鼻血に混じって台無し。
 って、蓮の顔を伶奈がぼんやりと見ていると、パーカーの圧力から解放された鼻の穴から、とろり……と、血が一筋の赤い川を鼻と唇の間に作ろうとした……ら、それが流れきるよりも早く、穂香が蓮の手をひょいと持ち上げ、再び、パーカーを彼女の鼻の頭へ……
「私のパーカー、無駄死にになるじゃん」
 穂香は平然とした口調でそう言った。
「蓮!? どうしたの!?」
 それと同時くらいのタイミング。先ほどの大騒ぎで気づいたのだろう、蓮の母親が血相を変えて玄関に飛び込んできた。
 そして、彼女は蓮の姿を見て数秒固まった。
 パーカーにしみ出す赤いシミ、今にも泣きそうな我が娘、そして、先ほどとは服装の替わってしまった穂香。それらを見て、彼女は全てを悟ったようだった。
「なんで、そんなもので鼻血を拭いてるのよ!」
「だって、辺りをぐるっと見渡したら、汚してもいい布がそれ以外に見えなかったんだもん」
 蓮に向かって発せられたはずの怒声じみた質問の言葉だったが、それに答えたのは穂香の方。軽い口調でそう言ったかと思うと、彼女はもうひと言、あっさりとした口調で付け加えた。
「良いじゃん、私の服なんだし」
「そう言う問題じゃないでしょ! だいたい、自分の服と言っても、自分で稼いだお金じゃないでしょ!!」
「いや、まあ、そうだけど……」
「親御さんが買ってくれた服をこんなに汚して!!」
 と、なぜか、蓮の鼻血で汚れたパーカーを挟んで、蓮の母が穂香を説教し始めるというわけ解らない構図に発展した。しかも、玄関先で、しかも、鼻血を出した我が娘とその友人二人が見守る中で。
 そんなおかしな空間で伶奈はぼそっと呟くのだった。
「……私、この服、自分で稼いだお金で買ったよ」
「……今、その話をしたら、物凄く話がややこしくなるから、絶対にしちゃダメよ……」
「解ってるよ……」
 アルトと二言三言、ぼそぼそときわめて小さな声で、言葉を交わす。
「……誰彼かまわず、叱りつけるのは蓮ちゃんのお母さんって感じだよね……」
 そう言ったのは美紅だった。
 その美紅に伶奈も軽く肩をすくめる。
「ああ……そうかも……怒り方は全然違うけど……」
 目の前では中年女性が少女にお説教をして、されてる側が面倒くさそうに言い訳をするという、一見すればただの親子喧嘩のような状況が一滴の血のつながりもない二人の間で繰り広げられていた。
 その状況に区切りを付けたのは、諸悪の根源……とも言うべき蓮だった。
 彼女は頭半分ほど高い我が母の頭をぽこん……と一つ叩いた。
「ともかく、ご両親にこちらからお詫び――って、何よ!? 親の頭を叩いたりして!」
 激高する母に向かって、娘はいつものぼんやりとした視線と共にきわめて控えめな口調で言った。
「……タオルか……ティッシュ……」
「あっ……」
 蓮の訴えに母は小さな声だけを一つ置いて、ぱたぱたとその場を後にした。
 しかし、そこは未だ淑女と言うには幼いが女性が三人もいるわけで、落ち着いて捜せばポケットティッシュの一つや二つは出てくるものだ。代表して……と言うわけでもないが、伶奈がジーンズ生地のナップザックからポケットティッシュを見つけ出し、それを蓮に手渡した。
 堅く丸めたティッシュを、鼻の中へ……ひとまず、落ち着いたら、蓮は穂香にパーカーを返した。
 そして、未だにまっ赤なままの頬とまっ赤に潤んだ瞳を向けて、穂香に言った。
「……ありがと……」
「どーいたいしまして〜でも、お化粧はやっぱりぐちゃぐちゃだね、お化粧が崩れる前に写真に撮っておきたかったなぁ〜」
「……朝、撮ったよ……」
「じゃあ、後でちょうだいね」
 と、話をしながら、穂香はひょいと血に染まったパーカーを羽織った。胸元には血の跡が二つほど。大きいのと小さいの。
 その瞬間、会話が止まった。
 伶奈の思考も止まった。
 外から、祭り囃子が聞こえた。
「返り血みたいで格好いい!」
 胸元を見ていた持ち主が喜んだ。
「――って、着ないでよ!」
 その穂香に最初に突っ込みを入れたのは、美紅だった。まっ赤な顔での突っ込みだ。
