勉強会(完)

『私、全然、やってないよ?』
 そんなメールが届いたのは八月も残り一週間ちょっとって頃のことだった。
 送り主は四方会リーダー(自称)の東雲穂香ちゃん。
 前にも述べたことではあるが、読書感想文二作、図画工作一つ、自由研究一つ、そして『夏休み明けの学習到達度試験で六割を取ること』が英明学園における夏休みの宿題の全てだ。
 で、その最後の宿題『到達度試験で六割を取る』ことが出来なかった生徒は大量の宿題と課外授業で――
「二学期の放課後に自由はないと思え」
 ――と、担任桑原瑠依子が言うほどにひどい目に会うらしい。瑠依子は高等部時代に一回やらかしたことがあるそうで、今でも思い出すと胃がキューッと痛くなるって言うんだから、相当の物なのだと想像が付く。
 妙なところで極端なのは英明学園らしいところだと、伶奈は思う。
 そう言う奇妙なルールであるから、やっぱり、みんなは勉強しているのだろうか? と言う疑問を持つのは、人情と言う物だろう。ちなみに伶奈はこう言うのはやらないとなんか落ち着かないタチなので、過剰なほどにやっちゃうタイプである。
 で、気になったのでメールを送ってみた。
『みんな、勉強している?』
 と……
 そしたら、まずは蓮からは『やってない』との返事が来た。実際に彼女はやってないのだろうと思う。南風野蓮という友人は『やってるけど、保険や照れ隠しとしてやってないと主張する』と言う腹芸は出来ないというか、思いつきもしないタイプだと伶奈は思う。しかし、彼女は授業中に鉛筆と消しゴムだけで見事なスケッチを量産してても、定期試験で上位をうかがえる逸材だ。参考にはならない。
 続いて美紅からは『部活に出られなくなったら困るから、ソフトボール部みんなで部活終了後に勉強をしていた』との返事。その場には二年三年の先輩も出席してたので、傾向と対策も立てやすかったらしい。ちょっと、うらやましい。
 で、最後に帰ってきたのが穂香からの上記のようなお言葉から始まる返事だったのだ。
 そのメールにはまだ少しの続きがあった。
『どのくらいやってないかと言えば、読書感想文は本すら読んでないし、自由研究は題材も決まってない。図画の作品って、一学期に作った部活のパズルじゃダメかな?』
 と言う本文の後に、後に改行が十個ほど続いて、ひと言、こうあった。
『どうしよう!?』
 そのメールを自宅のベッドの上、パジャマでごろ寝をしつつ受け取った少女はひと言だけ呟いた。
「…………ダメだ、この人……」
「どうしたの?」
 そのそば、フローリングの上、ノーブラ、Tシャツに短パン一枚と言う素敵な姿で寝転がって、二時間サスペンスを見ていた母が尋ねる。
 その母を一瞥……いくら風呂上がりで後は寝るだけと言ってもこの格好はどうかと思う……が、母も疲れているのだろうから、言わないで居るのが出来た娘だとも思うことにする。
 そして、彼女はベッドの上で寝転がったまま答えた。
「……何でも無いよ……とりあえず、次の日曜日、東雲さんチに遊びに行くことになると、思う……」
 その手、見上げたスマホの画面には――
『どうしようもこうしようもないよ! 早く勉強しなよ!!』
 ――って言う美紅からの悲鳴にも似たメールが表示されていた。

 そんなこんなで八月最終日曜日、伶奈は蓮や美紅と一緒に穂香の家を尋ねることになった。
 ぴんぽ〜ん
 真っ青な空に浮かぶ入道雲とその空を真っ二つに切り裂く飛行機雲、あまりにも夏らしい空の下、門扉のチャイムを美紅が押した。
 待つことしばし……
 この家にはちょくちょく遊びに来るが、チャイムを押したのはこれが初めて。
 普段なら穂香がバス停まで迎えに来ているからだ。
 今日は迎えに来なくて良いから、家で勉強してて……と、命じてある。
「けど、やってない気がするわよねぇ……」
 頭の上でアルトがぱたぱたと投げ出した足を上下に動かしながら嘯く。
 その意見には他の三人も概ね同意。
『はーい、穂香のお友達? 開いてるから入って下さい』
 聞こえてきた老婦人の上品な声、おそらくは祖母だろう。
「おじゃまするわよ」
