さて、凪歩に潰された悠介が食卓という名の戦場からリタイアし、床の上でタオルケット一枚与えられて眠りに落ちても、宴会はまだまだこれからといった雰囲気。凪歩と灯、それから幼なじみの俊一は幼い頃の思い出話に花を咲かせているし、翼は翼で――
「しゃーわせ、しゃーわせ、ご飯もお酒も美味しくて、翼ちゃん、しゃーわせ」
左右に揺れながら、がぶがぶとお酒を飲んでる始末。
「……あの人、誰?」
「まあ、誰もが同じ反応を見せるわけだけど、現実は受け入れた方が良いわよ」
と、伶奈とアルトがそんな会話を交わしてる最中も、宴会は盛り上がるばかりで、終わる気配を見せない。
しかし、伶奈はお酒なんて飲めないし、酔っ払いの相手をするのはトラウマレベルで嫌い。
「ごちそうさま……私、あっちにいるね」
そう言って席を立つと、玲奈は一人、リビング、ソファーセットの所へと足を向けた。
「って、なんで私まで連れてくるのよ……まだ飲み足りないのに」
そう言って膨れてる妖精さんは、伶奈の左右の手の中。いわゆる『金髪危機一髪』状態だ。
手の中の妖精へと視線を落として、少女は応える。
「私の子守でしょ? 付き合うべきじゃんか」
「……都合良く子供と大人を使い分けるのは、大人の証拠よ……比較的タチの悪い……」
「ふんっ」
顔こそ赤いが未だ酔ったと言った感じではなくて、普段の脱ぎ癖もまだ出てない様子。そんなアルトをソファーテーブルの片隅に置いて、伶奈はラグが引かれた床にぺたんと直接腰を下ろした。
そして、壁際へと手を伸ばしたら、大きな紙袋から問題集やらノートやらを取り出す。
「……ホント、生真面目ねぇ……」
「こう言うのは、ちゃんとやらないと、居心地が悪いもん……」
「……親の教育の賜物かしらね?」
「……お母さんじゃないけどね」
少しとげのあるセリフを吐くと、アルトは軽くため息を吐いて
「なるほど……ね」
そうとだけ応えた。
そこで話を一端区切り、伶奈は問題集へと視線を落とした。
アルトもその問題集のすぐ傍、両足を投げ出し、ぺたんと腰を下ろす。
キッチンから聞こえるのは相変わらずの賑やかな宴の声。
何を話してるかはよく解らないが、楽しそうな笑い声ばかりが聞こえてくるから、たぶん、盛り上がっているのだろう。
とても勉強する雰囲気ではないのだが、それでも、その賑やかな声と音をBGMに伶奈は問題集をめくり、ノートの上にシャーペンを走らせていた。
まずは比較的得意な英語、問題集の英文を日本語に翻訳……解らない単語は、電子辞書代わりにスマホで調べる。本当は辞書が良いのだろうが、荷物になるから今日は持ってきてない。
と、その問題が一ページ分終わる頃、時間にして言え三十分くらいだろうか?
「はかどってる?」
かけられた声に顔を上げれば、高いところにある見慣れた顔。
「あっ……灯センセ……宴会、終わったの?」
高いところにある整った顔を見上げながらに伶奈が言うと、青年は伶奈の向かいに腰を下ろしながら応えた。
「いや、終わってないよ。シュンと凪姉はテンション上げてきてるし、それに寺谷さんが俺に絡み始めて……しらふじゃ居づらくなったから、ここに退避させてくれるかな?」
冗談めかした口調と共に青年がほほえめば、伶奈も気恥ずかしさに顔が赤らむのを感じながら、こくんと小さく頷いた。
せっかくなので訳し終えた文章の採点をして貰いながら、続いては数学の問題集……
「そー言えば……伶奈ちゃん、俺の持ってきた問題集ばっかやってるけど……宿題はもう終わった?」
始めて少し経った頃、灯がふと尋ねたので、伶奈はシャーペンを走らせる手元から顔を上げて応えた。
「英明は夏休みの宿題って……自由研究と美術の実習、それと読書感想文くらいしかないよ……皆、家庭教師や学習塾に行ってるから……代わりに夏休み明けに到達度試験ってのがあって、六割取れなきゃ、大量の宿題が出されるって……何年か前の生徒会がそう言うシステムにしたとか、なんとか……」
「なるほど……それも大変だなぁ……」
「うん……駄目だった時の宿題はハンパないから、そうなったら二学期中はろくに遊べないと思えって……瑠依子先生、言ってたから……」
「あはは、じゃあ、がんばらないとね」
「うん……」
そんな感じの言葉を二つ三つ交わして、勉強再開。
全般的に成績はいいのだが、それでも比較的数学は苦手だ。どーも、伶奈は頭が固いらしく、ちょっとひねった問題だと途端に解らなくなる。
「ねえねえ……」
難しい応用問題を一つ、やおら時終えた頃、不意にアルトが手元で声をかけた。
「なに?」
「あっち、行って良いかしら?」
その言葉に視線をノートの端から少し左へと動かす。
ぺたんと足を投げ出し座っている妖精さんが、ストローの端っこを両手でつかんで斜め上へと突き出す姿。もちろん、そのストローの切っ先を目で追えば、楽しそうに酒を飲んでる男女三名。
その男女三名から妖精へと視線を戻し、少女は冷たく言う。
「だめ」
「なんでよ? 灯が居るんだから、もう良いでしょ? 私だってもうちょっと呑みたいのよ!」
大声を上げる妖精に目もくれず、少女はノートの上に走るシャーペンの行く末に視線を固定したまま、言った。
「駄目な物は駄目」
きっぱりとした口調にアルトの言葉が止まった。
聞こえる音は三人の賑やかな話し声と、伶奈のシャーペンがノートの上を走る音。
それが数秒……
そして、妖精が立ち上がる衣擦れの音……
「刺してやる!」
その殺気を孕んだ声に視線を向けてみれば、そこにはストローを大上段に構えた妖精の姿があった。
極限にまで反り返った背中と限界にまで振り上げられた右足、左足がぷるぷる震えてるのが可愛い。その小さな体が狙うのは、ノートの端っこ無造作に置かれていた伶奈の左手。
ヤバっと思った時にはストローの切っ先はすでに始動を開始していた。
ぶんっ!
