時間(1)

 良夜が美月と久しぶりのデートをしたのは、九月の最終土曜日のことだった。その数日前、九月二十五日に良夜は二十二回目の誕生日を迎えた訳だが、デート本編に関しては概ねいつも通りと言ったところだった。朝、少し遅めにアルトで朝食。それから美月が運転する車で郊外のショッピングモールへと向かう。その中にあるシネマコンプレックスでハリウッド大作パニック映画を見て、それからレストラン街の中華料理屋でランチ。後はだらだらと各専門店を冷やかしながらウィンドウショッピング。
 三回に一回はやってる感じのデートだ。
 違うと言えば、普段なら夕飯も食べて帰るところを、今夜は家に帰って湯豆腐を作るって事くらい。
 釣瓶落としと言われる秋の夕刻、そろそろ薄暗くなり始めた空の下、良夜のアパートに美月のアルトが滑り込んだ。そして、数少ない駐車スペースに美月の妖精まみれ一号が止まると、中から出てきたのは、当然、この車のオーナー、三島美月だ。
 ゆったりとしたワンピースは濃紺の起毛生地、秋口とはいえども少し重装備と言ったところ。そのロングスカートを翻して、彼女は後部座席のドアを開く。そして、中から大きな買い物袋を二つとケーキの箱を一つ取りだした。
「なんか……良夜さんの誕生日って言うと、お鍋って気がするんですよねぇ〜」
「んっと……毎年、そうだっけ? あっ、買い物袋、持つよ」
 反対側、助手席から出てきたのは白いワイシャツにディープグリーンのニット、それにブルージーンズを合わせた良夜だ。彼は美月のいる方へと回ると、彼女の右手にぶら下がっていた二つの買い物袋を半ば奪うように受け取った。
「そうですよ〜ほら、最初の年は鳥鍋で……って、すいません……」
「気にしないで良いよ……っと、ああ、俺と直樹が食えなかった奴」
「それについては忘れて下さい」
 苦笑いの美月に軽く肩をすくめて「はいはい」と笑ってお返事。
 ひと組の恋人はトントンと階段をゆっくりと上がっていく。
「でも、今年は二人きりって言うのがちょっとさみしいですよねぇ……吉田さん達はこの週末は地元で過ごすみたいですし、アルトもついてきませんし……」
 ほんのわずかに眉が垂れて、笑みに陰りが差した。
 そんな彼女の顔を横目でちらり……そして、両手に持っていた荷物を片方の手にまとめると、空いた手で軽く肩を叩いた。
「タカミーズ、来週は帰ってくるって言ってたし、帰ってきたら、また、集まろうか?」
「そうですね。アルトも呼んで五人で久しぶりに……夏休み以来ですかね?」
 そう言って、彼女は笑みを浮かべ直す。
 その笑みに笑い返して、青年は口を開いた。
「あまり羽目は外しすぎないでね……っと、それで、今夜はどうするの? 酒、結構、あるけど……」
「車は置いて帰るので、明日にでも持ってきてくれます?」
 先ほど同様に美月が明るい笑顔で答えた。
 その横顔を見やり、ほんの少しだけ、青年は間を置いた。
 そして、彼は控えめな声で言う。
「……泊まったら?」
 言うと美月が足を止めた。
 ぽんと美月の白い頬が赤くなった。
「……えっとぉ……泊まるのはやぶさかではないんですが……今夜、伶奈ちゃんが泊まるんで、さすがに泊まるのは……教育上良くないかなぁ……って……」
「あっ……うん、そっか……そうだね……教育上、良くない……かな?」
 少しだけ落胆するも、そういうことなら……と思い直して、青年は足を自室へと続く階段へと向ける。
 立ち止まったままの美月から一歩前へと足を進める。
「……だから……シャワーだけ、借りて良いですか? 借りれたら……ですけどぉ……」
 その背に投げかけられる言葉。そして、するっと彼女の細い腕が良夜の荷物を持つ腕に巻き付いた。
「……じゃあ、飯の後にでも……」
 かすかに彼女が頷き、視線を足下へと落とした。
 青年は逆に空を見上げる。
 初秋の夕暮れ、空はそろそろ薄紫に染まりかける頃……その空を見上げながら、青年達は階段を上がる。
 声をかわされなかった。
 しかし、その沈黙が青年には少し心地よかった。
 だた……
(食事の前……って言えば良かった……)
 と、青年はほんのちょっぴり後悔していた。
 後悔しているうちにも足は動いて、階段をワンスパン分上がる。一番上、最後の階段を上りきれば、そこは良夜の自宅がある三階だ。
 角を曲がってすぐの部屋、鍵を開け、中に入ると、心地よい声が彼を出迎えてくれた。
「おかえりなさい。遅かったわね」
 それはガラステーブルの上でくつろぐアルトが、振り向きもしないで投げかけた声だった。
 良夜にとって、奴がそこにいることよりも、奴の視線が二時間サスペンスの再放送から全く離れない事が何よりも許せなかった……

