時間―裏―(3)

 翼は和明と仕事をするのが好きだ。はっきり言うと美月と二人で仕事をするときよりも、気分が良い。そういうのも、美月と一緒に仕事をした場合、翼は基本的にはサポートに徹する必要がある。美月の方が先輩だし、レシピを作ってるのも彼女。料理の手際だって、美月の方がずっと良い。物心つく頃からキッチンが遊び場だった女性にはかなわないと思う。だから、美月がメインでやって、翼は下手間、もしくは簡単な料理というのが分担になるのも、仕方がない。
 しかし、和明は翼にメインの仕事をやらせてくれる。しかも……
 トントン……と、愛用の大きめの牛刀でお肉を切り分け終えたら、次はニンジンの皮を剥いて……と手順を考えながら、振り向く……と、そこにはニンジンとタマネギ、それからピーラーが作業台の上で待っていた。
 もちろん、翼が置いたわけではない。
 ちらっと翼は顔を上げ、視線を生食用の作業スペースへと向けた。翼が作業してるところから少し離れた所、生で食べる物はそこでって言うのがルールになっている所だ。
 そこでは和明がデザート用の果物を小さなペティナイフで、パフェ用の果物を器用に刻んでいる姿が見えた。先ほどまではサンドイッチを作ってたから、おそらくはペティナイフや果物を用意するついでに出してくれたのだろう。
 一事が万事こんな感じ。
 次に必要な物がいつも手に届くところ、目につく所に置いてある。もちろん、彼がやるべき仕事はきっちりこなした上で。
 凄く作業がしやすい。
 この調子なら十人が十五だろうが二十だろうが、どうとでもなるような気がした。
 が、翼の人生はそんなに甘くなかった。
 ゴトン……と何かが物がおちる音がした。
 そして、数秒後、コトンとくるぶしのあたりに何かが当たる感じがした。
 それは缶詰だった。
 ミカンの缶詰、和明がパフェに使う奴だろう……そう思って、彼女は足下を転がる缶詰を拾い上げ、振り向いた。
 老店長と目があった。
『カウンターから動かすと死んじゃう生き物』が真っ青な顔をしていた。腰をわずかに捻り、床へと手を伸ばす、奇妙なポーズが印象的だ。
 その顔をぼんやりと見つめていたら、その『カウンターから動かすと死んじゃう生き物』は死にそうなほどに弱々しい口調で言った。
「……やっ、やって……しまったようです」
(あっ、ぎっくり腰……)
 翼は的確に判断を下した。
 それと同時に彼女の手からミカンの缶詰がぽろりと落ち、床の上をコロコロと転がって行く。
 そのまま、数秒が過ぎた。
 貴美に指摘された翼の悪癖『想定外のことが起こると思考が止まる』の発露である。
 しかし、実際には翼はこの時、様々なことを考えていた。例えば、『救急車を呼んだ方が良いんだろうか?』とか『チーフに電話を掛けて呼び戻そうか?』とか『でも、恋人といたしてるときだったらどうしよう?』とか『いや、酒を飲んでべろんべろんの時間帯だろうか?』とか『私も鍋で日本酒が飲みたい』とか『そんなことを考えてる場合じゃない』とか『じゃあ、何を考えたら良いんだろう?』とか……後で考えればひどくどーでも良いことを一生懸命考えていた。
 アホなことを考えつつ、固まっていた時間は思ったよりも短くて、三十秒少々だったらしい……と、後で聞いた。
 その三十秒の時間を終わらせたのは、和明の
「かっ、肩を……」
 と言う震える声だった。
「……んっ」
 軽く頷き、翼は急ぎ足で老人の方へと駆け寄った。そして、彼に肩を貸して、隅っこ、先ほどまで翼が座り込んで、業界紙を読んでた丸いすまで彼を運ぶ。
 その椅子に彼を座らせて一安心……して良いのか、どうなのかを今度は考え始める。
「美月さんに……電話を……」
 老人がうめくように言う。
「でも……」
 言いよどむ翼に老店主は辛そうではあるが、ぴしゃりと言った。
「酔っ払っててもぎっくり腰の老人よりか、マシです……」
 しかし、翼は
(チーフの声が乱れてたら、どうすれば良いんだろう……?)