一気に振り下ろされるストロー、それは伶奈のノートにざくりと突き刺さっていた。
ざっくりと突き刺さったストローが痛々しいノートと、自身の薄っぺらな胸元へと飛び込んでる左手を数回見比べる。
思わず、冷や汗がこめかみから頬へと流れた。
ゴクリ……と生唾を飲んだら、少女はつぶやくように言った。
「いっ、今のは本気だったよね? アルト……」
「私もスコッチが飲みたいの! ここ三年ちょっと、安い発泡酒と缶酎ハイしか飲んでないんだから!」
「知らないよ! そんなこと! アルトはそこに座ってればいいの!」
「なによ!? その無茶な理屈は!」
「むちゃくちゃでもなんでも良いの!」
と、激高して腰を浮かべる少女、その額に――
「痛っ……」
コツン、と小さな衝撃。
確かめるよりも早く、視野の隅っこ、下の辺りをコロコロと小さな消しゴムが転がるのが見えた。
「遊ぶんなら、勉強道具は片付けようね」
聞こえる穏やかな声に顔を上げると、そこには先ほど提出したばかりの訳文を目で追いかけている青年の姿……
「やるならまじめにやる、やらないんならさっさと片付けるって区別は付けた方が良いよ。それとアルトさんも伶奈ちゃんは勉強してるんだから、ちょっかいは出さないであげて」
顔も上げず、目も合わさず、淡々とした口調で青年が言えば、二人もろとも、ぐうの音も出ない。
クシュンとうなだれ、少女は視線とシャーペンをノートの上へと戻す……も、その動きはいまいち。叱られた事よりも、アルトとのじゃれあいというか、口論を灯に見られたことが恥ずかしくて、勉強のことよりもその後悔で頭がいっぱい。
「アルトのせいだからね……」
小さな声で呟く。
そのつぶやきに、視野の左隅、妖精が足を投げ出したままで応える。
「……また、叱られるわよ」
「うぐっ……」
思わず絶句……言い返す言葉を見つけることが出来ず、少女は視線を問題集の上に釘付け……されど、やっぱり、そのシャーペンの進みは遅い。
勉強のことよりも『アルトのせいで灯センセに怒られた。恥ずかしい思いをした』で頭はいっぱい。数式よりもアルトへの仕返しを考えていた頭に、滑り込んでくる灯の言葉。
「それと……前から思ってたけど、前髪、切るか止めるかした方が良いんじゃないかな? 目が悪くなるよ」
「えっ? あっ……でも……でこっパチだから……出したくない……」
「あはは、気にしないで良いのに……まあ、気をつけた方が良いよ、凪姉みたく眼鏡になったら不便だし。ラーメン、食べると曇るからね」
「あはは……うん、解った」
顔を赤くしながら伶奈が頷くと、灯は少し視線を動かした。
「おっ? ジェリド、起きたか?」
灯の声に首を後ろへとひねらせると、そこにはジェリドこと悠介がタオルケットを膝の上に置いて座っている姿があった。その顔面は蒼白で、しきりに頭を撫でては辛そうにしていた。
「……大丈夫?」
気づいたら伶奈の唇からそんな言葉がこぼれていた。
「……水……」
悠介のつぶやきは特定の誰かに向けて言われたわけではなかったのだろうが、それでも灯は手にしていた伶奈のノートをテーブルの上に返して、席を立った。
そして、二分弱、随分時間が掛かってるなぁ〜と思いつつ待っていた伶奈の元へと、灯が帰ってきた。その左手にはペットボトルが三本、二本がスポーツドリンクで一本はコカコーラ。それから、右腕と言うか、右の小脇にはぐったりとした俊一の姿。
「あっ……真鍋さんも……どうしたの?」
「凪姉に潰されてた……」
苦々しそうに言う灯の言葉を耳にしつつ、伶奈がキッチンへと視線を向ける。そこには未だに揺れてる翼の姿と軽く手を振る凪歩の姿。どちらの顔もすでに真っ赤、そして、どちらの右手にもなみなみと琥珀色の液体が注がれた大きなタンブラー。
「……大丈夫なの?」
「まあ……この程度なら大丈夫だろう……たぶん」
伶奈に応えながら、灯は俊一を床に座らせ、彼の手に一本のペットボトルを握らせた。
「こっちは俺の?」
いつの間にやら近づいて来ていた悠介がそう尋ねると、灯は「ああ」と首肯して、もう一本のペットボトルを友人に手渡した。
