時間―裏―(完)

 二四研十人を迎えての喫茶アルト本日の営業は最後の最後までしんどかった。何と言っても、レジを一人ずつやらされたのだ。
(まとめて払ってくれれば良いのに……)
 とか、レジ係――伶奈は思うが、まあ、一人一人の金額が結構違うからしょうがない。
「ジャーマンピザセット、それから、ホットケーキデラックスで……二千三百五十円です……」
「あっ……食い過ぎたな……」
 呟いた男子大学生から千円札を三枚受け取り、小銭とレシートを返す。そのオイル汚れのしみこんだ無骨な手のひらに小銭を置きながら、少女は思う。
(値段で判断しないでよ……)
 あきれかえる感情はもちろん、顔に出してない……つもり。ただ、相手の大学生が苦笑いを浮かべていたから、もしかしたら気づかれてるかも? とは思うが、もちろん、確認なんかしない。
 最後の一人におつりを渡し終える。
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げると、青年は
「ごちそうさん」
 気楽な口調で軽く手を振り、その場を後にした。その青年がから〜んとドアベルを鳴らして出ていくのを目で追う。
 大きな窓ガラスの向こう側は真っ暗な駐車場。様々なオートバイや自家用車達のヘッドライトがお互いとお互いの主の姿を映し出していた。
 ドドド……
 いくつものエキゾーストノイズが合唱のように一つに溶けて交わり、伶奈の身体を振るわせる。
(暴走族みたい……)
 と、思ったことを後々、美人のお隣さん、通称アマナツこと天城夏瑞に言ったら、半泣きで否定されたってのはちょっとした余談。
 そんな窓の外から時計へと視線を移す。
 時は八時二十分くらい。ラストオーダーまではまだ十分ほどの時間があった。
 だがしかし。
「あの時計は十分遅れてる……」
 ぼそっ……と、いつの間にかフロアへと顔を出していた翼が呟いた。
「あれ……電波時計……」
 と、美月が言ってたなぁ……って事を翼に言うも、いつもよりも温度低めの鉄仮面は先ほど言った言葉をリピートするかのごとく、全く同じ口調でもう一度言う。
「あの時計は十分遅れてる……」
 時計を見上げる翼の鉄仮面を横から見つめる。
 数秒、考え、少女は言う。
「……うん……」
 と言うわけで、喫茶アルト内の時計は十分遅れていることが判明し、ラストオーダーの八時半ちょうどに営業が終わった。

 営業が終わると明かりは半分ほどが消される。薄暗い店内は何とも言えない雰囲気。怖いような、幻想的なような……と、伶奈は土曜日の度に思う。
 そんな店内を伶奈は一人でお掃除。
「それじゃ、先に休ませて貰いますね」
 セリフだけはいつもと同じではあるが、その振る舞いはいつもとは大違い。年齢を感じさせないかくしゃくとした歩き方はなりをひそめ、腰を曲げ、よたよたとした歩き方。時折、テーブルを支えにしているところなんか、とても辛そうだ。
「大丈夫? 階段、上がれる?」
 少女が問うと老人は少しだけ頬を緩めて応えた。
「大丈夫ですよ。それより、掃除、よろしくお願いします。それと、私は今夜はシャワーだけにしますから……もし、お風呂に入るのでしたら、掃除の方、よろしくお願いします。申し訳ありません。それと、寺谷さんとお二人で好きなケーキを食べて下さい。伝票だけ切って置いてくれれば、後は美月さんに処理するように頼んでおきますから」
「あっ……うん。階段、気をつけて……」
 よたよたと歩く老人を見送り、伶奈は掃除の続き。テーブルを一つ一つ拭いて回って、それからモップがけ。普段ならなんだかんだ言っても、この時間には美月が帰ってきてる事も多く、帰ってきてれば手伝ってくれる。しかし、今日はまだ帰ってきてないし、連絡も取れない。だから、一人でやってる。しかも、今までも一人でやらなきゃいけないことが何回かあったのだが、アルトとあれこれしゃべりながらやるのと、一人で黙々と掃除をするのとでは疲労度が違う気がする。
 普段よりも二割ほど疲労度の高いお掃除が終わる頃、翼がやってた明日の下ごしらえも一段落。二人揃って窓際隅っこ、いつもの席に着いたのは、九時を十分ほどすぎた頃のことだった。
「お疲れ……」
 いつもの鉄仮面にいつものぶっきらぼうな口調、否、いつも以上にぶっきらぼうな言い方に聞こえたのは、伶奈の気のせいではないはずだ。
「……お疲れ様、です」
 疲れ切った口調で伶奈もお返事。
 そして、二人同時に――
「「はぁ……」」
 と、万感の思いを込めてため息を吐いた。
「……ともかく、食べよう……」
 翼が言った。
 二人の前には野菜クズがメインのナポリタンパスタ……の上に分厚い、通常の五割増しはあるような超分厚いロースハムのステーキがどーんと一枚ずつ乗った素敵な夕飯が鎮座ましましていた。それから温野菜のサラダに、デザートは伶奈は昼間にチェックしてたイチジクタルトで、翼はモンブラン。
 まずはナポリタンの上に乗ってる分厚い、本当に立ちそうなロースハムのステーキをフォークでブスッ! 刺したら、それを無造作にガブッ! と噛む。口の中に肉汁があふれ出てきて、非常に美味しい。
 リクエストしたのは伶奈だ。

