時間(2)

 さて、頭の痛い会話を終わらせてから五分ほどの時間が過ぎた。
「良夜さん、お鍋、持って行ってくれますか?」
 キッチンの方で細々とした雑事を片付けていた美月が、部屋の方でこれまた細々とした雑事を片付けていた良夜に声をかけた。
「あっ、良いよ」
 軽い返事をして美月のいる方へと足を向ける。コンロの上では大きな土鍋の中で昆布だしたっぷりのおつゆがコトコトと煮立っていた。
(熱そうだな……)
 土鍋の中には沸騰直前にまで煮立った出汁、考えるまでもなく熱そうだ。仕方ないから手を伸ばしたのは、冷蔵庫に貼り付けられていた磁石付きのハンガー、そこに引っかけられているのは手拭きのタオルだ。そのタオルをひょいと取ったら、土鍋の取っ手のところに被せて、ミトン代わり……
「……――って、ミトン、ないの?」
 頭の上でアルトが聞いた。
 その質問に良夜が尋ね返す。
「あると思ってるのか?」
「ううん、百パーないと思ってたけど、一応、聞いてみたかったの。奇跡が起こることを信じて」
「お前が買ってくれたら、奇跡が起こるよ」
「作られた奇跡は嫌いよ」
「…………」
「沈黙したら負けって、前から言ってるでしょ?」
「このやりとりも久しぶりだな……」
 頭の上、見えてないけど、きっと薄い胸を反り返らせているであろう妖精を思って、軽くため息……おきまりのやりとりを終わらせてる間に、大きな土鍋はカセットコンロの上だ。がたつかないことを確認したら、カセットコンロに火を入れる。
「なんの話ですか?」
 右手に温めに燗したお酒のとっくり、左手にぐい飲み二つを指の間に挟んだ美月が尋ねると、良夜は少し少し苦笑いを浮かべて答える。
「ミトンはないのか? って話だよ」
 そう言って良夜がガラステーブルの前に座ると、美月も良夜の対面に腰を下ろした。そして、お肉やら豆腐やら白菜やらを、コトコトと煮える鍋の中に投入しながら、彼女は言った。
「良夜さんって、なんて言うか……代用できる物があれば代用すれば良いって思ってるところありますよね? ヤカンの代わりに片手鍋、とか……」
「そういうつもりはないんだけどなぁ……」
 ぼんやりとした口調で良夜は答える。
 答えれば、美月は軽く首を振った。そして、確認するかのような視線で良夜の顔を覗き込み、確認するかのような口調で尋ねる。
「時計だって相変わらず、携帯電話を出してみてるでしょう?」
「えっ……まあ……うん……でも、美月さんも腕時計、余り着けない……よね?」
「仕事中は着けませんよ、水仕事ですし。でも、出掛けるときは……ほら……」
 ワンピースのポケットから細身の腕時計を取りだした。さっきまでキッチンで料理をしていたから外していたが、出掛けてたときには着けていたらしい……が、もちろん、良夜は気づいてなかった。
「美月、このバカ相手におしゃれするのは無駄なんだから、もっと安い服を着なさい」
「……――と、言ってる……バカって言うな、バカ」
「あはは、服はそんなに高くないんですけどねぇ〜でも、社会人なんですから、腕時計くらい着けろって……吉田さんが凪歩さんに言ってましたよ、前に」
「いや、一応さ……就職活動で面接に行ったときには着けてたんだよ? 余り高くない奴」
 頭をポリポリと掻きながら、青年は視線を美月の大きな黒目がちの瞳から逸らした。しばし、テーブルの上、鍋やら取り皿やらあれやこれやがたっぷり置かれたガラステーブルの上を視線がさまよう……
 その逸らした視線の中、ひょいとアルトが小さなかおを滑り込ませて尋ねた。
「それ、どこに行ったのよ……」
 尋ねる妖精、その細い眉はへの字を描き、その間には深き渓谷。答えの察しは付いている……のだろうって事が確信を持って青年には言えた。
 それと同時に美月が――
「えっ? 腕時計なんて持ってたんですか!? ふえぇ!?」
 と、なぜか悲鳴にも似た声を上げているが、青年はそれどころではない。
「……どこに、行った、の、よ!?」
 視線を逸らす度に、その視野の中へとやってきては、同じ質問を繰り返す妖精さん。その冷たい視線と強硬な態度から逃げる術など青年は持ち合わせていない。
 コトコトと煮えてる鍋のあたりに視線を逃がす。
 そして、彼はぼそぼそ……と、小さな声で呟いた。
「……内定貰って、ゼミの先輩に飲みに連れて行って貰って……翌日にはなかった……」
