時間(完)

「ああ……でも、余りゆっくりは出来なくなっちゃいましたかねぇ……」
 お酒に色づき始めた美月がぼんやりとした口調で呟いた。
「ん? ああ……このバカがここに来てるからなぁ……店長が先に引っ込んで、あと、寺谷さんが帰っちゃったら、伶奈ちゃん、一人だもんなぁ……」
 言って青年は自身の手元へと視線を落とした。そこにはストローに大きな鶏肉を刺して、まるで、マンガ肉のようにがぶがぶかじっている妖精の姿があった。
 美月に負けず劣らずの赤い顔。とろんと潤んだ瞳で見上げて、ひと言、言う。
「……誰がバカよ?」
「……お前だよ」
 良夜の冷たいひと言にアルトはプイッとそっぽを向いた。そして、ストローを良夜の取り皿の上へと置いて、代わりにショットグラスを胸に抱えた。いわゆる『今場所優勝のアルト山』状態。その威勢の良い姿でグビグビと日本酒をあおる。
 ひとしきり……ショットグラス半分ほどの酒を飲み干すと、ぷっは〜とおっさん臭い吐息を一つ。さらに朱色が深まった顔を良夜の方へと向けたら、また、口を開いた。
「和明もいるんだから、鍵をかけて部屋に引っ込んでれば、留守番くらい出来るわよ」
「……――と言ってるけど……寺谷さんが帰るくらいまでには帰らないとなぁ……」
 アルトの言葉に良夜が一言加えて言えば、美月は「う〜ん」とうなるような声を上げて、視線を宙へと巡らせる。そして、ひとしきり悩んだ後に、それじゃ……と言葉を続けた。
「九時半くらいにはお暇しましょうか……」
 言われて良夜も少し、時間を計算する。
 喫茶アルト、ラストオーダーは八時半で営業終了は九時だ。しかし、土日で暇な時だと、八時半のラストオーダー時には客が皆無と言うこともない事はない。その場合、八時半から閉店作業を行う。それだと九時半を少しすぎた頃には仕事は全部終わってしまっているって事もあり得る。普段はお茶会があるからもうちょっと居残ってくれるのだが……居残らずに帰ってしまう……と言うことも考えられるのではないだろうか? それがちょっと不安だ……
 なんて事を日本酒で唇を潤しながらに青年は考える。
「……恋人といるときに堂々と他の女の事を考えるなんて、なんて、大胆な男かしら?」
 手元からアルトの呆れた声が聞こえた。
 口元におちょこを付けたまま、青年はちらりと視線を落とした。そして、ぶっきらぼうな口調で彼は言う。
「……誰のせいだ?」
「アルトが悪い……と、切り捨てられない良夜のお人好しかつチキンな性格が悪い」
「……お前、すげーな……」
「そーでもないわよ」
 プイッとそっぽを向いて、アルトは再び、日本酒をグビグビ……そして、「熱い……」とひと言言ったかと思えば、いよいよ、背中へと彼女は手を回した。
「……もう、俺は知らん」
 の呟きはアルトに関して言った物だ。青年は相変わらず、胸元を気にしている美月に視線を向けた。
「九時半はやっぱりちょっと遅いし、九時にしよう? 片付けは明日か明後日にでも俺がやるからさ」
「……明後日はダメですよぉ?」
 ぼんやりしていた美月が少しだけ表情を引き締め、苦笑いを浮かべる。それに青年は「あはは」と笑ってごまかすだけ。
「もう……かびちゃいますよ? お鍋」
「はいはい」
「もう……アテになりませんよね……でも、お片付けは良夜さんにお任せして……それじゃ、九時くらいに……」
「りょーかい」
「まあ、腐って部屋が臭くなったら、しばらく、良夜の家に来なきゃいいだけよ」
 美月と良夜の会話が終わり、最後にアルトがしれっとした顔でそう言って、第二ラウンドの開始。

 鍋を突っつき、杯を空けて、あっと言う間に二時間ちょっとがすぎて、時間は九時少し前。
「……まあ……こうなる予感はあった……」
 今日、良夜は飲酒のペースを普段の七割を心がけていた。多分、美月はへべれけになるだろうし、アルトに至っては裸踊りを初めても不思議じゃない気がしていた。これで良夜までもが潰れたら、本当に伶奈が一人でお留守番をする羽目になる。
 その事態だけは何があっても防がなければならない。それは自身に課せられた義務だとすら思っていた。
 で……
「なるほどぉ〜確かにこれは涼しいですねぇ〜」
 ぱたぱた……両足を床の上に投げ出した美月が、少し長めのスカートを捲り上げ、ぱたぱたと仰いでいた。上の方にまで持ち上げてるせいで、白く細身の太ももは丸見えだし、仰ぐ度に白ではあるがレースがふんだんに使われた色っぽい下着が丸見えになるほど……
 まあ、美月の方はまだマシだと言える……脱いでないだけ。
 問題なのは……
「……おい、アルト……アルト……」
 言って青年は白いお腹と、黒のガーターベルトを着けた足がにょきっと生えてる茶巾包を指先で転がした。