 されど、突っ込まれてる奴はきょとんとした表情で言い放つ。
「えっ? なんで?」
 また、外から賑やかな祭り囃子が聞こえた。
「れーん、そろそろ、時間だぞー!」
 野太いおっさんの声も聞こえた。
 そして、穂香を除く少女達三人は円陣を組み、頭をひっつけて、ごにょごにょ……と、話し合いを持った。
 そこには伶奈の通訳を介したアルトも参加していた。
 そのまま、三十秒ほどの時が流れ……三名及び伶奈の頭の上に居たアルトがくるん! と一斉に穂香の方へと向き直る。
 そして、急遽裁判長任命された美紅が大きな声で、発表した。
「こほん! では、これより、四方会人民裁判を行います! 被告人は穂香ちゃんで、罪名は、汚れたパーカーでうろうろするなんて恥ずかしいよ! 罪!!」
 もっとも、四方会裁判なんて暇な事をやってる時間など、少女達には与えられてはいなかった。それどころか、蓮が食事をする暇すらもないほど。奉納舞の時間はすでに目の前にまで迫ってきていたのだ。

 さて、蓮はひとまず、彼女の父が運転する軽自動車で一足先に神社へと向かった。
 四方会の面々は軽四に五人乗るわけにもいかないからと、徒歩で向かう事にする……前に、帰ってきた蓮の母親によって穂香の母親にお電話という「めんどくさ……」(穂香談)なイベントが待ち構えていた。
 そもそも、蓮が着ている巫女装束は神社の氏子になってる自治会でお金を出し合って購入し、大事に使っている代物だ。それに鼻血でシミを作りましたなんて事になったら一大事。それを防ぐためにパーカーを一着ダメにしちゃったわけだから、親御さんにもひと言お詫びを……って言うのが蓮の母の言い分。
 穂香にしたら、「そんなの良いから、早く、屋台にいきたい」だ。伶奈と美紅とアルトに至っては「私たち、関係ないもん」である。だが、穂香は自分がいないところで親と友達の親が電話で話し合いなんて、『なんか』嫌だし、ましてや、その間、友達達が屋台で買い食いしているのは、『ずばり』嫌。
 だから、こうなった。
「えっ?! ちょっと!? なんで、私の服の裾握ってるの!?」
 穂香の右手が美紅のブラウスの裾をがっちり握っていた。
「……私のナップザックも……」
 穂香の左腕が伶奈のナップザックの肩紐にがっちりと絡まっていた。
「……で、なんで私まで?」
 そして、当然、アルトも伶奈の手の中で拘束されていた。
 もっとも、その拘束はほんの五分と掛からずに終わった。
 恐縮しきりの蓮の母に対して、穂香の母は
「その子の服がワンシーズン、奇麗なままで保った試しはないですから、気にしないで下さい。後、穂香に『帰ってきたら話がある』とだけ、伝えておいて下さい」
 で、おしまいだったそうだ。むしろ、娘さんの晴れ舞台をうちの娘が邪魔してないか? の方がよっぽど不安だったらしく、そちらの確認の方に時間を長く割くほど。
 結局、洗濯だけは南風野家で行うという話し合いが二人の母の間でもたれ、穂香と穂香に捕まっていた伶奈達、そして、伶奈に捕まってたアルトは解放された。
 白いパーカーが奪われて、洗いざらしの古いジージャンが穂香に与えられた。大柄な兄が着ていた代物なので、穂香が着たら結構だぼだぼ。暖かいのは良いんだが、喫煙者らしく、若干、たばこ臭いのが玉に瑕だそうだ。
 そんなジージャンを身に纏った穂香を先頭に妖精さんを含めた四人は、秋晴れの空の下を、のんびりと歩いていた。向かっているのはもちろん、蓮の家から五分ほどの所にある神社。稲穂の海に浮かぶ船のような鎮守の杜を目指して歩けば、嫌でも着く。
 田んぼの真ん中を突っ切る道は舗装こそされているが、少し大きめの車だったらタイヤがはみ出ちゃうんじゃ? と思うほど狭く、端の方は舗装が崩れかけていた。田舎の農道っておもむきだ。
 その道を歩いていると、肩の上にちょこんと座っていたアルトが伶奈の方を向いて尋ねた。
「穂香はこう言う事、ちょくちょくやるの?」
「……――ってアルトが聞いてるよ」
 道を一本折れると大きな鳥居。その向こう側には両側に十軒ずつほどの屋台街並ぶ夢の空間。そこに第一歩を刻んだところで、穂香はその足を止めた。
