自分の部屋(1)

 十月中旬のある日曜日……伶奈は日曜日だからと言って朝寝が出来るというわけではない。ダイニングキッチンと居間と言う名の寝室、二部屋しかないアパートで看護師をしている母が出勤の準備をしていれば、母がいくら気を使ってくれようとも目が覚めてしまう。そして、中途半端に目を覚ますくらいなら母と同時に起きて朝ご飯を食べさせて貰った方がマシだ。だから、土日祝日関係なく、母が出勤する日は平日と同じように起こして貰って、朝食を一緒に食べることにしていた。
 西部家の朝食はパンである。
 焼いて終わりの食パンは忙しい朝にはぴったり。六枚切りのトーストを焼いて、バターを塗って、そいつでシーフードソーセージを挟むというか、巻く。そして、最後にたっぷりのマヨネーズを隙間に流し込んで出来上がり。手抜きの食事ではあるが、結構美味しい。それから飲み物は飲むヨーグルト。発育不足な身長にカルシウムが効くかと思って飲んでいるのだが、残念なことに効いてるような様子はない。
 そんないつもの朝食を食べつつ、スマホを弄る。昨日の夜に交換してたメールの続きが二通ほど来てたので、それに対して返信を出しておく。おそらく、他の皆は寝てるだろうから、返信は遅くなりそう……と、スマホを弄っていたら、食事の手を止め、母が言った。
「……食事の時はスマホは置きなさい……」
「……うん」
 呟き少女は手にしていた食パンを置いて、真面目にメール作り。
 遠くでため息が聞こえた気がした。
 メールを送り終えたら、改めて食事を再開。少し冷えたパンに少しヌルくなった飲むヨーグルト。
「それで、今日、出掛けるの?」
 ため息交じりに母が尋ねると、未だパジャマ姿のままでパンをかじっていた少女は軽く首を左右に振って見せた。
「特に予定はないよ。先週、皆で出掛けたから、お金もあまりないし……」
「ふぅん……」
 余り興味もなさそうに母が呟いたので、てっきり、伶奈はこの話題は終了だと思っていた。
 しかし……
「暇なら、あっちの部屋の掃除しなさい」
 そう言って、一足先に食事を終えた母が席を立った。手には彼女が使った食器達。
「汚れてない……と思うよ?」
 隣の部屋、キッチンへと続く引き戸に消える母を目で追いながら少女は言った。
 その少女の言葉に母は少し声を張り気味に応える。
「汚れてなくても、たまには掃除機くらいかけるのが礼儀でしょ? 使わせて貰ってるんだから……嫌なら、あなたが学校に行ってる間に母さん、やっちゃうわよ!」
 その声に飲むヨーグルトを飲んでいた手が止まる。
 遠くで車がブレーキを掛ける音が聞こえた。
 そして、少女はぼそっと呟く……
「……それは、なんか、ヤだ……」
「じゃあ、やりなさい! 良いわね!?」
 と、母の大きめの声が聞こえて、本日の伶奈の予定はお掃除と言うことが確定した。
 お外はまぶしいほどの秋晴れ、暖かくて気持ちいい風が吹いているというのに……

