前髪(1)

 伶奈のアルバイトが始まって五日が過ぎた金曜日……
 明日からの週末、地元に帰る用事があるとか言って貴美は来てないし、凪歩は相変わらず自動車学校。久しぶりに頭の上にアルトを乗せてのお仕事中。気楽と言えば気楽な一日。
 この五日間という物、会う人会う人、皆に『前の髪形よりも可愛い』と言われ続けた。
 まあ、可愛いと言われて嬉しくない女は居ないだろう。
 でも、自分としては前の方が良いと、未だに思っているのだから、なんだか、微妙な気分になるのはしょうがないことだ。
 それが特に――
「おっ? デコ出し始めたか? そっちの方が似合ってるぜ、でこジャリ」
 犬猿の仲を自認しているお隣さん、ジェリド・マサこと勝岡悠介ならば怒りもひとしお。
 そこが喫茶アルトの玄関先であることも忘れて、洗いざらしの作業着姿の悠介に向き直ったかと思うと、お腹の底からひと言叫ぶ。
「死ね!」
 その叫びに空気を読んだアルトがトーンと飛び上がり、ドアの隙間から流れ込んでくる湿気と雨の予感を含んだ風に乗って、宙を舞う。
 狙い違わず、悠介の頭にトンと着地を決めたら、彼女は仁王立ちになってストローを振り上げる。
「貴方に恨みはないけど、これも渡世の義理よ、死になさい」
 大仰な口上を述べたら、先ほどの叫び声に思わず身構えた青年の頭めがけてストローを振り下ろす!
「ぎゃー! てめえ! クソジャリ! クソ妖精!」
 叫ぶ青年の頭に見事にストローが自立していて、その刺さったところから額にかけてつーっと一筋の血が流れる。
 その間抜けな姿を見ながら、少女はさらに大きな声で叫んだ。
「なんだよ!? バカジェリド!」
 そして、始まる低レベルな口論……と言う自覚は概ねいつも終わってから自覚することだが、この時点では思い至らないってのは、余談である。
「似合ってるって言ってやっただけだろう!? 素直に喜べ! クソジャリ!!」
「ジェリドに似合ってるって言われたくないもん!」
「じゃあ、似合わねえって言ってやんよ! デコが輝いてまぶしいんだよ! 植毛してこい! でこっパチ!」
「言ったなぁ!!!??? バカ! バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ、バカジェリド!!」
「…………」
 少女が無呼吸でバカを連呼すれば、青年は反論をぴたりと止めた。
 つーっと額へと流れ落ちる一筋の血、それを青年は指先で拭う。
「はぁ……はぁ……」
 少女の息が切れる。
 もはや、限界である。
 そして、まっ赤になった少女の顔を見下ろしながら、青年は静かな声で言った。
「……お前、ボキャブラリー、ねーな……本読め、本」
「……急に素に戻らないでよ……もう、良いよ……ガラガラだから、適当なところに座ってよ……後で、お水持っていくから……」
「おう」
 胸を張ってガラガラのフロアへと向かう青年をがっくりとうなだれて見送る。負けた気分で一杯。
 むしゃくしゃした気分でキッチンへと向かう伶奈の頭にアルトがトンと着地、天地逆さまで伶奈の顔を覗き込む。大きな瞳が楽しそうにくりくりと動く。
 そして、彼女は楽しそうな口調で言う。
「まじめに対応するからよ、相手はからかってるんだから、流しなさいよ」
「……悪気があるってことじゃん……余計に腹が立つ……」
「バカねぇ〜悪気がない方がもっと腹が立つ物よ」
「そうなの?」
「そうよ」
 話をしつつ、キッチンへ……グラスによく冷えたお冷やを注いだら、伶奈には少し大きなトレイにちょこんと乗せて、よたよたとフロアへと戻る。
 そして、青年の前に水を置き、注文を取る。
「Aモーニング、アイスコーヒー」
 ちなみにAモーニングはモーニングの中で一番安い奴である。
「はーい」
 投げやりに返事をしたら、それをキッチンで調理している美月やカウンターの中でコーヒーを用意している和明に伝える。
 そして、待つことしばし……
 料理とコーヒーが完成したら、それを伶奈には少々大きなトレイに乗せて、やっぱり、よたよたと犬猿の仲のお隣さんの元へと運んでいく。