 とか、思ってたのは秘密。
 そこにフロアからひょっこりと伶奈が帰ってきた。手には空っぽになったトレイ、走りこそはしないが歩いてもいない中途半端な急ぎ足。それから、額に刻まれた深い渓谷と情けなく垂れたまなじりから、フロアにも余裕がないことがうかがい知れた。
「どうしたの?」
 少し息を切らせ気味に伶奈が尋ねた。
「……また、やってしまいまして……」
 喫茶アルト店内において和明が『やってしまった』と言えば、ぎっくり腰だというのは言うのはもはや従業員の共通認識、言う必要もなければ確かめもしない。
 ――はずだった。
「えっ?」
 ただ、少女の脳みそがそれを理解することを全力で拒否してたのだろう……と、不思議そぉ〜に小首を傾げる少女の顔を見ながら、翼は思った。
「すいませ〜ん、お冷や、お代わり!」
 遠くから男子大学生が大声を上げているのが聞こえた。
 その呼びかけにキッチンは沈黙を持って返し、そして、伶奈だけが小さな声を発した。
「……腰?」
「……はい」
 老人が申し訳なさそうに頷いた。
「お冷や!!!」
 また、声が聞こえた……が、やっぱり、誰も反応しない。
「手洗いの水でも飲んでろよ」
 茶化すような声が遠くに聞こえた。
 そして、十秒ほど経った後、伶奈が叫んだ。
「私、お姉ちゃんに電話してくる!!」
 くるんと踵を返す伶奈、その右腕を翼がつかむ。
「なっ、なに!?」
 大きな瞳が真ん丸に見開き、翼の顔へと視線を突き刺す。
 その視線を真っ向から見返し、翼は応えた。
「……私が、行く」
「どうして?」
 翼は一瞬、沈黙し、本心とは違うセリフを、持ち前の鉄仮面のままで紡ぎ出した。
「……お冷や、待ってる……から……」
「あっ……うん……」
 多少不審そうな表情を見せるも、伶奈は事務室の方へと向けていた足をフロアへと向け直し、その場を後にした。その手にはトレイの代わりに大きなウォーターピッチャー。重たそうに歩く姿が少し可愛い。
「……じゃあ、ちょっと、電話、してくる……」
 翼は椅子の上で腰をさすっている老人にそう言うと、その場を後にし、事務所へと向かう。
 そして、ファックス付きの大きな電話機から受話器を持ち上げ、短縮ダイヤルに入っている美月の携帯番号を呼び出す。そして、待つことしばし……
『ただいま運転中もしくは携帯電話の利用を控えなければならない場所にいるため、電話に出られません。のちほど、おかけ直しください』
 ドライブモードって奴だった。
 後で美月に聞いたら――
「……ああ……車に乗る前にドライブモードにして……それから、映画館に入るからそのままで良いかなぁ……と思って……それ以降は……忘れちゃってた、かも?」
 ――とか、ぼんやりした口調で答えやがった。
 もはや、美月はアテにならないと翼は理解した。そして、受話器を本体に叩き付けるように戻すと、回れ右。ばたばたと誰はばかることもなく、ダッシュでキッチンへと戻った。
「美月さん、帰ってこられるのですか?」
 老店長が尋ねると、翼はひと言だけで応える。
「出なかった」
 端的に言い放てば、和明は万感の思いを込めて、ひと言だけ漏らす。
「……ああ……」
 がっくりとうなだれてる老店主の顔を見つつ、翼は善後策をもう一回、落ち着いて考える。
 が、考えがまとまらない。
「……作りかけの料理を……パフェは生クリームが流れるので、先に……」
 動きの止まっていた翼に対して、和明が控えめな声で指示を出した。
 その老人の顔をちらりと一瞥。
「……んっ」
 短く答えて、翼は軽く手を洗い、消毒をし、老店長が作業していたところに入る。作りかけのパフェ、生クリームはまだ大丈夫のようだ。それを確認したら、彼がペティナイフで切り分けていた果物やらシリアルやらを背の高いパフェグラスに順番に盛り付けてやって、パフェが完成。
