夏のフロア(1)

 伶奈が海から帰って三日ほどが過ぎたある日のこと。
 その日、伶奈は朝からアルト、窓際隅っこいつもの席で過ごしていた。
 冷房は寒いくらい効いているし、飲み物は自前で買った物ではあるがココアが飲み放題で、こんがり揚がったパン耳スティックに粉糖たっぷりのおやつも食べ放題。時にはロールケーキやミルフィーユなんかの端っこまでもが振る舞われたりするから油断できない。そんな恵まれた環境の中、灯から与えられた宿題をやったり、直立二足歩行するビーグル犬の刺繍を進めながら、アルトに――
「……ぶきっちょねぇ……」
 と、呆れられたりしていれば、夏休みは有意義かつ快適に過ごすことが出来ていた。
 そんな感じの夏休み、お昼過ぎ。セルフサービスでまかない料理を食べて、デザートには美月が用意してくれたシュークリームと自作のアイスココア。使い終わった食器も下ろして、一段落だ。
「お昼からはどうするの?」
 だらっとテーブルの上、うつぶせ寝で転がる妖精さんは、ノースリーブなれど、レースが幾重にも重なったロングドレスという暑いんだか涼しいんだか解らない奇天烈な格好。投げ出された生足がぱたぱた動くのをぼんやり長めながら、伶奈は応えた。
「さあ……どうしようかなぁ……宿題も灯センセがくれたのはあらかた終わったし……」
「どこか出掛けたら?」
「暑いよ……」
「まあ、そうよねぇ……」
 実りのない会話を繰り返すこと数分少々……
「伶奈ちゃん、ちょっと良いですか?」
 なじみ深い声に顔を上げれば、奇麗な黒髪は首の後ろ辺りでひとまとめ、アルトの制服の上からエプロンを着けた美月の姿。椅子を引いて正面に腰を下ろす彼女の様子を見ながら、伶奈はほぼ反射的に応える。
「あっ? はい……」
「たいしたことじゃないんですけどねぇ〜来週から翼さんと凪歩さんが午前中、自動車学校に行くんですけど……良かったら、代わりに店番して貰えませんか? 午前中の九時から十二時、お昼までの三時間。お祖父さんが居ますから、そんなに面倒な仕事ではないと思いますよ。もちろん、お給料は出しますし、お昼が終わった後は出掛けても、だらけても良いですから」
 腰を下ろした椅子を定位置に戻しながら、美月はにこにこと楽しそう。その楽しげな美月の笑顔を見上げて、パチクリと瞬き数回。
 背後の窓から差し込む日差しを受けて、美月の笑顔がやけにまぶしかった。
 その提案に対して、伶奈本人は一も二も無く「うん」と返事をしたかった所ではあるが、中学一年生という立場上、相談しなければならない相手が二人居る。
 一人はもちろん、母親、由美子。保護者である以上、彼女を無視するわけにはいかない。
 もう一人は桑島瑠依子、伶奈の担任だ。
 土曜日の店番を始めたとき、「相談して欲しかった」と言われたんだから、今回も相談すべきだろう……と、伶奈は判断し、すぐにメールでご相談。かくかくしかじかと事情を説明するメールを送ってみたら、返ってきたメールはひどく簡単な物だった。
『良いんじゃない?』
 伶奈が長々と書いたメールを丸ごと引用し、その最後にひと言だけを付け加えた簡単なお返事。
 窓際隅っこいつもの席、背後から差し込む夏の日差しがスマホの液晶をまぶしく照らす。照り返しのおかげで少々見づらい。その液晶画面を覗き込む妖精さんに少しだけ苦笑いを浮かべてみせると、少女は言った。
「先生、いつも返信は素っ気ないんだよ……んで――」
『メール、メール、メールが届いたよ♪』
 のんきなメールの着信ボイス。
 開いてみれば、案の定、瑠依子からのメール。
「んで、だいたい、後から追伸が来るんだよね」
 なお、追伸の内容は『近日中にモーニングを食べに行く』って事で、どうでもいい話と言えばどうでもいい話。
 それから母には彼女が帰宅した後、夕飯の時にご相談。言われたこと言えば「ご迷惑をかけないようにね」くらいの物で、こちらもあっさりと終了。
 問題と言えば――
「夜勤明けにご飯食べに行きましょうか……」
 と、母に言われたくらい。
 授業参観じゃないんだから……と、強行に反対し、母は母で「はいはい」と笑顔で返事はしてた物の、なんか、物凄く、来そうな気がして怖い。
(……日曜日、夜勤だったかも……)
 頭の中をよぎる。
 食事の手が止まり、少女は顔を上げた。
 母は楽しそうに笑うだけだった。
 その笑顔が少女に恐ろしくイヤな予感をわき上がらせた。

 そんな感じであっと言う間に月曜日。日曜日はやっぱり夜勤だったから、伶奈はアルトの二階に泊まっていた。
