裸の付き合い(2)

 と、言うわけでお風呂屋さん。
 ここの風呂屋はアルトが開店した頃からある古い銭湯だ。しかし、十年ほど前に、裏にあった田んぼを潰して、敷地の拡張と施設の建て替えを行った。そのおかげで、見た目はいわゆるスーパー銭湯という奴になっていて、歴史の古さは全く感じさせなかった。
 大きな建物には立派なかわらぶきの屋根とひのき風の柱。自動ドアのガラス越しには明るい照明とその下を行き交う入浴客の姿が見えていた。
 伶奈の頭の上で、その近代的な施設を見上げながら、アルトは懐かしそうな声を上げた。
「真雪が生きてた頃はちょくちょく来てたのよねぇ……ここ。真雪は週に一度は広いお風呂で手足を伸ばさないと、やる気が出ないとか…………真雪が仕事にやる気を見せてるところなんて、ついぞ見ないで終わったけど……」
「おばあさんが亡くなってからは?」
「真雪が引っ張り出さなきゃ、仕事が終わった後に、わざわざ、車に乗って銭湯になんか行かないわよ。家のお風呂だって結構広いし」
「ふぅん……」
 頭の上から降ってくる言葉に気のない返事をして、伶奈は少し後ろを振り向いた。
「じゃあ、風呂入ったら帰れ!」
「前から言ってるけどさ、自分も外泊したけりゃ、親父とお袋に言えよな!」
「何回も言ってるけど、許してくれないんじゃんか!」
「それ、俺のせいか!?」
「手伝え!」
「知るか!」
「弟のくせに!」
「じゃあ、凪姉も年上なんだから、大人になれよな!」
「私は大人だ! ちゃんと働いてる!」
 伶奈達よりも数歩後ろ、美月のパステルカラーのスズキアルトとぼろぼろの軽ワゴンの間では、未だに凪歩と灯が大げんかの真っ最中。美月と翼、悠介と俊一、それからもちろん、伶奈とアルト、全員が全員、うんざりといった顔を見せては居るものの、当事者二人に気づいている様子は全くなかった。
 そんな時間が数分……満天の星空の下、晩夏の夜風が心地よく頬を撫でる中、姉弟喧嘩の行く末を見守る馬鹿馬鹿しい時間が数分続いた。
 伶奈の背後ではその数分を大人達が何かの相談をするのに費やし、そして、結論は姉貴分の美月が言った。
「申し訳ありませんが、伶奈ちゃん、止めてきて貰えます?」
「ふえっ!? なっ、なんで!?」
「凪歩さんとも灯さんともお付き合いがあるのは伶奈ちゃんだけですし……ほら、年下に言われるとショックも大きかろうというか……」
 申し訳なさそうに言ってる美月の顔から、他の面々へと視線を動かす。
 翼はいつもの鉄仮面……だが、伶奈と視線が交わるとプイッとそっぽを向いた。逆に凪歩と灯の姉弟喧嘩を楽しそうに眺めていた俊一は、伶奈の視線を感じた途端、なぜか、こちらを向いて手を降ってきた。嬉しそうに笑ってる理由はわからないが、とりあえず、手を振り返しておく。
 そして、最後にこちらをぼーっと間抜け面で見ていた悠介は、伶奈と視線が合った瞬間、言った。
「がんばれよ」
 その言葉に少女の右手がすーっと上がる。肩の高さまで達したら、まっすぐに伸ばした指先が彼の間抜け面を射貫き、そして、言う。
「やっちゃえ」
「俺だけか!?」
 踏み台にされた小さな衝撃。それを頭のてっぺんに感じつつ、伶奈はくるりと一回転、きびすを返して、灯達の方へと歩を進める。
「ぎゃー!」
 背後から聞こえる悲鳴が心地よかった。
 ちょっとだけ、頬が緩む。
 夜風はやっぱり気持ちいい。
 が、やいのやいのと口論している二人のそばに近づくと、その気持ちよさも半減以下。お腹の辺りがキューッと痛くなる気分。
 されど、少女はやるしかなかった。
「……凪歩お姉ちゃん、そろそろ、お風呂入らないと……暑いよ? 灯センセも……それにほら……みっともないし……」
 伶奈がおそるおそると言った雰囲気で声を掛けると、姉弟二人の口論は一端止まった。
 二人の視線が伶奈の方へと向く。
 長身の時任家姉弟に対して、伶奈は同年配の中でも比較的小柄だ。見下ろされること著しい。
 伶奈を見下ろす姉弟が、口をそろえて言う。
「「あっ、ごめん」」
 見事なハーモニーだった。
 そのハーモニーに少女はホッと一安心――
「灯のせいで伶奈ちゃんに迷惑かけたじゃんか!」
「凪姉のせいだろう!? 俺に妙な八つ当たりするからだよ! お姉ちゃん呼ばわりさせてんなら、ちょっとは姉らしいことしろよな!」
 ――したのはぬか喜びだった。
 やいのやいのの第二回戦。
「……くっ……」
 少女はうつむき小さな拳を握る。
 頭の上を行き交う怒鳴り声は未だ消えない。
 そして、きりっ! と涙の浮かんだ目を見開き、叫ぶ。
「アルト! やっちゃえ!! 念入りに!!!」
「「念入りって!?」」
 姉弟の悲鳴、そして、額からつーーーーーっと流れ落ちる一筋の血。
 一発目と二発目に凪歩、三発目と四発目が灯、念入りな一撃を与えた妖精が、伶奈の頭の上へと帰ってきて言った。
「今夜、働かせすぎよ」
「ふんっ!」
 少女がそっぽを向く声だけが高々と夜空に消えていった。