 そして、伶奈の方へと顔を向けると、彼女は言った。
「お父さんに言わせると、私は生き方が雑らしいよ」
「雑?」
 声を上げたのは伶奈から見て穂香の向こう側にいた美紅だった。美紅が足を止めて尋ねると、伶奈から視線を美紅へと移して、穂香が頷く。
「うん。例えば、川の向こうに友達がいるのを見つけたら、橋を捜さずに、川の真ん中を突っ切るような生き様だって」
「……確かに雑ね……」
 アルトの相づちは当然穂香には聞こえてないし、伶奈もそれを伝える事はしなかった。
 だから、穂香は再び、歩み始めながら、言葉を続けた。
「物事には一つしかやり方のない事はないんだから、考えついた解決方法以外の道がないか、考えて見ろって、お父さんには言われるんだけど……でも、考えてる間に手遅れになったら困るじゃん? 例えば、川向こうにいる友達がいきなり心臓発作で死ぬ、とか!」
 冗談めかした口調、ブンブンと腕を振り回すオーバーアクションで穂香がそう言うと、伶奈と美紅、それかアルトは顔を見合わせる。そして、苦笑いと共に声を合わせて言った。
「「「ないない」」」
「……そこまで一斉に否定しないでも……まあ、私もそうそうないとは思うけど」
 お祭りの屋台を冷やかして歩く人混みの中、少女達はじゃれつくような笑い声を上げて、銀杏並木の参道をいく。田んぼの向こうに見えていた鎮守の杜は、もう、目の前。
「あっ! 鯛焼き! 食べたい!」
 雑……と言われる生き様通りに穂香は早速辺りをきょろきょろ、有無を言わせず、駆け出しそうになった。
 その右手を美紅が掴む。
「……だから、買い食いは蓮ちゃんの奉納舞が終わってからって……見損ねたらどうするんだよ……」
 そして、左手を掴んで伶奈も言う。
「時間、あまりないよ?」
 がっちり、両手を捕まれれば、さすがの穂香も買い食いに走る事など出来るはずもない。両手に与えられた友人の手を握り返しながら、彼女は苦笑いを浮かべた。
「鯛焼き一つくらい……大丈夫じゃないかなぁ……? ダメ?」
「「ダメ!」」
 情けない顔の少女に対して美紅と伶奈が同時に答える。
 がっくりとうなだれる穂香の首。
 その頭の上を祭り囃子の賑やかな太鼓の音と屋台から香る美味しそうな香りが行ったり来たり。
「時間、本当にあるのかしら?」
 トーン……と頭の上でアルトが飛び上がるのを伶奈は感じた。
 見上げれば、真っ青な空の下に、真っ黒なドレスの裾を翻して、妖精が飛び上がっていた。
 ちなみに下着はガーターベルトを含めて全部黒かった。あと、ちょっと透けてる。きわめてセクシーである。
 別に見たくない。
「そろそろ、始まるんじゃないの? あっち、お社の方に人が集まってきてるわよ?」
「……――ってアルトが……」
 伶奈がそう言った瞬間、穂香が駆け出す。
「わっ!? 急がなきゃ! いこ! 伶奈チ! 美紅チ、じゃなくて、ミクミク!!」
 二つの小さな手を握りしめたまま。
「いちいち、言い直さない――ちょっ、手、引っ張らないで!」
「わっ、私のも……」
 三つの影が三角形を作って走り始める。周りには多くの人たち、ちょっと、邪魔かも? なんて思っても穂香は止まらないし、手も離しはしない。
 そして――
「わっ!?」
 ――転けた。
 手を握っていた穂香はもちろん、握られていた伶奈も美紅も受け身なんて取れずに、顔から砂地の田舎道にダイブ。
 ずさ〜〜〜〜〜!!!
 と、楽しげな音を響かせたら、残っているのは砂だらけの少女三人。ズボン姿の伶奈と美紅の膝小僧にはかぎ裂きが出来て、ミニに近いキュロットスカートに生足の穂香は膝小僧に大きな、まるで子供のような擦り傷を刻みつけた。
「……あっ、ごめん、あれ、獅子舞だったみたい……」
 痛みとかぎ裂きの悲しみにうちひしがれる少女の耳に、頭の上、旋回を始めている妖精の悪びれない声が届いた。
 真っ青な空の中、見えてたガーターベルトが、少女には物凄く許せなかった。
 

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