時間―裏―(2)

「アルトが逃げた!!!!」
 伶奈が大声を上げれば、のんきにパイプを磨いていた和明もさすがに顔を上げる。そして、カウンターの内側から出てきて、伶奈のいるレジの傍へと足を向けた。
「どうしました?」
 心配そうに尋ねる物だから、伶奈はかくかくしかじかとアルトが逃げ出した経緯を彼に伝える。
「はぁ……全く……どうします? なんでしたら、美月さんに電話を掛けて……」
 呆れ顔で老店主がそう言えば、伶奈は慌てて首を左右に振った。
「あっ、ううん……大丈夫。お客さんも余りいないし……それに……」
 言いよどむ少女に老人は少ししゃがみ、少女と目線を合わせる。皺が深く刻まれた目元が緩んだ。人を安心させる、柔和な笑み。そして、彼は優しい口調で尋ねる。
「それに?」
 気恥ずかしさに顔を赤らめ、少女は答える。
「それに、邪魔したら……馬に蹴られる……し」
「ふふ……そうですね。じゃあ、電話をするのは止めておきましょうか……お店が終わったら、ケーキ、ごちそうしますね。売れ残りじゃないのを」
「良いの?」
「良いんですよ。アルトが帰ってきたら、捻るなり、吊すなり、重石を着けて水に沈めるなり、死なない程度に好きにしてやって下さい」
「……重石を着けて水に沈めたら死んじゃうよ……」
 老人の笑顔に釣られて伶奈も微苦笑を浮かべてしまう。
 そして、彼はぽんと伶奈の頭を一つ撫でたら、きびすを返して、カウンターの内側へ……いつも通りにパイプを磨く作業へと帰って行く。
 その老人を見送り、伶奈はぼんやりと考えていた……
(とりあえず、近代食堂でも読んでようかなぁ……)
 先ほど、キッチンで翼が読んでた業界雑誌でも取りに行こうか……なんて、考えてたわけではあるが、世の中、そんなに甘くはなかった。
 ドドドド……
 下っ腹に響く重低音、それに釣られるように少女は大きな窓ガラス、そこから見える駐車場へと視線を向ける。そこには色とりどりの大きなバイクが五−六台に、車が二−三台ほど、奇麗に整列されて止められようとしていた。
「わっ……! 二四研……」
 思わず、少女の表情が歪む。
 そのゆがみが消えるよりも先に喫茶アルトのドアベルがから〜んと乾いた音を立てた。
「ごめん、伶奈ちゃん……十人くらい居るけど……大丈夫?」
 真っ黒いレーシングスーツに身を包んだグラマラスな女性が入ってきたかと思えば、いきなりそう言った。伶奈の家のお隣さん、アマナツこと、天城夏瑞だ。
「あっ、うん! いっ、いいよ! もちろん!」
 そう答えるが、表情は引きつっていた……と思う。
 別に二四研が嫌いって訳じゃない。そこに所属しているジェリドは嫌いだが、二四研全体としては別に好きも嫌いもない。
 ただ、土曜日の夕暮れ時に奴らが来るって事は、ほぼ百パーセントの確率でツーリングか走行会の帰り道。しかも、こいつら、金がないから『景色はいいけど何にもない山とか海』を目的地にしている。そういう所には食い物屋なんて物もない事が多く、帰ってきたときには腹ぺこ。だから、よく食べる。よく食べる客が沢山来れば忙しくなる。
 そして、忙しくなれば……
「あれ……?」
 玲奈は思わず呟いた。
 そこはキッチン、目の前には本日キッチンを取り仕切っている寺谷翼女史、そして、手元にあるのは注文を書き記した伝票……のはずなんだけど、なんか……
「……ミミズの阿波踊り……」
 伝票を覗き込んだ翼がぽつりと呟いた。
「えっ、えっと……あれ……よっ、読めない……」
 三十秒ほど前に書いた自分の文字が読めない。誰が言った言葉を書き留めた物かも覚えてない。
「えっと……えっと……あの……その……たっ、多分、ミネストローネとフリットのセット……かなぁ……?」
 自身が書いた物を解読するという高度なネタを披露すれば、翼はぽつりと言葉をこぼした。
「……多分? ……かな?」
 身じろぎもせず、瞬きもせず、彼女はじーっと伶奈の顔を見つめる。
