裸の付き合い(1)

 ある夜、喫茶アルトの営業終了直後。喫茶アルト店内ではお掃除と翌日の仕込みが忙しそうに行われていた。
「それじゃ、私は先に上がらせていただきますね」
 そう言ったのは、カウンター内の掃除をしていた老店長和明だ。
「あっ、ハイ、お疲れ様」
 未だテーブルの上を拭いて回っている凪歩が応えると、彼は軽く笑みを浮かべて、フロアを後にした。
 彼が他の面々よりも一足先に上がるのは、彼にはこれから風呂掃除という大事なお仕事が待っているから。閉店終了直後のこのタイミングで先に上がって、風呂掃除をして、湯船にお湯が溜まるのを眺めながらパイプを一服。吸いきる頃にちょうどお湯が溜まるので、そこからゆっくりと浸かって、出てくる頃には、ちょうど、美月が従業員達を送り出すタイミング。
 で、美月がお風呂場に入っていくのを確認したら、自室に戻ってもう一回、煙草を吸う。
 これが喫茶アルト老店長の日常である。
 ――が、今夜はちょっと違っていた。
 営業終了からだいたい三十分ほどの時が流れて、掃除をはじめとした閉店作業も一段落。お楽しみの夜会が始まる時間だ。
 テーブルの上にはよく冷えたアイスコーヒー、今夜のお茶請けは期限切れのショートケーキとモンブランが一つずつ。切り分けるのも面倒くさいので、二つのケーキを人間三人と妖精一人とが突っつき、突っつきしていた。
「……――良夜さん、内定貰っちゃったらしいんですよね……」
「ちっ……荷物運び……浅間くんに押しつけようと思ってた……のに」
「いっそ、学長さんに頼もうか? 卒業させないでって」
「ゼミの教授に言った方が早いわよ……って、卒業させてあげなさいよ……」
 美月と翼、それから凪歩にアルト、四人が興じるのは、良夜が聞いたら顔色を変えそうなお話。
 そのお話を肴に、一つの大きな取り皿の上に置いた二つのケーキが三つの見えてるフォークと一つの見えないストローで解体されていると、不意に声が聞こえた。
「美月さん」
 その呼ぶ声に美月が顔を上げると、そこにはすでに仕事を終えたはずの老人が立っていた。薄水色のパジャマ、首には赤いバスタオル、とどめは少し濡れたロマンスグレー、絵に描いたようなお風呂上がり。
 その顔を美月は椅子に座ったままで見上げ、そして、尋ねた。
「アレ……どうしたんです?」
 美月の言葉に老紳士は軽く肩をすくめて答える。
「ボイラーが壊れたようで……風呂場のお湯が出ませんよ」
 言われて美月はパチクリと瞬き数回……
「ああ、それじゃ……今日はお風呂屋さんですかね……お祖父さんも行きます?」
「いえ、私はもうシャワーを浴びましたから」
「……お湯で?」
「まだまだ、残暑が厳しいですからね、気持ちよかったですよ? 女性には勧めませんけど」
 孫が見上げる祖父の姿は、薄水色のパジャマに、首には赤いバスタオル、とどめは少し濡れたロマンスグレー……
 そして、数秒の沈黙が流れた。
 それを打ち破る小さなくしゃみ。
「クシュン……――っと……」
 老人のくしゃみを合図に、美月は叫んだ。
「年寄の冷水って、知ってますくわっ!?」
 叩き付けられた右手と左手の間で、危うく潰され掛かった妖精が冷や汗をかいていたことに、誰も気づいては居なかった。