 スニーカーを脱いでテーブルまでは物の数歩、その数歩の旅を終えると、青年はガラステーブルの前に腰を下ろす。そして、未だ、ガラステーブルの上でくつろぎ続けていた奴の首根っこをつまんで、目の高さまで持ち上げた。
 その良夜の所業に妖精の細い眉毛がへの字を描く。
「今、一番、良いところなのよ?」
「……どうせ、これから崖に追い詰められた犯人を船越が説得するだけだろう?」
「二時間サスペンスだからって船越が出てるとは限らないのよ? まあ、今回のは出てるけど……」
「間違えてねーじゃねーか……で、伶奈ちゃんは?」
「アルトのレジ横で船をこいでるわ」
「……暇なんだな、今週は」
「今日はことさらに暇よ」
 と、妖精は嘯くも、実はこの十五秒ほど前――

「ごめん、伶奈ちゃん……十人くらい居るけど……大丈夫?」
「あっ、うん! いっ、いいよ! もちろん!」
 そう言って入ってきた天城夏瑞――通称アマナツ――を筆頭に二四研部員総勢十名ほどの食事会が執り行われ、その中でかけずり回っていた伶奈が
「アルト、捻る……捻り殺してやる……」
 と、怨嗟の言葉を吐いていたことを、アルトが知るのは、まだ、少し先のことであった。
 なお、未だ、自動車学校に通ってる灯とシュン、それからバイトのある悠介は不参加だったらしい。