 設備もまだまだ真新しく、湯船もゆったり広くて、心地よい……が、周りを見渡せば、全部、裸の男ばっかり。むさ苦しいこと著しい男湯の中、大きな湯船に肩までどっかりと浸かった俊一が尋ねた。
「灯、昔はもっと凪さんと仲が良かったろう?」
「……シュンの言ってる昔って、小学生の頃だろう? 凪姉が中学生くらいの……俺、中学になってから、凪姉と付き合いないんだよ」
 ため息交じりに灯が応える。
 それに顔を上げたのは、その貧弱さに伶奈から『棒人間』と呼ばれたこともある悠介だ。一人、湯船の縁、膝下だけを湯につけて、足湯を気取っていた棒人間、もとい、悠介は、少し不思議そうな表情を浮かべて、尋ねた。
「なんだ? そりゃ? 同居してなかったのか?」
 その言葉に灯は軽く首を振る。
「まさか。暮らしてたのは同じ家。でも、俺は小学校の頃からリトルで毎日練習漬け。中学になったらそこに朝早くの朝練、放課後も夕方までみっちり練習したら、後は風呂入って飯食って寝るだけ。土日は土日で練習試合だ、遠征だ……中高の六年間なんて、気づいたら、他の兄弟と一週間くらい挨拶すらしてないってことがちょくちょくあったんだよ。んで、その間、凪姉は俺が試合に活躍したとか、勝ったとか、負けたとか、野球名門校に推薦で入ったとか、スポーツ進学なのに成績もそこそこだとかを、間接的に見聞きしててる内に、俺を勝手に『自慢の弟』に祭り上げてたんだよ……」
 灯はため息交じりで一息に言うと、ザブン! と手のひらですくったお湯を自身の顔に叩き付けた。
 水しぶきが宙を舞い、水面にいくつもの波紋を作った。
 その波紋が消えるよりも先に、灯の隣で同じく肩まで湯に浸かっていた俊一が言った。
「で、高校卒業と同時に野球は辞めて、遊びほうけるダメ大学生になって、それを直接見聞き出来るところでやられたんじゃ、そりゃ、姉貴としては許せないよなぁ〜アルトには学生の評判が結構伝わるらしいぜ?」
「その上、親父さんの方針が、男の夜遊びは人生経験、女の夜遊びは人生の汚点……か、喧嘩にしかならねえな……」
 そして、悠介が言葉を付け加える。
 その二人の言葉を、灯は湯船の縁にもたれながら聞いていた。
 縁を枕に天井を見上げる。
 湯気に霞む天井がやけに遠い。
 その遠い天井を見投げて、ぽつりと漏らした。
「夜遊びつーても、たいしたことしてないんだけどなぁ……」
 視線を天井の梁にあわせて動かす。
 行き着く先は男湯と女湯を区切る高い壁。その壁と天井との間には、わずかばかりの隙間があった。その隙間を女風呂からの湯気がゆっくりとこちらに流れ込んできているのが見えていた。
「八つ当たりだよな……」
「どうした?」
 足湯から全身浴へと切り替えようとしていた悠介が尋ねる。
 その声に青年は
「なんでも〜」
 と、投げやりに答えた。

