伶奈の海(14)

 前回ラストシーンからたっぷり二時間が経過した。
 西の空からは残照も消えて夜のとばりがどっぷりと下りていたし、東の空には大きな月がぽっかりと高い位置に昇っていた。
 その頃、伶奈達喫茶アルトの面々が泊まるコテージでは料理が佳境を迎えていた。
 キッチンスタッフの翼がメインで調理を行い、凪歩と翼が手伝って――
「盛りつけは芸術よ? 皿の上からこぼさなきゃ良いって物じゃないの、解ってる?」
 アルトが伶奈の頭の上で茶々を入れる。
「アルト、うるさい……」
 凪歩がざく切りにしたレタスや千切りキャベツ、パプリカなんかを大皿の上に盛るのが伶奈に与えられたお仕事。しかし、伶奈が不器用に出来てるのか、頭の中で考えた盛り方と現物とがえらい違い。なんだか、ゴチャッとした感じが随分とぞんざいに見えて悲しくなってくる。
「もうちょっと色合いとか考えなさいよ……パプリカとプチトマトは彩りで入れてるのよ?」
「アルト、うるさい……ドレッシングかけて食べちゃえば、色合いなんて関係ないもん……それより……」
 大皿に盛り上げられたキャベツの山を整えるのを諦めて、伶奈は顔を上げた。視線の先には丸いシンプルな壁掛け時計。指し示す時間を再確認したら、彼女はぽつりと漏らした。
「遅いね? じぇり――灯センセ達……」
「ドブの匂いが落ちないんでしょ?」
 アルトが答えると伶奈は「そうかも……」と軽く笑いながら、答えた。
 ぴんぽーん……
「噂をすればね……」
「……伶奈、出て」
 頭の上からアルトが言うのと、トマトソースの味見をしながら翼が言うのはほぼ同時。
「あっ、はい」
 翼に答えて、伶奈はぱたぱたと玄関へと駆け出した。
 そして、ドアを開ければ、三人組ののんきそうな面が三つ。もちろん、作業着ではなく、それぞれに綿パンやジーパンにTシャツやトレーナーなんかを合わせたこざっぱりとした格好になっていた。
「遅くなってごめん。もしかして、待った?」
 灯が言って小さな箱を一つ伶奈に手渡した。
「ううん……ご飯、まだだし……それで、これ、何?」
 受け取った小箱に視線を落として問いかける。
「開けてみたら?」
 答えたのは俊一。
 その言葉に小箱を開いてみれば、中身は――
「あっ、ケーキだ……」
「スマホを弄ってたら、評判の良いケーキ屋が近所にあるみたいだったから、ちょっと買いに行ってたんだよ、シャワーの後に」
 灯が人なつっこい笑みでそう言うと、伶奈は青年の高い位置にある顔を見上げて応えた。
「へぇ……それで遅くなったんだ?」
 伶奈が尋ねれば始まる責任のなすりつけあい。
「それは灯のアホが直線距離を全行程と勘違いして、島をぐる〜ッと半周したせい。最悪だろう? おかげで大遅刻だよ」
「だったら、『どうせ、ここまで来たら、一周して帰れば良いんじゃねぇ?』って言い出した、シュンにも責任があるだろう? 挙げ句、渋滞にはまるしさ」
「渋滞の件はジェリドが信号のない交差点で右折するのがイヤだからって、左折二回で帰ろうとしたからだって。あれで変な道に入ったんだよ」
「若葉マークなんだから、仕方ないだろう? お前らが運転しろ」
 俊一と灯の口論が始まり、その流れ弾に悠介が文句を言えば、責任の押し付け合いは泥沼の様相。お前が運転しろとか、免許がないとか、免許があった分給料が良かったとか、毎朝、移動中にグースカ寝てただとか……まあ、どーでもいい話で三人は盛り上がり始めていた。
 ケーキの箱を抱えた伶奈をほったらかしにして……
「……もう、良いよ……早く、中入ろうよ……ドア、開けっ放しだと蚊が入ってくるよ……」
 伶奈が頬を膨らませれば、三人は口論を止めて、素直に部屋の中へ……その三人の方へと振り向きながら、伶奈は言った。
「ケーキ、ありがとう……」
 少々の気恥ずかしさを感じながら、伶奈がぺこりと頭を下げれば、青年三人は互いの顔を見合わせ、軽く頬を緩めた。そして、代表するかのように灯がその大きくてごつごつとした手で伶奈の頭をくしゃっと少し乱暴に撫でた。
「飯の後に食べよう」
「うん」
 灯の言葉に伶奈は小さな声で応えた。

