夏のフロア(完)

 さて、貴美が伶奈を呼びつけたのは、髪形を変えろってだけの話でもなかった。
「後、頭の上に乗せてるあるちゃんも下ろして」
 これも言いたかったというか、これが本命だったらしい。
「えっ? でも……」
「解んないことがあれば、私のとこに聞きに来りゃ良いし、注文はメモを取りぃ。いつまでも手足代わりやってりゃ良いってもんじゃないっしょ」
 と、いきなり言われた。
 言いたいことはいろいろあるが、下手に言うとまたすごまれるのがオチなので、とりあえずは言わない。それに……
「あかりんは伶奈ちゃんは優秀で物覚えが良いって言ってたけど、勘違い? それとも、ジェリドが言ってたジャリはお子様だから難しいことなんて出来ないってのが正解なん?」
 整った顔をヘラッとした笑みに変えた貴美に言われて、素直に出来ません、と言えるだろうか? 少なくとも伶奈には言えなかった。
(次、ジェリドに会ったら、アルトに刺して貰おう……)
 開いた前髪の間、むき出しになったおでこに深い渓谷を刻みつけながら、少女は心に決めた。
 そして、頭の上から妖精を下ろしたら、窓際隅っこいつもの席にちょこんと座らせる。
 そしたら、妖精は少し心配そうな視線を少女に向けて言った。
「大丈夫なの?」
「アルトまでジェリド側なの?」
「ひねた物言いをしないの。ブスに見えるわよ」
「ふんだ! どーせ、ブスだもん! ジャリだもん! 仕事、してくる!」
 一息に言い切ったら、べーっと舌を出して、回れ右。振り向く瞬間、アルトが呆れ顔でため息を吐いていたのが見えたけど、それは無視して、大股開きでずかずか歩く。
 向かう先はフロア中央から、少し玄関寄り。
「いらっしゃいませ、ようこそ、喫茶アルトへ」
「あっ、吉田さんじゃん、久しぶり。その営業口調も久しぶり」
 そこではすでに一足先に戻った貴美が来店した客の相手をしているところだった。
「そうですかぁ?」
「……その気持ち悪いしゃべり方も久しぶり……モーニング、アイスコーヒーでな」
 相手は見たところ、悠介達三馬鹿よりかは年上の青年だ。見た目は、可もなく、不可もない普通の大学生って雰囲気。見覚えがないから、余りアルトに来ない人なのかもしれない。もしかしたら、来ても平日だけで、伶奈の居る土曜日には来ない人なのだろうか? 貴美とは随分と仲が良さそうだし、彼女と同じ四年生かも知れない。
「かしこまりました」
 ぺこりと頭を下げて、貴美も回れ右。キッチンへと向かう貴美も伶奈の姿に気づいたようだ。歩を緩めたりはしないが、代わりに軽く手を振り、小さく目配せしたら、彼女はキッチンへと消えた。
 取り残される少女と客……その客の頭一つ分以上高い視線が少女の方へと向けられた。
「あっ……噂の中学生か……」
 交わる視線と呟かれる言葉。
「うっ……」
 物珍しいのか、少々ぶしつけな視線が伶奈の顔へと投げかけられる……も、それはほんの数秒ほど。
「吉田さん、厳しいから、大変だろう? がんばれよ」
 居心地の悪さにうつむく少女に対して、青年は軽い口調と人なつっこい笑みでそれだけ声を掛けると、すぐにその場を後にした。
「はっ、はい……」
 うつむいた顔をわずかに上げれば、すでに見えているのは青年の広い背中、歩き去る彼の背中にかけた言葉は、届いたのか届いてないのか……
 青年が窓際、中央寄りの席に腰を下ろすのをぼんやりと見送り、ため息一つ。
「……知らない人って、やっぱり、構えちゃう……」
 ため息交じりに呟いた声が、国道を行く車の走行音にかき消されていく。
 そして、少女は気づく。
「あっ……アルト、置いてきてるんだ……」
 つぶやき、頭の上をペタペタと触る。もちろん、そこを椅子代わりにしている妖精さんはいなくて、あるのは癖っ毛気味の髪の毛だけ。
(頭……軽くてすーすーする……)
 不安ではあったが、それ以上にどこか誇らしくもあって……少女は
「よし!」
 と、気を吐き、仕事に取りかかった。

