前髪(2)

 話はずーーーーーーーーーーーーーーーーーっと戻って、伶奈が海から帰ってきた数日後。場所は英明学園すぐ近くの一軒家。スーツを身にまとった女性が玄関から出てきて、顔だけをドアの内側に突っ込んで声を上げていた。
「それじゃ、お母さん、仕事に行くわね。今日はおばあちゃんもお友達とお出かけだから、お昼は戸棚にある千円札で何か食べて。間違ってもハマ屋さんでたこ判三つとかしちゃ駄目よ? ホカ弁かコンビニでお弁当を買うか、ファミレスに行きなさい、サラダも付けてね。良いわね?」
「はぁい」
 と、母が出て行くのをこの家の一人娘がパジャマ姿で見送ったのが朝の八時ちょっと前。それから四時間後、少女、四方会リーダー(自称)東雲穂香は――
「おばちゃーん、プレーンと餅チータマ、それにチョコカスタード判! 甘いのは後で良いから!」
 悪びれもせずに英明学園校門から歩いて一分、自宅から歩いて四分のハマ屋でたこ判を注文していた。
 普段の放課後ならば焼き上がったたこ判が、いくつか鉄板の上で温められてお買い上げの時を待っているのだが、今日は夏休み。鉄板に火こそ入ってはいるが、そこに焼かれているたこ判は皆無。注文を受けてからの調理な物だから……
「十五分くらい待ってねぇ〜」
 と、奥にある鉄板の前で声を張り上げてるおばちゃんの言うとおり、しばらくの待ち時間が必要だ。
 もっとも、幼い頃から近所で暮らしている穂香のこと、そんなことは先刻承知。
「うん! そん代わり、美味しいのにしてね!」
「いつも美味しいよ」
「知ってる!」
 古びた店の奥と入り口、自販機横のベンチ。ちょっぴり離れ、顔もあわさずに言葉のキャッチボール。ジューッと鉄板の上で生地の焼ける音が聞こえ始めたら、穂香は視線を目の前、高い、高い、真っ青な空へと向けた。
 巨大な入道雲が母校の上ににょっきり……座っているだけでじっとりと汗が滲み出て、長袖、手首にまで伸びたブラウスの袖で細い顎へと流れる玉のような汗をそっと拭う。
「今日も暑いなぁ……」
「暑いさなかに熱々のたこ判を食いに来るのもどーかと思うけどねぇ〜おばちゃん、東雲は何頼んだ? ……――じゃあ、私は餅チータマと牛すじ! 東雲の餅チータマ、こっちに回して!」
 威勢の良い声に顔を上げる。そこには、ショートヘアに不敵な笑顔、クソ暑いのにダークブルーのスーツをピッと着こなす恩師――桑島瑠依子が居た。
「……先生、生徒の上前をはねるのは止めようよ……」
「順番がテレコになるだけよ」
「てれこ?」
「入れ替わるとか……そう言う意味、通じない?」
「初耳……かな? たぶん」
「まあ、気にしないで」
 ひょうひょうした口調と身の熟しで瑠依子は穂香の隣にストンと腰を下ろした。
 その教師が隣に座るのを目で追いながら、穂香は尋ねた。
「先生、仕事中?」
「そっ。仕事中。夏休みだーで休めるのは生徒だけで教師は夏休み中も忙しいんだよ? 学食やってないから、お昼どうしようかなぁ〜って思ってたら、東雲がぼーっとここに座ってから、上前はねに来た訳よ」
 ぽんぽーんと一息に言い切ったら、彼女はパチンと大きな目をウィンクさせて見せた。
 そのいたずらっ子のような表情は教師と言うよりも少し年上の友達のよう。学生時代、瑠璃姫時代のくだらなくも楽しそうな逸話もひっくるめて、学年どころか中等部高等部の別なく人気があるのも頷ける。
 その担任教師が穂香の方へと視線を向けて問いかけた。
「他のメンツは?」
「四方会の? みくみくはソフトボール部で走り回ってるのをちょくちょく見るよ。伶奈ちはアルトの人と海に行って帰ってきたってメールがあったよ。蓮ちは夏ばてで死んでるって、昨日、こっちもメール貰った」
「南風野は体力ないよねぇ……体育の城島先生が呆れてたなぁ……」
「心臓を動かす体力すらなくなるって、昨日、メールに書いてあったよ」
「……どう言う生き物よ……」
 と、話をしているところに
『You’ve got mail!!』
 澄んだ女性の声が瑠依子の豊かな胸の辺りから聞こえた。
「メール? 誰から? 彼氏?」
「二年前に、ひっぱたいて別れて以来、ずっと男は居ないんだなぁ〜これが……っと、あっ、西部だ」
 取り出される薄いスマートフォン、真っ白いボディが奇麗。その表面を瑠依子が弄ると、その手元を覗き込みながら、穂香が言った。
「……さらっとひっぱたいたって言うのは格好いいと思う……って、伶奈ち? 何々?」
 瑠依子は体ごと明後日の方向を向き、その手元を穂香から隠す。
「覗くな……大事な相談事とかだったらどうするのよ……」
「そんなことを先生にだけ教えて、私たちに教えなかったら、そりゃもう、四方会人民裁判だよ? 相談してくれるまで、ねちねち言うよ?」
「やーめーろー、そう言う大きなお世話は、傷口を広げる事だってあるんだから……っと、たいした話じゃないな、夏休み中にアルトで店番したいって……勝手にすりゃ良いだろうに……根がまじめなんだから……」
 と、瑠依子がぼそっと呟いた背後で、穂香が
 ぱん!
 柏手を打った音が真っ青に晴れ上がった空へと消えていき、それと同時に……
「あっ……しまった……」
 と言う瑠依子のつぶやきは店の奥から聞こえるたこ判焼きが焼ける音にかき消されていった。
 なお、穂香の昼食はしっかりと母の耳に届き、大目玉を食らったことは完全なる余談である。