 翼が作った今日の夕飯は、伶奈のリクエスト通り、鶏肉料理。軽くソテーした鶏胸肉をトマトソースでじっくりと煮込んだもの。そのソースにはざく切りにした夏野菜がたっぷり入っていて、ソースと言うよりもスープに近い感じ。トマトソースの酸味に夏野菜の甘み、それに鶏肉の旨味が加わって、なかなかの美味しさ。
 それに伶奈が合わせたのはロールパン、中にマーガリンが入ってる奴。軽く焼くとそのマーガリンが良い具合に溶けて、周りのパンにしみこんで、とろとろになるのが非常に美味しい。もちろん、出来合の物だが、伶奈が選んだ逸品。昔からの好物。
「で、私はこれを持ってきたわけだったりするんだけど……飲む?」
 そう言って凪歩が取り出したのは、琥珀色の液体が入った大きなボトル。金色のラベルがやけにまぶしく、そこにはジョンなんとかとか、ゴールドリザーブとか書いてあるのだろうか? 英語はまだ三ヶ月しか習ってないから、単語はよく解らないが、まあ、銘柄なんだろう。
「……それ、親父の書斎の棚に入ってた奴じゃないか……?」
 食事の手を止め、灯りが目を細めて呟けば、凪歩は恥じる事無く、大きく頷いた。
 そして、彼女は悪びれもせずに言った。
「棚の酒は好きに飲んで良いって言われてるからねぇ〜パパ、灯も医者お墨付きの下戸だって解って、がっかりしてたよ?」
「……しょうがないだろう? お袋に似たんだよ」
「なんだ、灯、例のアルコールアレルギー、確定か?」
 姉弟の会話に口を挟んだのは、灯の幼なじみで凪歩とも幼い頃から交流のある俊一だった。
 灯は幼なじみの問いかけに軽く頷き、ロールパンを一つ丸ごとカプリとかじりついた。
 小さめのロールパンは七割方が青年の口の中へ……残りの三割もすぐに押し込まれたら、あっと言う間に一つが消え失せる。
 指についたマーガリンをペロッとなめながら、青年は口を開いた。
「まぁな……この間、病院で調べて貰ったらアルコールアレルギー確定だとさ。うちの兄妹で飲めんの、凪姉だけ」
 先日の徹マンの時にもコップ半分の発泡酒でひっくり返ったし、半分以上、覚悟は決めていたが、確定だとやっぱり多少はショックを受けたらしい。もっとも、一番ショックなのは、酒豪の父。「息子が成人したら……」との夢を無残に打ち壊されてがっかり。結果、父親がため込んだ酒は娘の凪歩が勝手に飲んでいるという体たらく。
「たまに娘が一緒に飲んであげてるんだから、飲まないで飾ってる酒瓶くらい、娘に提供すべきじゃないかな? ッと……で、誰が飲むの?」
「じゃあ、凪さん、俺も貰える?」
「……私も」
 立ち上がって尋ねる凪歩に俊一と翼が言うと、凪歩は軽く頷き、そして、伶奈の正面に座っている青年へと声をかけた。
「勝岡さんは?」
「あっ? 俺? 運転手だけど……」
「今夜はもうどこにも行かないんじゃないの?」
「……ああ、それもそっか……じゃあ、貰う」
 悠介との会話を切り上げて、凪歩がキッチンへと足を向ける。
 その背中に
「あっ、私も」
 と、アルトが言った言葉を伝えれば、凪歩は背中越しにこちらを向いて、こくんと頷いた。
 その凪歩を見送りつつ、手元の妖精へと視線を落として、伶奈は言った。
「……脱いだら、足に紐をむすんで、ぐるぐる回しちゃうからね?」
 その言葉と視線たっぷりの殺気を込めたつもり。上手く行ってるかどうかは本人には解らない。ただ、眉の間に刻んだ縦皺はここしばらくで一番深くなったはず。
 手元の妖精がその顔を見上げること数秒……しかる後に、彼女は視線を逸らし、ぽつりと漏らした。
「……手加減しなさいよ」
「……脱がないように心がけてよ……」
 がっくりと力が抜けること著しい。

