自分の部屋(2)

 伶奈はこちらに連れて来られた当初、今の部屋ではなく、美月の部屋で寝起きをしていた。正確に言うと、二日目の夜、深夜に美月の部屋に連れて行かれ、それから一週間ほどを美月の部屋で寝起きしていた。
 初日、三島家夫妻は翌日、夫の拓也に休めない仕事があるとかで、その日のうちにとんぼ返り。もう一日休みを貰っていた由美子だけがこちらに居残った。だから、初日の夜、少女は母と一緒に当時はまだ三島家夫妻の部屋だった今の自室で寝かして貰った。
 そして、翌日、母は『様々な雑用』をこなすため、故郷である神奈川へと帰ってしまった。
 一人取り残されるのは、妙に聞き分けの良い少女一人。
「……もう、お父さんとあんなことをしなくても良い……って言う安堵感と、もう、お父さんと会えないって言う寂しさで……頭の中はぐちゃぐちゃだったんだよね……」
 その夜のことを少女はそう語った。
 そんなぐちゃぐちゃな頭で眠れるはずもなく、トイレ……と言う言い訳を頭の片隅にフロアへと下りてきた少女は、窓際隅っこの席に座っていた。
 二月のきんきんに冷えたフロアの中、吐く息が白かったことは覚えているが、寒かったって記憶は残っていない。
 そして、少女はぼんやりと窓の外を見上げていた。
 月明かりだけに照らされた山が窓の外には見えていた。
 その山の上には、コンパスで描いたように大きくて真ん丸で、そして、どこか現実味のない月がぽっかりと宙に浮かんでいたことを少女は妙に覚えている。
 何を考えていたのだろう……? どのくらいそうしてただろう……?
 どちらも良く覚えていない。
 凄く大事なことを考えてたような気もするし、どうでも良い事を考えていたような……もしかしたら、何も考えてなかったのかも知れない。それに時間も同じ。凄く長かった気もするし、一瞬だった気もする。
 ただ……
「どうしたんですか?」
 妖精柄のパジャマを着た美月が下りてきて
「階段を下りる音は聞こえたんですけど、上がってくる音が聞こえなくて……どうしたのかと思いましたよ?」
 そう言って、眉と眉の間に深い谷を作って、伶奈の顔を覗き込む程度の時間は過ぎていたようだ。
「……別に……」
 そう答えた記憶がある。
 美月が伶奈の答えをどう受け取ったのかはわからない。ただ、彼女は伶奈の手を握ると、その手を引っ張り、少女を立たせた。そして、にこっと人好きのする笑みを浮かべて、少女に言った。
「一緒に、寝ましょうか?」
 正直、伶奈はこの頃『人の体温』が気持ち悪かった。だけど、断るのも怖かった。母が帰ってしまった以上、ここを追い出されたら少女に行くところも帰るところもなくなってしまうから……だから、おそるおそる首肯し、美月の部屋へと連れて行かれることにした。
 そして、美月と一緒にベッドの中に潜り込む。
 シングルベッドに細身とは言え大人の女性と、小柄とは言え子供が一人寝転がれば、結構、狭い。それに、少女の頭の中がぐっちゃぐっちゃになってるのは相変わらずで、不眠は解消されるどころか、ますます、ひどくなる一方。
 それなのに、美月は寝転がって三十秒で、すーすーと気持ちよさそうな寝息……
(何を考えてる人なんだろう?)