「……今日のまかないは、豪華にしても、許される……」

 翼がそう言ってくれたので、それじゃ、ロースハムを思いっきり分厚く……とリクエストした次第。前に吉田貴美が家で食べてるって話を聞いたときから、一度、試してみたかったのだ。
「……牛肉でも……良かったのに……」
「……さすがにまかないに牛肉を切るのって……なんか、勇気が……」
「解らなくも……ない……」
 静かな口調で翼はそう言った。そして、ちびちび……と、まるでパスタの本数を数えるように少量ずつ口に運ぶ。
(相変わらず、ご飯、ゆっくりな人だなぁ……)
 ぼんやりと翼の『まずそうに飯を食べる』仕草を眺めつつ、伶奈もお食事。野菜の皮や肉の切れっ端しか入っていないナポリタンではあるが、これはこれで美味しい。ケチャップにウースターソースと醤油、その他調味料で味を調えた翼特製ソースが味の決め手だそうだ。
 そのまま、特に会話もなく、静かな食事の時間が流れる。
 伶奈のパスタが七割方、翼の方が半分ほど減った時点で、翼がぼそっと尋ねた。
「チーフから……連絡、合った?」
 不意打ちのように響く言葉に、伶奈も食事の手を止め、顔を上げた。
 いつもの鉄仮面がこちらを見ていた。
 その顔を見ながら、ふるふると数回首を振って、少女は答える。
「……えっ? ううん……ないよ」
「……そう……」
 また、翼はもっそもっそとまずそうにパスタをすすり始める。
 そして、彼女は今度は食事の手を止めずに言った。
「……チーフ達が帰ってくるまで……いる、から……」
 うつむいたまま、顔も上げずに言う物だから、一瞬、なんの話をしているのか、伶奈にはピンとこなかった。
 数秒ほどの沈黙……ずるずる……と、控えめではあるが、翼がパスタをすする音だけが明かりを落としたアルトのフロアに響く。
「えっ? ああ……いや、良いよ、ご飯、食べ終えたら帰ってくれて……」
「……いる……子供が一人で留守番なんて……する物じゃ、ない」
「……子供じゃないし、おじいちゃん、いるし……」
「中学生は子供だし……ぎっくり腰の老人なんて……いない方が、マシ」
 伶奈の反論に対しても翼は顔すら上げずにぴしゃりと言い切った。
 取り付く島もなく、伶奈は押し黙るしかなかった。
 もそもそ……残っていたパスタを伶奈もすする。
 伶奈も翼も何も言わず、ただ、かすかにパスタをすする音だけがフロアに響く。
 パスタや温野菜のサラダを食べ終えると、デザートのイチジクタルトに手を伸ばす前に伶奈は言った。
「ごちそうさま……これ、凄く美味しかった……」
「……そう?」
「うん……怒りが収まるくらい……美味しかった……」
 気恥ずかしさに翼の目を見ることも出来なくて、視線を手元へと向ける。そこには、未だ手を着けてないイチジクタルトが頭上のペンダントライトの開きを受けて、きらきらと光っていた。
「……ありがとう……」
 その言葉に伶奈は顔を上げた。
 ちょうど、翼も食事の手を止め、顔を上げたところ。
 二人の視線が交わる。
 そして、伶奈の顔を見ながら、翼は言葉を続けた。
「でも……チーフには一度……怒った方が良い、と思う」
「美月お姉ちゃんには怒れないよ……世話になってるし……」
「……世話、してるつもりなら……せめて、べろんべろんにならないで、帰ってくる……と、思う」
 そこまで言うと翼は再び、食事を始めた。さすがに手元のパスタもほとんどがなくなりかけ。残っている温野菜のサラダをやっぱりキャベツの数を数えるようにして食べ始める。
 その翼に習うように伶奈もイチジクタルトに手を着けた。ひょいとつまんでカプッとかじるのが作ってる人がお勧めする食べ方、らしいので、そうやって食べるみる。ほどよいイチジクの酸味とカスタードの甘さ、それからさくさくとしたタルト生地の食感が合わさって、確かに美味しい。
 一口分……コクンと飲み込み、お冷やで口の中を軽く洗い流すと、伶奈は控えめな声で言った。
「……べろんべろんかなぁ……」
「……あの人、お酒、弱い……から……」
(自分も酔ったら、翼ちゃんになっちゃうのに……)
 その思いを込めた……つもりはないけど、半分ほどに減ったタルトを手に持ったまま、伶奈は翼の顔を見た。
 温野菜のサラダを食べ終えた翼も伶奈の顔を見つめ返した。
 遠くで大型トラックがエンジンを強く拭かす音が聞こえた。
 そして、翼が言った。
「………………翼ちゃんは、関係、ない……」
 呟くようにそう言うと翼はプイッとそっぽを向いた。
 表情は相変わらずの鉄仮面……だけど、ペンダントライト一つの薄暗い明かりに照らされた横顔が、少しだけ赤くなっているような気がした。
「あはっ……」
 少しだけ声を出して笑う。そして、残っていたタルトをぽいと口の中に放り込む。
「ごちそうさま」
 ペチンと手を合わせて、ことさら、丁寧に。
 その頃には翼も元の鉄仮面を貼り付けたまま、モンブランをフォークで突っついていた。
 手持ちぶさたになった伶奈は大きな窓の外へと視線を向けた。大きな月がぽっかりと浮かんでいて、青い光で対岸の木々を照らし出していた。
 アルトにはまだ腹が立つところもあるが、美月に対しては……まあ、自分の留守番の件はともかく、電話に出なかったのは言わなきゃいけないのかなぁ……と思うけど……
 なんてことを考えた結果……
「……アルトは私がひねっておくから……美月お姉ちゃんは寺谷さんが……」
「……翼で良い……」
「えっ?」
「……呼び方……」
「あっ……うん……」
 翌日から伶奈は翼のことを『翼さん』と呼ぶようになった。
 と……こんな感じでいったんは落ち着いていた伶奈のご機嫌ではあった……が――