 さて、そんな感じで始まった食事会。大きめのテーブルを男女三人が左右に分かれて食べてる様は、
「三対三でちょっとした合コンみたいだな?」
 と、俊一が言うとおり、ちょっとした合コンのよう。まあ、伶奈は合コンなんて行ったこともないし、行きたいと思ったことはないのだが……
「一人が姉で一人が教え子ってどんな罰ゲームの合コンだよ……?」
 伶奈の斜め前、三人並びの真ん中に座る灯が投げやりな口調で言えば、琥珀色の液体が満ちた小さなグラス(ショットグラスと言うらしいと、後で伶奈は聞いた)を口に付け、付けた瞬間、明らかに眉をひそめた悠介が言った。
「きっつぅ……って……一人が中一のジャリって時点で罰ゲームだよ」
 青年の言葉に顔を上げれる。少女の視線がじろり、とすだれ髪越しに斜め前、対角線上に居る青年の顔へと向けられる。
 そして、彼女はぷいっ! とそっぽを向きながら、言った。
「一人がジェリドって時点で罰ゲームだもん」
「おっ、よく言いやがったな? この糞ジャリ」
「先に言ったのはジェリドじゃんか!」
 テーブルに手をついて伶奈の腰が浮かんだその瞬間だった。
 ひょいと灯が頭を下げ、その下げた頭の上を俊一の左手一閃。
 ぱん!
 空っぽのスイカを叩いたような心地よい音(伶奈の主観)が響く。
「いってぇ!」
「飯食ってる最中に中学生と喧嘩するな」
「伶奈も……食事は静かに……」
 悠介と翼の声がほぼ同時に発せられれば、言われた男女は互いの顔からプイッと視線を逸らす。
 そんな二人に凪歩がショットグラスを傾けながら、楽しげな表情で言う。
「割と同レベルだよね?」
「「違うし!」」
 凪歩の言葉に対象二人が見事な唱和。重なり合う言葉に顔を見合わせれば、またもや、プイッとそっぽを向き合う。
「って……相手は大学生で伶奈は中学生なんだから、同レベルでも良いじゃない……」
「年齢じゃなくて、人としてのレベルの問題だもん」
 ぼそぼそ……手元でショットグラスからお酒を飲んでるアルトと控えめな声での会話。
「おい! ジャリ! 今、なんか、ひどいこと言ったろ?!」
 アルトの声は悠介には聞こえてないはずだし、伶奈の声だってそんなにはっきり聞こえてるとは思えないのだが、それでも的確に声を上げてくる辺り、奴も油断ならない。
 少女はちらっと青年の顔を目の端にだけで取られると、すぐに手元、食べかけのチキンへと落とした。
 ぶすっとフォークをチキンに突き刺し、一切れを口に運ぶ。
 ゆっくりと咀嚼した後に、ゆったりとした口調で彼女は言った。
「言ってないも〜ん」
「うわぁ、むかつくクソジャリ……」
「まあ、そんなことよりも飲みなよ。せっかく、良いお酒、用意してるんだからさ」
 再び、始まりそうになった喧嘩を制したのは、すでに最初の一杯を干してしまっている凪歩だった。彼女は自身のショットグラスに新しいお酒を注ぎ入れると、体を大きなテーブルの上、食事達の上へと載りだして、悠介の方へと突き出した。
「えっ? あっ……うん、ありがとう」
 くいっ! と、残っていたお酒を一息に飲み干して、ショットグラスを差し出す。
「お酒、空けたらチェイサーにお水飲むと美味しいよ」
 言って、凪歩はからになったショットグラスに酒を注ぐ。
 お酌を終えて席に座り直す時、凪歩が伶奈に向かってパチン! といたずらっぽいウィンクをして見せた。このウィンクの意味を伶奈は、すぐには理解出来なかったのだが、ものの三十分もしないうちに理解することになる。
 その三十分が瞬く間に流れた。
「だらしないなぁ〜もう、終わり?」
 朱色に染まった頬、酒色に染まった吐息を吐きながら、凪歩は何杯目か解らないお酒に口を付けていた。
 その目の前には頭を抱えて突っ伏している悠介の姿。
「……ちょっ、おま……」
 その突っ伏した悠介の隣、食事も終わりかけてる灯がしみじみとした口調で呟いていた。
「……親父さ、会社だと『枠』って呼ばれてるんだよな……『底が抜けてる』って意味で」
「そういうことは、さっさと言ぇ……」

「私も強いけど、勝岡さんは弱いんじゃないの?」
 と、ケラケラと楽しそうに凪歩が笑い、その笑う隣では――
「えへへ……翼しゃん、しゃーわせぇ〜」
 その隣でほっぺたを押さえて体を揺らしている翼の姿があった……
 が、伶奈は見てない振りをすることにした。

 そして、ケーキは結局、食べずに終わった。
 

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