 美月の抱き枕になりつつ、そんなことを考えていたことは良く覚えている。
 だけど……少女は眠れない夜を過ごしながらも、人の体温が心地良いときもある……って事だけは少し思い出していた。
 そして、何日かすると夜もぐっすり眠れるようになって……
「ぐっすり眠って、寝返り打ったら、ベッドから落っこちちゃって……それで、今の部屋で寝起きするようになったんだけど……」
 と、なんとなく、伶奈はこの部屋に初めて入った日のことを、アルトに語って聞かせていた。半年ちょっと前の話。妙に懐かしく思う。
 その話に一区切りが付く頃、伶奈は美月の部屋の窓を一杯に開いた。
 窓の外、上には真っ青に晴れ上がった空、下には峠を越えて山向こうへと流れていく国道。その間を鳶が気持ちよさそうに飛んでいくのが見えた。
 伶奈の部屋から見える景色と微妙に角度は違うが、概ね同じ風景。
 心地よい風がふわっと一陣、部屋の中に流れ込み、部屋の中に溜まっていた空気を追い出した。
「ふぅん……知らなかったわ……」
 その風に吹かれながら、頭の上でアルトが少々意外そうな声で返事をした。
「うん……美月お姉ちゃんも言わなかったみたいだし……私も言わなかったし……」
 少女も強めの風に崩れる前髪を押さえて答える。
 その崩れる前髪の向こう側に、ふわっと頭の上から金色の髪と小さな顔が降ってきた。
「なるほどね……それで? なんで急にそんな話をしたわけ?」
「……思い出したからって言うのが半分……」
 少女が言葉を句切ると、アルトは少し不思議そうに言葉を返す。
「残りは?」
 クルン……と回れ右。真っ青な空と輝く太陽に背を向け、少女はすっと手を上げた。
「あそこ……」
 左手で指さしたのはぬいぐるみ達が鎮座する本棚の上、天井の隅っこの辺り。天井と壁の境目にはブラウンの回り縁が張られていて、その下に薄灰色の煤がピーッと線を引くように張り付いていた。壁も天井もアイボリーのクロスだからよく目立つ。
 その煤を指さしながら、少女は苦笑いを浮かべて言った。
「……あの頃にもあった煤が今でも残ってるなぁって……思ったら、軽く頭が痛くなってきた」
「……ホント、頭が痛くなるわね……」
 アホな話をしながら、少女はまずは部屋の隅に置いてある木製の学習机へと取り付いた。木製で落ち着いた感じは上質そう。しかし、その机には子供らしい落書きの跡やシールを貼った跡が見受けられて、なんだか、妙に安心してしまう。
 そんな机の上をハンディモップで拭きながら、少女はアルトに言った。
「美月お姉ちゃんって、人に部屋に入られて、嫌だったりしないのかな?」
「気にしないんじゃないの? あの子は。寝るのとぬいぐるみと人形を愛でるためだけの部屋だもの、ここ」
「……なるほど」
「見られて困るような物もないんじゃないの?」
 そんなアルトの声を聞きながら、机の上を拭いていると、また、心地良い風が吹いた。その風に机の裏っ側に入り込んでいたらしきプリントが一枚、ぺらっと落ちた。
 その紙を拾い上げる。
「……食品衛生学……四十五点……」
 思わず、少女は紙切れに書いてある文字を読んだ。A4サイズくらいのテスト用紙だ。もちろん、百点満点なんだろう。明らかにマルよりもバツが多い。
「……見られて困る物……ないんだ?」
 少女が呟いた。
「……見なかったことにしてあげなさい……」
「……うん」
 頭の上から響くアルトの寂しげな声に、少女は素直に頷いた。
 とりあえず、机の裏っ側に押し込んでおく。
 それから、少女はその机から視線を天井付近へと視線を移す。
 もちろん、綿埃は剥がれ落ちることなく張り付いていた。
「……でも、ほっとくわけに行かないよね……」
「背、届かないでしょう? 椅子の上に乗るのは危ないわよ?」
 頭の上、アルトに言われると少女は少し考える……確か、倉庫に脚立やハタキがあったようななかったような……でも、取りに行くのは面倒だ。特に脚立を持って階段を上るのは壁にぶつけそうで怖い。
 と、しばらく考え、結論を出す。
 まずは、ひょいとアルトの体を頭の上からつまみ上げた。
 伶奈の目の高さにアルトをぶら下げると、不審そうな表情で妖精は尋ねた。
「なによ?」
 どこか不機嫌そうなのは少女の思いつきに何か察する物があるのかも知れない……と、少女は思った。
「とりあえず、ストロー、貸して?」
「如意棒じゃないから伸びないわよ?」
 左手を突き出せば、妖精はその手の上にぽとりと注射針のような小さなストローを置いた。窓から差し込む秋晴れの太陽に照らされて、きらきらと光っててとっても奇麗。
 これは無くさないように美月の机の上に置いておく。
「これ、持って」
 そう言って手渡したのは、ティッシュペーパーだ。伶奈のポケットに入ってたポケットティッシュ。
「……嫌な予感が猛烈にしてくるんだけど……」
 と、妖精は少々怪訝な表情を見せながら言った。もっとも、素直にティッシュペーパーを握ってくれるあたり、彼女は良い人、もとい、良い妖精だと思う。
 そして、少女は振りかぶって――
「行ってこい!」
 ――妖精を投げた。
「そうなる気がしてたわよ!!!」
 大きな悲鳴を上げながら、アルトが一直線に壁へと飛んでいく。そして、ぴたり……と、壁と天井の境目辺りに張り付いたら、かさかさと動いて、素直に天井付近にこびりついた煤をティッシュで払っていく。天井付近をかさかさと動いていく姿は、どう見ても……
(……悪いけど、ゴキブリみたいに見えるかも……今日、黒ゴスだし……)
 って思ったのは、心の中だけに納めて、決して誰にも言わないでおこうと少女は決めた。
 かさかさとゴキブリ……じゃなくて、妖精はしばしの間壁と天井に境目辺りを行ったり来たり。ひとしきりうごめくと、彼女はひらりと宙に舞い上がる。
 すとん……黒衣の妖精が机の上に華麗なる着地を決めた。スカートの裾をほとんど翻さずに着地するのは素直に凄いと少女は思う。
 そして、彼女は手にしてた黒く汚れたティッシュをぽいとゴミ箱の中に捨てると、代わりにストローを拾い上げた。
 二度、妖精はストローを縦に振った。
 ひゅんっ! ひゅんっ!
