伶奈の海(13)

 海の家の喧噪、誰も彼もが思い思いの食事を楽しむ空間。みな、一様に楽しげな表情をしていた。
 そんな中、真顔でスマホを握りしめている少女がいた。
『で……そこまで言われてなんで電話してきたんよ?』
「あっ、あの……お母さんが……とりあえず、相談だけでもしてみろって……」
『なるほどね……それで、私が困るから帰ってこいつーたら、帰ってくるつもりだったん?』
 耳に当てたスマホの向こう側、貴美が落ち着いた声で尋ねた。
 その質問に伶奈は口を噤む。
 そして、数秒……
 先ほど翼が頼んだ鯛焼きが届けられ、母と凪歩も同じ物を頼んでる声が聞こえた。
「伶奈は?」
 頭の上からアルトが尋ねる……けど、それを無視して、伶奈は電話の向こう側にいる貴美に応える。
「……うん」
 伶奈が応えると今度は貴美の方が黙り込んだ。
 その間、数秒……
『まあ……私だってにべもなく帰って来いたー言わんよ? 伶奈ちゃんはまだ中学生で親の都合って物も配慮しなきゃ行けない歳だって事は、私も解ってるし……とりあえず、こっちで美月さんや店長と相談するから……フェリー、いつ?』
「あっ……えっと……五時くらいのに乗るから……後、一時間ちょっと……」
『OK、OK、それじゃ、少ししたら折り返し電話するから……ちょっと待ってて』
「うん……ありがとう……」
『良いって……それでさ、なんか、心なしか、この間よりもおびえてるように聞こえっけど……私、伶奈ちゃんに怖がられるような事したっけ?』
「あっ……あの……凪歩お姉ちゃんとか、翼さんが……吉田さんは怒らせると怖いとか、怒らせると床に正座させられるとか、怒らせたら、しばらく怒ったり泣いたり出来ないようにされるとか、口を開く前と後にマムと付けなきゃ行けないとか……」
『ああ……なるほどね……じゃあ、帰ってきたら、その通りにしてやるって、伝えておいて』
 電話を切った時、凪歩が天を仰ぎ見ていて、あからさまにしまったって顔をしていたのは、まあ、予想の範囲内ではあったが、翼がいつもの鉄仮面のまま、鯛焼きを咥えて固まっていたのは、少々、意外だった。

 さて、貴美から折り返しの電話が掛かってきたのは、ちょうど十分後、伶奈の頼んだ鯛焼きがやってきた直後のことだった。
『人手の段取りついたから、帰ってこなくても良いよ』
「あの……ありがとう」
『でもね、こうやって、急に休めば、誰かの予定が狂ったり、迷惑したりするわけだから、本当はやっちゃいかんのよ?』
 電話口の貴美の声は聞いていたほど怖い物ではなくて、伶奈を諭すような物。怖がっていたのが馬鹿馬鹿しいほど。安堵しつつ、同時にこみ上げてくる申し訳なささに言葉が詰まる。
「あっ、あの……ごめんなさい、学校の用事なのに……」
 詰まりながらもわびを言えば、帰ってきたのは思ってた以上に軽い口調の軽い言葉。
『ああ、私はちゃんと学校に行くよ?』
「えっ? じゃあ、誰が……?」
 きょとんとした声で尋ね返せば、貴美はやっぱり軽い口調で軽く言い切った。
『りょーやんだよ』
「へっ?」
『だから、りょーやんが明日は朝からずっと店番するって』
「良夜くん……って、卒論が全然進んでないから、夏休みはずっと……って言ってなかった?」
『大丈夫、大丈夫、まだ、慌てる時間じゃない。それに奴は卒業出来なくても、アルトでウェイターやりゃ、最低限、食わせては貰えるって。まっ、申し訳ないって思うなら、なんか、お土産買っておいで。私の分もね。それじゃ』
「あっ、はい……それじゃ、良夜くんに謝ってて……うん……それじゃ……」