「私ってけなげ……」
「自分で言わない」
 伶奈のつぶやきにアルトの突っ込み。
 そのつぶやきと突っ込みが夏の静かなフロアに消える頃には、よたよたと歩くペンギンさんもお隣さんの所にたどり着いて一安心。
 山側の窓際、中央から少し前寄り。緑の山がすぐ近くに見えて、割と良い席。
 その席に座って、青年は頬杖をついて外を眺めていた。
 青年が眺める大きな窓には大粒の雨粒がぽつりぽつり……朝から曇ってはいたが、どうやら、降り出したらしい。
 その窓辺の席に、伶奈はモーニングのプレートを並べる。
「おっ、さんきゅー」
 視線だけを伶奈に向けて、青年は礼を言うと、早速、分厚いトーストをちぎって口に運び始めた。
 さっきのお礼に何かひと言言ってやろうか……とも思ったのだが……
 から〜ん
 いつものドアベルが渇いた音で伶奈を呼んだ。
「あっ……」
 振り向き、呟けば、その後ろ頭に青年の声。
「ミスんなよ」
「うるさい!」
 一声ずつ掛け合って、ぱたぱたと伶奈は駆け出し、玄関へ……
 そこに立っていたのは、先日まで一緒に海に行っていた青年、浅間良夜だ。
 雨傘は持って来ていなかったのだろうか? 急に降り始めた雨に青年の少し伸びた髪もポロシャツから伸びる二の腕も少し濡れていた。
「あっ……良夜くん……おはよう」
「あら、良夜、おはよう。珍しいわね? モーニングを食べに来るなんて」
 伶奈とアルトがほぼ同時にそう言うと、青年は腕に付いた雨粒を拭う手を止め、まじまじと少女の顔を見つめる。
 数秒が、すぎた。
「…………ああ、伶奈ちゃんか……」
「えっ?」
「誰かと思った……」
 青年がぽつりと漏らした言葉に少女の肩がビクン! と震えた。
「ほらね……悪気のない方が腹が立つでしょ?」
 そして、頭の上でアルトがため息を吐いた。
 眉と眉との間に縦線が刻まれている事を少女は自覚した。
「あっ、いや、ごめん! そー言う意味じゃなくてさ」
「そー言う意味もどー言う意味も、すだれ髪の女の子で認識してたから、髪形が違ったら誰だか解んなくなっただけでしょ?」
 頭の上でアルトが余計な説明をした。
 青年がそっぽを向いた。
 伶奈の額の縦線がますます深くなった……と、伶奈自身は思う。
 外から聞こえる雨の音が強くなった、ような気がする。
 それから、さらに数秒の時が無情に過ぎる。
 そして、青年は慌てて少女へと向き直り、早口気味にまくし立てた。
「あっ、いや、ごめんね? ホント、よく似合ってるよ、その髪形、見違えるくらい可愛くてさ」
「そして、言えば言うほど墓穴が深くなるのよね……」
「えっ? なに? 褒めちゃ駄目な流れなのか!?」
「それをわざわざ、私に聞く辺りが貴方の一番駄目な所よ」
 頭の上で行き交う会話にがっくりと肩を落とし、そして、少女は呟くように言った。
「……もう、良いよ……ガラガラだから、適当なところに座ってよ……後で、お水持っていくから……」
 先ほどお隣さんに言ったこととほぼ同じ事を青年に言う。その言葉に青年は少々バツが悪そうではあるが、その場を離れ、フロアの一画、普段なら伶奈が指定席にしている所へと小走りに駆けていった。
 その背を見送る。
 窓ガラスを叩く雨粒がますます増え始め、国道を行く車のタイヤが水を弾く音も聞こえ始めた。
 天気予報は昼から雨と言っていたのだが、どうやら少し早くなったみたい。
 伶奈は雨が嫌いだ。
 が、
「……なんかもう、疲れた……」
 そんなことを考える気力すら、今の彼女には残っていなかった。
 がっくりと肩を落として、少女はとぼとぼとキッチンへと向かう。
 そして、グラスによく冷えたお冷やを注いだら、伶奈には少し大きなトレイにちょこんと乗せて、よたよたとフロアへと戻る……――その前に、ランチの下ごしらえをしている黒髪のお姉さんの元に行って、彼女は尋ねた。
「……ねえ、何が良くて付き合ってるの?」
 その質問に美月は
「えっと……あのぉ……何ででしょうねぇ……?」
 苦笑いというのか、なんというか……何とも言えない微妙な笑いを浮かべて、そう答えるのだった。