 翼のゆっくりとした食事が終わったのが九時四十分くらい。
 で、この二人、結局、話題が……
「チーフは……」
「アルトは……」
「今日の仕事は……」
「……辛かった……」
 こんな感じの話題しかない。
 で、こうやって話をしていると……

「なんか、思い出して、もう一回、腹が立ってきたの!!」
 そう言ったのはアルトの首を捻っている伶奈だった。
 その手の中では、首をねじられてるアルトが
「思い出し怒りは辞めなさいよ!!!」
 と、悲鳴にも似た鳴き声を上げて訴えていた。
 一方、すでに酔いも何処かに吹っ飛んでしまった美月を正座させてる翼は、
「……私は、当初から、一貫して……チーフには、言わなきゃいけない、と思ってた……」
 と言い張っていたが、しかし、正座させられている美月は――
「……はず」
 ――と、翼が最後に付け加えたことを聞き逃さなかった。

 こうして、喫茶アルトのドタバタとした土曜日は終わりを告げた。
 なお、これ以降も、伶奈や翼、オマケに凪歩が美月の携帯電話に電話を掛けて、まともに一発で繋がることはなかった……
「滅多に掛かってこない割に、掛かってきたときに限って、持ち歩いてなかったり、マナーモードのままでハンドバッグだったり、ドライブモードだったりするんですよ、知ってますか?」
 とか言って、小首を傾げるのを見て、翼も伶奈も絶望的な気分になった。
 なお、良夜は――
「アルトに電話すりゃ、捕まるからなぁ〜」
 ――って、思ってるのでことさら、気にしてないそうだ。
 

前の話   書庫   次の話

ご意見ご感想、お待ちしてます。