二学期が始まる(完)

 長かった夏休みもようやく終わって、九月、新学期。
 抜けるように青い空の下、伶奈が乗った電車が英明学園最寄り駅に滑り込んだ。
「すいません……ごめんなさい……」
 満員電車の中から抜け出すのに一苦労が必要だ。ようやく外へ抜け出し、ホッと一息。周りでは同じような服を着た英明の生徒がスカートの裾をなおしたり、襟元を飾るスカーフを整えたりしている姿が見えた。
 伶奈もそれに習うかのように襟元のスカーフに触れる。
「伶奈ちゃ〜ん、おっはよ〜」
 聞こえてきた声、ひょいと振り向いたら、隣に止まった下り電車から優雅に降りてくる美紅の姿があった。
「おはよう。相変わらず、上りは混んでるね」
「おはよう……良いね、下りは空いてて」
「朝練のある頃なら大分空いてるよ? 伶奈ちゃんも朝練のある部に入れば?」
「そんな元気はないよ」
 明るい口調で言葉を交わすひとときを楽しみながら、二人は上り電車が出発するのを待つ。そして、遮断機の上がった線路を渡って、改札へと向かった。
 周りには同じく英明学園の同級生や上級生達が二十人か三十人ほど。普段よりも多く見えるのは、美紅同様、朝練が休みの生徒達がこの時間に登校してきているからだろう。
 女子生徒が九かそれ以上、男子生徒が一かそれ以下、そんな極端な男女比の集団に混じって改札を抜ける。
 太い国道は大学の前や伶奈の家の前からずーっと繋がっている道。そこに出て、少し歩けば、すぐにバス停。そこで見えるのは、もう、すっかり、日常風景となっている二人の姿。
「おっはよ〜ん、伶奈チ、ミクミク」
「………………………………おはー……よ」
 少女を小脇に抱えた穂香と小脇に抱えられた蓮のコンビだ。
 その二人組と合流。
 さすがに蓮を小脇に抱えたまま歩くのは難しいので、蓮を両脇から穂香と美紅が支える感じで歩き始める。その背後を伶奈がのんびりと付いていくのが、この四人での登校スタイルとなっていた。
「相変わらず、私の部活がないときはこっちに来て、蓮ちゃん抱えて待ってるよね……」
「三人並んで登校なのに私がいないとか、寂しすぎること、お天道様が許しても、四方会おそろいのイルカのストラップが許してくれないよ!?」
「……――ってお馬鹿さんが言ってるけど、買ってきた人的にはどう?」
 蓮を挟んで穂香と話していた美紅がひょいと首だけを背後に巡らせて尋ねると、伶奈はクスッと頬を緩めて応える。
「イルカさんは許してくれるよ」
「ひどっ!?」
 悲鳴のような声を穂香があげる。
 それに伶奈は美紅と共に笑い声を漏らす。
 と、いつもの風景を楽しむ四方会に声がかけられた。
「おはようさん、相変わらず四方会は楽しそうだね?」
 背後からかけられた声、伶奈が振り向けば小さめの眼鏡に三つ編みの少女――十川八重子がまぶしい笑顔をたたえて立っていた。
 入学してしばらくの間、伶奈の斜め後ろに座っていた少女だ。そんな小さなきっかけではあったが四方会の次辺りに親しく付き合ってる友人でもあった。
 その四番目に親しい友人が言った。
「えっ?」
 まじまじと伶奈を見つめる眼鏡越しの目。
 思わず、鸚鵡返しに伶奈も言う。
「えっ?」
 そして、歩みが止まった。
 数秒の時が流れて……――
 ひょい! と、穂香が前から手を伸ばし、伶奈の前髪を留めていたヘアピンをするりと外した。
 ぱらりと落ちてくる前髪。久しぶりに世界が前髪の御簾の向こう側へと遠ざかった。
 ら、
「ああ、やっぱり、西部さんかぁ〜」
 と、一学期の間、四番目に親しくしていたつもりの友人に、伶奈は言われた。
「あっ、ごめん、ごめん! その髪型、似合ってるよ!」
 膨れながら前髪を直す伶奈に四番目の友人“だった”少女が慌てた声を上げる。
「――って、過去形にしちゃダメ!!!」
 これが本日のけちのつき始め。
 校門には毎朝登校指導をしている女性教師がいる。
 高等部現代国語の樋口という老齢の非常勤講師だ。恐ろしく厳しいともっぱらの噂であるが、中等部で直接授業を受けてるわけではない伶奈にはピンとこない。
 もっとも、ピンとこないのは伶奈だけ。
「北原さん! 第一ボタンを止めてスカーフはちゃんと巻いて! 東雲さんはスカーフ自体付けてないじゃない!? それから、南風野さん! 毎朝毎朝、友達に引きずってきて貰うんじゃありません!!!」
 見事な怒声が三つ飛んだ。
 四人で登校するといつも聞く怒声だが、伶奈は余り言われたことはない。服もちゃんと着てるし、朝からダルダルに疲れて切っていたりもしないからだ。
「おはようございます、樋口先生……」
 伶奈がそう言って頭を軽く下げれば、凜とした声が帰って……――
 ……――来ない。
「あれ?」
 小さな声で呟き、顔を上げる。するとそこには、不思議そうに伶奈の顔を覗き込んでいる老婦人の顔があった。
「ああ……西部さん。髪形、変えたんですね。よく似合ってますよ」
 名乗る前に気づいてくれたのはさすがと言うべきだろうか? それ以前に毎朝ここで顔を合わすだけの中等部の生徒の名前と髪形を覚えていてくれたことを褒めるべきなのだろうか?