 と、最初に答えたのはアルト。
(言っても無駄じゃん……)
 そう思うが、様式美らしい。
 それに続いて、他の面々――伶奈と美紅、それからその二人に両側から支えられている蓮の三人が口々に挨拶をして、東雲家の門をくぐった。
「いらっしゃい。穂香、もう、勉強し始めてるみたいで……みなさんが来たら、上がって貰って……と、言ってますよ」
 出迎えたのは穂香の祖母と彼女の発する信じられない言葉。思わず四人がお互いの顔を見合わせれば、全員が真ん丸お目々を大きく見開き、心底驚いている様子が見て取れた……ってのもひどいと思うが、事実、信じられないんだから仕方がない。
「穂香ちゃんが勉強かぁ……信じられないよね?」
 トントンと十段ちょっとの階段をのんびり上がりながら、美紅が言えば、蓮がぼそっと呟いた。
「……明日は、台風……」
「明日、お母さんと一緒にイ○ンだから、雨が降ったら、ちょっと困る」
 蓮の言葉に伶奈は頬を緩め、穂香の部屋のドアノブに手を掛けた。
 カチャリと音を立てて開くドア。
 見えたのは、晴れ上がった真っ青な空と消え始めてる飛行機雲、降水確率ゼロパーセントの空模様と……
「スー……スー……」
 学習机の上、突っ伏して気持ちよさそうに寝ている穂香の姿だった。
「良かったわね、明日はきっと晴れよ」
 その衝撃の姿にコメントを付けることが出来たのは、頭の上でダレてた妖精さんだけだった。
 そして、数秒……
「せーの……」
 呟いたのは美紅。
「「「「起きろ!!!」」」」
 アルトをひっくるめた四人の怒鳴り声が穂香の部屋だけではなく、穂香の家中に響き渡った。
「……まあ……そうだと思ってたわ……」
 その声を階下では老婦人がせんべいをかじりながら聞いていた。

「いや、ちょっとはしてる! ちょっとはしてるよ!! ただ……ほら、某日テレのボランティア番組のマラソンを遅くまで見てたから……ツイ」
 たたき起こされた穂香があたふたと言い訳を並べ奉るも、学習机の周りに集まった友人が与えるのは冷たい視線のみ。
 その視線の鋭さに音を上げ少女は呟いた。
「……みんなの視線が痛い……」
「……まあ……ある意味、穂香ちゃんらしいなぁ……と安心してるところなんだけど……勉強しないと、がち、二学期、放課後がないよ?」
 半泣きの穂香にため息一つと共に格好を崩したら、美紅は苦笑いでそう言った。
 そして、場所を学習机のそばから、部屋の中心、ガラステーブルの傍へと場を移した。座る並びは、ベッドとテーブルの間、ベッドを背もたれ代わりに出来る好位置から右回りに東西南北、それからテーブル中央に妖精さん。最近はなんとなく、この並びで座るのが不文律になっていた。
 伶奈は穂香と蓮の隣、美紅の向かいに腰を下ろすと、持参していたトートバッグから数冊の問題集を取りだし、テーブルに置いた。
「これ……灯センセが夏休み用にってくれた奴……」
 その中の一冊、最初に手に取ったのは美紅だった。
「へぇ……あっ、結構、難しい……――うへ、なんか、変な落書きがあった……」
「あっ、ごめん……それ、灯センセのお兄さんが使ってた奴だから……時々、ページの隅に落書きがあったりするの……消しておいて」
 ぽんと伶奈が自身のペンケースから消しゴムを一つ、美紅の前へと投げる。
「もう……気持ち悪いなぁ……」
 ぶつくさと文句を言いながら、美紅がひょいと消しゴムをつまみ上げる――
「見せて!」
 ――よりも先に穂香が美紅の持っていた問題集を取り上げた。
 ぱかっと開かれる問題集、そこに蓮も覗き込めば、二人揃って「おぉ〜」と小さく感嘆の声を上げた。
「これはエロい……」
「………………エロい」
「もう! まじまじ見ないで!」
 二人の手元からブンッ! と問題集を奪い取ったら、伶奈は親の敵のごとくにごしごし……消しゴムを使って真っ裸のお嬢さんを無き者にする。
 奇麗に消えたら一安心。
 ホッと吐息を漏らす伶奈に穂香がぽつり。
「残念……って、睨まないでよ〜冗談だから……」
「……睨んでないもん……」
 プイッとそっぽを向いて、伶奈は問題集を開く。