 先ほど、「熱い……」と言いだした妖精は、どうやら、ゴスロリドレスを脱ごうとしたらしい。それは良いのだが、このゴスドレス、結構、複雑な構造をしているようだ。腰に付けてるリボンを外して、さらに腰を締め付けてるホックを三つか四つ外す。それから、うなじのところにあるホックを外し、カバーで隠されているジッパーを下ろさないと脱げないみたいだ。それを、どーも、このバカはいきなりジッパーを下ろして、こんがらがってしまった様子。
 で、しょうがないなら、なぜか、スカートを捲り上げた。セーターか何かのようにすぽっ! と脱げると思い込んだみたいだ。しかし、そんなことで脱げるはずがない。
 それでも、さっきまで脱ごうと、じたばたとあがいていたようだが、今は力尽きて……
「うるさい……ちょっと寝かせなさいよ……私は眠いの……」
 力尽きて寝ちゃったらしい。
「お前な……さっさと、起きろよ……帰るぞ」
「寝かせなさいよ………………二−三日で良いから……」
「二−三日もここで寝るなよ……」
 思わず、呆れる。
 まあ……アルトは置いて帰っても良いか……なんて、油断したのが悪かった。
 その前で、美月が――
「なるほどぉ……こうやれば、脱げるんですねぇ〜」
 ――美月がスカートの裾を捲り上げて、頭から抜こうとしていた。
 白い足と白い下着と白いお腹と可愛いおへそが見えてた。
「……あっ……奇麗なおへそ……」
 思わず、見とれた。
 彼自身も結構酔っているようだ……と言う自覚は後でした。
「……スケベ……」
 茶巾包(小)がひょこっと少しだけ顔を出して言った。
「うおっ!?」
 思わず、変な声がでる。
 鼓動が高まり、顔がカーーーーーっと赤くなる。
「みっ、見てないぞ! みっ、見てないから!!」
「……どっちでも良いわよ……お休み……」
 そして、茶巾包は茶巾包の中に潜り込んで、寝た。
「って、寝るな! 起きろ! 茶巾包から出てこい!! 美月さんも! 何してんの!?」
 思わず二人に大声を上げた。
 されど、アルトは茶巾包の中で気持ちよさそうな寝息を立ててるし、美月は美月でケラケラとお気楽な笑みを見せながら、お気楽な声で言った。
「良いじゃないですかぁ〜何回も見てるんですしぃ〜」
「これから帰るの! 外に出るの!! 外は見たことない人で一杯なの!!!」
 立て続け、一息に言い切ると、美月はきょとーんとした表情で良夜の顔を見つめた。
 そして、彼女は言う。
「じゃあ、帰らなくてもぉ……」
「伶奈ちゃん、待ってんでしょ!?」
 さらに大きめの声。伶奈の名前が出た瞬間、美月のとろけた顔もしゃっきりと目覚める。
 ほぼ反射的に呟き、彼女は立ち上がった。
「あっ……帰りますぅ……」
 立ち上がったのは良いものの、べろんべろんに酔っ払った彼女には、立ち上がるのが精一杯。踏み出す足は力なく、ふらっふら。最初の一歩はなんとかなったが、二歩目は大失敗
 がつんっ!
 大きめの音と共に、ほぼ、空になっていた鍋がカセットコンロの上で揺れる。残っていた出汁が跳ねて、ガラステーブルの上にしぶきを飛ばした。
「フィ……蹴っちゃいましたねぇ〜」
「ああ、もう、良い、本当、もう、良いから……今、そっちに行くから……」
 ガラステーブルの横を通って、美月の方へ。
「スカート、めくれてっから……」
 そう言って、美月のめくれ上がっていたスカートを下ろす。それから、彼女の手をとったら、肩に回す……も、美月はそれがお気に召さない様子。
「おんぶ〜」
 そう言うと、がばっ!と背中に覆い被さり、首に腕を回して、しがみつく。
「はいはい……」
 抵抗は諦め、素直に美月を背負う。永遠の関東平野とか言われてる割に、背中にははっきりとした膨らみが二つ、感じられた。それから、テーブルの上に転がってる茶巾包を回収したら、彼女を頭の上に乗っける。そして、靴を履いて、外に出たら、恋人を送る旅路への出発だ。
 階段三つ分を女一人背負って下りるのは結構きつい。一歩間違えたら、転がり落ちてしまいそう。いつもの倍くらいの時間をかけて、青年は下りる。
 慎重に、おそるおそる、丁寧に……ゆっくりと時間をかけてようやく一階、玄関。
 その頃には背後では美月がすーすーと気持ちよさそうな寝息を立ててるし、最初から眠ってるアルトは頭の上で器用にも落っこちずに熟睡中だ。
(アルトに美月さんを放り込んだら、ジムニーん中で寝ちまうかなぁ……)
 そんなことを考えながら、ぼんやりと夜の道を、背中に彼女の体温を感じながら、青年は歩いた。
 冷たい夜風が青年の頬を撫でる。
 頭上では青い月が煌々とした光を放ち、足下には長く薄い影が伸びていた。明日は中秋の名月、明後日はスーパームーンだとか言ってたろうか……?