「……どこに置いてきたのよ……?」
「……アルト、置いてきた場所が解ってりゃ、取りに行くぞ……」
「あっ、それもそうね。ごめん、バカなことを聞いたわ。悪かったわね、バカ」
「くっ……」
 青年は言葉につまった。
 妖精はため息を吐いた。
 そして、美月は――
「良かったぁ〜」
 ――安堵した。
「なんでだよ!」
 思わず青年が大きめの声を上げるも、美月はにっこりと笑ってその怒声を軽く受け流し、そして、言った。
「いや、せっかく、腕時計をプレゼントしようと思ってたのに、持ってたら、ちょっと残念だなぁ〜って……思っちゃいまして」
 美月の言葉に半分ほど浮かび上がっていた腰がストンと落ちる。
「もしかして、誕生日の?」
「はい。この間、吉田さんが帰ってきたときに一緒に事務所のパソコンから通販で……」
 そう言いながら、美月はハンドバッグから小さな包みを一つ取り出した。
 国産有名時計メーカーのロゴが入った四角い小さな箱がコトコトと煮える鍋の上を経由して、良夜の手元へと差し出された。
「あっ……ありがとう……」
 それを素直に受け取り青年は恋人の嬉しそうな顔と数回見比べる。そして、数回目の視線移動が終わると、やおら彼は言った。
「開けて良い?」
「どうぞ〜」
 軽い口調での答えを耳にして、青年は早速奇麗な包み紙を破って開く。包み紙の下にはロゴマーク入りの箱、それを開けば黒一色の中にスカイブルーで装飾が施されたアナログ時計が、静かに時を刻んでいた。
「うおっ?! なんか……良いの? これ」
 その機能美あふれる造形に青年は思わず声を上げた。
「良くなければ、上げませんよ〜値段は凄く高いって訳じゃないですよ。今年の誕生日にいただいたティファールのお鍋セットと余り変わらない位かと……」
「……そこまで言われたら値段、解っちゃうよ……ティファールの鍋セット、美月さん、値段知ってるでしょ?」
「ずっと欲しかったんですよね〜でも、今の鍋もまだ使えますから、踏ん切りが付かなくて……」
「まあ……余り変わらない値段なら遠慮なく貰えるけどさ……」
 笑う美月に青年も笑い返して、早速、彼は腕に腕時計を巻き付けた。ちょっと大きめで正直、着け慣れるにはしばらく掛かるだろう。
 なんとなく落ち着かない手首をしきりに気にしていると、その手元で妖精がクスッと控えめに笑った。
「まっ、社会人になる頃には着けなれてるわよ」
「まあ、そうだな……」
 アルトに軽く笑い返して、彼女の言葉を美月にも教える。そして、美月は嫌味のない笑顔で恋人に言った。
「なくさないで下さいね?」
「あはは、もちろん」
 美月の笑みに青年が笑みで返事をする頃、そろそろ、鍋もいい具合に炊きあがる頃。
「あっ、出来上がってますね、いただきます♪」
 最初に箸を付けたのは、作った人、美月。それから、良夜も箸を付け、良夜の取り皿から妖精が上前をはねる。
 それから、良夜のおちょこには美月が、美月のおちょことアルト用のショットグラスには良夜が、温めに燗した甘口の日本酒を注ぎ込む。
 熱々の豚肉を桂剥きのだいこんと一緒にポン酢の中にどっぷりとつける。そして、ぱくりと口に含めばポン酢のさわやかな酸味の中に柚胡椒がいい味のアクセントを付ける。安い肉ではあるがなかなかのお味だ。それをホフホフと火傷しないように咀嚼したら、美月に注いで貰ったおちょこを一息に干す。
 そして、おっさん臭い吐息を「ぷっは〜」と吐き出したら、青年は思わず、こぼしてしまう。
「うっめぇ……」
 されど、良夜の手元、ショットグラスを抱えて『今場所優勝のアルト山』になってるになってる妖精さんは、少々顔をしかめて言った。
「温泉で飲んだ地酒の方が美味しかったわよ。これは少し後味が残るわ……」
「……――だってさ……何様だ……お前?」
「あはは、あれはお値段も違いますから、上を見ればキリがないですよ」
 そんな話をしながら、鍋を突っつき、お酒を空ける。
 幸せなひととき。
 文句を言ってる妖精すらも結構なペースで杯を重ねていくし、美月もが良夜ほどではないが、それなりの速度で杯を重ねていく。
 何杯目かは解らないがともかく杯を空ける。そして、その杯をテーブルの上に置いたら、良夜は目の前で顔をまっ赤にしながら、ケラケラと楽しそうに笑っている恋人へと顔を向けた。