『と、言うわけでして、これから、みなさんで銭湯にでも行こうという話になりましたが、伶奈ちゃんもどうですか?』
 その電話を受けたのは、パイプベッドの上で伶奈がごろ寝をしているときのことだった。
 いつものオーバーオールではなく、英明の制服姿。アルトに行く用事のないときは、寝るまで制服姿でいるのが伶奈の最近の日常になっていた。
 枕元では賑やかな笑い声を奏でる液晶テレビ、それからバスタオル一枚を胴に巻いてしゃがみ込んでる我が母。その艶姿、後ろから覗き込んだら、何か、いろんなところが見えてしまいそうな気がするが、見てあげないのがよく出来た娘である。
 小ぶりなタンスの前で着替えを漁っている母から意識をスマホへと、伶奈は戻した。
「……お祖父さん、大丈夫?」
 おそるおそると言った雰囲気で尋ねると、切れ気味の美月が普段の三倍ほどの勢いと早口で言った。
『知りませんよ! もう、風邪引いて倒れても、私は営業が忙しいので、伶奈ちゃん、面倒見てあげて下さいね! とりあえず、今は、もう、寝ちゃってますけど!』
「わっ、私だって、学校だよぉ……」
 スマホを耳からちょっと離して、苦笑いと共に答える。
 そして、スマホを握りしめた右手をベッドの上にまで戻す。握りしめたスマホからは未だに何か美月の愚痴とも怒りともつかぬ声がこぼれ落ちているようだが、とりあえず、スルーだ。
 そして、少女は着替え始めた母へと声をかけた。
「お母さん、美月お姉ちゃんが一緒にお風呂行こうって言ってるけど……良い?」
「どうしたの? ボイラーが壊れた? お金は自分で出しなさいよ、美月さんに出して貰っちゃダメよ? バイトして、小銭持ってるんだから」
 一通りの説明を母にすれば、彼女は矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、そして、右手を差し出した。
 その右手に少女が
「えっ?」
 と、小首をかしげると、母は額に縦筋を刻みながら言った。
「お礼だって言わなきゃいけないでしょ? 連れて行って貰うんだから……」
 言われて伶奈は視線をスマホに向ける。
 耳にそれを近づける。
『聞いてくれてますか!? もう、若くないのに無理ばっかりするかと思えば、運動の一つもしないで、今夜は今夜で行水で……!』
「……まだ、言ってる……」
 ぽつりと呟き、少女は顔を上げた。
 そこでは三島家伝統の控えめな胸元の上にTシャツ姿というあられもない姿の母が、未だに手を引っ込めずに立っていた。
 その背後では面白いんだか、面白くないんだか、良く解らない引き笑いの芸人が机を叩いて笑っている。
「どうしたのよ」
 不機嫌そうに母が言うので、とりあえず、渡す。
 そして、少女はよっこいしょ……と年寄り臭いつぶやきを漏らして立ち上がり、ベッドから下りた。
「あっ、もしもし、美月さ――」
 背後で聞こえていた母の声が固まった。
 のと、ほぼ同時、
『おばさんですくわっ!?』
 って、声が聞こえたような気がした。
 幻聴とも現実とも付かぬ声を背後に聞きながら、少女は振り向きもせずに言う。
「……私、着替え、用意してるね……」
「…………覚えてなさい」
 剣呑なことを母が呟いてるが、私は悪くない……と、伶奈は思うことにした。
 なお、美月の愚痴は伶奈が着替えとバスタオルを用意し、着っぱなしだった学校の制服からいつものオーバーオールに着替え終わるまで続いていた。