 電話を切りながら「本当に大丈夫なんだろうか?」と思う……が、だからと言って帰ろうという気には毛頭ならないし、自然と頬が緩んでしまうことは自覚済み。テーブルの片隅にスマホを置いたら、緩んだほっぺが落っこちないように両側から抑える。
 そして、周りの面々に話を伝えれば、凪歩や母親はもちろん、いつも冷静な翼までもが祝いの言葉を伶奈に与えてくれた。
 その祝いの言葉が何よりも伶奈は嬉しかった。
 さて、残念なことに、迷子の相手をしてたり、貴美と電話をしてたりした兼ね合いで、もう一回泳ぐのは時間的に厳しそう。伶奈はこれで明日も泳げるようになったわけだし、母親の方はもうちょっと……と思ってはいるようだが、そこは大人、仕方ないという割り切りも早い。
 ごねているのは……――
「ああ……もうちょっと泳ぎたかったのになぁ……」
 と、ため息を吐いてる凪歩くらいの物。
 凪歩のため息は自動的にスルーされて、帰り支度。
 更衣室で水着から私服――トレーナーとオーバーオール、いつもの格好に着替え……のその前、綺麗な下着がこれで最後と言うことに気がつく。
「安いのを買ったら?」
 更衣室の片隅、もそもそと着替えているアルトが言った。
 日焼けも随分と落ち着いたのか、今日はいつもの白いドレス姿。ノースリーブなのは涼しげだけど、ワシャワシャとレースが重なり合ったスカートは暑苦しそうで、涼しいのか、暑いのか、よく解らない格好になっていた。
 そのアルトの言葉に軽く首肯して、伶奈は外に出た。
 相も変わらずまぶしい太陽、雲一つない空、白い砂浜、海の家の白い壁、そこにもたれかかっているのは、ショートパンツとジャケット姿の凪歩。先日買ったとか言うスマホを耳に当ててる姿がそこにあった。
「誰とかな?」
「さあ?」
 伶奈がアルトと声をかわしながら彼女に近づくと、凪歩はスマホのマイクを指で押さえながら言った。
「灯達が合流するって」
「えっ? 一緒に泊まるの?」
「まさか〜寝るのは隣のコテージ、伶奈ちゃん達が借りてた方」
「ああ……それなら…………って、今朝まで私が寝てたベッドでジェリドが寝るって、なんか、ヤだ……」
 憮然とした口調で伶奈が言えば、凪歩は「あはは」と声を立てて笑った。そして、また、平べったいスマホを耳に押し付け、二言三言……楽しげな口調で言葉を交わすと、ピッとその通話を切った。
 切ったスマホの画面へと視線を落とし、その表面を指先で撫でながら、彼女は言った。
「うちのパパがね……様子を見て来いって灯に言ってたみたい……それでちょっと顔出すってさ……親ばかだから」
「……そうなんだ……」
「相変わらず、父親って単語に過剰反応するんだから……」
 頭の上、アルトのつぶやきは無視したつもり。されど、凪歩は何かを気づいたのか、伶奈の顔を覗き込みながら、尋ねた。
「どうしたの?」
「ううん……何でも無い。灯センセ達、ご飯は一緒に食べるの?」
「それは、作る人に聞いてみないとね」
 半ば以上、ごまかしの言葉ではあったが、凪歩は特に気づいた様子もなく、明るい口調で応えた。
 そして、やってくる、母と翼。
「お待たせ」
 言ったのは母の方だ。
 伶奈は母の方へと顔を向けたら、「ううん」と軽く首を振って彼女へと近づいた。
「灯センセ達も後で来るって」
「あら……アルバイト、終わったの?」
「そうみたい」
 と、応えると伶奈は先ほど凪歩から聞いたことを母に教えた。
「そう……じゃあ、時任先生にご迷惑をかけないようにね。それから、勝岡さんと喧嘩しちゃダメよ?」
「……ジェリドがちょっかい出すんだもん……」
「ジェリドじゃなくて、勝岡さん」
「……だってぇ〜」
「だってぇ、じゃなくて……連れて帰るわよ?」
「……解ったよぉ」