 沈黙が少女の胸に痛い。
 遠く、フロアからは二四研部員達の賑やかな声が聞こえていた。
 そして、十秒の時はゆっくりと過ぎる。
「聞き直してきます!」
 少女は脱兎のごとくに逃げ出す。その背後、翼が「はぁ……」と小さくため息を吐いた……ような気がするけど、確認する勇気を少女は持ち合わせていなかった。
 と、まあ、忙しくなればこう言う小さなミスもやっちまう。
 さて、それから一度注文を聞きに行ったところにもう一回、確認しに行くという、小っ恥ずかしいイベントは無事クリアー。今度こそ、読める文字で注文を伝票に書き込む。。
 ちなみに注文の内容はやっぱりミネストローネとフリットのセットで正解だった。だいたい、人生なんてこんな物。
「失礼しました」
 まっ赤な顔でぺこっと頭を下げて、その場を辞する。
「気にすんな〜」
 って言ったのは、就職を決めて久しぶりにツーリング大会に参加したという四年生らしい。んで、時々、ランチ頃に来ては凪歩に『がんばれなぎぽん!』とかけ声をかける常習者の一人。
 そんなかけ声に見送られて、伶奈は急ぎ足でその場を後にした。
 背後に笑い声が聞こえていた。
 後から冷静に考えれば、単純にツーリングだか走行会だかの思い出話に華を咲かせているか、他のことで笑っているのであろうが、その笑い声が全部、自分のミスを笑っているように聞こえる。
 ドクドクと鼓動が高まるのを感じつつ、キッチンへ……そして、翼に伝え損ねていた注文の内容を今度は『多分』も『かも』付けずに報告。
「解った……」
 伝票をペッと目につく所に貼って、翼が調理を初めて、一安心。このまま、しばらくキッチンに避難してようか……と思うが、そうは行かない。
「お手伝いしますよ」
 そう言ってキッチンに入ってきたのは、『カウンターの中から動いたら死ぬ生き物』とアルトが言っていた和明だ。まあ、十人分を翼一人が作っていたら、最後の客はいつになったら食べられるか解った物じゃない。だから……なのだが、そうなると――
「それじゃ、伶奈さん、フロア、お願いしますね」
 ――って事になる。
 和明に命じ……いや、お願いされれば伶奈に何か言えるはずもなく、素直なひと言だけを残して、彼女はフロアへと戻った。
「はい」
 とぼとぼ……がっくりと肩を落としてフロアへと戻る。
 大きな窓から見える国道はすでに真っ暗で、道行く車にもヘッドライトの明かりがともされていた。
 そして、フロアでは三つの席に別れて座った二四研部員達があーだのこーだのと楽しげな会話に花満開。その中では伶奈がやってしまったちっぽけなミスのことなど、とっくに忘れ去れてしまっているかのよう。
「……気にして損した……」
 思わず、ぽつりと呟き、伶奈はカウンターの隅に位置するところに突っ立ち、フロアを埋める客達がお呼びが掛かるか、料理が出来上がるのを待つ……暇なんて伶奈にはなかった。
「お冷や、お代わり!」
「ケーキ、先に持ってきて!!」
「この、赤のハーフボトル……」
 あっちゃこっちゃから伶奈を呼ぶ声。それに一つ一つ、伶奈は応えていく。お冷やのお代わりと言われれば、カウンターの上に置いてあるピッチャーでお水を注いで、ケーキは冷蔵ショーケースから取ってきて、それから……
「オートバイとか……車の人には出しちゃダメだって……言われてるから……」
 おずおずとした口調で彼女は言った。正直、物凄く怖い。文句を言われたら、おじいちゃん、呼んでこよう……と、少女は思った。
 が、物事はもっと面倒くさい方向へと流れた。
 ワインを頼んだ青年、顔にそばかすというか吹き出物の出来た、ちょっと野暮ったい感じの青年だ。その青年は、伶奈のお断りの言葉に怒ったりもしないで、ケラケラと軽い口調で笑って見せた。そして、やっぱり、軽い口調で言う。
「大丈夫、大丈夫、押して帰るからさ」
(押して帰るなら……大丈夫なのかな……?)