 閑話休題。
「出掛ける前に今夜は鍋でお酒って言ってたじゃない? そりゃ、参加しないでは居られないわ」
「……大人しく留守番するって言ってたかと思ってたらこれか……」
 呟いて良夜はひょいとアルトの身体を宙に放り投げた。
 すると妖精は空中でくるんと一回転、見事なとんぼを切って頭の上に着地を決めた。
 頭の上に妖精が着地を決め、腰を下ろす感触を久しぶりに感じる。その懐かしくも鬱陶しい感触を頭の上に感じながら、青年は冷蔵庫に豆腐やら肉やらを片付けている恋人へと声をかけた。
「伶奈ちゃんは店番がんばってるさ」
 良夜がそう言うと、美月は冷蔵庫の扉を閉じながら答えた。
「それは良かったです。伶奈ちゃんには助けられてますよねぇ〜」
「良夜より物覚えが良いわよ」
 美月の言葉に頭の上の妖精が明るく答えれば、青年はその言葉を伝えもせずに、ぽつりと呟く。
「うるせぇ、クソ妖精……」
「何か言いました?」
 そう言ったのは美月だ。
「伶奈ちゃんは物覚えが良いって、アルトが。それだけだよ」
「ああ、そうですね〜」
 その声を区切りに美月は声を上げるのを辞め、代わりにざくざくとまな板の上で白菜を切る音がし始めた。小気味いい音と共に白菜が一口サイズに切り分けられていくのが、恋人の細い肩越しに見える。
 そのちょっと幸せな感じの絵面を見ていたら、ひょこっと小さな頭が視野の中に滑り込んできた。
 金色の大きな目と金色のさらさらヘアー、ジトォ〜っとした視線を良夜に投げかけながら、彼女は言った。
「見てないで手伝えば?」
「今、しようと思ってたところ……」
「……伶奈でもしない言い訳……」
「うるさい」
 控えめな声で呟き、青年は余り大きくない食器棚へと足を向けた。
 狭い単身者アパートの狭いシンク、一人が作業してたらもう一杯。自然、良夜がやることと言えば、カセットコンロを出したり、鍋を出したり、食器を並べたり……と言った雑用程度。
 それが終わったら、やることがないから、ガラステーブルの前に腰を下ろした。
 一方の美月には、まだまだ、お仕事は沢山。野菜を切り終えたら今度はお肉、鳥と豚。それから豆腐……次々に大きなお皿の上に食材が並べられていく。そー言えば、あの皿、吉田家から持って来た奴のはずだが、返さなくても良いんだろうか? って思うが、返して欲しくなったら、取りに来るだろう。管理してるのは吉田貴美だ、邪魔になる大皿がなくなって清々してる可能性すらある。
 それから、土鍋(そう言えばこれも吉田家から持って来て、そのまま、置き去りになってる奴)に水を張って、大きな昆布を入れて出汁を取って……
「先に飲んでてくれても良いですよ〜」
「ああ……でも、空きっ腹に飲むと、クルから……待ってるよ」
 そんな感じの会話を交わしたら、点けっぱなしだったテレビへと視線を向けた。
 すでに二時間ドラマの再放送は終わった模様。今はニュース番組、雇われアナウンサーが偉そうな面であれやこれやと政治問題について語っている真っ最中。飯のつまみにするには甚だしく不適切だ。
 そのテレビを頭の上で見ていた妖精さんが、トンとガラステーブルの上へと飛び降りた。
 そして、トコトコとガラステーブルの上に放置されているリモコンへと近づいたかと思ったら、ピッピッピッとチャンネルを変えていく……も、他に面白そうな番組は全くなしというか、そもそも、映るチャンネルすら数えるほどしかない。
 一通り全部のチャンネルを見て回り、最終的には最初に見てた報道番組へと戻した。
 そして、彼女はため息を吐く。
「…………見る物ないわね」
「お前さ、ここに住んで長いんだろう?」
「半世紀以上はすぎてるわね……テレビのない喫茶店のフロアに住んで、半世紀以上、よ」
 そう言って妖精はリモコンの上にちょこんと腰を下ろす。膝に頬杖をついて座ってる後ろ姿が少し可愛い。
 そんな妖精の姿を見つつ、
「……さいでっか……」
 と、ため息一つ吐いて、余り面白いとも思えない報道番組に視線を向ける。
 トントン……食材が刻まれる音が遠くから聞こえる。
 テレビはつまらないが、それでも、生きてて良かったと思えるひとときだった。
 そんな時間が数分。ふと、リモコンを腰掛けにテレビを見ていたアルトが口を開いた。
「ところで良夜」
「なんだ?」
「出来るだけ端的に、簡潔に、言い分けなく、答えて欲しい質問が一つあるの」
 頬杖をついて青年は投げやりに答える。
「……なんだ?」
「犯ってきたの? それとも、これから犯るつもりだったの?」
「おい!」
 思わず両手を突いて立ち上がった。顔が自分でも解るほどにまっ赤だ。まるで火がついたみたいに熱い。
 そのまっ赤に染まり上がった顔を見上げて、妖精はぽつりと呟いた。
「……まだ、犯ってないのね……そりゃ、ご愁傷様。二ミリくらいは悪かったと思うわ」
「なんで解るんだよ!?」
 思わず大声を上げた良夜の顔、それを下から妖精が無言のまま見上げる。
 そのまま、数秒の沈黙……その後に彼女はユルユルと首を左右に振った。そして、彼女は静かな口調で言う。
「…………今、解ったの」
「あっ!? ぐっ……」
 思わず言葉につまった。そして、自身の顔がいわゆる『苦虫を噛みつぶしたような顔』へと変わっていくことを青年は理解していた。
 その顔をアルトがニマニマと底意地悪い笑みで見上げた。
 そして、彼女はまるで犯人を追い詰める名探偵のような口調で言う。
「まっ、あのイ○ンからまっすぐ帰ってくればラブホはないし、運転してるのが美月だからさらっと別の道に入って……って技も使えないし、まあ、八二で犯ってないだろうなぁ〜と思ってたのよね……これから犯るつもりだったの?」
 そんなことをアルトが言ってるとはつゆ知らず、包丁がまな板を叩く音が止まって、代わりに少しだけ大きな美月の声が響いた。
「どうかしました?」
 美月の声に落ち着きを取り戻して、青年は再びガラステーブルの前に腰を下ろし。
「何でも無いです……」
 それから、良夜は小さめの声で答えるも、美月は細めの眉をひそめて不服そう。体ごとこちらを向いたら、じとっと青年の顔を睨み付けるようにして言った。
「……良夜さんの『何でも無い』はたいてい何かあるんですけど……」
「良夜の『何でも無い』はたいてい『言いづらいことがあった』だけだものね」
 美月がふてくされ気味に言って、アルトがしたり顔で首を縦に振る。
 沈黙の時が流れる。
 ちょっと、胃が痛い。
 そして、美月が業を煮やして言うのだった。
「……言わなきゃ、今日の湯豆腐が、湯ケーキになりますよぉ?」
「止めようよ……そう言う食べ物をオモチャにするのは……」
「良夜さんが全部食べてくれるから大丈夫ですよ〜って……まあ、冗談ですけどね」
 そう言って、美月はくるりと振り向き、まな板へと視線を落とした。
 するする……また、美月の包丁が音を奏で始める。今度はだいこんをかつらむきにする音。豚肉と一緒に食べると美味しい奴だ。
「……なんとなく、アルトは来てるよーな気がしたんですよねぇ〜」
 心地よい包丁の奏でながら美月が言った。
「なんで?」
 尋ねたのは良夜……ではなく、その手元にいる妖精さんの方。
「……――って聞いてるよ」
 だいこん半分ほどをかつらむきに仕立てた後、美月はくるんとこちらに向いた。満面の笑顔。
「そりゃ、友達だからですよ〜良夜さんの」
 絶対の自信が笑みからこぼれ落ちていた。
「そうだったのか?」
 その笑みに軽く肩をすくめて尋ねれば、妖精も肩をすくめて応える。
「さあ?」
 そして、美月は鍋の材料で大きな山が出来た大皿を胸元にまで持ち上げて言った。
「だから、借りれないかもぉ〜って思ったんですよ、シャワー」
 振り向きながら美月がそう言えば、妖精はニマリと笑った。
 そして、言う。

「やっぱり、犯る気だったのね……」

 と……
 と、言うわけで、良夜のお誕生日会は良夜の頭に小さな頭痛をつくって始まった。

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