 不承不承といった感じの返事に、母は苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「まっ、貴女が何でもかんでも過剰に反応するのをおもしろがられてるのよ。少しはスルースキルを磨きなさい、スルースキル」
「ふんっ!」
 頭の上から聞こえる言葉に、わざとらしい声を上げてそっぽを向く。されど、頭の上に居るアルトには余り功を奏してる様には思えなくて……むしゃくしゃはたまる一方。
「伶奈……」
 呼ぶ声に顔を向ければ、呼んだのは凪歩と話をしていた翼。
 どこかに電話を掛けようとしている凪歩の隣、いつもの鉄仮面がこちらに向いていた。
「あっ、はい?」
「夕飯……何が良い?」
 どうやら、男子大学生三人を含めて、六人で食事をしようという話になったらしい。それで、何を食べるかは、せっかくなので伶奈に決めさせよう……と、凪歩との話し合いで決まったそうだ。
 のはいいのだが……
「えっと……なんでも、いいよ?」
 急に言われても思いつかなくて、伶奈がそう答えると、翼はぽつりと呟いた。
「……じゃあ、今夜は……マヨ丼……」
「えっ?」
「……炊きたてご飯に……たっぷりマヨ、それから……醤油と、鰹節……」
「ぷっ……」
 淡々と紡がれる翼の言葉、それに母が吹き出す声。
「いっ、嫌だよ、そんなの! あの、それじゃ、おっ、お肉! お肉料理!」
 慌てて言葉を紡げば、翼は相変わらず、控えめなボリュームで尋ね返した。
「……なんの?」
「それじゃ……えっと、昨日が牛肉で、お昼とんかつだったから……チキンで……」
「……んっ」
 結局、今夜の食事は鶏胸肉のトマトソース煮、サラダ、ロールパンって事になった。

 海からの帰り道、夕飯と翌日の朝食の買い出しを終えたら、一路コテージへ。それらの食材を冷蔵庫の中に押し込むと、由美子は傍に居た凪歩と翼に向かって深々と頭を下げた。
「それじゃ、帰りますので、娘のこと、くれぐれもよろしくお願いします。それから、時任先生によろしくと……」
 息つく暇もなくそう言う母に伶奈は目を丸くして、言った。
「もう? まだ、余裕、あると思ったけど……」
「座り込んだら根が生えちゃうから」
 母がかぶりを振ってそう言えば、それ以上引き留めることも出来ない。
「それじゃ、駐車場まで……」
 言って部屋の外に出る。
「暑いわね」
 頭の上から、アルトのうんざりとした声が聞こえる。
「今夜も寝苦しくなりそう……」
 つぶやき伶奈は天を仰いだ。
 盛夏の五時少し前は夕方と言うには少々早い。まだまだ、厳しい日差しは伶奈の肌をトレーナー越しとは言え、容赦なく焼く。
「暑いなら無理に送らなくても良かったのに……」
 額の汗を手で拭う少女に母が頬を緩ませて言った。
「……保護者同伴は嫌だったけど……いざ、別れるとなったら、少し、名残惜しい……かな?」
「来年はもうちょっと長く休みを取ろうかしらね?」
「いいよ、無理しないでも……それにずっと保護者同伴は、やっぱり、嫌かも……」
「はは、そうね……帰ってきたら、お土産話、期待してるわよ。それじゃ、くれぐれも、皆さんにご迷惑をかけないようにね」
「うん……解ってるよ、それじゃ、気をつけて帰ってね」
「もちろんよ。アルトさんも、伶奈をよろしく」
「ええ、もちろんよ。子守は得意なのよ」
「……――って、言ってるけど……子守してるのは私だからね?」
「うふふ……はいはい」
 言葉を交わすうちに駐車場が、そして美月に借りているパステルカラーのアルトが見え始めた。
 未だ勢い衰えぬ陽の光がワックスの効いたボンネットに反射して、伶奈の顔を照らした。
「帰るのは明後日の夕方ね? 夕飯はアルトで食べましょうか?」
「うん。パスタがいいな……」