 窓際隅っこ、いつもの席。本来は二人がけの席なのだが、そこに椅子を二つ追加し、三人の友人と一人の恩師を押し込む。それで席は一杯一杯。伶奈の座るところは見当たらないから、とりあえず、立っておく。
 そんな押し合い圧し合いの空間で瑠依子は説明を終えると、伶奈が持って来たお冷やに口を付けて言った。
「――と、言う感じでばれちゃったわけで、若干、悪いとは感じている。すまん、西部」
「でも、今日来れて良かったよ〜伶奈チの新しい髪形も見れたしさ」
 ぺこっと頭を下げる瑠依子とお気楽な表情で言ってる穂香に対して、伶奈はため息一つ。
「……良いよ、別に……もう……この週末に会ったら言うつもりだったし……私、仕事、まだあるから……」
 ひとしきり話は聞いたし、話題がまた前髪の話に及びそうな雰囲気にもなってきたしって所で、とっととこの場を逃げ出そうと伶奈はくるんと友人達に背を向けた。
 なお、この瞬間、伶奈は
(あれ……格好いいかも? 出来る女みたい……)
 と、中一のくせに中二な事を考えていた。
 そして、意気揚々と仕事へ戻ろうとした伶奈へとかけられる明るいの声。
「あっ、伶奈ちゃん、遅くなってごめん。帰ってきたら、もう、上がって良いよ」
 その声に、顔を上げたら、そこには凪歩がいた。
「……間が良いわねぇ……」
 頭の上でアルトが楽しそうに言った。
「お疲れ様! 伶奈チ!」
 穂香が楽しそうに言った。
「お疲れ、西部」
 瑠依子も後に続いた。
「お姉さん……私、カツサンド……」
 なぜか、お昼の注文したのが蓮で
「……いや、蓮ちゃん、そこは伶奈ちゃんをねぎらってあげようよ……あっ、伶奈ちゃん、お疲れ」
 それに突っ込みを入れたのは美紅だった。
 そして、突っ込まれながらも、なぜか顔の横にピースサインを二つ作ってる蓮を見て、伶奈はもう、何もかもがどうでも良い気分になった。
「……とりあえず、着替えてくる……」
「「「はーい」」」
 気持ちいい友人三名――蓮も声を上げてたことに伶奈はちょっと驚いたってのはちょっとした余談――の声に見送られて、伶奈は二階にある自身の別宅へと足を向けた。
「相変わらず、面白い友達ねぇ……」
「……この週末に会う約束なんだから、わざわざ、来なくても良いのに……」
 頭の上でおもしろがってる妖精を尻目に、伶奈はぶつくさ言いながら、大きなタンスの中から着替えの服を取りだした。半袖のブラウスにオーバーオール、割といつもの格好。
 その取り出した着替えをベッドの上にぽんぽんと投げ捨てたら、伶奈は身につけていたアルトの制服をぱっぱっと脱ぎ始めた。
 ベッドの上、用意された私服の隣に脱いだばかりの制服が放り投げ出される。
 そして、少女の唇が小さく動き始めた。
「♪ふら〜い、みー、とー、ざ、むーん♪ あんど、れっとみー、ぷれー、あもんぐ、ざ、すた〜♪」
 控えめなボリューム、小さな唇が小さな声でジャズのオールドナンバーを紡ぎ始める。
 ちなみに歌詞の意味はよく解らないし、タイトルすら知らない。アルトがちょくちょく歌ってるから覚えちゃっただけである。門前の小僧って奴だ。
 と、気持ちよく歌いながら着替えていたら、頭の上でぼそっとアルトが言った。
「どー聞いてもひらがなで歌ってるのは良いとして……貴女、それ、機嫌の良いときに出てくるって、自分で気づいてた?」
 ボタンを留める手と唇の動きが止まった。
「……ひらがなの国の人だから良いの」
 呟くように答えて伶奈はブラウスのボタン、残っていた下三つを手早く止める。
 そして、ズボンをはこうとする頭の上で、また、妖精が嘯いた。
「まあ、前半はそれで良いとして、後半は?」
「……今、機嫌が悪くなった。良いじゃんか……友達が来てくれて、嬉しくなったって!」
「悪いとは言ってないわよ。さっき、ぶつぶつ言ってた癖に、と思っただけ」
「……嫌味妖精」
「自覚はあるわ」
 くだらない話はこれで終わり。ふんっ! と吐き捨てるように言ったら、最後に残っていたヘアピン二本を外して、部屋の片隅、古びた学習机の引き出しに片付け混んで、お着替え終了。
 鏡の中をちらっと覗き込み、前髪が下りてるのを確認したら、部屋を出て……そして、引き返す。