 訳なのだが……
 あっと言う間に三時間三十分が経過して、ただいま、お昼の一時ちょっと前。
 伶奈は窓際隅っこ、いつもの席にぐったりと突っ伏して座っていた。
 伶奈のアルバイトは本来三時間だったはずだが、本日はいきなり三十分の延長。その延長の理由は、帰ってきた凪歩が、貴美にとっ捕まって、倉庫に連行されたからである。
「凪歩、正座」
 凪歩がこの言葉から始まる三十分コースのお説教を受けてる間、フロアにウェイトレスが居なくなるからって、変わりの店番を押しつけられてしまったのだ。
「まっ、貴女が悪いって訳じゃないわよ」
 突っ伏する頭の上、アルトがちょこんと腰を下ろして、そう言った。
 実際……

「ちゃんと、伶奈ちゃんにも教えとかないかんよ? 客が来ないからってぼーっと椅子に座ってあくびかみ殺してちゃ駄目だって、私、何回もなぎぽんに言ったっしょ? そういうのは、後輩にもちゃんと教えな」
「イヤ……でも、中学生だし……そこまできつく言わなくても良いかなぁ……って……」
「じゃあ、何? 三年間、適当にのんべんだらりとバイトさせて、高校生になった途端、厳しく言い出すわけ? それで、人が動くと思ってん?」
「ああ……まあ、そうだけど……それは、その時になって考えたら……」
「……凪歩、ちょっと、倉庫、来<き>」
「わっ!? ごっ、ごめん!」
「……良いから、ちょっと、倉庫、行くぞ。伶奈ちゃん、ちょっと、フロア、見てて!」