 そんなことを考える。
(とりあえず、おじいちゃんに聞いてこよう……)
 結論はこんな感じで、きびすを返そうとしたら――
「お前の家、ここから十キロも向こうで、二百五十キロもあるバイク、押して帰れるわけないだろう!?」
 と、別のジーンズ姿の青年が言った。
「大丈夫です〜十キロでも二十キロでも帰れます〜」
 と、あばた顔の青年が勝ち誇るかのように応えた。
「むりむり、絶対に無理! 伶奈ちゃん、ほっといて良いから」
「大丈夫だって、最悪、道ばたで寝るから」
「死ぬぞ? この時期、道ばたで寝てたら」
 言い争いを始める二人の青年、周りはそれをやいのやいのとはやし立てる。
 間に挟まった少女が思うのは……
(アルトがいたら良かったのに……)
 の一言。
 アルトがいれば対応の仕方とか教えて貰えるのに、肝心なときに彼女は居ない。そんなことを思いながら、口論している二人の間で少女はきょろきょろ、右往左往するばかり。
 右往左往しているうちに二人の青年の口論はヒートアップする一方。
「いい大人が小学生を困らせてんじゃねーよ!」
「それを言うなら、小学生が酒を出す店でバイトしてちゃダメだろう!?」
 との声が聞こえた。
「あっ……あの……私……ちゅぅが……」
 おずおず……と、少女は声を上げる。
「小学生ががんばって働いてるんだから、協力してやるのが大人だろう!?」
「小学生に世間の厳しさを教えてやんだよ!」
 されど少女の声は大人達には通じず……そんな醜い男達の様子についに切れる女がいた。
「ちょっと! マジ、小学生の前で何喧嘩してるんだよ!! いい加減にしないと、吉田さんにチクるよ!?」
 立ち上がり、大声で啖呵を切ったのは、お隣にお住まいの天城夏美さん。通称、アマナツである。黒いレザースーツに身を包んだトランジスタグラマーは近隣では「ちっこい峰不二子」とまで言われる逸品……って話は、ご本人には伝えられないことになっているそうだ。余談。
 そのちっこい峰不二子が立ち上がり、さらに大声を上げた。
「見守るのも良いし、厳しさを教えるのも良いけど、小学生の前で間抜けな喧嘩すんな!」
 と、彼女がご高説、のたまったところで、伶奈の我慢の限界もついに超えた。
「中学生だもん!!!!」
 少女が涙目で叫ぶと、口論をしていた青年二人も、立ち上がったグラマラスな女性も、そして、周りでそれをやいのやいのとはやし立ててた野次馬達も一様に静まりかえった。
 しー―――ーん……と、静まりかえる。自分の脈拍が耳の中で聞こえてくるみたいだ。
 その沈黙の中、まるで代表するかのように夏美が頭を下げて言った。
「ごっ……ごめん……」
「お酒は禁止!! わがまま言ったら、吉田さんとおじいちゃんに言いつけるから!!!」
 半泣きできびすを返して、少女は言い放つ。
 そして、つかつかとキッチンに引っ込んでいくとき、思っていたのは……
(アルトのせいだ……アルトがいなくなったから、こんな目に遭ってんだ……)
 控えめに見ても四割は逆恨みである……って事は、伶奈自身も把握していたが、それでも腹が立つんだから仕方ない。
 そして、この逆恨みは、この数分後に起こるちょっとした事件を契機に始まる地獄絵図の中で
「捻る、捻り殺す、全部、アルトのせい……」
 と、殺意にまで熟成されて行ってることを――

「鍋は美味しいけど、お酒はイマイチねぇ〜この間の温泉街で飲んだ奴の方が良かったわ……それより、暑くない?」
 ――なんて言いながら、まっ赤な顔でスカートをぱたぱたしている妖精さんには知るよしもなかった。
 

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