 忘れ物。
 その『忘れ物』を机の引き出しから回収したら、再び、部屋を飛び出し、トントンと急ぎ足で階段を駆け下りた。
 お昼時間を少し過ぎたフロアは客もまばら。窓際隅っこいつもの席に押し込んだ友人達とカウンターに移動している恩師、そのほかには女子大生が一人、遅めの昼食を食べているくらいだった。
「お昼、まかないのパスタで良い? って美月さんが聞いてたよ」
 尋ねた凪歩に「うん」と答えて友人達が待つ窓際隅っこいつもの席へ……
「あれ? 髪の毛、下ろしちゃったの?」
 帰ってきた伶奈に最初の一声をかけたのは、物怖じしない女として伶奈が認識している東雲穂香だ。
「でこっぱちでヤだって……前から言ってるじゃんかぁ……それより、これ、お土産……」
 小さめの声ではあるがはっきりと言い切り、伶奈は先ほど部屋に取りに帰った『忘れ物』をテーブルの上に置いた。
 小さな買い物袋……
「何々?」
 言うが早いか……穂香は買い物袋を手にして中の物をざらっとテーブルの上へと、ひっくり返せば、出てきたのは小さく小分けされた四つの袋。
「お土産屋さんで売ってたイルカのストラップ……一応、おそろい、四つ……」
 青いガラスで出来たイルカのストラップだ。何を買って良いのか良くわかなかったので、とりあえず、これ……といった感じなのが自分で見ても解るほどににじみ出していた。
 が、受け取った三人の反応はなかなか良好。
 それぞれが伶奈に礼を述べると、早速、それぞれの携帯に付けていた。もっとも、蓮だけは携帯を持っていないし、所有しているタブレットPCにもストラップが付くようにはなってなかったので、代わりに家の鍵に着けてキーホルダーの代わりにすることにした。
「……ごめん、知らなくて……」
「ううん……ありがと、にしちゃん。嬉しい……」
 そう言って蓮は整った顔をにこっと破顔させたのをきっかけに、再び、他の二人も口々にお礼の言葉。三人共に褒めて貰うとやっぱり嬉しい、買ってきた甲斐があるというもの。
 それぞれがそれぞれの持ち物にイルカの青いストラップを着け終わる頃、伶奈達のテーブルにお昼が四人分、運ばれてくる。
 蓮が一足先に頼んだカツサンドを筆頭に、穂香はボンゴレ、美紅はミックスピザで、伶奈のまかないナポリタンはそれから数分遅れ。
 食事の話題はやっぱり、伶奈の海の思い出。アルトの女性陣のスタイルが皆奇麗だったとか、海も奇麗だったとか、シュノーケリングが楽しかったからまたしたいとか……三馬鹿達の話は……ちょっぴり控えめ。男性が居たって話をするのは少しと言わずに恥ずかしい。
「ふぅ……ごちそうさま。美味しかったぁ〜」
 最初に食べ終えたのは食べるのが早いと定評のある穂香だ。彼女が終わらせると、他の面々もそれぞれに食事を終わらせ、最後に残ったのが食事が最後に届けられた伶奈。
「ごちそうさま……」
 普段なら自分で下ろさなきゃいけない食器も、今日は一緒に食べた三人の分共々、凪歩が下ろしてくれて、楽が出来たような、申し訳ないような、ちょっぴり複雑な気分。
 テーブルの上に残っているのは美月が煎れてくれたアイスココアが四つとお皿にてんこ盛りにされたパン耳スティック。
 そこで興ぜられる話題は――
「では、食事も終わって落ち着いたところで、伶奈ちの髪形について、四方会会議を持ちたいと思います」
 芝居がかった恭しい態度で穂香が言えば、次の瞬間、伶奈は叫んでいた。
「何でだよ!!??」
「だって、伶奈チ、上げてる方が絶対可愛いし、友達は可愛い方が嬉しいじゃん」
 穂香がそう言えば、他の二人、美紅と蓮はコクコクと何度も深く頷くのだった。

 そして、手元、ココアにストローを突っ込んで飲んでいた妖精がしれっとした顔で言う。
「悪気があって言われるのと、悪気なく言われるのと、良かれと思って言われるの、どれが一番良い?」
 それを少女に決めることは出来なかった。

 雨はますます強くなって、話をしてても雨音が耳につくくらいになっていたのだが、少女にはそれを意識する余裕すらなくなっていた。

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