湯船で十分に暖まったら、洗い場で頭を洗ったり、体を洗ったりのお時間。
柔らかいタオルにたっぷりのボディーソープ。ふわふわに泡立ったら、それを体にたっぷりとこすりつけて洗っていく。一日の疲れが汗や垢と一緒に落ちていくようでとても気持ちが良い。
そんな伶奈の正面には大きめの鏡とボディソープやシャンプーのボトルなんかを置くためのちょっとしたスペースが作られていた。そのスペースの上では、ボディソープをたっぷりと手に着け、体を洗っている妖精の姿が一つ……
その様子を見ながら、ふと、伶奈は体を洗う手を止める。
そして、まじまじと彼女の泡だらけの体を見やりながら、小首をかしげた。
「……そー言えば、アルトって私がアルトに泊まらないときはどうやって体洗ってるの? お風呂には入らないんだよね?」
「シンクでシャワーを毎晩浴びてるわよ。貴女と知り合うまでずーっと。美月と一緒に入ったら、お風呂場に置き去りにされそうだもの」
「ふぅん……」
呟くような返事を一つしながら、少女は喫茶アルトのシンクのことをぼんやりと思い出していた。
土曜日のアルバイトでは時々皿洗いもしているから、あそこのことは良く知っている。
だから、もう一つ、疑問がわいた。
「…………ねえ、あそこ、シャンプーとかあったっけ?」
「あるわけないじゃない」
「……じゃあ、何で体洗ってるの?」
「薬用ハンドソープで頭の先からつま先までぴっかぴか」
「………………それでそのさらさらの金髪が維持できるんだ?」
「ハンドソープでもシャボネットでもママレモンでもパーフェクトな輝きよ?」
「どう言う体質と髪質だよ……」
ため息をついて、少女ははシャワーヘッドへと手を伸ばした。そして、少し温めのお湯で体についたシャボンを洗い流す。
泡が流れ落ちて、日焼け跡を残した素肌が露わになっていく。
その胸元を見やりアルトが呟くように言った。
「少し太った? 特に胸元」
「……成長した……って言って。別に成長したいわけでもないけど……」
応えて少女は自身の胸元へと目を落とす。
四方会四人組の中では一番控えめな胸元なのは、先日、プールに行ったときに確認済み。だからどうした……って訳でもないのだが……
その胸元から細めのウェスト、そして、ヘアーの生え始めた部分へと泡が流れ落ちるのをなんとなく眺め……ていると、ゾワッと腕に鳥肌が立った。
それをごまかすように少女は温度調整のバルブに手を伸ばし、ぐいっと一気に冷水へと切り替えた。
氷水のような冷水が伶奈の頭と言わず、腕と言わず、そして、膨らみかけた控えめな胸元を冷やす。
「うひゃ!?」
思わず出ちゃった悲鳴に泡だらけの妖精がぽつりと言った。
「……バカなの?」
「うるさい!」
ぴしゃっと言って、少女は泡だらけの妖精に向けて、自身が被った冷水と同じ物をぶっかける。
も、
「あら、ありがと」
割と平気。
顔に掛かることだけは多少嫌そうな顔をして見せるも、後は平気な様子だ。仕方ないから、奇麗にシャボンを流してやる。そして、それが終わると、少女は小首をかしげて尋ねた。
「冷たくないの?」
「シンクの水道、温もるのに少し掛かるのよ、特に昼に使ってないときは。だから、夏はいつも水風呂よ」
妙なところで丈夫な妖精だ……と思いながら、少女はシャワーの水を止めた。
そして、シャワーヘッドを壁のフックに戻したら、低いバスチェアーから立ち上がり、鏡と妖精に背を向ける。
その頭上に妖精はぽーんと飛び乗り、少女の顔を覗き込んだ。
小さな頭がひっくり返って、濡れた金髪からぽたぽたとしずくが落ちる。
「伶奈……」
「なに?」
「素敵な淑女になれるわよ……私みたいに」
そう言って妖精はパチンと愛らしくウィンクをしてみせる。
その言葉に、少女は足を止め、沈黙……
そして、数秒……少女は言った。
「…………アルトみたいに、シャボネットで頭を洗う淑女なんかになりたくないよ?」
「シャボネットだろうがハンドソープだろうがママレモンだろうが、クレンザーだろうが、何で洗ってもびくともしないタフさが淑女には必要なのよ」
「……クレンザーは辞めようよ……泡立たないから……てか、あれ、研磨剤だよ?」
「女を磨いてるのよ!」
上手いこと言いやがった……と、少女は思わず絶句した。
「よし!」
そして、妖精が天地逆さまのまま、拳をぎゅっ! と握って見せた。
ため息が漏れた。
「はぁ……」
「女はタフじゃないとダメなのよ? 男は例外なく一律にバカなんだから」
「……そういう物?」
「そういう物」
「……そっか……じゃあ……もうちょっとだけ……」
「ちょっとだけ?」
妖精が少女の前で不思議そうに小首を傾げる。