 着替えも終わっていた母は一足先に出勤。朝食をパジャマで食べてた伶奈はそれから十五分ほど遅れて部屋を後にした。白いブラウスの上にジーンズのオーバーオール。
「はぁ……」
 唇には何度目になるか解らない小さなため息、顔には……――
「しけた面してんな? ジャリ」
 顔にはしけた面を貼り付けて外に出れば、そこにはウンコ座りで煙管をくゆらせるお隣さんの姿があった。
「……あっ、ジェリド」
 呟くように言うと、ジーンズ姿の青年はぷっか〜と気持ちよさそうに紫煙を吐き出した。その紫煙が高い秋の空に混じって消えるよりも先に青年は尋ねた。
「バイトか?」
「……バイトなら制服じゃん……あっちの部屋、掃除しに行くんだよ……」
「ああ……それもそうだな……」
 青年はそう呟いて、もう一度、キセルを口に運んだ。ゆっくりと吸って、ゆっくりと細い紫煙を秋空へと吐き出す。
「朝早くから元気なもんだ……」
「でも、ジェリドも早いじゃん。昼まで寝てるかと思った」
「ああ……別に早くはない。いわゆる、今、三十二時って奴だからな……」
 よく解らない言葉に少女は思わず、間の抜けた声を上げてしまう。
「はぁ?」
「……寝ないで起きてたって事だ……アニメ、見てた。あと、艦これ」
 青年がそっぽを向いて呟けば、少女はあんぐりと口を開いた。
 そして、少女は絞るようにひと言だけ漏らす。
「……ダメ人間……」
「……まあ、否定はしない」
 青年はあっさりと首肯して見せた。
 少しあっけないというか、拍子抜けというか……何とも言えない気分でいる少女の前で、青年はこんっと雁首を灰皿の縁に叩き付けた。そして、ふっと吸い口から息を吹き込み、中のゴミや灰を吹き飛ばしたら、たばこ盆の端っこに付けられた鉛筆立てのような筒に煙管を放り込む。
 コーン……と木製の底を金属の雁首が叩く音が廊下に響いた。
 その流れるような仕草を少女がぼんやりと見ていると、青年は立ち上がり、自室のドアを開く。
 そのまま、入っていくのかと思えば、開いたドアから首を突っ込んだだけ。
 そして、少々大きめの声で彼は言った。
「灯、お前の教え子が徹夜でアニメなんて見てる奴はダメ人間だ! って言ってるぞ?」
 その大きめの声を聞いた瞬間、ぽん! と顔がまっ赤に茹で上がって耳たぶまでもが熱くなるのを少女は自覚する。
「いっ、言ってないよ!!!」
 慌てて大声を上げるも、悠介はひょこっとドアの内側から顔を出し、底意地の悪い笑みを少女に見せた。
「……灯センセが居るって聞いてない……」
 伶奈が頬を膨らませて抗議をする。
「灯もシュンもいるさ。俺がアホをやるときはたいがいあの二人もセットだからな、最近」
 嘯く悠介の背後で、ガチャリと音を立ててドアが開いた。ひょっこりと顔を出したのは、腫れぼったい目をした灯だった。寝不足なのだろうか? ヒゲも伸びてるし、血色も悪そう。いつもの精悍な感じが台無しだ。
 少々疲れ気味ではあるが、二重のまぶたの大きな瞳を少し緩める。人なつっこい笑み。そして、青年は言った。
「二−三本見て寝ようって話が、なんでか、最後まで見ちゃってねぇ〜凪姉には内緒にね?」
 その言葉に少女は慌てて首を三回縦に振る。
「じゃっ、じゃあ、私、行かなきゃ……だから……さようなら、灯センセ」
 そう言って少女は慌てて回れ右。ぱたぱたと振り向きもしないで、その場からダッシュ。
「後でジェリドはぶん殴って置くから!」
 背後から聞こえた声はジェリドこと悠介でもなければ、灯でもないもの。多分、俊一の声だろう。その声にも反応はしないで、一気に階段を駆け下りる。
 そして、一階まで下りたら、ホッと安堵の吐息を一つ吐く……も――
「走ると、転ぶぞ〜!」
 頭の上から降って来たのは、悠介の小憎たらしい声。
 きっ! と回れ右。
 首が痛くなるくらいに上を見上げて視線を四階へと運ぶ。そこにはひょこりベランダから手を振る三人の姿が見えた。
「うっさい! バカジェリド!」
 大声で返事を返して、ぱたぱた……と少女は再び駆け出す。
 駆け出す少女のやせ気味のほっぺたを初秋の風が優しく撫でる。
 アルトへと続く峠の下り坂、半分ほどまで走ってきたところで少女は足を止めた。
 そして、改めて、その心地よい風に吹かれながら、彼女はゆっくりと歩き始める。
(もう……ジェリドのせいでいきなり汗掻いちゃったよ……)
 内心毒づくけど、火照った肌に秋風が気持ちよかった。

 から〜ん……と喫茶アルトのドアベルが乾いた音で鳴った。
「あら……どうしたんですか?」
 そう言って伶奈を出迎えたのは、キッチンを翼に任せ、自身はフロアを担当している美月だ。不思議そうな表情で小首をかしげていた。
「暇なら、部屋の掃除しとけって……お母さんが……」
「あら……それはそれは、お疲れ様です。それじゃ、終わったら、何か美味しい物でも振る舞いましょうかねぇ〜」
 にこにこと人好きのする笑みを浮かべる美月に伶奈は慌てて首をブンブンとちぎれんばかりに振った。
「ああ、いいよ! 部屋、借りてるわけだし……えっと……あの、その、ほら、礼儀って奴だから……」
「そうですか? でも、私はごちそうしたいんですけどねぇ〜どちらにしても、お昼は食べなきゃいけないんですから、気にしないで、美味しい物を作らせて下さいよ〜どうせ、日曜日で暇ですし。何が良いですか?」
 ご機嫌そうな口調と表情でそう言われると、それ以上、遠慮するのも難しくて……結局、少女は――
「……じゃあ……お肉……が良い……かな? 牛肉だと……嬉しい、かも……」
 ――と、結局、お昼のリクエストをする羽目になってしまった。
「それじゃ、コトレッタにしましょうかねぇ〜? トマトとチーズのサラダもたっぷり付けて」
 そうって美月は屈託のない笑みを浮かべた。
 コトレッタは良く叩いた牛肉にチーズがたっぷりと入った衣を付けてかりっと揚げたミラノ風カツレツ。前にも食べたことがあるが、とても美味しかったことを伶奈は覚えていた。
 正直、お昼が少し楽しみ。
「ありがと……それじゃ、私、上に行ってるね……」
 そう言って伶奈が美月に背を向けると、その背に美月の声がかけられた。
「あっ……そーだ、伶奈ちゃん」
「なに?」
「それでですねぇ〜代わりと言ってはなんですけど……」
 申し訳なさそうな表情で言う美月のお願い……それは……
 そして、一分後、少女は大きな掃除機を抱えて自分の部屋……ではなく、美月の部屋へと続くドアの前に立っていた。
「……断りなさいよ、貴女も……」
 頭の上でアルトが呆れ声を上げるも……
「だってぇ……コトレッタ、作ってくれるって言ってたし……それくらいしても罰は当たらないかな? って……」
「先に報酬の話をしておいてから、仕事を言いつけるなんて、いい根性してるわよね」
「……素でやってるから怖いよ……」
 ため息を吐いて、少女は部屋のドアを開く。そして、伶奈の貴重な日曜日を潰す掃除の時間が始まった。
 

前の話   書庫   次の話

ご意見ご感想、お待ちしてます。