ソファーを背もたれに二人がラグの上に腰を下ろす。
もっとも、ペットボトルの封を切ったのは悠介の方だけ。俊一は潰されたばかりのせいなのか、ペットボトルの封を開けることすらおっくうそう。握らされたペットボトルを右手と左の手の間でコロコロと弄んでいた。
「ちょっと貸せよ……開けてやるから」
「ああ……悪い……」
「やったの、うちの姉貴だからな……」
ぐったりしている俊一と甲斐甲斐しく彼の面倒を見る灯を横目に、一眠りして多少は頭の方も回復してるらしい悠介は、ペットボトルに口に押し当て、グビグビと無造作に一気飲み。
「ふぅ……落ち着いた……」
三分の二ほど飲み干した辺りで、彼は安堵のため息を一つこぼした。
「酔い……覚めたの?」
「ああ……さっきよりかは、だいぶんマシになった……かもなぁ……」
「ふぅん……」
悠介の言葉に気のなさそうな返事を返して、伶奈はテーブルの上、自身の目の前に置かれたコカコーラのペットボトルに手を伸ばした。コーラよりもココアの方が良いんだけどなぁ……なんて思うけど、持ってきてくれた物に贅沢は言えない。
パキッと栓を開けたら、ぱしゅっ! と炭酸の抜ける心地よい音がした。
ちびりちびり……舌の先に炭酸を余り感じない程度の速度でのんびりとコーラを飲みつつ、勉強再開。
「頭、痛ぇ……死ぬぅ……きぼちわるぃ……」
「ああ……俺も頭が痛い……」
俊一と悠介の二人がうなってる傍は、学習環境としては最悪。
(この一つ終わらせたら、もう、終わりにしよう……)
なんて思いながら、ちょいと複雑な問題に伶奈は取りかかっていた。
ら……
「……ジャリって……よく見ると、可愛い顔してんなぁ……」
悠介がぽつりとこぼし、そして、伶奈のコーラが鼻に流れ込んだ。
「ぶへっ!? はっ、鼻! 鼻が痛い!」
「伶奈、茶色い鼻水が垂れてるわよ……」
鼻を押さえてのたうつ伶奈の傍、アルトが他人事のように言うのを、軽く無視して、少女は再び叫んだ。
「なっ、何言っての!?」
「……うーん、あれだよな……」
ぼんやりと伶奈の顔を見つめたまま、青年が言えば、伶奈は自身の顔がかーっと熱くなるのを感じた。
その熱くなるのをごまかすかのように少女はさらに大きな声を上げる。
「どれだよ!?」
「……でこっパチで可愛いよな……」
「でっこぱっ……?!」
その言葉に伶奈は絶句し、アルトと灯は
「「ああ……」」
とため息を吐いて、天井を見上げ、そして、俊一は
「……駄目だ、もう、俺、死ぬ……」
一人、誰にも気づかれる事無く、冷たい床の上に崩れ落ちていた。
そんな周りの様子に気づく事無く、悠介@酔っ払いは、なんか楽しくなって来たのか、ケラケラと脳天気に笑い始めた。
「だよなぁ〜お前、ちょーデコだよな、デコ。なんかもう、ほら、あれだよ、お前の友達の妖精さんが友達集めて運動会とか出来そうだよな、な、灯もそう思うだろう?」
笑いながらそう言うだけならばまだしも、彼はぷるぷると怒りに拳を振るわせる伶奈の額、まさにそのでこっパチに手を当て、ペチペチと何回も叩き始める始末。
そんな悠介の様子を見やり、妖精がため息交じりに呟く。
「……まだ、べろんべろんに酔ってるのね、この子……」
すぐにでも激高しそうになるのを必死で抑えつつ、伶奈はペットボトルのふたをギュッと閉じる。そして、飲み口を握ったら、大きく振りかぶって――
「ジェリドのアホ!!!!」
悠介の頭に一発ぶちかました。
ごっ!
イヤな音がしたかと思ったら、悠介はぽてっとそのまま、床の上へと崩れ落ちた。
「そのまま、死んじゃえ! バカジェリド!!!」
「……残念だけど、一応、生きてる……ってか、また、寝たな……こいつ」
真っ赤な顔で激高している伶奈の前、ころんと灯が悠介の体をひっくり返すと、そこには楽しそう且つ間抜けな笑顔を貼り付けた馬鹿面があった。
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