その問いかけに少女はぶっきらぼうに応える。
「……強くなれたらなぁ……って、思う、かな……」
さて、再び、湯船。
先ほどまで弟への愚痴をひたすら演説してた凪歩、それを辟易とした顔で聞いてた(聞き流してた)翼、それに髪を洗い終えて合流した美月の三人がひとかたまりになってるところへ、伶奈も再度合流した。
凪歩の演説も終わったみたい。今の話題はどうやら、美月の知り合いがやってるイタリアンレストランのお話のようだ。結構繁盛しているようで、土日のディナー時になると、予約なしでは入れないらしい。
そんな話をしている横に伶奈もチャプンと肩まで浸かる。
「……凪歩お姉ちゃん、落ち着いたの?」
「だって、これ以上騒いだら美月さんが給料減らすって言うんだもん……」
「いや、さすがに……迷惑じゃないかなぁ……って、思うんですよ? 知ってますか?」
広い湯船の中で体育座りをしていて、なんか、鬱陶しげな雰囲気満載の凪歩。その斜め横では、洗った髪を丁寧にタオルで包み込んでる美月が、ちょっぴり苦笑いを浮かべていた。
そして、美月の向こう側、壁と壁が作るコーナーに体を押し込んでた翼がぽつりと言った。
「減らした分は……私に……」
「ちょっと!?」
そして、切れて凪歩が立ち上がる。
「なぎぽん、うるさい……」
「私が悪いの?!」
「……本気で減らしますよ? 翼さんもコミで……」
翼と凪歩、それから美月の掛合い漫才を見ながら、伶奈は「あはは」と気楽に笑った。
そして、改めて、暖かな湯船に肩まで浸かり、ゆっくりと手足が伸ばせる贅沢を味わう。
「……ああ……良い気持ち……」
思わず声が漏れる、幸せなひととき……
で、あったのだが、その幸せを解せない女が一人居た。
「サウナに行きたいわ」
アルトである。
りかちゃん人形と余り変わらない背丈の彼女にとって、洗面器やちょっと大きめの鍋、ボールなんかにお湯を張れば、すぐに『手足の伸ばせるお風呂』に早変わり。伶奈と知り合ってからは、家の湯船にゆっくり浸かることも増えた。
だから、『手足の伸ばせる大きなお風呂』は、妖精さんにはありがたみのある物でも、物珍しい物でもなかった。
「今年の頭、美月と良夜と一緒に温泉宿に行ったときも、サウナには入れなかったのよねぇ……ほら、サウナに閉じ込められでもしたら、日干しになっちゃうじゃない? 良夜は男だから入って来れなかったし、美月はアテにならないし」
と、背泳ぎしている妖精さんに説明されると無下に断るのもなんだか悪い。
「……私、暑いの苦手だよ?」
「良いわよ、時々、覗きに来てくれれば」
「うん……じゃあ……」
そう言って少女は立ち上がった。そして、それまで湯船の中であっちゃこっちゃ全て丸出しで浮かんでいた妖精をつかみ、頭の上に乗っける。
そして、三人組に声を掛けた。
「アルトとサウナに行くね」
ひとかたまりになってあれやこれや、大人の話という奴に華を咲かせていた女性陣に声を掛ける。まあ、○○学部の誰それが誰々と付き合いそうだとか、△△学部の※※は全然学校に来てないとか……どうでも良い噂話だが、アルトのお茶会でも良く持ち出される話題だ。
「あっ、はーい」
三人がそれぞれに返事をするのを耳にしながら、伶奈は一端湯船から上がった。
「大人になるとあー言う話が楽しくなるのかなぁ……?」
「アルトのフロアに一日いると嫌でもそう言う情報が耳に入るのよ。聞き耳を立ててるわけでもないんだけど……」
「ふぅん……」
ペタペタ……足音を鳴らして、少女は洗い場の傍にある木製のドアへと向かった。
分厚い扉を開くとムワッと湿度を帯びた独特の空気が伶奈の頬を撫でた。
その空気をかき分け、少女は中に入った。
中は六畳ほどはあるだろうか? 縦長でひな壇のあるサウナだ。その壁の一画には大きめのテレビが埋め込まれていて、ちょうど、ニュース番組が始まるところだった。
誰も居ないサウナの中、伶奈はひな壇の下段、ほぼ中央部、テレビの正面に腰を下ろした。
そのひな壇には大きなタオルが敷物変わりにひかれていて、座り心地はなかなか。
「……ドラマか音楽番組なら良いのに……」
正面のテレビには野暮ったいおじさんが額に縦線を刻んで、あれやこれやと政治の問題点という奴を語っているようだった。
「興味なさそうね?」
「政治って、解んないよ……大学生の噂話の方がまだマシかも……」
テレビ本体はガラスの向こう側、チャンネルは変えられないようだ。それに、番組は始まったばかり。我慢するしかないのが辛いところ。
膝の上にミニタオルを掛けて、最低限の部分を覆い隠す。そして、彼女は上段を背もたれ変わりにして、ふわぁ〜と大きくあくびをした。