「って、美月さん、飲むのはいいけど、脱がないでね?」
「ふぇ? 脱いだりしませんよ〜」
 上気した頬とフンワリした口調でそういうものの――
「……とか言いながら、襟元、弄ってんじゃないわよ……」
 アルトの言うとおり、美月は先ほどからしきりにワンピースの襟元を気にしていた。襟元が暑苦しいのだろうか? しかし、今日の服はジッパーが後ろにあるタイプのワンピースだから、残念なことに胸元を開くことは出来ない。
「伸びるわよ……」
 もっとも、したり顔でそう言うアルト自身も――
「……お前もスカート、ぱたぱた、すんな」
 と、良夜が言うとおり、レースたっぷりのスカートをぱたぱたと空けたり閉じたりの繰り返し。その度に、ストッキングとガーターベルトが作るお美しい絶対領域が見え隠れしていた……後、時々、ショーツも……別に見たくはないが……
「……見たいの? 見せないわよ」
「……だったら、閉じてろ……」
「鍋に日本酒なんて、暑くなって当たり前でしょ? 壁に向いて食べてなさい」
 とんでもないことをしれっと言ってる妖精がいる一方で、美月の方はあっけらかんとした調子でやっぱりとんでもないことを言っていた。
「いいじゃないですか〜良夜さんはちょくちょく見てるわけですし〜アルトは女の子同士ですし〜」
「「…………」」
 そのひと言に口論していた青年と妖精の言葉が止まった。
「……アルト、ちょっと、美月さん、刺してこい」
 良夜がそう言うと、美月とアルトの発言はほぼ同時。
「アルトはそんなことしませんよねぇ〜」
「……貴方が一発はっ倒しておきなさいよ……」
「……――と、言ってる」
 アルトの言葉を美月に伝えれば、まっ赤な顔の美月さんは笑顔で言い切る。
「いえ、嘘です! アルトはそんなこと、言いません!」
 言いきる美月はとても良い笑顔を浮かべていて、その笑顔が、可愛いような頭が痛くなるような……とりあえず、ため息を一つ吐いて
「……そう来たか……」
 と、だけ言っておく。
「良夜さんのひどい嘘はともかくとして……」
「嘘って決めつけないで」
「ともかくとして」
「あっ……はい」
「暑いんで、脱いでいいですか?」
「……良かぁないよ……」
 コトコトと暖かな蒸気と香を放つ鍋を挟んで、美月と良夜の会話がぽんぽんと続き、そして、良夜が苦笑いで固まる。
 その固まった隙を狙って良夜の手元、アルトが言い放つ。
「だから、貴方が壁を向いて食べてればいいのよ。具体的に言えばあっち」
 そう言ってストローがピッと一点を指し示す。
 そちらに良夜の視線が向いた。
 良夜愛用のベッドがあった。
「……ベッドだな」
「あの上で食べればいいのよ」
「なんでだよ……馬鹿野郎……」
「下に潜り込んでも……――って……あら?」
 何かに気づいたかのように、アルトがとんっとガラステーブルの上から飛び降り、トコトコとベッドの方へと歩いて行く。
「お前がそこで食うのか?」
「そんな訳あるわけないでしょ!」
 振り向きもせずに妖精は、大声で青年を怒鳴りつける。その声に軽く肩をすくめ、そして、何事かと期待に満ちた表情を見せている美月に事のあらましを伝えた。
「どうしたんですかね?」
「さあ?」
「むっ……もしかして、エッチな本を……それも巨乳物を……!」
「……ないよ、そんな物」
「じゃあ、やっぱり、パソコンの中……」
「…………」
「あのぉ……答えてくれません?」
 ジト目の美月からぷいっ……っとそっぽを向いて、小さめの声でひと言……
「……ないよ?」
「…………信用度、ゼロですよね……」
 アホな会話をすること一分足らず、ベッドの下からひょっこりと出てくる小さな体。
「ただいま」
 そう言う妖精さんの右手には……
「あっ……」
 青年が小さくもはっきりとした共学の声を上げ、そして、美月が不思議そうに呟く。
「……腕時計が転がってきました……ね?」
 と……

 どーも、酔って帰ってきた時に、着けたままで寝て、寝てるうちに鬱陶しくなって、無意識のうちに外して、外された腕時計が壁とベッドの隙間から落ちた……と言ういきさつだったようである。
 なお、この出てきた腕時計の方は良夜のパソコンデスクの小物入れに安置されることとなった。

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