「ありがとうございました〜」
「またね、伶奈ちゃん、ごちそうさま」
 悠介とは逆方向のお隣さん、アマナツこと天城夏瑞をレジから送り出したら、伶奈はホッとため息を一つ吐いた。
「ふぅ……疲れた……」
 あれから何人かの客を迎え入れ、それと同数プラス二名の客を見送ったらフロアの中は奇麗に空っぽ。
「あの程度で疲れたとか言わない」
 頭の上から聞こえる声は軽く無視して、視線を左手首、腕時計へと落とす。
 シルバーの金属ベルト、文字盤の周りをぐるっと囲むように薄ピンクの縁取りがアクセントを付けるちょっと可愛い腕時計は先日買った物。その白い文字盤に浮かぶやっぱり薄ピンクの数字と針を見やり、伶奈は呟く。
「……そろそろ、帰ってくる頃かな?」
「かしらねぇ……?」
 アルトのつぶやきを受けて、視線を窓の外へ……
 雨はますます強くなってきて、国道の向こう岸、小高い山の向こう側でピカッ! と雷が光るのが見えた。
 ごろごろ……
 雷鳴は数秒の後に来た。
 結構、近いみたいだ。
 強い雨、轍<わだち>にたまる雨水、それを遠慮なくはね飛ばしていく車達……その中に自動車学校のマイクロバスはまだ見えない。
「あれ……?」
 その代わり……と言うわけでもないが、一台の軽自動車が上り坂をすーっと上がりきり、喫茶アルトの駐車場へと滑り込んだ。
 空色の丸っこい軽自動車、ダイハツのミラだとか言ってただろうか?
 車に余り興味がないのに、車種まで知っているのは、その車が彼女の担任桑島瑠依子の愛車だから。夏休み直前に父親のお古のセダンから乗り換えたとか、なぜか、朝のホームルームで自慢していた。
「桑島先生……モーニング、食べにくるって言ってたのにね」
「朝食べずにこっちまで来るのも面倒くさいわよ……実際」
「ああ……それもそう……だ――ふわっ!?」
 少女が素っ頓狂な声を上げさせたのは、駐車場に滑り込んだ車から、下りてきた面々……そう、面々である。
 運転席から下りてきたのはもちろん、ダークブルーのスーツを着込んだ瑠依子、伶奈の教師。これは運転手だから当たり前。そして、そこ以外のドアから一斉に下りてきたのは、七分丈のズボンに半袖トレーナーの東雲穂香、フリルのスカートが可愛い南風野蓮、そして、なぜか制服姿の北原美紅、四方会の三名だ。
 その三名がガラス越し、レジの前で呆然としている伶奈の顔を見つければ、雨に濡れることもいとわず、ぶんぶんとそれぞれの手が振りちぎれんばかりに振り回す。
 そして、少女は天を仰ぎ見た。
「どうしたの?」
 妖精が尋ねる。
 視野がぐるんと動いて、天井から床へ……つま先、仕事中専用の革靴が見えた。
「……教えてなかったから、たぶん、四方会裁判……」
「なんで、教えてないのよ……」
「てか、なんで、先生、教えてるんだよ……」
 と、伶奈が頭を抱えてるところ、入ってきた少女達は開口一番言うのだった。

「わぁ! その髪形、可愛い! 似合ってる!!!」

 と……

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