 さて、むさ苦しさあふれる男風呂から一転、女性であふれる女子風呂。やっぱり喫茶アルトの面々はメインの大きなお風呂の片隅に固まって、心地よい湯を堪能していた。
「いい大人なんだから、何時に帰ろうが私の勝手だと思わない!? ねっ!? それをなーにが、『女の夜遊びは人生の汚点』だよ! あいつら、夜遊びってゲームと麻雀じゃんか!!」
 ばっちゃばっちゃと身振り手振りを交えて演説を打ってるのは、未だ怒り冷めやらぬ時任凪歩女史だ。
 おへその辺りまでお湯に浸かった状態、少し小ぶりなおっぱい丸出しで、身振り手振りの大演説だ。冷静に考えれば、周りの迷惑にもなろうという物ではあるが、幸運なことに、今のところ、周りにいるのは伶奈と翼の二人と妖精さんだけ。美月は洗い場で長い髪を洗うのにたっぷりと時間をかけているし、他の客は少し離れたところに座っていて、ここにはいない。
「良く付き合うわね?」
 そう言った妖精さんは先ほどから背泳ぎの要領で湯船の中に浮かんでいた。素っ裸でそんな恰好をしているんだから、もう、何もかも丸見え。彼女は湯船に浸かると大概こう言う格好をしている。最初は苦言を呈していたものの、聞き入れられたことはないが、ひと言言わずにはいられないお年頃。
「……アルト、いろいろ見えてる……」
 そう言った伶奈は、湯船の中、一段高い所に腰を下ろして、半身浴のまねごと、真っ最中。少し熱めのお湯が下半身を温め、温められた血液が全身へと巡っていくのが良い気持ち。
「お風呂は全部丸出しにする物よ」
 妖精が嘯く減らず口に軽く肩をすくめる。
 そして、何もかも丸出しの妖精から上半身丸出しの凪歩へと視線を動かす。
 普段はポニーテールにされている髪が、今日はコンビニで買ってきたミニタオルとヘアピンでアップにまとめられていた。眼鏡も曇るからと外されているし、先日の伶奈本人ではないが、ぱっと見、別人のようだ。
 その別人のような顔がこちらに向いて、彼女は言った。
「伶奈ちゃんも知ってるでしょ!? ちょくちょく、灯がこっちに泊まってるの!」
「あっ、うん……知ってる。先週はまーじゃんって奴、してたよ? じゃらじゃらうるさくて、次の日、ジェリドにうるさいって言ったら、その日の夕方にカードの奴、買ってきたって、嬉しそうに見せてくれたよ……」
 その言葉に肩どころか、唇のすぐ下までどっぷりと湯船に浸かった翼がぽつり……鉄仮面を崩さぬままに呟く。
「……ジャリ……」
「あはっ、うん、そうだね……私のこと、いつもジャリって言う癖に……」
 伶奈は素直に頬を緩めるも、鉄仮面の女は相変わらず、鉄仮面。顎までお湯につけたまま、ぼそぼそと小さな声で言葉を紡いだ。
「……灯くんも……もう一人も……ジャリばっか……」
 そう言って一端言葉を切る。
 そして、翼はちらりと凪歩の方へと視線を向けたら、もうひと言だけ言った。
「……なぎぽんも……」
「なんでだよ!? 私は大人だよ? 立派にお仕事だってしてるしさ」
「……はぁ……」
 赤い顔で凪歩が反論するも、翼が凪歩に与えたのは明らかなるため息一発のみ。そして、彼女は湯船の中から地上がると一歩離れた湯船の壁際端っこへと移動した。
「ちょっと!? 翼さん!?」
 凪歩の反論も翼は聞こえないふり。地黒な背中を凪歩に向けたまま、その意外と広い肩へとお湯をかけながら、くつろぎ始めた。
「ねえってば!」
 その背中を追って凪歩も移動する。そして、なにやらやいのやいのと言ってるようだが、少し離れた伶奈からは良く聞き取ることが出来ない。
「まあ、ジャリと言われて怒るのはジャリの証拠よ……ネ? ジャr――あぐっ!?」
 こちらに向いて余計なことを言わんとしている妖精の顔を軽く一つ付き。背泳ぎしていた妖精は憐れにも湯船の中で一回転。鼻からお湯が入ったのか、慌てて飛び出し、けほけほとむせているのが、可愛い。
 可愛い妖精の姿に頬を緩める少女とその少女に目を剥いてキレてる可愛い妖精、穏やかなひととき……
 ……の中、凪歩の怒声が聞こえた。
「だいたい、女遊びの一つでもしてりゃねえ、私は『うちの弟くんは昔からモテたんだよねぇ……』って何気なく自慢出来たの! それが、麻雀とアニメとゲーム!? しかも、あいつらに聞いたら、今期のアニメと新作ゲームの出来が解るとか、艦これのイベントマップを誰よりも早く攻略することに三人で命をかけてるとか! そんなの、自慢出来るわけないじゃん! むしろ、恥ずかしいよ!!」
 悲鳴のような声を上げる凪歩をチラ見……軽くため息交じりに伶奈は言う。
「……いい加減、恥ずかしくなってくるね……」
「他人の振り、してなさい……」
 腰まで湯に浸かった伶奈の足下、背泳ぎの妖精がぷかぷか浮いて流れていった……

 そして、その頃、お隣の男湯では――
「だいたい、夜遊びだって言っても、女遊びの一つもしないで麻雀とアニメとゲームって、平和に遊んでるだけで、なんで凪姉にごたごた言われなきゃいけないんだろうな……?」
 と、灯が愚痴っていた。

 この姉弟の行き違いを知るものは、神以外、誰も居なかった。
 

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