伶奈の海(12)

 寺谷翼という女性はいつもキッチンに引きこもって余り出てこない。だから、四月に入学してきた一年生ならかなりの常連客でも翼の存在を知らない者は多い。
 しかも、口数は少なく、誰に対してもつっけんどんだし、無表情な鉄仮面。そう言うキャラクターなので、喫茶アルト常連客の中での人気はいまいち低め。
 ちなみに一位が圧倒的「女性」支持者を誇る店長でそこからずーっと落ちて、三年四年には未だ人気の貴美、フロアに出ずっぱりの凪歩と来て、フロアに時々いる美月。それから、翼は「ああ、そんな人もいたっけね」って扱い。
 閑話休題。
 そんな感じで、アルト周辺ではいまいちな人気の翼ではあるが、顔だって整っているし、スタイルだって決して悪くない。その悪くないスタイルを包むのは深いスリットが特徴的なハイレグワンピース。
 目立つ。
 目立つ女性が海の家でぼんやりとかき氷を突いていたら……
「ねえねえ、一人で来てるの? 良かったら、一緒に泳がない?」
 なんて声をかけられた所で、不思議ではない。
「…………」
 海の家、並べられた長テーブルはすべての席が家族客やらアベックやらで占領されていて、トイレに行ったきり帰ってこない凪歩と伶奈を待つ翼と由美子の二人も、その一画を遠慮しがちに占領していた。
 声をかけたのは引き締まった体を真っ黒に日焼けさせた青年だった。年の頃は二十歳前後くらいだろうか? まっ金に染めた短髪がやけにまぶしい。
 余り会話もなく、ぼんやりと座っていた翼とその隣でやっぱりぼんやりとかき氷を突いていた由美子が、連れ立っている事に気づかなかったのだろうか? しきりに
「一人なら……一人だったら……」
 と繰り返していた。
 もちろん、この時点で翼について行く気は皆無。
 青年の整ってはいるがどこか頭悪そうな顔を見上げつつ、なんと言って断るべきか? を考えていた、と後に伶奈に語っている。
 じーーーーっと……
 瞬きもせずに……
 伶奈をして
「怖い」
 と言われる沈黙と凝視を持って……
 で、見上げていたら、一生懸命言葉を紡いでいた青年が不意に尋ねた。
「……あの、聞いてる?」
「……聞いて、る……と、思う」
「おっ、思うって……」
「……続けて、良い……今、断り方、考えてる……から」
「えっ?」
「……だから……断り方、思いつくまで……しゃべってて、良い……」
 きょとんした表情の青年を前に置き、翼はいつもの調子でぽつりぽつりと五月雨のように呟く。その言葉が紡がれる度に、彼の顔に張り付いた笑顔が凍り付いていく。
「えっと……あの……」
 こんな事を言われてナンパし続けられる男がいるだろうか? 少なくともこの金髪の青年には不可能だったようだ。
「あっ、もう、良いです……お時間取らせて、申し訳ありません」
 ぺこりと頭を下げて消えゆく青年、丸まった背中に哀愁が漂う。
 その青年の姿が見えなくなる頃、翼の隣に座っていた由美子が言った。
「上手にあしらうわね……」
「……別に……本当に……どう断ろうかって……考えてた、だけだから……」
「私は……あー言うの、苦手だったから……若い頃から……押し切られちゃうのよね……」
 少し自嘲的に笑う中年女性から視線を逸らして、翼はぽつりと言った。
「……そう……」
 くしゃ……と、三分の二ほど残っていたかき氷が音を立てて崩れる。
「あの……」
「なに?」
「うちの子……預かって貰えますか? 急で申し訳ありませんが……お礼は少しでしたら……」
「……私は……なぎぽんが良いって言えば……異存はない……それと、お礼も……別に、良い……食費だけ、あの子に持たせて……」
 翼が答えると、由美子は深々と頭を下げ、そして、伶奈の三日目残留が……――
 ――決まるほど、世の中は甘くなかった。

「どーだろう……」
 帰ってきた凪歩が頭をかきながら答えれば、伶奈の顔がサッと曇る。
「えっ? なんで……?」
 先ほどまで翼と由美子の座っていた一画、ちょうど開いた向かいの席を二つ確保。横長、八人がけのテーブルを半分占拠して、始まるのは場違いな会議。
 目の前に置かれたかき氷の事も忘れて、伶奈はずいっと隣に座った凪歩の方へと身を乗り出して、尋ねた。
「迷惑?」
「もちろん、私は迷惑じゃないよ、私は……迷惑じゃないけどさ……伶奈ちゃん、明日、アルトのバイト、するんじゃなかった?」
 言われて伶奈は「あっ……」と小さな声を上げ、自身の口をパチンと押さえた。
「そー言えば……貴美、明日は用事があるとかなんとかかんとか言ってたわね……」
 頭の上、五人目がそう言えば、伶奈にも思い当たる節はあった。