 風を切る音が気持ちよく響く。
「さて、覚悟は良いかしら?」
 妖精はきっ! と鋭い眼光と共にストローの切っ先を少女へと向ける。
「……私も悪かった……とは思ってるけど、刺されるのはヤだ」
 そう言って少女は大きく両手を広げる。視線は奴の一挙一動すら見逃さないように釘付け……
 その広げられた両手を、妖精はちらちらと一回ずつ見た後、少女の顔を下から見上げる。そして、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
 にらみ合いの中、先に口を開いたのは少女の方だった。
「アルト……エアコンの上にも埃が溜まってるよ……」
 少女の言葉に妖精が応える。
「下から脚立でもなんでも持ってきなさい、どチビ」
 そのまま、さらに一分、間抜けなにらみ合いが続いた。
 そして、三分後……
 伶奈は額に大きな絆創膏を貼って掃除機をかけてたし、アルトはエアコンの上をティッシュで拭いていた。
 そんな感じのお掃除も開始から小一時間ほどで終了した。
 見違えるほど……とまでは言えないけど、それでも埃も煤も奇麗になくなって、部屋は随分とすっきり。明るくなったような印象すら受けるほど。
 そんな部屋の中、伶奈はポフッと美月のベッドの上に腰を下ろした。
 ぼんやりと宙を見上げる。
「なんか、自分の部屋を掃除する前に力尽きたかも……」
 冗談めかした口調……って言い方だけど、半分は本音。ちょっぴり、続きをやるのが面倒くさいなぁ……なんて思いながら、少女は窓の外へと目を向けた。やっぱり、抜けるように真っ青で雲一つない、突き抜けたように高い空が広がっていた。
 その窓辺へと少女は近づいた。
 心地よく冷たい風が少女の髪と頬を撫でていく。
「今夜辺り……久しぶりに美月お姉ちゃんと一緒に寝ようかなぁ……」
「あら、珍しい」
「うん……そろそろ、夜は涼しくなってきたし……他の人の体温も、心地良い、かな?」
 ぼんやりと呟いた少女の言葉に、アルトが答えた。
 そして、少女は開きっぱなしだった窓をぴしゃっと閉じる。
 強い風にそよいでいた髪が落ち着き、部屋が静かになった。
「さてと……それじゃ、本番かぁ……なんか、めんどくさいなぁ……」
 ぐーーーーーーっと背伸びをしたら、少女は大きめの掃除機やらハンディモップやらを抱えてお隣の部屋へと足を向けるのだった。

 なお……
 その夜、伶奈は美月と共にこの部屋へと帰ってきた。久しぶりに一緒に寝ようって美月に言ったから。もちろん、その頭の上にはアルトも居た。
 そして、意気揚々と美月がドアを開いたとき、部屋の真ん中、一番目立つところにそれは転がっていた。
「うげっ!?」
 と言う美月の悲鳴ともうめき声ともつかない声が響いた。
「あっっちゃぁ……」
 少女が天井を仰ぎ見た。昼間奇麗にした天井やはやっぱり奇麗だった。
「あらら……私、し〜らない♪」
 そして、妖精は他人事だった。
 美月は転がっていた紙をマッハでゲットすると、目に一杯の涙を溜めて、少女の方へと振り向いた。
 今にも涙がこぼれ落ちそうで、物凄く情けない顔だった。
 そして、彼女は尋ねた。
「みっ、見ました?」
 涙目の女性から視線を逸らし、少女はそっぽを向く。
「みっ……見、見て、ない、よ?」
「見たんですね!? アルトも!?」
 震える少女の声に美月はいっそう大きな声。
 そして、少女はそっぽを向いたまま、軽く、ほんのちょっぴりだけ、首を縦に振るのだった。
 そして、その夜……
「えぐえぐ……テスト、見られた……四十五点のテスト、伶奈ちゃんとアルトに……姉としての威厳が……」
 と、落ち込んで、なかなか寝付けなかったらしい。
 もっとも……――
(天井の隅に綿埃ひっつけてるときから、姉の威厳ってのは感じたことないんだけどなぁ……)
 と、ぐじぐじと落ち込んでる美月の横で、眠れない夜を過ごしていた少女の感想が、本人に伝えられることは、もちろん、なかった。
 なお、アルトだけはさっさと爆睡しちゃってた。

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