 すっかり、すっかり自分のベッドと化した夫婦のダブルベッドからむくりと体を起こす。グーーーーーーーーーーーーーっと大きく背伸びをしたら、パジャマから喫茶アルトの制服に着替えて、早速、階下へと足を向けた。
 トントンと階段を下りたら、フロアには見覚えのある四人の姿。カウンターの向こう側に立つ二人、美月と和明は当然居て貰わなきゃ困るが、残り二人は……
「アレ……翼さんも凪歩お姉さんも……来てたの?」
 てっきりこないものだと思ってた伶奈が不思議そうに小首を傾げると、翼がいつもの鉄仮面を伶奈の方へと向けた。
「……二人以上、居たら……送迎バスが……来てくれる、から……」
 淡々とした口調で説明をした。
 その説明に伶奈も「ああ……」とひと言、呟くように首肯。カウンター席、翼の隣に腰を下ろしたら、カウンターの内側に立つ美月と和明の二人に、そして、翼の向こう側でパンケーキを突いていた凪歩に向かって、ぺこりと頭を下げて、彼女は言った。
「おはよう、ございます……」
「おはようございます」
 最初に答えたのはクラッシュアイスで満たしたグラスに熱いコーヒーを注ごうとしている和明。それから翼を含めた他の面々も異口同音に朝の挨拶を伶奈に与えた。
 そして、伶奈の目の前に美月が置いたのは、モーニングのプレート。上には出来たて、湯気の上がってるスクランブルエッグとボイルされたウィンナー、サラダ、デザートにはマーマレードたっぷりのヨーグルト。飲み物がアイスコーヒーであるのがちょっぴり残念ではあるが、それを補って余り有る完璧な朝ご飯。
「いただきます」
 つぶやき、ウィンナーにフォークをぶすり。ぱんぱんに膨らんでいた皮をフォークが貫けば、中からじわっと肉汁があふれて出る。そのかぐわしい香が伶奈の鼻腔をくすぐり、口に含めばその肉汁の味に寝惚け気味の脳みそが一気に目覚める。
「……美味しい」
 思わず呟いたら、美月が嬉しそうに頬を緩めていた。
 と、食事を取っていると凪歩が「あっ」と小さな声を上げ、伶奈の方へと視線を向けた。
「吉田さんが伶奈ちゃんに話があるって言ったから、気をつけた方が良いよ〜このパターンだと大抵、お説教だから」
 その意外な言葉にぴくんっ! と伶奈は肩をふるわせ、食事の手を止める。
「なっ?! なんで?!」
「さあ? まあ、たぶん、ちょっとした注意程度だから、たいしたことないよ」
 軽い調子で首を振り、凪歩は皿の上のパンケーキをパクリ♪ と口に運んだ。
 もぐもぐと動く口元から自身の手元、食べかけのソーセージへと視線を落として、伶奈は呟く。
「やっ、やっぱり、急に休んだの、怒ってるのかな?」
「終わったことを、引っ張り出したりは……しない……思い出し怒りは、チーフの得意技……」
 顔色を変える伶奈の隣で翼がぼそぼそ言った所で、伶奈が安心出来るわけもなく、それと同時にさらっと批判された美月が――
「ふわっ!?」
 と、素っ頓狂な声を上げた。
「わっ、私、思い出し怒りなんてしません!」
「……時々……してる……」
「そっ、そんなこと……」
「……年末、二日酔いで来たときのも……随分、後から……言われた……」
「それは、年明けにまた二日酔いで来て……それと、吉田さんにもちょっと言えって言われたからで〜」
 しどろもどろな美月の弁明と淡々とした翼の反論、二人の間で言葉が行ったり来たり。
 その声は結構大きいのだが、顔色を変えて、ソーセージを右にやったり左にやったりしている伶奈の耳には届かない。
「まあ、いきなり『凪歩、正座』から始まる三十分コースじゃないって」
 と、凪歩が伶奈を不安のどん底にたたき込んだ所でタイムオーバー。喫茶アルトの駐車場に自動車学校の名前がペイントされたライトバンが滑り込んだ。
 翼と凪歩がおのおのの皿の上に乗っていたパンケーキを口の中に放り込んで、席を立つ。
「帰ってくるのは十二時すぎるくらいだと思うよ。お昼は帰ってから食べるから、まかない、よろしくね」
「……ペペロンチーノ……が、良い」
 そんな言葉を置いて、凪歩と翼は旅立ち、喫茶アルトは通常営業へとシフトしていく……も、本日、たった一人のウェイトレス、西部伶奈はそれどころではない。
「……朝から不景気な顔してんじゃないわよ……しゃんとなさい」
 伶奈の朝食が終わる頃まで出てこなかった妖精が頭の上から伶奈の顔を覗き込んで、ぶつくさ言うも、その顔をすだれの前髪越しに見やり、伶奈は応える。
「……うるさい……さっきまでグーグー寝てた癖に……」
 プーッとほっぺを膨らませて外方を向く。
 向いた先は国道側の大きな窓。
 群青色のアスファルトが浅い角度で東側から照らされていた。