「まあ、もうちょっと大人になってからでも良いのかしらねぇ……?」
トントン……頭の上から膝の上、膝の上からひな壇、タオルの敷物の上にごろんと妖精は横になった。
その相変わらず、何もかも丸出しな寝姿にため息一つ……いろいろ言ってやりたいことはあるが、無駄だから言わない。
「……暑い……」
代わりにひと言だけ呟き、少女は視線をすっぽんぽんな妖精からテレビへと向ける。
「……サウナだから暑いのは当たり前よ、何言ってるのよ……この子は……」
「……解ってるよ……うるさいな……」
視線も交わさず、言葉のやりとりを一つ、二つ……時間がゆっくりと流れていた。
ニュースは相変わらず、面白くない……
(せめて、野球の結果…………は、また、負けてるだろうから、いらないか……)
ぼーんやりとテレビの番を始める。
すぐに日焼け跡の残る胸元に汗が浮かぶ。
その汗は小さな玉となって、かすかに膨らみ始めた胸元を流れ落ちていく。
今度はこめかみのあたりから頬、そして、顎へと汗が垂れる。それを手の甲で軽く拭う。
少し暑いけど、それと同じくらいに気持ちよくなってくる。暑いのは苦手だけど、サウナは好きになれるかも知れない。
少女の肌を熱風が焼くのを感じてる内に、時が静かに流れ――
――るほど、甘くないのが少女の人生だった。
「……伶奈……」
横で寝転がっていたアルトがぽつりと言った。
「何?」
視線をアルトに向ける。
華奢で真っ白な肌の上、汗が幾筋もの川を作って滴り落ちていた。
「……頭、痛くなってきた……熱中症かも……」
呟く妖精の顔は蒼白だった。
「…………バカなの?」
呟き、視線をテレビに戻す。
まだ、先ほどの話題は終わっちゃいない。
多分、三分くらいだ、経過時間。
「……死ぬわよ……死んだら化けて出てくるわよ……」
「妖精で、幽霊って、レア度が高すぎるよ、アルト……」
ため息をついて少女は立ち上がる。
そして、ひょいと妖精の小さな体をつかんで、ドアを開けば、流れ込んでくる涼風が心地良い。その心地よい涼風と共に入ってきたのは美月と凪歩、それから翼。
パチクリと瞬きをしたら、彼女らは口を開いた。
「あら……? もう、出るんですか?」
「さっきじゃん?」
美月と凪歩が順番に言って、そして、
「……根性、なし……」
翼が一呼吸遅れてぽつりと言った。
ワンテンポ遅れてこの辛辣なセリフは心に響く。
気恥ずかしさに頬を赤らめ、少女は呟く。
「あっ、アルトが……のぼせちゃったからだもん……」
「あら……大丈夫ですか?」
美月が尋ねるとアルトは
「水風呂にでも入れば治るわよ」
と少々苦しそうな声で応えた。
「……――だって。とりあえず、水風呂、入ってくるね」
そのアルトの言葉を美月に伝える。
「はーい。ごゆっくり〜」
背後に美月の声を聞きつつ、少女は三人娘と入れ違いにサウナを出た。
サウナの中から大浴場の方に出ると、やっぱり、空気が冷たくて気持ちが良い。
目的の水風呂はサウナの出入り口すぐ横、足こそ伸ばせるが一人がちょうどといった感じの湯船だ。
そのお風呂の上には『必ず汗は流して入って下さい』とのプレート、まあ、マナーという奴だろう。手近な所に洗面器もある……と言うことで、その洗面器を手に取ると、しゃがんで頭のばさ〜と、無造作に頭から水をかけた。
瞬間――
「うひゃっ!?」
「……さっきも同じ声出してたじゃない……」
その呆れ声に釣られて少女は顔を上げた。
先ほどまで死にかけていたはずの妖精さんが、伶奈の頭の上、五十センチほどの地点でフヨフヨとホバリングをしていた。
「出てきたら治ったわ」
バカがふんぞり返ってそう言った。
ゆっくりと立ち上がり、素早く手を伸ばす。
右に避けた。
手が追う。
左に避けた。
さらに追う。
上に逃げた。
飛び上がった。
下に逃げた。
しゃがみ込む。
また、上に逃げる。
ゆっくり立ち上がるところにまで戻ったら、そこから、三回リピート。
三回目にしゃがみ込んだとき、妖精は少女の頭の上にひらりと着地を決めて言った。
「……注目されてるわよ……」
辺りを見渡す。
数少ない入浴客が不思議そうな顔で少女を見ていた。
そして、少女は彼女らの顔をぐるりと一瞥した後、「あはは」と引きつった笑みを浮かべ、そして、言った。
「さあ! 上がろうかな!?」
「……誰に言ってるのよ……?」
頭上でくつろぐアルトが尋ねてきたが、それについての答えは少女自身、持ち合わせていなかった。
今、彼女の中にあるのは――
「後でひねってやる」
――だけだった。
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