 先ほど、消しゴムをかけた数学の奴。難しめの奴ではあるが、夏休み中もがんばってるおかげで決して解らない問題ばかりというわけではない……はずなのだが、顔が妙に熱くて、シャーペンの進みは余り良くない。
 その伶奈を置き去りに、問題集は開けど、ノートは閉じたままの穂香が口を開いた。
「絵と言えば……みんな、美術の奴、やった? 水彩画一枚って奴」
「……穂香ちゃん、勉強……って、私は一応書いたよ、庭のひまわりだけど……」
 答えたのは、一応問題集もノートも開いてる美紅だ
「ああ……庭の花かぁ……それも良いなぁ……」
「花、咲いてるの?」
「裏庭におばあちゃんが……今、芙蓉が咲いたって喜んでたよ」
 問題集と大学ノートへと視線を落とした頭の上で穂香と美紅の声が行ったり来たり。
「伶奈チや蓮チは?」
「私は……海に行ったときに磯の絵、描いたよ」
「磯かぁ……風景画も良いかなぁ……」
「だから、全面青く塗って、真ん中に白い線を引っ張って、『水平線』で良いじゃない? 五分で終わるわよ」
 と、伶奈と穂香の会話にアルトが茶々を入れる。
「……――ってアルトが言ってるけど、やらないでよね……友達として恥ずかしい……」
 そして、その“茶々”の内容を教えれば、穂香は顔を輝かせ、叫んだ。
「それだ!!!」
「……止めてって言ってるじゃん……」
「美術の宿題はそれで終わりとして……」
「……人の話、聞いてよ……」
「……伶奈ちゃん……もう、ほっとこう……長瀬先生に怒られるのは穂香ちゃんなんだし……」
 対面に座った美紅がテーブルの上に身を乗り出し、がっくりとうなだれる伶奈の肩をぽんぽんと数回叩く。その表情はもはやあきらめの境地と言ったところ。
「……くれぐれも私がやれって言ったとか、言わないでよ……」
「ちゃんと、伶奈チのアイデアだって、言うから! 原案協力西部伶奈だよ!」
 楽しそうな表情で嘯く穂香に、思わず伶奈の腰が浮かぶ。
「人の話聞いてよ! 後、原案はアルトだし! 大本は美月お姉ちゃんのところのおじさんだし!!」
 激高気味の大声を一身に受けつつも、穂香はにこりと笑って答えるだけ。
「伶奈チ、突っ込みの声は控えめに、だよ?」
 穂香の嬉しそうな顔をジト目で凝視。その冷たい視線に怖じる事無く、穂香は伶奈の顔を見つめ返す。
 その表情は妙に嬉しそうな笑顔だった。
 見つめ合う時間がしばし……
 伶奈から視線を切ったら、彼女はぺたんと床の上に腰を下ろした。
 そして、疲れ切った表情を対面の美紅へと向けて言う。
「……北原さん……あれ、むかつくね?」
「……解ってくれた?」
 と、そんなアホな話をしている三人と妖精を置き去りに、一人、南風野蓮は彼女自身が背負ってきていた少し大きめのナップザックから文庫本の束をどさっと取り出していた。
「それ、なに?」
 最初に気づいたのは、一番勉強をしなきゃいけないはずの穂香だ。
「めざとい……」
 テーブルの上でアルトが呆れている。
「…………蓮、読書感想文、まだだから……」
 そう言って蓮はぺらぺらと文庫本のページを捲り始めた。
 その背表紙には、『スレイ○ーズ』のタイトル……全十五巻と外伝が二十冊ほど……道理で大きなナップザックを重たそうに背負ってると思った。
「全部、読む気なのかな?」
 テーブルの片隅、積み上げられた文庫本のタワーを一瞥し、思わず、伶奈が呟く。
「とりあえず、読書感想文のためって……言うよりも、単に読みたいだけだよね、あれ」
 答えたのは美紅だ。
 そして、穂香がぐいーーっと体を逸らす。ポテッと首だけがベッドの上に乗っかり、天井を見上げて、彼女は言う。
「ああ……読書感想文も書かなきゃなぁ……読むの、めんどくさぁい」
「それもいい手があるわよ。芥川竜之介とかの短編を読んで書けば良いのよ。読むのはあっと言う間よ。感想文を上手に書けるかどうかは別問題だけど」
 テーブルの上でアルトがそう言えば、伶奈は指先で彼女のおでこをペチンと軽く弾いて応える。
「また、くだらない事、言ってる……」
「何? また、アルトちゃんが裏技を教えてくれるの?」