 そのアスファルトの上をとことこと走る一台のオートバイ、ワックスが良く効いた銀色の車体。スクーターって奴なのだろうが、その辺りで見かけるそれよりも遙かに大きい。
「あら、貴美のシルバーウィングだわ……久しぶりに見たわね」
 頭の上から聞こえる言葉に思わず回れ右。
「――って、逃げ出そうとしてるんじゃないわよ!」
「だって!」
 じたばたと逃げ出そうとする伶奈の髪を妖精がぐいぐい……もちろん、それで引き留められるほど力強いわけでもないが、同時に無視して逃げ出せるほどでもない程度には痛い。
「引っ張るの止めて!」
「じゃあ、逃げるのは止めなさい!」
「おはよ〜さん」
 揉める二人を尻目に軽い調子の声が響いた。
 その声に少女はおそるおそる振り向く。
 キッチンとフロアを繋ぐ出入り口、そこに立つショートヘアーの女性はもちろん吉田貴美嬢。喫茶アルトの制服姿を見るのは、これが始めてかも知れない。それから、右手にぶら下げた小さな買い物袋が、伶奈の目を妙に引きつけた。
「おはようございます」
 カウンターの中に居た和明が答える。
「おはようございます、店長。それと、伶奈ちゃん、ちょっと」
 貴美が呼べば、伶奈はビクン! と身体を大きく振るわせる。
「はっ……はい……あの……」
「ん? なに?」
 妙におびえているのが馬鹿馬鹿しいくらいに貴美は屈託のない笑みを浮かべた。
 その笑みに伶奈も頬を緩めて、ぱたぱた……短い距離を小走りで近づき、そして、言った。
「ううん……あの、話があるって聞いたから……ちょっと、構えてただけだよ」
 恥ずかしそうに笑う伶奈、背の高い貴美がその少女の視線に合わせるように少しだけ腰を屈ませた。
 大きな鳶色の瞳が伶奈のすだれの前髪越しに見えて、一秒少々の後に――
 ――すだれが消えた。
「えっ?」
 一瞬、思考が止まるも、すぐに、貴美が自身の前髪を持ち上げたことに伶奈は気づいた。
「はい、これ」
 それとほぼ同時、右手にぶら下げていた買い物袋を伶奈へと彼女は手渡す。
「なっ、何? これ」
 よく見れば袋には駅前に百円ショップの店名が印刷されていた。そして、それを開けば、中にはヘアピンが詰まった小さなプラスチックケース。
「前髪、上げるか、別けな? それ、さすがに、食い物屋で働くにはちょっとうざいし、陰気くさい」
「でっ、でも――」
 反論しようとする伶奈の声を遮り、貴美が小さな声で呟く。
「伶奈?」
 先ほどよりも一オクターブ低い声、鳶色の大きな瞳がかすかに細くなった。
 その妙な迫力に伶奈の肩がビクン! と震えるも、貴美は意に介さずに言葉を続けた。
「前もゆーたかと思うけど、私が『やれ』ゆーたら、返事は『はい』以外、ゆるさんよ?」
 思わず少女は辺りをきょろり……と、見渡すも、美月はキッチンで朝の仕込みに掛かっているし、和明はなんだか知らないけど、にこにこ笑っているだけ。
 そして……
「そー言えば、貴女、四方会の友達にもあげた方が可愛いって言われてたじゃない? 私も上げた方が可愛いと思うわよ」
 頭上で妖精の嘯く声が聞こえた。
 彼女に味方は居なかった。
 むき出しになったデコにエアコンの涼しい風が当たった。
 少女は、コクンと頷き、自身に許されるたった一つの言葉を言った。
「……はい」
「おっけ〜じゃあ、せっかくだし、可愛くしようね」
 急に軽くなった貴美の言葉、されど、もはや、逆らうことなんて出来ず、伶奈は促されるままストゥールに腰を下ろした。
 隣に座った貴美が伶奈の顔を自身の方に向かせ、すだれの髪を右にやったり左にやったり……
(デコ出したくない……)
 なんて、思っても、あっと言う間に伶奈の前髪は七三くらいの割合で左右に流され、ヘアピンがそれをとめるって髪型へと変更された。
 それだけでも恥ずかしくて結構イヤではあったのだが、何がイヤって……
「わぁ〜かわいいですねぇ〜」
 キッチンから出てきた美月が伶奈の顔を見た途端に言った。
「わっ、可愛いね〜似合ってるよ、その髪形」
「……良い、と思う」
 帰ってきた凪歩と翼もそう言った。
 そして……
「かーさんも前々からその前髪はどうにかしたら……って思ってたのよねぇ……」
 と、やっぱりというか、案の定というか、夜勤明けに朝飯を食べに来た母――由美子までもが、しみじみとした口調でそう言った。
 今までの人生を全否定されたような気がした……
「……って、ホント、貴女の人生、安すぎるわよ……」
 頭の上で、妖精がやっぱり呆れていた。
 

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