 どっちにしたって、腹が立つことに変わりはない。
「……おはようございます」
 もう一度、伶奈は頭を下げる。
 その額には深い縦皺が出来ていた、らしい。鏡は見てないので、本人には解らない。が、厳格な老齢の女性講師が顔色を変えたのだから、よっぽど不機嫌な顔をしていたのだろうと言うことだけは解った。
「えっ……えっと……」
 困り顔の教師に穂香がそっと囁く。
「伶奈チ、髪形変えてからこっち、知り合い全部に『お前誰だ?』的な対応されて、大分、キレてたんですよ〜」
「それは悪いことを……それより、『伶奈チ』じゃなくて『西部さん』と呼ぶように」
「――ってよけないこと言わないでよ!」
 熱く火照った顔で伶奈が大声を上げる。
「あはは」
 その大声に笑い声を上げたのは、話をしていた穂香と高等部の樋口先生、半笑いで事の成り行きを見守っていた美紅と二人の友人に両側から支えられたままぐったりしていたはずの蓮……だけではなく、周りの知ってるのとか知らないのとかひっくるめて、登校中の生徒達までもが含まれる始末。
 その笑い声にかーっとますます顔が赤くなる。
「もう、行こうよ!」
 そう言って伶奈は穂香の空いてる手をぐいっと握って逃げ出すように、その場を後にした。
 伶奈が穂香の手を引き、穂香が蓮を通して美紅を引っ張る、芋ずる式の登校。その間も同級生や手芸部の先輩、教師にまで会う度に、二度見されることに伶奈はむかついた……のを通り過ごして、疲れ切った。
「もう、髪形変えて三週間で、もう、本人も髪形を変えたことを忘れてたのに……」
 ポテッとテーブルの上に突っ伏し、泣き言を言う。
 その頭の上に何か重たい物……教科書は持ってきてないから、学校に置き去りになってる辞書か何かを積み上げているのだろう。辞めてもらいたいが、突っ込むことすらおっくうだ。
 その分厚い辞書越しに、穂香が伶奈の頭をぽんぽんと数回叩いて言った。
「まあ、その三週間の間、私たち四方会以外とは誰も会ってないんだから、しょうがないじゃん? そりゃ、みんなびっくりするよ。すだれ髪は伶奈チのトレードマークだったし」
 デコを冷たい机の上に押しつけながら、その声を聞くも、伶奈は返事はしない。
 代わりに返事をしたのは美紅だった。
「私も髪形変えるかなぁ……?」
 どさ……
「それ以上髪切ったら、なくなるよ?」
 ぱん!
「逆にエクステ付けるとか? 部活の時は外す感じ」
 ぽん!
「あっ、ヅラ良いよね、ヅラ」
 どす!
「ヅラって言われるのはなんかヤだ……」
 頭の上で美紅と穂香の声が行ったり来たり。
 それと同時になんか、気持ちいい音が聞こえてきたり、頭の上がどんどん重くなってきてるのは、多分、気のせいだろう、きっと……って、そんなわけはない。
「……重い……」
 思わず、つぶやき、身じろぎすれば、控えめで聞き取りづらい声がぼそぼそと言うのが聞こえた。
「…………にしちゃん、動いちゃ、メッ……」
「って、その声、南風野さんなの!? 私の頭の上に辞書詰んでるの!?」
「……扶桑型三番艦……」
 ぼそぼそと再び呟かれる声、そして、上がる――
「おぉ〜」
 ――と言う歓声が二つに、拍手の音。
「もう! いい加減にしてよ!」
 そして、突っ伏したままでキレる伶奈の声。
 それから数分後……
 教室に入ってきた瑠依子がぐるっと辺りを見渡して言った。
「……四方会じゃ、突っ伏した頭に辞書を載せるの、流行ってるの?」
 不思議そうな顔でそう言う瑠依子と机の上に突っ伏したまま数冊ずつの辞書を頭に載せてる四方会の三名、そして、伶奈は赤い顔でそっぽを向いていた。
 含み笑いの声が聞こえる教室、南向きの窓からは残暑の高い空が見えていた。
 二学期が、伶奈達の学校がまた始まる。
 

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