 てなやりとりをカウンター席でやった上での、倉庫連行だから、伶奈だけが悪い……と言うわけでもないのだろう。
「七割方、伶奈の責任だけど」
「七割も!?」
 がばっと顔を跳ね上げさせれば、頭の上に乗ってたアルトはひらりと宙に舞い上がる。
 クルンと器用に一回転。
 スカートの裾をひらりと翻しながらも、スカートの中身は全く見せない満点の身の熟しで、彼女は、テーブルの上に並べられたお皿の隙間にスタッと、奇麗に着地を決めた。
 そして、スッとストローの切っ先を伶奈の方へと指し示したら、彼女はきっぱりと言った。
「レジの丸椅子に座って、カタカタ言わせるのは止めなさいって、私は言ったわよね? 何回も。それを貴美の前でやって、大目玉食らったのは、どこの誰だったかしら?」
 本日、上から二つ目のミスをあげつらわれると、伶奈の薄い胸が痛む。
 ちなみに一番上のミスは――
「しかも、三十分後、もう一回、同じ事をやって、見つかって……バカなの?」
 ――である。
「……だって、暇だったんだもん……あと、やっちゃいけない……って思うと、余計にやりたく……」
 がっくりとうなだれぼそりと呟けば、美味しそうなペペロンチーノとサラダとの間に立つ妖精が呆れ顔で言った。
「……それ、貴美に言ってたら、それこそ、正座から始まる三十分コースよ……」
「それくらいの分別は付くもん……」
「それは何よりだわ……」
 ため息を吐くアルトともに伶奈もため息もう一つ……失敗はこれだけではなく、他にも細かいだめ出しはいくつもあった。注文を取りに行くのが遅いとか、お冷やが空になってる事に気づかないとか、食器を下ろすのが早いとか、遅いとか……それらのことを思い出すと、もはや、ため息しか出ない。
「ため息も良いけど、ご飯、食べたら? せっかくのパスタがのびるわよ」
「うん……」
 アルトに言われて伶奈は彼女のすぐ隣にある大きな皿へと手を伸ばした。
 美月特製のペペロンチーノ……落ち込んでる間に少し伸びてしまったみたいだが、ガーリックと鷹の爪の香りと旨味が溶け込んだオリーブオイルがパスタに絡んで凄く美味しい……美味しいのだけど、少女の箸……もとい、フォークの進みはイマイチ良くない。
 皿の上でパスタを右にやったり、左にやったり……
「叱られたこと、まだ、凹んでるの?」
 サラダを突っつくアルトが尋ねる。
 その言葉に伶奈は軽く首を左右に振った。
「じゃあ、なに?」
「だってぇ……――あっ……」
「お邪魔、座って良い?」
 顔を上げるとそこには高い位置にポニテを作った眼鏡の顔。ペペロンチーノとサラダ、それからスープを大きなトレイに乗せた凪歩の姿があった。
「あっ……うん」
 ほとんど反射的に伶奈が答える。
「ありがとう」
 そう言って、目の前、窓際の席に凪歩が座る。
「食事抜きでお説教、お疲れ様」
「……――ってアルトが言ってる」
 アルトの口調は茶化すようなからかうような、どこか皮肉めいた物。しかし、それを伝えた伶奈の言葉は、単語こそ同じ物であったが、その口調に勢いはなく、陰鬱な物。ぼそぼそと言った後に、最後、消え入るかのような声で、ひと言、付け加えた。
「……ごめんなさい」
「久しぶりに『凪歩、正座』から始まる三十分コースだったからねぇ〜向こうずねが痛冷たい<いたつめたい>よ」
 明るい調子で彼女が言うも、その明るい口調が逆に伶奈に罪悪感を抱かせて、ますます、フォークの動きを止めさせた。
「でも、まあ……」
 クシュンとうなだれる伶奈に向けて、凪歩は言葉を繋いだ。
「謝んなくて良いって。これからのこともいろいろあって、お説教って事になっただけだからさ」
「でも……私のせいだし……」
「実際、この何ヶ月か、伶奈ちゃんに先輩らしいこと何にもしてなかったしねぇ〜ちゃんと教えろって怒られるのもしょうがないよ」
「でも……凪歩お姉ちゃんは、私がいる時はいつも休みだし……」
「その辺もひっくるめてね? こんこんと言われた訳よ。今は自動車学校行ってるから、吉田さんとアルトちゃんに任せるけど、終わったら、先輩らしいこともしなきゃね? ちょっとは厳しくするから、覚悟、しておいてね」
 そう言って腰を浮かせると、凪歩は伶奈の頭をくしゃっと撫でた。
 緑の山を背景に笑う彼女が少し、素敵に思えた。
「……うん、がんばる……」
 少女ははにかむような笑顔を向けて、そう言った。

 そして、少し経った頃には……
 すてん!
 心地良い音がフロアに響いた。
 音の源は、受け身も取れず、顔面から綺麗にダイブしている時任凪歩さん。その傍らには、目元に涙を浮かべた伶奈と、音を聞きつけ、飛んできた妖精さんの姿があった。
 凪歩の頭の上で旋回しつつ、妖精が呆れ声で言う。
「凪歩……貴美みたく、足を蹴っていこうとするのは止めた方が良いわよ……割と鈍くさいんだから……」
「……――ってアルトが言ってる……」
「……ほっといて……見ないで……後……暇だからって、涙が出るくらい大きなあくびしてちゃ駄目、だからね……」
 凪歩が顔も上げずに注意をする一方、妙に神妙な面持ちのままにぺこりと少女は頭を下げる。
「ごめんなさい……気をつけます」
「「「…………」」」
 そして、三者三様に沈黙する時間が十数秒……
「……そろそろ、どっか行って……顔、上げられないから……」
「あっ、うん!」
 ぱたぱたと駆けていく少女……その足音が遠ざかると、やおら、彼女は顔を上げた。
「……鼻が痛い……」
 歪んだ眼鏡を直して、鼻をさすって一安心。ぐーーーーーーーーーーーっと大きく背伸びをしたら、窓の外から差し込む盛夏の太陽に目を細める。
「まっ……がんばろう」
 つぶやき立ち上がる。
 そのつぶやきに、凪歩の頭にちょこんと座った妖精が応える。
「まっ……がんばんなさい」
 ペチン……と、凪歩をアルトが叩いた音が、夏のフロアへと消えていく……そんな風景が夏のフロアで見られるようになっていた。

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