「……りょーやさん……」
 不意に声が聞こえた。
「なに?」
 反射的に青年は答えた。
「……引っ越すんですかぁ……? 卒業したらぁ……」
 耳の後ろで彼女がそう言った。
 その言葉に青年は足を止めた。
「うーん……ちょっと悩んでる……かなぁ……」
「引っ越さないで下さいよぉ……」
 どこか情けない声で彼女は言った。
「引っ越すって言っても、そんなに遠い所にはならないと思うけど……職場、再開発地区だし……」
 再び、足を前へと動かしながら、青年は答えた。
 余り大きくないネットワーク工事の会社だ。セキュリティのゼミにいたからその知識は生かせるだろうし、何より転勤がなさそうなのが良い……と言う不純な理由で決めたところだ。その選択が正しかったかどうかは、まあ、十年後か二十年後になってみないと、解らない。
『入社式の翌日に美月さんと別れたりして』
 なんて、貴美は軽く言ってたなぁ……なんてことを思い出す。
 そんなことを考えてるのを知ってか知らずか……美月は彼の背後でぼそっと言った。
「……でも……こうやって、おんぶで連れて帰って貰える距離じゃ……なくなりますよ……」
「ああ……」
 小さな声で呟く……
 駅前あたりに良いアパートでもないか……なければその沿線で良いところがあれば……とか思っていた。アルトに行くにしても電車で行ければ便利だし、それに駐車場のあるところに引っ越せれば、アルトに預けてるジムニーも引き取ることが出来るなぁ……なんて、考えていたのだが……
「……重いですかぁ?」
「んにゃ……そーでも……」
 トコトコ……恋人の体重と体温を感じながら、青年はゆっくりと月下の坂を登る。
「世界中どこからでも負ぶって帰ってくりゃ良いじゃないの」
 いつの間にか起きて、茶々を入れ始める妖精にひと言返す。
「うっせ、バカ」
 そして、美月にその言葉を教えれば、美月は「あはは」と明るく笑った。
「とりあえず、歩けなくなるまで飲むの、辞めてよね……」
 青年は少々わざとらしくにぶっきらぼうな言い方をした。
「はぁい……善処しまぁす……」
 その美月ののんきな声を聞きながら、青年はぼんやりと思う……
(まあ……歩いて行ける距離って……便利だよな……)
 心地よい体温と心地よい体重を感じながら、恋人を背負って歩く心地よい時間が静かに流れていた。

 さて、結局、良夜達がアルトに着いたのは十時直前のことだった。
 遅くなったなぁ〜と思いながら良夜が裏口に回る。鍵は当然閉まっていた。その鍵を開くため、酔っ払ってる美月がハンドバッグから鍵を取り出すのに手間取っていると、その鍵が内側から開いた。
 そして、すぐにドアが開く。
「……お帰り、チーフ……」
 ぶっきらぼうな口調で三人を出迎えたのは、いつも通りの鉄仮面を顔に貼り付けてる寺谷翼さん……と
「……アルト、どこ……?」
 眉をへの字につり上げている西部伶奈ちゃんだった。
 とりあえず、美月の体を地面に下ろす。
 下ろしたら、翼が良夜の横を通り抜け、美月の方へと近づいた。
「……チーフ……ちょっと、話が……ある」
 どーも、怒ってるっぽい。
「えっ……えっとぉ……ねえ……?」
 と、こちらに彼女が救いの手を求めるも、翼が先にぴしゃりと言った。
「部外者は……黙って……ろ」
『ろ』が怖かったので、美月の情けない顔をスルーし、青年は頭の上へと手を回した。
 茶巾包がじたばたとあがいていた。
 まだ、茶巾包は茶巾包だったようだ。
 その茶巾包をひょいとつまみ上げたら、むす〜っつふくれっ面で両手を差し出している伶奈の元へ……
「ちょっと! 裏切る気っ!?」
 アルトの言葉に先に反応したのは、伶奈の方だった。
「……先に裏切ったのはアルトじゃん……」
 二人に二人を引き渡し、青年は回れ右。
「……チーフ……子供、預かってるって……自覚、ある、の?」
「……覚悟……出来てるよね? アルト……」
 二人の声が背後で聞こえた。
 そして、青年は駐車場に置かれていた愛車の元へとやってくると、その中へと潜り込んだ。
「エンジン……かけたら、飲酒運転になるのかねぇ……?」
 なんて、バカなことを考えつつ、青年はリクライニングさせた助手席に潜り込み、グースカと惰眠をむさぼることにした。
 なお、この翌日、良夜は美月とアルトの二人から、ほとんど逆恨みの嫌味をねちねちと言われたことは言うまでもない。
 ちなみに、アルトに至っては言うだけではすまなかったのは当然である。

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