 美月の車のすぐ傍、運転手側のドアだけを開いて立ち話。
 ぱ〜ん
 そこに聞こえた車のホーン。
 とっさに振り向けば、見覚えない大きなワンボックスカーとそこから顔を出す見覚えのある面。
「あっ……ジェリド」
「……勝岡さん」
 訂正する母の声にごまかすような笑みだけを持って応えれば、母の方も苦笑いだけを返した。
 そして、美月のアルトの向こう側にそのワンボックスカーが滑り込むと、中から、汚れた作業着姿の三人が下りてきた。
「こんにちは、西部さん、伶奈ちゃん」
「こんにちは」
「よっ、ジャリ、元気か?」
 灯、俊一、そして、悠介の三人が口々に声をかけた。
「娘のこと、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる母の横、伶奈だけが憮然とした口調で言う。
「……また、ジャリって言った……」
「……早速喧嘩して……」
「喧嘩じゃないもん……ジャリって呼ぶなって言う正当な権利の主張だもん……」
「……はいはい。それじゃ、皆さん、娘のこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「はい。責任を持って……」
 代表するかのように母の言葉に応えたのは、家庭教師でもある灯だった。
 その灯の言葉に安堵したのだろう、母は美月のアルトに乗ってその場を後にした。
 とことこと走り去るアルト……
 それを伶奈は西の空へと少しだけ傾いた太陽と、大学生三人組、それから頭の上に乗っかった妖精さんとともに見送った。
 見えなくなるまで数分……心なしか、先日の良夜のジムニーよりもゆっくりのようにも感じた。
「さてと……行くか?」
 母の車が見えなくなると、最初に口を開いたのは悠介だった。
 彼はぽんと伶奈の肩を一つ叩くと、大きなボストンバッグを方からぶら下げ、きびすを返した。
 瞬間、ふわっと鼻腔を吐く酸っぱい香……
「……ジェリド、臭い……」
「まあ、絞れるくらい汗をかいたからな……」
 スンスンと自身の肘や脇の辺りに鼻をこすりつけて悠介が言えば、周りの二人も似たような仕草をして見せ、言った。
「先にシャワーだなぁ……凪姉、こう言うのうるさいし……」
 と、灯が言い、俊一は右手の人差し指で遠く彼方を指さして言う。
「ジェリド、お前の風呂はあっちだぞ?」
「磯かよ?!」
「海岸は遠いからな」
「お前は明日、歩いて行けよ? 海まで」
「ヤなこったい」
 楽しげに言葉を交わす俊一と悠介に灯が
「二人とも磯で体洗ってこい。どーせ、浴室は一つで、それは俺が使う」
「「お前が行け!」」
 じゃれながら三人はバッグをぶら下げ、コテージへと向かう。
 その三人が数歩行って足を止める。
 首だけを振り向かせ、灯が言った。
「まあ、すぐにシャワーを浴びていくから、少しだけ、臭いの我慢してよ」
 数歩の距離を急ぎ足で詰めながら、伶奈は応える。
「灯センセや真鍋さんのは大丈夫。ジェリドのはヤだけど……だって、ジェリドの、煙草の匂いも混じってきついもん」
「それが男の匂いって奴なんだよ。まあ、ジャリには解るまい」
「臭い物は臭いもん! 臭い臭い臭い! 夏のどぶの匂いがする!」
「てめえ、クソジャリ! どぶの匂いってなんだよ?! しかも夏特定か!? つーか、かいだことあんのか!?」
「今、かいでるもん!!」
 青年と大声で言い合う少女の頭の上、妖精がぽつりと呟いた。
「……早速喧嘩してるじゃない……」
 彼らの背後、東の空には一番大きな月が登ろうとしていた。
 

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