 穂香が体を起こし、伶奈へと視線を向けた。
 大きな二重がきらきらと無垢な輝きを放っている。
 その顔を見つめつつ、伶奈は、穂香が実際に芥川竜之介の作品で読書感想文を出したときのことを考えてみた。
(別に問題ないよね……)
 選んだ理由は“アレ“だが芥川竜之介は教科書にも載ってる文豪だし、何ら問題はない……と思うが、アルトの話を聞いた後には自分じゃ選べないな……とも思う。
「どうしたの? 黙り込んで……」
「……芥川竜之介は短編が多いから、それを読めって……」
 小首を傾げる穂香にやおら答えれば、彼女はぶんぶんと首を左右に振って言った。
「芥川ぁ……? なんか、難しそう、パスパス」
「良いから、勉強して……本当に放課後なくなるよ? ハマ屋でたこ判も食べられなくなるよ?」
「あっ、それは困る」
 投げやりに応えた穂香に美紅がぴしゃりと言えば、やおら穂香もノートを開いた。
 それを確認した後に、伶奈と美紅も勉強を始めれば、ようやく、部屋の中に沈黙が訪れた。
 聞こえるのはシャーペンがノートの上を走る音と問題集がめくれる音、それから壁掛けのエアコンが心地よい冷風を吐き出す音……
 と、
「ぷっ……」
 蓮が吹き出す声……
「伶奈チ……ここ、解る?」
「ここは……えっと……解るけど……ああ、なんか、説明できないかも……アルト?」
「だから、二乗も割り算も結局はかけ算と同じだから、この式は全体として、マイナスにマイナスを三回かけてるの、解る?」
「……――って……言って……ああ、うんうん、だから、マイナスにマイナスを三回かけてるから、全体としてはプラスで……」
 と、穂香と伶奈とついでにアルトが勉強の話をしてても――
「……ぷっ……」
 蓮の吹き出す声がかすかに聞こえていた。
「Youの複数形って……あったっけ?」
 次に尋ねたのは英語の問題集をしていた美紅、答えたのは文系は得意な伶奈だ。
「……ないよ」
 短く答えたら美紅は「ありがとう」と礼を言って、再び、シャーペンをノートの上に走らせ始める。
 そして、またも聞こえる――
「……あはは……」
 蓮の笑い声……
「…………」
 穂香の手が止まった。
「…………」
 美紅の顔が上がった。
「…………」
 伶奈が美紅と穂香の顔を順番に眺めた。
「……我慢しないで休憩したら?」
 そして、部外者のアルトが言った。
 またもや沈黙が流れる。
 聞こえるのは、壁掛けのエアコンが心地よい冷風を吐き出す音と……
 と、
「ぷっ……」
 蓮が吹き出す声……
 さらに数秒が経ったら……――
 そこに文庫本を捲る三つの音が混じり始め、時折、吹き出す声が声もが聞こえるようになった。
 そして……

「あなたたち、何してるの!? 勉強は!?」
 仕事から帰ってきた穂香の母親が悲鳴にも似た怒鳴り声を上げるまで、彼女たちは延々スレイヤーズを読みふけることになった。
 それは夕方七時ちょっと前の事……こうして、結局、勉強は全く進むことなく、八月最終日曜日が終わった。

 なお、穂香は本当に真っ青に塗って白線を一本、真ん中くらいに引っ張っただけの画用紙に『水平線』ってタイトルをつけて提出した。
 そして、「二学期の美術に1を付けられるか、もう一枚描いてくるか、好きな方を選びなさい」と美術の長瀬教諭(女性四十歳)に言われて、結局、まともな絵をもう一枚提出する羽目になった。
 題材は庭に咲いてる芙蓉の花、『一時間で書き上げた』と自慢していたが、これがどうして、伶奈の描いた「味のある(長瀬教諭談)」『磯の家族』よりもよっぽど上手な代物。最初から素直にこれを描いてりゃ良かったのに……と思うが、まあ、その辺ひっくるめて穂香らしいと言える。
 また、穂香の学習到達度試験の結果はぎりぎりのところ、本当にぎりぎり、勘で選んだ英語の選択問題が外れてたらダメだったくらいのぎりぎりで六割をクリアーしたそうだ。
 それはもう少し先のお話……夏休みが終わってからのこと……
 

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