「寺谷さん……」
 そこにちょうど、伶奈が帰ってきた。手には半分ほどまで減ったウォーターピッチャー、歩くでなし、走るでなしの中途半端な急ぎ足。先ほどよりも幾分かは『走る』寄りではあるが、まだ、走ると言うほどではない。そんな急ぎ足で翼の方へと近づいたら、申し訳なさそうに小さな声で言った。
「チキンのトマトソースパスタ、それからミックスピザ……まだか? って……」
 そう言われて翼はしばし考える。
 チキンのトマトソースパスタはさっき、翼が作っていた物だ。調理が途中で止まっているし、何より、パスタをまだ茹でてないから、しばらく掛かる。ミックスピザに至っては、まだ、全く手を着けてない。そのことを一秒足らずの間に考えたら、彼女は伶奈の肩をぽんと一つ叩いた。そして、中学生にしても小柄な彼女の顔をまっすぐに見つめて言う。
「……伶奈……」
「はい」
「……大人しく待ってないと、泣く……と、言って、おけば、良い」
「……誰が? 泣くの?寺谷さん?」
「……伶奈が」
「わっ! 私!?」
 少女が目をまん丸くして驚くも、翼はもう一度、端的に、短く、きっぱりという。
「……伶奈、が」
 二人の視線が交わる。
 数秒で伶奈は逸らして、小さく呟いた。
「……はい」
 少女はがっくりとうなだれ、コクンと頷く。その大きな目のまなじりに涙が浮かんでたような気がするが、確認すると罪悪感にさいなまれるから確認はしない。
 とぼとぼとフロアへと帰り行く少女の背中に、老紳士がコーヒーを煎れる道具と豆をこちらに持ってくるようにと命じるのが聞こえた。どうやら、こちらでコーヒーを煎れるようだ。
「申し訳ありませんが……お湯だけは沸かして下さい。その時、出来るだけ、勢いよく、ケトルに水を注いでください」
 言われたとおりにお湯を沸かす。
 それから、パスタを茹でて、ピザを焼いて……その後にも追加の注文、デザートなんて素直にケーキでも食ってれば良いのに、自家製ワッフルやホットケーキなんて注文する奴らは嫌いだ。
 一人ではとてもやりきれる量じゃない。仕方ないから、ワッフルやホットケーキを焼くのはさすがに自分がやるが、それを皿に載せた時点で他の仕事へと移動。ちょうど、伶奈が食器を返しに来たから、その少女を捕まえて、翼は命じる。
「伶奈……飾り付け、やって」
「えっ!? やっ、やった事なんて……」
 反射的に伶奈が泣き言を言うも、それは聞こえないふり。翼には翼で、他にもフレンチトーストの調理も残ってるのだ。
 そんな翼の代わりに、痛みを我慢しつつ、立ってコーヒーを煎れていた老店主が助け船。弱々しくはあるが優しい口調で、伶奈を呼ぶ。
「私がお教えしますから……こっちで……」
 そして、始まる突発性デザート制作講座。
 なお、ぶきっちょともっぱらの評判の伶奈ちゃんが飾り付けたワッフルやホットケーキは……
「なんか……普段と比べて独創的だね……」
 と、天城夏瑞がぼそっと呟くような代物だった。
 なお、その時、伶奈は
「……普通だよ……」
 と、すっとぼけたそうだ。

 そんな感じに目が回るような時間が二時間ほど、瞬く間に流れて行き、その間、翼は、
(それもこれも全部、チーフが悪い……)
 内心、ずっと恨み言を呟いていたのだが……

「よーし、では、良夜さんのパソコンの中身をチェックしましょう!!」
 酔った勢いでとんでもないことを言いだしていた三島美月嬢は、もちろん、知るよしもなかった。
 

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