「じゃあ、伶奈ちゃん、この日はこっちにいんの?」
「うん、お母さん、この日から普通に仕事だし……」
「じゃあ、この日、予定、入れちゃうよ? 学部の用事だから、後から動かせないからね?」
「うん……大丈夫」
「それじゃ、この日はおっけーっと……」

 と言うやりとりを行ったのは、この旅行に来る少し前の事だ。
 この時は、まさか、母の方から延長を申し出るなんて事、夢にも思ってはいなかった。だから、諦観が半分、それに戦力と数えられる事の嬉しさ半分で、安請け合いをしてしまったというのが実情。
 ちらり……と、母に視線を送る。
 も――
「……母さんに助け船を求めても仕方ないわよ……」
 と、苦笑いで言った。
「今更、思いつきで言っちゃったのは悪かったと思うけど……伶奈も喜んでたし、時任さんは面倒見ててくれるみたいだし、寺谷さんもしっかりなさっていそうだから、良いかなって……ごめんなさいね」
「……別にお母さんを責めようって気はないけど…………けどぉ……」
 申し訳なさそうな母にはそれ以上何かを言えるはずもないが、だからと言って納得出来ようはずもない。その何とも言えないわだかまりが口の中でごにょごにょと言葉にならない声になって、つぶやき続けられるだけ……そして、そのわだかまりを呟きながら、辺りを見渡せば……
「………………なんで、二人とも目を合わせてくれないの?」
 伶奈のつぶやき通り、翼、凪歩の両名はぷいっとそっぽを向いていた。そして、左右にそっぽを向いたまま、伶奈の顔はもちろん、互いの顔も見ずに二人は言葉を紡ぐ。
「……もはや……諦めるしか……ない、と、思う……」
「うんうん、私がそのやりとりの後に『海で遊びたいので休みます』とかやったら、百パー、『凪歩、正座』から始まる三十分コースだよ」
 翼と凪歩がそう言うと、伶奈は頭上、小さな重さを感じる頭の上へと視線を向けた。
 ふわりと落ちてくる金髪と小さな顔。
「まあ、そうね。店自体は美月と和明の二人が居れば回るわよ、夏休みだし」
「そうだよね?」
 自然と声が弾む。
 妖精の表情がにこっと明るい笑顔に変わる。天使のほほえみに見えた。
「ええ、もっとも、それを認めた場合、貴女の存在意義、なくなるけどね。土曜日だって、翼と和明がいたら回る事になるもの」
「……そうだよね」
 妖精のほほえみは悪魔のほほえみ。はち切れんばかりのほほえみから視線を落としてがっくり……と、伶奈はうなだれる。
 手元に置かれた氷イチゴ(練乳マシマシ)が溶けて流れるのが見えた。
 その頭の上では
「私から頼んでみましょうか?」
「ああ、親からの連絡なんて事になったら、また、怒ると思うなぁ……働いてるのはあんたで、遊びたいのもあんただろうって……」
「厳しい人なんですね……」
「あの人はねぇ……絶対にハンパなことはやんないんだけど、それと同時に、他人にもハンパなことはさせないんだよぉ……」
「ああ、そういう方の下で働くのって、大変ですよね……最初の主任さんもそういう方で……」
 母と凪歩の言葉が行ったり来たり……しかも、その内容は次第に互いの仕事の愚痴に変わっていく感じで……
「自分が出来ることは、誰でも出来るって思い込んでるのが辛いんだよぉ……」
「あります、あります。一回やって見せて、『ほら、しろ』って言われて困りますよね」
「ああ……パターンだよね、それ」
 もはや、伶奈の話はすでに忘却の彼方と言った感じ。
「お母さん! 凪歩お姉ちゃんも! 他の話に夢中にならないでよ!」
 パン! と両手をテーブルの上に叩き付けて立ち上がれば、一気に集まる周囲の耳目。それは凪歩や翼、母にアルトの四人だけではなく、周囲で思い思いにくつろいでいた海の家の客全部の物。
 先ほどまでに賑やかだった話し声が一瞬止まった。
 遠くで少女のはしゃぐ声が聞こえた。
 たぶん、さっき、迷子になってた子の声。
 そして、翼が言った。
「……鯛焼き、追加……」
「あっ、はい」
 苦笑いというか、含み笑いというか、笑いをかみ殺しているというか……ともかく、微妙に歪むうら若き女性スタッフがその場を立ち去れば、静かだった海の家フロアにも喧噪が帰ってくる。
 喧噪のフロアの中、赤くなった顔をすだれの前髪で隠すように伶奈はクシュンとうつむき、丸椅子の上に座り直した。
「……怒られる……と、思うけど……どうしても、残りたいなら……吉田さんに連絡すべきだ、と思う……」
 ぼんやり……と、鯛焼きを待つ翼が言えば、伶奈は「うん」と消えるような声を上げて、小さく頷いた。
 その頷きに翼も頷き、さらに言葉を付け足した。
「……たぶん……怒られた上に、帰ってこい……って、言われる……から、言わない方が、特」
「ふぇ〜」
 伶奈の哀れな泣き声が喧噪のフロアに流れ、消えていった。

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