 右手に着替えやバスタオルの入ったトートバッグを引っかけた少女が、ぴょんと部屋を飛び出る。
「ふら〜い、みー、とー、ざ、む〜ん♪」
 と、ばったり……と、出くわしたのは
「こんばんは、伶奈ちゃん。こんな時間に出歩いちゃダメだよ」
「ジャリは寝る時間だぞ?」
「こんばんは、今日も可愛いね」
 家庭教師の時任灯と天敵ジェリドこと勝岡悠介、それから、その二人の友人である真鍋俊一だ。三馬鹿とひとまとめで呼ばれる連中。彼らは一人暮らしをしている悠介の家にちょくちょく集まっては遊んでいるらしく、伶奈とも良く顔を合わせていた。
 その三人ひと組の顔を見上げながら、少女は一息にまくし立てた。
「美月お姉ちゃん達とお風呂屋さん行くだけだし! だいたい、寝るにはまだ早いし! それから別に可愛くないし!」
 その言葉に悠介がコクンと頷き言った。
「おう、可愛くないのは知ってる」
「あっ……うっ……」
 思わず、少女は言葉に詰まる。
「……まあまあ、伶奈ちゃん……こいつのことは後でぶん殴っておくから……それで、どうしたの? お風呂って」
 膨れる伶奈の目の前、灯の整った顔が下がってきて尋ねた。
 その青年にかくかくしかじかとこれまでのやりとりを話すと、勝ち誇った顔で話を聞いていた悠介が「ああ」とまた頷いた。
「うちの風呂、せっまいからな……ユニットだし……俺もたまにバイト帰りに風呂屋によるぜ」
「俺、ユニットバスの使い方、未だに良く知らねえ……湯船の中で体洗うんだっけ?」
 悠介の言葉に苦笑いで応えたのは俊一だった。ずーっと実家暮らしで、実家は持ち家だからユニットバスに入ったことがないらしい。なお、悠介のユニットバス初対面は受験の時のビジネスホテルだったそうだ。後、俊一の家の風呂はユニットじゃないが余り広くないらしい。
 激しくどうでも良い。
「……お前ら、田舎もんか……? って、三島さん達って事は、もしかして、寺谷さんや凪姉も?」
 灯に問われると伶奈は「うーん……」としばしうなり声を上げて考えて……――
 ――居ると女性の声が一つ聞こえた。
「あっ! 灯! また、こっちに泊まる気でしょ!?」
 足下、灯達の向こう側、下から響く鋭い声。灯は振り向くよりも先に顔をゆがめて呟いた。
「げっ……凪姉……」
 灯達三人の向こう側に見えるのは、高い頭の上にさらに高くポニーテールを作ってる眼鏡の女性、時任凪歩だ。眉をつり上げて怒っているのは、未成年でバイトしかしてない大学生の弟が一人暮らしの友人の所にしょっちゅう泊まり込んでいるから。自分はさせて貰えないのに! と言うほぼ八つ当たりな怒りを弟にぶつけている……らしいって事は後で聞いた。
 ぱたぱたと一気に凪歩が階段を駆け上がる。背の高い弟を追い抜いたら、その向こう側に居る小さめの顔を見下ろし、彼女は言った。
「おっ? 伶奈ちゃん、いたんだ?」
「あっ、ごめん……灯センセとばったり会っちゃって……」
「ううん、別に良いよ。一応、アパートの上から下までって言っても、時間も遅いしさ。様子、見に来ただけだよ」
 と、声の調子を緩めて言っていたかと思えば、直後にはその優しい口調が嘘のような声で、彼女は叫ぶ。
「灯! あんたはさっさと帰れ!」
「いや……えっと……まあ、その話は後でおいおい……」
 言ってちらりと灯は伶奈の方へと視線を向けた。
 視線同士が絡み合い、そして、伶奈はこそっと頷いた。
「あっ、あの……凪歩お姉ちゃん……美月お姉ちゃん達も待ってるんだよ……ね? 下りよ?」
「……ちっ……後でゆっくり話し合うからね!」
 遠慮のない舌打ちが一発。それから凪歩は灯の顔をピッ! と鋭く指さし、怒鳴り立てる……も、その声が星空へと消えていくよりも早く、優しい声を一つ、右手と共に伶奈に差し出す。
「じゃあ、行こうか? 伶奈ちゃん」
「うっ、うん……」
 差し出された手を握る。
 ちょっと荒れた、働いてる人って感じの手。それを握ると妙に安心することが出来た。
 その荒れた手に引き摺られるようにして、少女は階下へ……
「あっ、灯センセ! それから、ジェリドと真鍋さんも、また!」
 少女の大きめの声が無人の階段に響き渡る。
 その声が夜のとばりに消えて、そして、代わりに鈴虫の声だけが支配し始める頃……
 たっぷり汗のしみこんだワイシャツ、その胸元のボタンを弄りながら灯がぽそっと呟いた。
「……俺らも行くか……? 風呂屋」
「……凪さんにぶん殴られても知らんぞ……」
 答えたのは俊一だ。されど彼はポケットにねじ込んであったスマホを取りだし、その表面を撫で始めている。一つの名前が浮かび上がる。二つ上の三年生、名前の後ろには(四研部長)の注釈付き。
「多分……駅の向こうの銭湯だな……あそこ、遅くまでやってるし……」
 言って悠介は階段の残りをトントンと駆け上がる。
 ちなみに悠介の部屋には灯と俊一の着替えが詰まったボストンバッグが常備されている。それを取って引き返してくるまで、わずか一分たらず……
 少女の居なくなった階段を三馬鹿と呼ばれる男達が、彼女を追うかのようにトントンと駆け下り始めた。

 そして、十五分後、風呂屋の前でばったりと再会した弟に対して――
「なんで、来てるんだよ!? 帰れって言ったじゃんか!!!」
 ――って、叫んでる姉の姿が見受けられた。
「……別に良いじゃない、混浴って訳でもないんだし……」
 何とも言えない気分になってる伶奈の頭上、あくびをしている妖精が嘯いていた。
 

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